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    三船美優「最後にキスをして」

    2: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 22:57:11.82 ID:rNK9Zl/t0

     夜の街外れ、道端で膝を抱えている女性に、一目惚れをした。

     優しい慰めや口説き文句、あるいはそれにかこつけて連絡先を聞き出すとか。
     ひどく落ち込んでいる彼女に対して、アプローチの仕方はいくらでもあっただろう。

     少なくとも、決して。
     惹かれている女性をアイドルにスカウトすべきでは、なかったのだ。

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    3: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 22:58:38.14 ID:rNK9Zl/t0




     先輩との飲み会帰りのことだった。
     担当アイドルが決まらない僕に業を煮やした先輩によるイジリが八割、疲れるがそれはそれで楽しかったと言えなくもない飲みだったと思う。

     素面じゃ答えられないプライベートなことまで根掘り葉掘り聞き出そうとするものだから、つい飲みすぎてしまった。
     いや、酔わせて聞き出そうとされた、の方が正しいか。

     ともかく、先輩から一刻も早く逃げたかったのもあって、僕は酔い覚ましに一駅分歩くことにした。

     おぼつかない足取りと、宙に舞う思考を押さえつけながら歩く道すがらに、彼女はいた。

    「……あ。すみません……」

     後ろで結んだ髪をほんの少しほつれさせた女性が、ガードレールに背を預け、体育座りのような姿で道端に座り込んでいた。
     ぱっと見成人はしている印象で、少なくとも家出少女などではないように見えた。

     通行人である僕の邪魔になると感じたのか、彼女はやや伸ばし気味だった脚をぎゅっと折り曲げ、両腕で抱え込むようにする。
     かすかに届いた声は耳に心地よいものだったけど、ひどく疲れていた。

    「あの、どうかしたんですか」

     酔いと、先輩から何度も聞かされた「どこにアイドルの原石が埋まってるかなんてわからねぇんだからさ、アンテナ張っとけよ」という言葉が、僕に声をかけさせたのだと思う。
     普段から道行く女性に話しかけられるほどの度胸は、僕にはない。

     彼女は顔を上げると「いえ……お構いなく」と小さくこぼした。
     影になってよく見えていなかった物憂げな表情に、薄幸の美人という言葉が頭をよぎる。
     目が合って、どきりとした。
     声も、姿も、とても綺麗だというのにどこかやつれているように思えて、気にかかる。

    「どこか痛めたとか……あっ、気分が悪いとか。水か何か、買ってきましょうか?」

    「本当に、結構ですから……。私、どこも痛くないですし、体調も……大丈夫です」

    「それじゃあまた、どうして……」

    「…………」

     僕の疑問には答えないまま、彼女は再度目を伏せる。
     けれどこちらへ意識を向けてはいるようで、話は終わりだ、放っておいてくれというような気配とはまた違って見えた。
     ……僕の勘違いでなければ。

     座り込んでいる彼女と、立ったままで話そうとしている自分の姿がちぐはぐで、違和感を覚える。
     立ち去るか、親身になるか、そのどちらかを選ばなくちゃならないような気がした。

     勇気と呼べるだけのものをけっこう豪勢に使って、僕はぎこちなくしゃがみ込む。

    「話とか、聞きますよ。……あ、ご迷惑でなければ」


    4: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:01:42.86 ID:rNK9Zl/t0

     目線を合わせるようにしてもう一度言葉をかける。
     少し驚いた様子の表情を見て、僕は彼女の顔をもっと近くで見たかったのかもしれないという、恥ずかしい願望を自覚した。
     もっとも、威勢なんてものはそこまでだ。
     初対面の相手に何言ってるんだとか、自分まで道端に座り込むなんてとか、客観的に見ておかしなことをしている自分を責め立てるような言葉が膨れ上がる。

    「…………」

    「…………」

     彼女からは無言と視線が返ってきて、僕は僕で今更それを逸らせない。
     見定められているような居心地悪さと、見とれてしまいそうで目を合わせていられなくなるような感覚に身じろぎした。

     引くにも引けず、僕にはこんな所業どだい無理だったのだと後悔するには十分な時間が流れて。

    「……おかしな、ひとですね」

    「っ……す、すみません。僕、お酒入っちゃってて、こんなこと」

     彼女の口からこぼれ落ちた言葉に、僕はもう大慌てだった。
     思いつく限りの予防線のうち、妥当そうなものを取捨選択して言い訳を仕立て上げる。
     しどろもどろになる僕に、彼女は申し訳なさそうな表情を見せた。

    「その……悪い意味ではなくって。百面相みたいで、こちらが落ち着いてしまって……あ、失礼、でしたね……」

    「あ、ああ……よかったです」

     何がよかったのかもよくわからないけど、少なくとも拒否されたわけではなさそうで安心する。
     目の前の女性が放つ恐縮のオーラは強まるばかりだけど。

    「と、とにかく! 僕はこの通り酔ってますから、たぶん何を聞いても忘れると思います。なので、サボテンにでも話しかける気持ちで!」

    「サボテン……家でも、育ててました。さすがに、話しかけたことは……」

    「そ、そうですか。それだと、あんまり話しやすくは……ならないですよね」

    「いえ、そんなことは。……ただ、ちゃんと世話をしてあげられなくて、枯らしてしまったものですから。同僚から、水をあげた方がいいとか、あげない方がいいとか……アドバイスされるまま、どっちつかずになってしまって」

    「それは、また……」

     話題選びどころか物の例えひとつで地雷を引いたらしい。自分の運のなさを嘆くばかりだ。
     彼女の表情はまたしても曇って、どこか遠くを見るような目つきになる。

    「すみません、こんな話……。でも、私に構っていても、ずっとこんな話ばかりですよ?楽しくは、ないかと……」

     彼女はそう言うけれど、気遣われているようで、遠ざけられているようにも感じた。
     それを少しばかりしゃくに思うのも、ならば少し困らせてみようかと思ってしまうのも、多分、子供じみた……いや、やめよう。

    「じゃあ、明るい話がひとつ聞けるまで、ここにいます」

    「えぇっ……? でも、ご迷惑をおかけしてしまいます。私、そういう話は本当に、何もできませんから……」

    「愚痴でも恨み言でも、聞きますから。吐き出しきったら何か一つくらい思いつくかも」

    「…………ええと」

     彼女は無言と視線を僕に向ける。さっきと同じように、だけどさっきと違って伺うような上目遣いで。
     今度ばかりは目を合わせていられず、咳き込むふりをしてごまかす羽目になった。

     やがてぽつりぽつりと語られた言葉を聞くには、会社の人間関係が上手くいってないらしい。
     それに引っ張られて、仕事もプライベートも充実したものとは言えなくなっているのだとか。

    「私、嫌なことがあると、これで最後だって思うようにしてるんです。こんな思いをするのはこれっきり。だから、今は我慢しようって」

    「心の整理、ってやつですか」

     僕がそう言うと、彼女は口元に指をあてて少し考えるような様子を見せる。些細なしぐさだけど、絵になっていた。

    「そういうもの、だと思います。でもそれって、自分に言い訳をしているだけで、何も変わってないですよね。だから、何度だって嫌なことは起きました。……今日も、そんな中のひとつです」

    「じゃあ、街中でこうしているのも……?」

    「……いつもなら、流石にそこまでは。重なったからか、何かが決壊してしまったのか……今日は、もう立って歩くことすらつらくって」

    「なるほど、心中お察しします……くらいしか言えないですが」

    「いいえ。……あ」

     彼女は何事か気づいたかのように小さく声をこぼすと、それきり黙り込んでしまった。
     何かまた地雷を踏んだかと会話を思い返してみるけれど、自分が気の利いたことなんてロクに言えてないと気づくだけだ。

