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    開かない扉の前で【後編】

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    開かない扉の前で【前編】【中編】【後編】


    670 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:28:01.18 ID:Scz7BVnko



     さざめき立つ街並みの中で、僕達は灰皿を挟んで隣り合って並んだ。
     
     すみれのことを追うべきなのかもしれない。僕はそう考えている。
     この世界で一度はぐれてしまったら、僕は二度とすみれと会えないかもしれない。

     でも、追う気にはなれなかった。
     すみれが気にならなかったわけじゃない。でも、それ以上に、この子に確認したいことがあった。

    「ずいぶんと久し振りな気がするね」

     手始めに、僕はそう声をかけた。

    「そう?」とざくろは不思議そうな声をあげる。

    「ほんの少しだよ」と。あるいは本当にそうかもしれない。

    「僕はきみのことを探していたんだよ」と、そう言ってみた。
     でも、それは半分くらいは嘘だ。どうでもいいから、そう言ってみただけのことだ。


    671 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:28:27.49 ID:Scz7BVnko

    「いくつか質問があるんだけど」と、僕が言おうとしたのと同じことを、ざくろは僕に訊ねてきた。

    「いい?」彼女は僕の方を見ていた。僕は少し考えてから頷いた。

    「どうぞ」

    「そう。ありがとう」

     彼女は僕にそうお礼を言ってから、手に持っていた缶コーヒーのプルタブをひねってあけた。

    「あなた、何かした?」

    「"何か"?」

     言葉の意味が分からず復唱すると、彼女はうかがうように僕の顔を見た。

    「ううん。ちょっと変な感じがしてね。気のせいなのかもしれないけど、何かが入ってきた感じがしたの。あなたのところに」

    「……何かって、何?」

    「それがわからないから聞きたかったの。でもいい。知らないみたいね」

    「……他の質問は?」

    672 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:29:44.84 ID:Scz7BVnko

    「うん。こっちに来て、どう?」

    「どう、って?」

    「楽しめてる? あなたの願いが叶った世界」

     ざくろは白々しく笑ってコーヒーに口をつけた。
     僕は溜め息をついた。

    「僕の方からもいくつか質問してもいいかな」

    「どうぞ」

    「きみは誰?」

    「わたし? わたしは、ざくろ」

    「そう。前も聞いたね。すみれの妹さんも、そういう名前らしい。きみにそっくりだって」

    「ふうん。そう」

     特に興味もないというふうに、ざくろはそっぽを向いた。

    「それはそうでしょうね。だって、わたしがそのざくろだもん」

    「……"どっち"の?」

    「あえていうなら――」とざくろは素直に応じてくれた。

    「あっちのざくろ」

    「次の質問をしてもいい?」

    「どうぞ」


    673 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:30:57.39 ID:Scz7BVnko

    「きみは何が目的で、こんなことをしてるんだ?」

    「失礼な言い方。わたしはただ、みんなの望みを叶えてあげたいだけ」

    「沢村翔太に会ったよ」

    「……誰、それ?」

    「きみが連れてきたうちの一人だよ」

    「そう。そんな人もいたかも」

    「彼が言うには、きみには人の望みを叶える力なんてないらしい」

    「――」

     ざくろの表情が、ほんの少しだけ不快そうに歪んで見えた。

    「きみにはただ繋ぐことしかできない。そう言ってた。僕にはよく分からなかった。でも、考えてみれば納得もいくんだ」

    「……どうして?」

    「僕と沢村が同じ世界にいたからだよ」

    「……」

    「僕の願いを叶えた世界と、沢村の願いを叶えた世界、そのふたつが一致していたからってわけじゃないだろうね。
     単に、きみが僕達を運べる先が、この世界がなかったから、と考えた方がしっくり来る」

    「……」

    「つまりきみは、僕たちをからかっていただけなんだろう?」

     ざくろは何も言わない。僕はそれを答えだと思った。


    674 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:31:29.88 ID:Scz7BVnko

    「昔ね、一匹の猫がいたの」

     ざくろは不意に、そう話し始めた。僕たちの周囲にはいまだ絶えない雑踏が当たり散らすように響いている。
     
    「その猫を助けた女の子が死んでしまった。世界は女の子を失ったまま、ずっと続いていた。
     でもね、あるとき、ひとりの男の子が現れたの。その子は知らず知らず、ずっと後になってから、再びそこに立ち戻った。
     ……言っている意味、分かる?」

     何の話かはわからない。僕が首を振ると、ざくろはこう言った。

    「一度去った時間を、再び訪れたの」

     ……つまり、過去に戻った、という意味だろうか。

    「そしてその男の子は、ううん、その男の子じゃないんだけど、分かりやすく言うと、その男の子は、
     その女の子を助けてしまった。猫は轢かれて死んでしまった。それが最初」

    「……」

    「そのときから、世界はふたつに分かれたんだって。たくさんの場所を行き来したから、わたしはその光景を見ることもできた」

    「……世界が、ふたつに分かれた」

    「そう。猫が死んだ世界と、猫が死んでいない世界」

    「そんなことがあり得るの?」

    「それを問うことに意味があると思う?」とざくろは大真面目に言った。

    「現にあなたは世界をふたつ眺めているのに?」

     僕は一瞬呆気にとられて、それから笑った。

    「たしかにね」


    675 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:32:06.87 ID:Scz7BVnko

    「その男の子がそうだったように、あるいはわたしがそうなってしまったように、そういう不自然な力を持ってしまう人はたくさんいるみたい」

    「不自然な力」と僕は繰り返した。不自然な力、不自然な力。

    「