     聞き役に徹していただけに、向こうが何も話さなくなってしまうとできることがない。話の続きを促すタイミングを伺っているうちに、余計話しかけづらくなっていった。

     せめてそわそわとして見えないよう気をつけながら……といっても、何を気をつければいいのかもわかっていないのだけど、とにかく彼女の次の言葉を待つ。

    「……思いついたかも、しれません。明るい話。聞いて、いただけますか?」


    5: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:04:10.01 ID:rNK9Zl/t0

     そう聞いて、嬉しくなると同時に少し惜しくも感じたものだから不思議だ。
     仕事柄、アイドルの少女たちからのお悩み相談を引き受けることはたまにあった。その時はただ微笑ましく思うばかりで、我が事のように何かを感じ入ることはなかったというのに。

    「ええ、もちろん。どんな話ですか?」

    「……笑いませんか?」

    「思いついたのが笑い話でなければ」

    「それは、違いますね。……ええと、面と向かって話すのは、少し恥ずかしいのですが……」

     前置きして、彼女は話し始める。

    「私、さっきよりも少し、気が楽になりました。ただ話を聞いてくれる、それだけの相手すら、いなかったものですから……。だから、あなたが話しかけてくれて、よかった」

     穏やかに微笑みかける彼女を見て、その姿をまた見たいとただ率直に思った。
     今まで見たどんな表情よりも魅力的で、心惹かれる。僕はなんの疑問もなく、自然と上着の内ポケットに手を差し入れていた。

    「……なんて、いかがでしょうか」

     気恥ずかしげに目をそらす、そのしぐさに胸の高鳴りを覚える。
     だけどすぐに、これから僕がしでかすことへの緊張感と混ざりあって判別できなくなる。
     はやる気持ちに反して、指先は慣れきった動きで名刺入れから一枚の名刺を取り出していた。今更引けないぞと自分に言い聞かせて、どうにか口を開く。

    「アイドルに……なりませんか」

    「…………え? アイドル、って……」

    「僕、こういう者です」

     名刺を差し出す。それを受け取った彼女はぼう、とそこに書かれた文字を見やって「アイドルの、プロデューサーさん……」と小さく呟いた。

    「新米ですが。答え、すぐじゃなくても結構です。とりあえず、名刺だけでも」

     早口になっていることに気づいて、どうにか直そうとするけれど不恰好に区切りだけ多くなるばかり。名刺とこちらを交互に見やる彼女の視線は、困惑まじりだった。

    「その……どうして私を? 私、そこまで若くも可愛らしくもない、ただのOLです。歌も踊りも、経験なんてありませんし……。いえ、それよりも。声をかけてくださったのは、スカウトするため、ですか?」

     声が、悲しげに揺れる。まず伝えるべき言葉を口にできていないことに、それで気づいた。
     そういうことを一切考えず話しかけたわけじゃないけれど、つい先ほどまでアイドルがどうとかなんてこと、忘れていたのだから。

    「決めたのは、たった今です。その、明るい話をしてる時のあなたが、とても魅力的な表情をしていたものですから」

    「……私、どんな顔をしていましたか?」

    「薄く笑って、とても落ち着いた、いい顔でしたよ。アイドル顔負けです……というと、なんだか変ですが」

    「笑って……いたんですね」

     確かめるようにひたひたと自分の頰を手で触れる。どんな顔をしていたのか、本当に自覚がないとばかりの様子だった。

    「私、本当にアイドルになれるんでしょうか」

    「なれます……というか、します。もちろん大変なこともあるでしょうけど、それでもアイドルとして輝けるようサポートするのが、僕の仕事です」

     新米のくせに大きく出てしまった、と思わないわけでもない。
     だが、それくらいの気概もなしにプロデューサーを名乗れるはずがないのだ。……これは、受け売りだけど。
     僕を見る瞳に、かすかに期待が宿った気がした。それだけで、この言葉を撤回なんてできなくなる。

    「考えてみます、アイドル。少しだけ、前向きに」

    「本当ですか! 決まったら、名刺にある連絡先に電話なり、メールなり……あるいは直接出向いてもらっても構いません」

     彼女は頷くと、ゆっくり立ち上がる。僕もそれにならうように遅れて立ち上がった。

    「よい、しょっと……。立てました。さっきはもう、めげてしまっていたのに」

     つまさきをぴんと立ててこちらにアピールしてくる彼女は、少なくとも出会ったときより元気そうに見えた。

    「あ、そうだ。終電とか大丈夫そうですか? 結構な時間ですけど……」

    「…………ああ、間に合いませんね。タクシーでも呼んで、帰ろうと思います。あなたは、大丈夫ですか?」

    「僕はどうにか。家、そこそこ近くなので」

     というのは残念ながら嘘だ。二、三駅は歩くことを覚悟する必要があるだろう。とはいえ、そんなことを正直に言って恐縮されるのも気が進まなかった。

    「心が決まったら……その時は、連絡しますね」

    「はい、待ってます」

     そうやって僕らは別れて、家路を辿った。予想通り終電には間に合わず、酔い覚ましには余りにも長い時間を歩き通すことになったけど、悪い気分ではなかった。

     帰路においても、家に着いてからも、彼女の控えめな笑顔がたびたび頭をちらついた。
     その意味について深く考えるべきではないのだろう。だって僕は、多分に酔っているのだから。


    6: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:05:28.23 ID:rNK9Zl/t0




    「よう、今夜飲みに行くぞ」

     週が明け、一日と半分強が過ぎた火曜の昼下がり。
     先輩はなんの前触れもなくそんなことを言い出した。
     事務所にやってくるなり開口一番。僕はPCのディスプレイに視線を向けたまま口を開く。

    「週ナカにですか……。先週末だって飲みましたよ?」

    「理由に心当たりがないとか言い出さないよな?」

    「……いや、ありませんけど」

     オーディションの資料を流し見しながらの僕の答えに、先輩は盛大にため息をついた。
     そんな「どうしようもねえなこいつ」みたいな顔をされても困る。
     先輩なら僕の頭を占める問題をこれ以上増やさないでほしいものだ。

     そう、せめて僕が名前も聞かずにスカウトしまった彼女から、何かしらの連絡が届くまで。
     それくらいの間は、そっとしておいてくれたっていいだろう。

    「見るからに仕事に身が入ってないだろうが。そわそわそわそわしやがって、ぜってー理由聞き出してやる」

    「うわー……毎度ながらハラスメントギリギリじゃないですか」

    「おう、ギリギリアウトだな」

    「自分で言うことじゃないですよ」

    「はっはっは」

     とはいえ、先輩に捕まった以上断るのは難しい。
     社会人一年目の頃から、彼には面倒を見てもらってきた。
     昔っから人柄は変わってないし、それでも僕が逃げ出していないのは、つまりそういうことだ。

     人と接する態度はやや適当だが面倒見は割といい彼は、プロデューサーとしてもアイドルから真っ当に信頼を得ている。
     どうも腰が低くなりがちな僕も見習うべきなんだろうけど、ううむ。

    「と、いうことで今日は定時上がりだ。やる事片付けとけよ」

    「わかりました。……と、内線。話はまた後でお願いします。……はい、芸能課の……」

     鳴り響いた内線に対応する僕を横目に、彼はひらひらと手を振って事務所を後にする。
     アイドルについて回る仕事もそれなりにある人だから、別に不思議な光景じゃない。
     とはいえ、自分の席に着くこともしなかったところを見るに、僕を飲みに誘うためだけに事務所に顔を出した可能性はありそうだ。

    「……僕に来客、ですか。わかりました、向かいます」

     さて、内線を受けてみればその内容は珍しいものだった。
     木っ端の新人で、しかも最近までは先輩の補佐ばかりしていた僕を指名した来客は、めったにないと言ってもいい。

     伝えられた苗字にも記憶がなく、失礼のないようにしないとまずいな、と冷や汗をかきながらエントランスへと赴くと、そこには。


    7: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:06:12.62 ID:rNK9Zl/t0

    「あ……プロデューサーさん。……で、合っていますよね?」

     待ち焦がれていた、彼女がいた。
     所在なさげに辺りを見回していたが、こちらに気づいて歩み寄ってくる。

    「……! はい、間違いないです。三船、さん?」

    「はい。そういえば私、名乗りもしていなかったんですね……。三船美優と申します。アイドルについて、詳しく伺いに来ました」

     深くお辞儀する彼女……三船さんに遅れてぺこぺこと会釈を返し、応接室の一つに案内する。
     随分と緊張した様子で、それがこちらにも伝染して僕までぎこちなくなってしまった。
     奇妙な遠慮のしあいで時間をかけながら、どうにかお互いが席に着く。

    「では改めて、三船さん。アイドルになるつもりでここに来た、ということで間違いないですか?」

    「はい。その時は……プロデューサーさんが、私を導いてくれるんですよね」

    「もちろん、そのつもりです」

     僕の答えに、三船さんは満足そうに頷いた。

    「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。プロデューサーさん」

    「……っ。はい、こちらこそよろしくお願いします」

     ちょっとした言い回し一つで、どきりとする。
     毎度毎度この有様じゃプロデュースなんてままならないだろうに、我が事ながらどうしようもない。

     その後、契約に関する話と書類の記入を終えて、簡単に事務所を案内することにした。
     オフィスに始まり、レッスンルームや衣装室を歩いて回る。

    「壁一面が姿見になっている部屋は、初めて見ました。あそこで、踊りのレッスンを受けたりするんですね」

    「はい。防音設備も整っていて、歌のレッスンも演技のレッスンも、外の施設を使わない時はだいたいあそこです」

    「私もいつかそこで……なんて、まだ実感が湧きません」

    「はは、いつかと言うほど遠い話でも、大それたことでもないですって。レッスンはみんな最初に通る道です」

     少しばかり大げさな三船さんの言葉を茶化すように返す。
     だけど彼女は神妙な表情を浮かべたままだった。

    「それでも。歌って、踊って……なんて、私にとっては未知の世界ですから。やっぱり、まだよくわからないことも多くて」

     彼女は自嘲するように眉を下げる。
     とはいえ声の調子からは、気が重いだとか、そこまでネガティブなものは感じない。

    「そこは、一つ一つ知っていきましょう」

    「それも、そうですね。……これから」

     得意も苦手も、これから少しずつ定まってくるんだろう。
     三船さんにとって、なるべく充実したものになることを願うばかりだ。


    8: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:08:45.07 ID:rNK9Zl/t0




    「……んで、何があったんだよ。週末、何やった?」

    「何って、普通に過ごしてましたけど」

    「あのなぁ……」と不満げに声をあげた先輩は、ジョッキのビールをぐいぐいとあおる。
     だん、と小気味いい音を鳴らして机にジョッキを置くまでがワンセット。先輩との飲みではあまりに見慣れた一連の動作だった。

    「昨日今日と集中力なんかあってないような仕事具合だったじゃねえか。先週はそんなこたぁなかった。つまり週末に何かあったに違いない」

    「いい飲みっぷりですね」

    「だろ?」

     話を逸らされたことも気にせず、ひとしきり得意げな顔をする。

    「で、やっぱ女か。こーいうのは恋愛がらみって相場が決まってるからな」

     そして満足したら、何事もなかったかのように話を戻すのだ。

     しかし恋愛沙汰ときた。適当な当て推量だろうが、先輩がそう思い込んでいるうちは本当のことを話すわけにはいかない。
     あることないこと勝手に納得して、笑いの種にされるのが目に見えている。

    「わかりませんよ、もしかしたら僕が深刻な悩みを抱えてるかもしれません」

    「金の工面ならしねーぞ」

     先輩は僕を何だと思っているのか。もう少し繊細な悩みを考慮してもいいだろうに。

    「飛躍しすぎです、なんでそうなるんですか」

    「じゃあ何だよ」

    「……えーっと、親族が危篤とか」

    「お前も大概不謹慎だろうが。そもそも、そんな悩みが本当にあるやつはそんなことを言わん」

    「わかりませんよ」

    「少なくともお前は違う」

     どうでもいいところで食い下がるな、と吐き捨てて先輩はビールをあおる。
     ジョッキはもうほとんど空で、「さーせーん! 生一つ!!」と大声で次の一杯を注文していた。

     そろそろ何か話した方が身のためだな、と経験的に悟る。もとより隠し通せるなんて思っていないのだ。
     いかにやり過ごすか、あるいは軽い説教に留めさせるか、そっちこそが重要だろう。

    「白状すると、仕事絡みですよ。これは嘘じゃありません」

    「ああ、担当アイドルの話か? さっきもそれっぽい資料見てたな」

    「そんなところです。それと、もうこの件は解決しました。明日からはぼーっとしたりしません」

    「いや待て、そこ詳しく聞かせろ」

     聞き捨てならないとばかりに先輩がツッコミを入れる。
     さて、このまま担当アイドルが決まったことだけ伝えてごまかせれば一番いいんだけど。
     僕は手元のレモンサワーに口をつける。だいぶ薄いけど、酔って帰るつもりもない以上この薄さがありがたい。

    「飲みがなければ明日伝えるつもりだったんですけど、僕も一人のプロデューサーになる目処が立ちました。その節は心配と多大なイジリをいただき、ありがとうございます」

    「おう、どういたしまして」

     皮肉を笑顔で正面から受け止める、というのも一種の皮肉だ。
     もっとも、何も気にしていないだけかもしれないけど。
     先輩は「で、どんな子だよ」なんて友人に彼女ができたと聞いた時の中高生のようなことを聞いてくる。

    「大人な人ですよ。落ち着いてて、笑顔が綺麗で」

    「ほうほうほう。なぁるほど」

    「……なんですか、その態度」

     急にニヤニヤし始める先輩を見て、嫌な予感がした。
     格好のネタを見つけたとばかりの、そしてそれを僕に隠そうともしない態度。背筋を嫌な汗が流れる。


    9: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:09:56.85 ID:rNK9Zl/t0

    「お前それ、オーディションに来た子じゃないだろ」

    「ご明察ですけど、よく分かりますね」

    「つまり、スカウトしてきたってことだ。ヘタレなお前が。それで、実際来てくれるのか気になって集中できなかったと。なるほどなるほど」

    「……そうですよ。悪いですか」

    「ああ、悪い」

     即答で、驚いた。開き直ったことをたしなめるでもない直球。
     先輩を見やっても意地悪く笑っているのはそのままで、真意がつかめない。

    「いやあ、前々からお前の好みはそっち系だろうなと思ってたんだ。そしたら案の定だったな」

    「……はい?」

    「担当アイドルに手、出すなよ?」

    「出しませんよ!」

    「はは、でけー声出たな」

     無言で先輩を睨む。
     悪びれる様子もなく「悪りぃ悪りぃ」とけらけら笑う先輩には、しばらくの間非難の視線を送り続けることにした。

    「しかしお前も難儀なことしちまったなぁ。惚れた女をスカウトするとは。……いや、口説く方がお前には無理か」

    「僕が惚れてるのは先輩の中で確定なんですね」

    「違うのか?」

    「…………」

     まあ、正直なところ。考えないようにしているだけで、先輩の言う通りなんだろう。
     だからこそ、僕はちゃんとしないといけないのだ。

     だって、社会人として人生を歩んでいた人を、アイドルの世界に引き込んでしまったのだから。
     その責任くらいは、持たなきゃいけない。

    「まーヘタレなお前だから妙な気は起こさないと思うが。愛想尽かされて逃げられないようにだけ気をつけろよ」

    「やめてくださいよ、縁起でもない。あとヘタレって何度も言わないでください」

    「違うのか?」

    「…………」

     先輩は笑い続け、僕はグラスに残ったレモンサワーを一気に飲み干す。結露した雫がぽたぽたとズボンに落ちた。
     そして、二杯目は先輩と同じくビールを頼むことにした。

     こうしていつも、そこそこ酔って帰ることになるのだ。


    10: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:11:05.95 ID:rNK9Zl/t0




    「三船さーん、準備、大丈夫そうですか?」

    「え、ええっと……もう少しだけ、待ってください……」

     困ってしまった、という様子をひしひしと感じさせる声に、トラブルでもあったのかと考え込む。
     三船さんのアイドルとしての初仕事、キャンペーンガールの衣装に着替えるべく更衣室に入った彼女は、随分経ってもそこから出て来ずにいた。

     足りないものがあったとか、採寸にミスがあったとか、原因は色々と思い浮かぶが、今この場では確かめようがない。
     何があったのかを聞いてみても、口ごもってしまって事情がわからなかった。

    「ぷ、プロデューサーさん、周り、人、いませんか?」

    「……? はい、ここにいるのは僕だけですけど」

    「そ、そうしたら、入ってください……」

    「え……? い、いやいや、入って大丈夫なんですか?」

    「大丈夫、ですからっ……。誰か来る前に、早く……!」

    「わ、わかりました。失礼、しまーす……」

     尋常ではない様子に押されて、ためらいながらも更衣室の扉を開ける。
     部屋の中に入ると、ばたん! とすごい勢いで扉を閉められた。

    「み、三船さん?」

    「プロデューサーさん、私、変じゃ、ないですか……?」

     そう問うてくる三船さんは、顔を気の毒なくらい真っ赤に染めて、両腕で身体を抱き、露出したお腹を隠すようにしている。
     丈の短いノースリーブに、ショートパンツからのぞく透き通るような肌がまぶしい。彼女の困り顔も含めて、目のやり場に困る光景だった。

    「へ、変って言うと……?」

    「こ、こんな大胆な衣装だなんて、聞いてなくて……。だらしない身体では、ないと思ってますけど、こんな服を着る歳じゃないし、恥ずかしいですっ……」

     確かに今回の衣装は着る人の肢体やお腹を惜しげもなくさらけ出す露出度の高いものだ。
     けれどキャンペーンガールというのは得てしてそういうもので、彼女も了承しているものだとばかり思っていた。

    「ええと、つまり……衣装を着たはいいものの、恥ずかしくて出られなくなってしまった、と?」

    「…………はい。あの、どうしても……この衣装で出なきゃ、ダメなんですよね……?」

    「……すみません」

     ただただ平謝りしかできそうにない。
     打ち合わせの時から、三船さんは人前に出るということに自信を持てずにいる様子だった。
     だというのにこんな追い打ちをかけてしまうことになるなんて。

     恥じらいにほおを染める彼女を見てしまうことが、途方もない罪悪のように思えて目を合わせられなかった。
     その態度が誠実なものだとは思えなかったけど、じゃあどうするのが正解だというのか。

    「プロデューサーさん、お願いがあります……」

    「……はい」

    「私を、見てください。プロデューサーさんにどこも変じゃない、って言ってもらえたら……がまん、できると思いますから」

    「いいん、ですか?」

     頷く気配を感じて三船さんに視線を戻すと、彼女は身体を隠していた両腕を、捧げるようにゆっくりと開く。
     緩慢な所作と対象的に、僕の心臓はばくばくとせわしなく、そしてうるさい。

     露わになったその姿を、改めてじっと見つめる。
     なだらかな流線型を描く身体のラインも、日に焼けていない透き通る肌も、唇を引き絞って耐えるように目を伏せるその表情すらも、どうしようもなく魅力的だった。

     薄々分かってはいたことだけど、露出の多い衣装を身にまとうと、三船さんのスタイルの良さと肉づきの……いやいやいやいや。

    「み、三船さんの身体は、間違いなく綺麗です……! 僕が保証します、なので、ええと……」

     思考がおかしな方へ行ってしまいそうで耐えられず、情けない声とともに三船さんを視界から外した。
     彼女のそれが伝染したかのように、やたらめったら顔が熱い。

    「本当、ですか?」

    「本当です。こんなことで嘘は、つけません」

    「わ、わかりました……。私、頑張りますから……」

     彼女はそこで言葉を切り、意を決するように一呼吸を置いて、続けた。

    「終わったら、いつかみたいに話、聞いてください」


    11: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:12:09.05 ID:rNK9Zl/t0

     三船さんはキャンペーンガールの仕事をなんとかやり遂げ、「セクシーな見かけと恥じらいのギャップが初々しくてよかった」という、喜ぶべきか否かなんとも言えない評価をいただいた。
     甘めの採点かもしれないけど、初仕事は成功と言っていいのではないだろうか。

    「本当に、恥ずかしかったです……。見苦しくなかったでしょうか」

    「台本も飛ばず、受け答えもちゃんとしてました。大変だったはずなのに、しっかりできてましたよ」

     帰り際、約束通り彼女の話を聞いていた。
     それくらいなら頼まれるまでもないのだけど。何か他のことを頼まれてもいいと申し出たら、これがいいんです、と断られてしまった。

     それくらいの成果は出したというのに、無欲なものだと思う。
     僕の言葉に、三船さんはゆるゆると首を横に振った。

    「打ち合わせも、リハーサルも、丁寧にしてくださったおかげです。……どうにか、なってしまうものですね」

    「はい、それに、三船さんの努力のたまものです」

    「プロデューサーさんに、そう言っていただけると……ほっとします」

     彼女の口元が嬉しそうに緩んでいるのを見て、僕まで嬉しくなる。
     恥じらう顔もそうだけど、少し前までは見られなかった表情を、三船さんは見せてくれるようになった気がする。

     これが、アイドルとして活動することで彼女に生じた変化だとしたら。
     僕はきっと、僕の責任を少しくらいは果たせているんだろう。
     そのことに、安心とともに胸の奥でうずくものを感じるのだ。

    「……プロデューサーさん、聞いてますか?」

    「え、ああ、はい。……ええと」

    「もう……。次のお仕事も、上手くできるでしょうか……って、言いました」

     生返事をして言葉に詰まると、三船さんはたしなめるように薄く笑う。
     僕は「すみません」と決まり悪く笑いながら、考え事を切り上げた。

    「きっと、上手くいくと思います。引き続きサポートしますから、頑張っていきましょう」

    「はい。……でも、もう当分はこういう衣装、やめてくださいね……?」

    「……これで最後、じゃなくていいんですか?」

     初対面のときに聞いた言葉を引き合いに出した僕を、三船さんは非難の意を込めた瞳で見つめる。
     眉を下げて、ほおをふくらませて。

    「……いじわる」

    「っ……す、すみません」

     それから事務所に戻るまで、僕は彼女の顔をまともに見ることができなかった。


    12: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:13:03.32 ID:rNK9Zl/t0




     三船さんへの仕事のオファーは、初仕事を終えて以来着々と増え始めていた。
     熱心にレッスンに励み、仕事をこなし、少しずつアイドルとしても成長しつつある彼女は、まだ自信なさげではあるけれど目に見えて明るくなった……と、思う。

     僕が何かをしたから、などと言うつもりはないけれど、三船さんの優しい笑顔に魅入られてしまった身としては、それは嬉しい変化だった。

     その日は撮影のために海辺まで来ていた。
     コマーシャル撮影だが監督が厳しいと評判の人で、特に表情の指示で何度もNGを出されている。
     リテイクが続き、三船さんもこわばった様子になってしまっていることから休憩をお願いした。

    「すみません……あまり、上手くできなくて」

    「ははは……シビアな方ですよね、監督。でも、身体の動き、しぐさでの表現は悪くないって言ってました。きっともうすぐOKが出ますよ」

    「……もともと、表情豊かなほうではありませんでしたから。見抜かれてしまっているのかもしれません」

     そう言って、彼女は苦笑する。
     こういう時にでも笑顔が出てくるくらいには、三船さんは変わったんですよ、と、そんなようなことを言いたかったのだけど、上手く言葉がまとまらなかった。

    「あ、そうだ。砂浜とか歩いてみますか。撮影日和のいい天気ですし、気分転換になるかと」

    「いいんでしょうか、その、遊んでいるみたいで」

    「いいんです。三船さんがいいカンジの演技をするため、ってことならきっと許してもらえますって」

    「では……少し、歩きましょうか」

     海岸に降りて、さくさくと柔らかい砂を踏みしめる。
     スーツに革靴は、流石に歩きやすいとは言えなかったけど、着替えも予備の靴も用意などしていない。
     三船さんも三船さんで、時折砂に足を取られそうになっていた。

    「わ……砂浜って、こんな感じでしたね。随分と長いこと、海には来る機会もなかったので……慣れません」

    「ああ、そうなんですね。仕事とはいえ折角来たんですから、満喫しちゃいましょう」

    「ふふ、年甲斐もなくはしゃいでしまうのも、いいかもしれませんね。……ああ、そういえば。これはいいことがあった話なんですけど」

     そう前置きして、彼女は波打ち際に足跡を残しながら話し始める。

    「今朝、家を出る前に……鏡に映った自分が、何かを楽しみにしているような顔をしていたんです。これから、お仕事に行くのに。……そんなことは今までになくて、なんだか、無性に嬉しくなってしまいました」

     海を背にして、歌うように言葉を紡ぐ姿に、目を奪われた。
     彼女がとても幸せそうな表情をしていたから。

    「……プロデューサーさん? 私、何かおかしなことを言ってしまいましたか?」

    「い、いえ……。三船さん、きっと、今の表情です」

    「……?」

    「すごく、いい笑顔でした。その……つい見とれてしまうくらいには。い、今のがもう一回できれば、一発OK間違いナシです!」

     言葉に詰まりながらそう伝えると、三船さんは目を見開き、そして砂浜へと視線を落とした。
     心なしかほおを紅潮させているように見えて、なおさらどきりとしてしまう。

    「プロデューサーさんが、見とれてしまうような表情を、私が……。してたん、ですね」

    「……は、はい」

     ただ頷くのが精一杯だった。
     今までだって何度彼女に見とれていたかわからないけれど、そこまで伝えられるはずもない。
     勇気が持てないのもそうだし、それ以上に僕の立場がそれを許さなかった。

     三船さんは片方の手で口元からほおにかけてを覆うように触れる。
     しばらくの間その姿勢のまま動かず、やがてゆっくりとその手を下ろしてこちらへと歩み寄る。

    「私、もう大丈夫です。……撮影、戻りましょうか」

    「わかりました。伝えてきますね」

     凛とした声音に小さな驚きを感じながら砂浜を後にする。
     すぐに撮影は再開して、何度かのリテイクの後にようやくOKが出た。
     結局、波打ち際で三船さんが見せた表情をもう一度見ることは叶わなかった。

     その後も彼女は口数が少なく、気にかかったことを覚えている。
     僕が余計なことを言ってしまったのではと思うと、積極的に聞き出すことができなかった。
     抱え込みがちな人であることは、わかっていたはずだというのに。


    13: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:13:32.44 ID:rNK9Zl/t0




    「で、最近どうなんだよ? 美優ちゃんとは」

    「どう、って……。知っての通りそこそこ順調です。大ブレイク、って売れ方じゃないですが、ファンも増えてきました」

     先輩の「どう」という問いに対して、僕が最初の答えで彼を満足させたことはない。
     今回も例に漏れず「そうじゃねえよ」と文句が返ってくる。

     大きなライブに向けての準備で忙しくしていた先輩は、それが一段落して少しした今日、いつものように唐突に僕を飲みに誘った。
     初めこそライブの苦労話だのどこそこの誰それが気に食わないだのといった話に付き合っていたのだが、やがて満足したのか矛先を僕に向け始めた、という次第だ。

    「気ぃ使って最近は飲みに誘わないでおいてやったってのに、色気のある話一つ聞かせられねぇのか、お前は」

    「プロデューサーとしてもう少し尊敬できる発言をしてください」

    「俺は業績の話を聞きたいわけじゃねーっての。そんなもん社内の資料をちっと漁ればわかるだろうが」

     僕の苦言をスルーした先輩の言い分は、要するに酒の肴にちょうどいい話をしろ、ということだろう。
     勘弁してほしい。

    「そうだ、もうそろそろ三船さん単独のCDを出してもいいんじゃないかって話があって」

    「それも知ってる。だが、めでたいことじゃねーか」

    「まあ、それはそうなんですけど……」

    「どうした? 美優ちゃんが有名になってイチャイチャしづらくなるのが不満か?」

     口ごもる僕に、先輩は毎度のごとく下世話な冗談を投げる。
    「そんなんじゃありませんから」と適当にあしらって、何と言ったものかと頭を悩ます。

    「ただ、むしろ三船さんの方が、有名になっていくことに抵抗、みたいなものがあるみたいで」

    「ほーん? まああの子、恥ずかしがり屋で引っ込み思案だもんな。ま、そこがイイんだが」

    「そういうのとも、ちょっと違う気がするんですよねぇ……」

     先輩はひとしきり訝しんだ後、「そこまできたらお前にしかわかんねーだろ。ちゃんと話聞いてやれよ」と放り投げた。もとより人に頼って解決するとも思えなかったが、やはり自力でどうにかするしかないらしい。

     最近の三船さんは時折、大きな仕事に対して気乗りしない様子を見せた。
     萎縮しているのかと思って背中を押してみても、「やりたくない、わけではないんですけど……」と言葉を濁すばかり。
     ちょうど今、僕と先輩がしたようなやり取りに似た応酬が、三船さんと僕の間でも行われていた。

    「まー、久しぶりに飲みに誘った甲斐はあったな。よーし今日は飲むぞ! 飲んで悩みなんか忘れちまえ!」

     豪胆かつ身勝手な物言いに、呆れを通り越して笑えてきた。
     付き合わないと帰らせてもらえないだろうなあ、と思いながら今日は薄い酒を頼む。

    「お前のことだから美優ちゃんのこと好きなままだろ? その辺の情けない話も吐き出してけよ、な?」

     ついでに、もし先輩が「美優ちゃんも連れて飲みに行こうぜ」だとか言い出した日には断固拒否できる意思を持たなければ、とも強く思った。


    14: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:14:38.08 ID:rNK9Zl/t0

     飲み会帰り、先輩から逃れるべくいつぞやのように一駅歩いて帰ることにした。
     初めて会った日からしばらく経って、なんとなく懐かしくなったのもある。

     駅と駅のちょうど真ん中あたり、広さの割に人通りの多くない道だったはずだ、と記憶を頼りに街を歩く。
     不意にズボンのポケットから振動とともに着信音が鳴り響いた。軽く咳払いして、電話に出る。

    「はい、もしもし」

    「もしもし、三船美優です。夜分遅くにすみません」

     電話の主に少しだけ運命めいたものを感じながら、酔いが表に出ないよう応対する。

    「ああ、三船さん。どうしましたか?」

    「その……お願いしたいことがあるんです。明後日のオフですが、私に付き合ってもらえないでしょうか」

     真剣な声で語られたのは、そんな頼み事だった。
     明後日は大した予定もなかったはずだと記憶を辿る。

    「ええと……はい。大丈夫ですよ。どこに向かうとか、決まってますか?」

    「今度ののロケで、リポートするテーマパークに。流行りの場所には疎いので、的外れなことを言ってしまわないよう、下見がしたくて」

    「そういうことならお安いご用です。それじゃあ、時間とか決めちゃいましょう」

    「……はい。ありがとうございます」

     安請け合いをする僕と打って変わって、三船さんはひどくほっとしたような声音だった。
     待ち合わせの時間と場所を決めている間も、どこか真剣で緊張しているような気配がある。

     不思議に思いながら「また明後日」と電話を切り、少し歩いてからふと気づく。

    「流行りのテーマパークに、三船さんと、二人で……?」

     世間一般にそれをどんな言葉にするか、そして三船さんの態度が結びついてしまう。
     いやいや仕事のための下見と言っていたわけだし、だけどそれはいわゆる口実というやつでは、頭の中で討論が始まって、てんやわんやになり始めていた。

     気づけば彼女と出会った道に差し掛かっている。
     ガードレールを掴んで体重をかけながら、もう片方の手で顔を覆うようにして頭を抱えた。

     プロデューサーとして、アイドルとそういう関係になるわけにはいかない、はずだ。
     その一心で、僕は僕をごまかしていた。
     そればかり気を取られていたせいで、その可能性に気づけずにいたのだ。

     もしも彼女が僕に好意を寄せていたら、なんてこと。


    15: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:15:40.29 ID:rNK9Zl/t0




     彼女と会うときはいつもスーツ姿だったから、着ていく服に悩むなんてことを久しぶりにした。
     夜は寝つきが悪く、そのくせ早く起きすぎるなんてこともやらかした。
     学生の頃みたいな精神状態に、この歳でなるとは思わなかった。

     約束の20分ほど前に待ち合わせ場所に着いて、もう既に来ているんじゃないかとさりげなく辺りを見回す。

    「同じ電車、乗っていたみたいですよ」

    「っ!?」

     背後からの囁き声にびくりと飛び上がり、振り返る。
     そこには驚かせた側であるはずなのに目を見開いた三船さんがいた。

    「そういうのは勘弁してください。心臓に悪いです……」

    「すみません、そこまで驚くとは思わなくて」

     くすくすと笑った彼女は僕の格好を視線でなぞる。
     物珍しいのだろうけど、じっと見られると気恥ずかしい。
     三船さんは衣装を着るたびにこの感覚を味わっていると思うと、感服すら覚えてしまいそうだ。

    「なんだか、違う人と会っているみたいです。……か、格好いいですよ」

    「う……」

     胸のあたりから背中にかけて、痛みのような、むずむずした何かが走る。
     嫌な感覚ではないのだけど、何度も味わいたくないものでもないという、矛盾した感想を抱いた。

    「それじゃあ三船さん、ちょっと早いけど行きましょうか」

    「……美優」

    「……?」

    「その、これから行くテーマパーク、デートスポットとして人気らしいんです。だから、普段と違う呼び方、してくれませんか……?」

    「え、あと、それは……」

     それはつまり、カップルを演じたいと言われているのと同義だ。
     本当にただのお遊びや演技であるなら、気恥ずかしくても我慢したかもしれない。
     けれど、上目遣いでこちらを見やる彼女の瞳からは、それ以上の意味を感じてしまう。

     そして、その視線を向けられてなお断ることなんて、僕にはできそうになかった。

    「わ、わかりました。……み、美優、さん。……で。呼び捨てまでは、許してください」

    「っ……。はい」


    16: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:16:10.61 ID:rNK9Zl/t0

     ぎこちなく目を伏せて、二人並んで歩き出した。
     目的のテーマパークは流行りというだけあって大混雑で、何をするにも数十分単位で待たされそうな有様だった。
     とりあえずは入場のための列に並ぶ。

    「予想はしてましたけど、混んでますね……」

    「はい……。乗るのはリポートするものに絞ってきたんですけど、それでも待つことになりそうです」

    「はは、頑張って話題探さなきゃ」

     係の人の指示に従って詰めて並ぶと、お互いの距離はけっこう近くなる。
     今更これくらいで、と自分に呆れていたら、右手に柔らかく、ひやりとした感触。

    「……! 美優、さん?」

    「あ、の、近くて。……駄目ですか?」

     彼女の指が、所在なさげに僕の手の上をなぞる。
     返事をせず、答えを出すことを避けて、ただその手をおそるおそる握った。
     汗ばんでやいないだろうかと、そんなことがやけに気になる。

     三船さんの顔を見れなくなる自分の初心さに、なおのこと気恥ずかしさが増した。
     何を話そうとしていたのかも頭から吹き飛んでいる。
     幸か不幸かあまりにも余裕がなかったものだから、中身のない会話をぽつりぽつり交わすだけの入場待ちは、体感的にはほぼ一瞬だった。

    「ええと、最初は、どこに向かいますか?」

    「まずは、地図のここの……」

     入り口で渡されたマップを二人で覗き込む。
     手はつないだまま、空いた方の手でそれぞれ紙の端っこを持つ姿は、やや不恰好だ。
     でも、手を離したら多分二度とつなぎ直す勇気を持てないような気がして、お互い見づらい姿勢について言及することはなかった。

     三船さんの手を引いて歩いていると、道行くカップルが当然のように手を繋ぎ、空いた手にスイーツやらドリンクやらを持ってこの場所を満喫する姿をたびたび見かける。
     そうしているうちに、過剰なまでの恥ずかしさは少しだけ引いていく。

    「何か買って食べますか。きっとまた並ぶことになりますし」

    「……とりあえず、飲み物を」

     僕は頷き、手近な屋台でドリンクを買うことにする。
     特にこだわりはなかったものだから、「カップルさんにはこちらがおすすめですよ〜」という店員さんの言葉に「じゃあそれで」と答えてしまったのが間違いだった。

     手渡されたのは、なにやらぐるぐるとハート型を描いた二本のストローをたたえる、大きなプラスチック容器。
     飲み方は、言わずもがな。三船さんと二人してじっとそれを見つめる時間が数秒ほどあった。
     というかどう考えても持ち運ぶタイプの容器ではないと思うのだけど。

    「す、すみません、適当に頼んじゃって」

    「い、いえ……。の、飲みましょうっ……!」

     何か壮大な決意を感じさせる一声に押されて頷く。
     いや、それだけの覚悟が必要なのも納得なのだけど。

     ぎゅっと目を閉じてストローに口をつけた三船さんに一拍遅れて、ためらいながらももう一つのストローを口に含む。
     ちゅぞ、と二人でドリンクを飲むと、直接触れているわけではないはずなのに、背徳感のようなものを感じてならなかった。

     喉をうるおすどころか緊張で喉が渇いてしまいそうな時間を終えて、真っ赤になった彼女を見る。

    「……美優さん、これ、同時に飲まなくても大丈夫……ですよね」

    「そう、だと思います。……これは、ちょっと……恥ずかしいです」

     同意が得られたことにほっとする。
     飾り立てられた容器には悪いけれど、本来の意図を果たすことはもうないだろう。

    「でも、後でもう一回だけ……やりたい、かも、しれません」

     ……多分、果たすことはないはずだ。いや、どうだろう……。


    17: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:17:23.93 ID:rNK9Zl/t0

     テーマパークのアトラクションは、待ち時間こそ長かったけれど人気なだけあってクオリティが高く、どれも存分に楽しめるものだった。
     並んでいる間、少し声をひそめながらもアイドルとしての歩みを振り返ったりして、慣れてくれば胸の高鳴りだけを残して穏やかに時間が過ぎる。

    「もうすぐ閉園時間ですね。あと一つ、乗れるか乗れないか……」

    「きっと、難しいと思います。もう並べません、って看板を立てているアトラクションも、多いですから」

    「じゃあ、名残惜しくはありますけど、軽く一回りして出ましょうか。アトラクションの電飾が、イルミネーションみたいで綺麗ですし」

     すぐにここを出なかったのは、この時間を引き延ばしたいと思ってしまったから。
     それは多分、良いことではないのだけど。

     ゆっくりと歩いていると、不意につないでいた手がほどけた。
     振り返ると、二歩分の距離を置いた場所で、三船さんはうつむいていた。

    「美優さん?」

    「プロデューサーさん。少し、話を聞いてもらえませんか」

     耳慣れない響きに、そういえば今日、今に至るまで一度も彼女からそう呼ばれていなかったと気づく。
     偶然か、意図的か……その表情を見て、きっと後者だろうと感じた。

    「以前、お仕事に行く前に自分が楽しげな顔をしていて、嬉しくなったという話をしたと思います」

     沈黙を肯定と受け取ってか、彼女はぽつりぽつりと話し始める。
     それを聞いたのは、海でCM撮影をした時だったか。

    「でも、気づいてしまったんです。私が本当に楽しみにしていたのは……アイドルとしてのお仕事以上に、あなたと話す時間なんだ、って」

    「……! そんな、ことは」

    「ありますよ。私のことですから、わかってしまいます。最初に気づいたのは、プロデューサーさんでしたけど。……だって、撮影の時より、プロデューサーさんの前でこの話をした時の方が、きっと明るい表情をしていたはずです」

     つい最近思い至ってしまった可能性が、真実であることを告げる言葉。
     彼女が語っているのはそういう類のものだ。
     僕には応えられるはずもない、告白。

    「ごめんなさい。本当は下見のつもりなんてありませんでした。欲しかったのは、思い出と、勇気です」

    「薄々、わかってはいましたけど、僕は……」

    「いいんです。プロデューサーさんは、それで。そんなプロデューサーさんだから、信じて、支えにすることができたんです」

    「あの、三船さん。待ってください、そんな言い方」

     話を続けたら、致命的な方向に話が進んでしまいそうな気配を感じて、どうにか止めようとする。
     僕にだって、言わなきゃいけない言葉はあるはずなのだ。
     その正体を、僕自身がまだ見つけられていないだけで。

     だけど彼女はたんっ、と一歩こちらへ歩み寄り、たしなめるように薄く笑った唇に人差し指を当てる。

    「美優、ですよ。今は、まだ」

    「……っ」

     眉を下げた三船さんの表情に、息が詰まる。
     いつだってそうだ、彼女の感情の動きを目にするたび、僕は心を揺らされる。

    「だから、あと一つだけ、思い出をください」

     さらにもう一歩、距離を詰められる。
     僕が一歩下がろうとするのと、彼女が背伸びをするのが、ほぼ同時で。

    「……好きです」

     僕は彼女に、口づけを捧げられていた。

    「んっ……っはぁ…………。プロデューサー、さん」

     彼女の唇の感触に、なまめかしく漏れる息に、焦げ付いてしまった思考回路は言葉を生み出すことができない。

    「これで最後にしませんか。プロデューサーさんと私の関係は……ぜんぶ」

     だけど、別離を告げられていることだけは、わかった。
     これを伝えるために、今日という一日があったことも。

    「私、ただのアイドルとしてあなたの隣にいられるほど、強く、ないんです」

     初めて出会った時よりもずっと苦しげで、悲壮な覚悟を感じさせる表情を、僕はただ見つめることしかできなかった。


    18: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:18:26.03 ID:rNK9Zl/t0




     三船さんから別れを告げられた次の日、鉛のように重い体を引きずって出勤した僕は、デスクに座ってひたすら彼女の言葉を頭の中で繰り返していた。

     今、自分に与えられている仕事はちゃんとこなす。だけど新規の仕事は受けず、今ある仕事が全て片付いたらアイドルを辞める。
     それが彼女の要求だった。

     三船さんがアイドルなんてやりたくないと言ったのであれば、僕に引き止める権利なんてない。
     この世界の魅力を伝えきれなかった僕の落ち度なのだから。

     でも、彼女は僕を理由にアイドルを辞めようとしている。
     そして、辞めた後も僕の前に姿を見せることもしない、と、そう言っていた。
     それが彼女なりの責任の持ち方なのだと、理解はできる。

    「……いいはず、ないよな」

     ぼそりと呟く。そう、いいはずがない。
     僕は彼女が大事で、彼女をアイドルとしてプロデュースしたくて、彼女のそばに、いたいんだ。
     身勝手にいなくなるでもなく、義理を通して、お互いに苦しんで、誰も笑えないお別れなんてご免だ。

     ……とはいえ、どうすればいいかなんて、思いつかないんだけど。

    「おうおう、辛気くさい顔してんな。どうしたよ」

     パソコンの前で頭を抱える僕に、先輩が声をかけてくる。目に見えるほど暗い顔をしていたらしい。納得ではあるが。

    「……担当アイドルに、愛想を尽かされそうでして」

    「はっはっは! ……あー、マジな話か?」

    「残念ながらマジです。最後通告をいただいて、どうにかヨリを戻せないか策を練ってるところなので、今日は使い物にならないと思います」

     どうしてかすらすらと言葉が出てくる。
     いつもならはぐらかして、飲みの席で無理やりに聞き出されるような話が、ためらいなく。

    「ま、プロデュースしてりゃ一回くらいはそういうピンチもあるもんさ。どーしようもなくなったら俺に言いな。ヤケ酒くらいは付き合ってやる」

    「やめてくださいよ、縁起でもない」

    「はっはっは。ヘタレなりに頑張んな。あ、メールチェックくらいはしとけよ」

    「はいはい、了解です」

     こっちに興味があるのかないのかわからない先輩と話して、少しくらいはどうにかなるんじゃないかという気がしてきた。
     まずは、三船さんの残りの仕事を洗い出すことから始めてみるとしよう。
     今すぐ二度と会えなくなる、ってわけじゃないんだから。


    19: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:19:08.95 ID:rNK9Zl/t0

     丁度よくその日の昼前に打ち合わせがあり、三船さんと顔を合わせることになった。
     彼女はきちんと時間通りにやってきて、何事もなかったかのように応対し、打ち合わせはつつがなく終わった。

    「お疲れ様です、三船さん」

    「はい、お疲れ様です」

     話しかけても無視をするような極端な態度は取らないけれど、どこかぎこちなさを感じさせた。
     昨日の出来事を、なかったことにはできそうにない。

    「少し話を、いいですか」

    「……できれば、遠慮させていただけると。多分、どんな話であっても、つらくなるだけですから」

     手厳しい返事が返ってきた。が、確かにそうだろう。
     彼女を引き止めるに足るだけの言葉を、僕はまだ見つけられていない。世間話をしても、名残惜しさが積もるだけだ。
     話したいという気持ちはあるけれど、今はきっとその時じゃない。

    「わかりました。でも、僕からもちゃんとお話をする時間は、いつか取りたいと思ってます」

    「それは……はい。ちゃんと、聞きます。私だけが言いたいことを言ったら、不公平ですから」

    「それが聞けただけで、今は十分です」

     もどかしさを胸に募らせながらも、僕は彼女に背を向けた。
     僕の中に渦巻く、僕が納得できる答えを、どんな形であっても伝えなきゃいけない。
     それだけを考えて。


    「……やっぱり、そうなるのか」

     手帳を見直して、今確定しているスケジュールを埋めて、わかったことが一つあった。
     三船さんの最後の仕事は、あのテーマパークでのリポートになる。
     本当に、あの場所をアイドルとしての最後の場所にするつもりなのだ。

     タイムリミットが定まって強まる焦りを、どうにか押しとどめる。
     一つ大きく息を吐いて、先輩の言葉を思い出した。今はただ業務をこなして感情を整理することも必要かもしれない。

     そうして新着のメールを一つ一つ開いていく。
     返信すべきものには返信を行い、そして、見つけた。

    「ソロシングル、打ち合わせ……?」

     メールを開き、本文に目を通す。
    『かねてより検討が進められていた三船美優のソロシングルについて、正式に出版が決まった旨をご連絡いたします。つきましては……』
     大急ぎで手帳に予定を記していく。

     わざわざメールチェックを指示してきた先輩は、まさか知っていたのだろうか。
     そういうことをしてもおかしくない人だとは思うけど、言い方が遠回しだ。気づかなかったらどうするつもりなのか。

     ともかく、これはきっと最後のチャンスだ。
     三船さんにはずっと、アイドルとして自分だけの歌を歌う経験をしてほしかった。
     新しい仕事は受けないという彼女の意向には反するかもしれないけれど、こればかりは譲れない。

     そして、この歌を通じてしか、伝えられるものはないのだろう。
     プロデューサーとして担当アイドルに、あるいは僕自身が、三船さんに向けて。


    20: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:19:53.15 ID:rNK9Zl/t0




    「すごい人……皆さん、とても楽しそうで……。私もいつか、大切な人とこんな場所を訪れる日が来るのでしょうか……なんて、いけませんね」

     三船さんの最後の仕事……少なくとも彼女自身はそう思っているであろうそれを遠巻きに眺める。
     独特のテンポ感と安定したトーク、そして時折見せる恥じらい。
     彼女が元来持つ魅力と、いくつもの仕事を経験して得たものがしっかりと発揮されている良いリポートだと思う。
     何より、堂々と穏やかな笑みを浮かべて歩く姿が、ただ嬉しかった。

     この後待ち受けていることに対する緊張はあれど、まずは彼女の仕事ぶりをしっかりと目に焼き付けなきゃいけない。
     これが最後かもしれないことに、変わりはないのだから。


    「お疲れ様、でした……!」

     撮影の全行程が終了し、三船さんは大きくお辞儀をする。
     そこに僅かでも万感が含まれているのであれば、それはプロデューサー冥利に尽きるというものかもしれない。

     これから僕は、彼女に一つのお願いをする。
     しくじるなよ、と小さく呟いて、ゆっくりと足を進めた。

    「三船さん、お疲れ様です。本当に」

    「プロデューサー、さん……」

     寂しげに笑んで、三船さんはこちらに向き直る。
     僕がこれから切り出す話くらい、彼女だってきっとわかっている。
     それなのに、そんな顔をするのだ。

    「少し、歩きましょうか。ここだとスタッフさんに気を使われちゃいます」

    「……はい」


    21: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:20:26.55 ID:rNK9Zl/t0

     彼女は僕のななめ後ろを、付かず離れずでついて歩いた。
     前に来た時は、ずっと手をつないでいたんだったか。今はまだ、彼女の手を取れない。

    「これからどうするか、決まってるんですか」

    「……いいえ。でも、少しの間休んで、旅行でもして……いつか、また働き始めると思います」

    「よかった。次の就職先も決まってます、なんて言われたら、どうしようかと」

    「そんなこと……あるはずないと、思いませんか?」

     振り返らずに歩いているものだから、彼女がどんな顔をしているかはわからない。
     遠回しに、外堀から僕の望みを伝える言葉を、どう感じているのかも。

    「はは、本当は、そうだろうと思ってました」

    「プロデューサーさんは。……どうするんですか?」

    「僕も、決まってません」

     だって僕がどうするかは、これからあなたがどんな返事をするかで、変わるのだから。

     立ち止まって、ポケットを漁る。
     携帯音楽プレーヤーを取り出して、ほどいたイヤホンをつなぐ。

    「三船さんに、聞いて欲しいものがあります」

     再生するのは『Last_Kiss_仮歌』とだけ書かれたファイル。
     イヤホンを彼女に渡して、再生ボタンを押した。

     もう何度も聞いてきた曲だから、音が聞こえていなくても今どの辺りが流れているかわかる。
     この歌は、詩は、届いてくれるだろうか。
     僕が見てきた三船さんの姿は、間違った像を結んでいないだろうか。

     じっと目を閉じて、一音たりとも逃さないとばかりに聞き入る彼女をただ見つめる。
     きゅ、とその手を胸の前で握りこむのが見えた。

    「プロ、デューサー、さん……。この、曲は?」

    「アイドル、三船美優ただ一人のための曲です。……歌って、いただけませんか」

     イヤホンを外した、震えまじりの問いかけに、はっきりと答える。

    「あなたというアイドルがここにいること。僕がプロデュースしていること。……その証を、一つでいい。確かに残していたいんです」

     僕は自分が、これからも彼女と一緒にいたいのか、これでお別れになっても構わないのか、その答えを出さなかった。
     だって、僕ひとりが決めたって仕方がない。

     ただ、二人でどんな道を選んだとしても、この曲だけは、その手向けにしたいんだ。

    「僕は、あなたが好きです。アイドルとして、それ以上に、一人の女性として」

     手を差し伸べる。
     こんなコト、こんな時じゃなきゃきっとできなかった。
     ……だけど僕は、状況がそうさせたんじゃなくて、彼女がそうさせたのだと、そう思うのだ。

     彼女は握り込んだその手をじっと見つめたまま、数秒が過ぎる。
     答えを待つ数秒は、確かに流れているようで、でも異様なほどにゆっくりに感じた。

    「……この、音源。もう、聞けません。プロデューサーさんにも、聞いてほしくないです」

     やがて、語られたのはそんな言葉で。うまく、頭に入ってこなかった。

    「それ、は……つまり」

     喉がからからに乾いて、どうにか口に出した疑問の、その先にある結論なんて導き出せやしない。

     だらん、と落ちそうになる僕の手を、彼女の両手が包み込んだ。

    「仮のものだとしても、ほかの子がこの曲を歌って、それをプロデューサーさんが聞いてるなんて……妬いちゃいます」

    「え……。あの、三船、さん」

    「歌います。歌わせてください。……私だけの曲、最後に」

     彼女は澄んだ瞳で、いたずらっぽくはにかんだ。
     やられた、と理解して目をそらすけど、しっかりと手を握られていて、逃げられそうにない。

    「……そういうのは、ずるいですよ」

    「『ずるい人』は、あなたの方です……。こんなこと、秘密にしていたなんて」

     歌詞をなぞるようにして僕をのぞき込む彼女に、僕は何も言い返せなかった。


    22: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:21:12.02 ID:rNK9Zl/t0




     三船さんが歌うLast Kissは無事CD収録を終え、発売を迎えた。
     先延ばしにされた最後の仕事は、今日の発売記念の披露イベントということになっている。
     ただ歌を世に出すだけでなく、一度くらいは人前で披露してほしい、という僕の要望によるものだ。

    「いよいよ、ですね」

     ドレスに似た衣装を身にまとった三船さんに声をかける。
     その姿は、大人の女性としての彼女の魅力を存分に引き立てていた。
     ライトを当てられているわけでもなく、控え室に佇むだけなのに輝いて見えるのは、僕のひいき目だろうか。

    「ねえ、プロデューサーさん。私、前の仕事に勤めていた時も、私がアイドルなんて、って思っていた時も、あなたにキスをした時も」

     彼女は立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づく。
     僕は軽い相槌とともに、話の続きを促す。

    「これで最後だ、って思っていたことを、本当に最後にできたこと、ないんです。……ちゅ」

    「っ!?」

     無防備な僕に、彼女はキスをした。
     予想していなかった出来事に、ほおを染める彼女をただ見つめることしかできない僕は、きっと間抜けなほど目を丸くしていることだろう。

    「ほら、今も。……今日は正真正銘、最後のステージ。私が私だけの歌を歌うのも、最後です……ふふっ」

     意味深な笑みとともに、呆けたままの僕を中心にしてステップをくるりと踏む。

    「プロデューサーさん、私、変わってしまったんです。変えられて、しまったんです。あなたに、こんな風に」

     いいな、と思う。
     また新しく見えた彼女の魅力をどう表現させてあげれば輝くだろう。
     そんなことばかり、考えてしまう。

    「だから責任、最後まで、取ってくださいね」


    23: ◆kiHkJAZmtqg7 2019/08/19(月) 23:21:44.78 ID:rNK9Zl/t0

    以上、お読みいただきありがとうございました。
    少しでもお楽しみいただけていれば幸いです。


    24: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/08/19(月) 23:52:41.58 ID:jHiuQrV6o

    おつでした


    引用元: 三船美優「最後にキスをして」

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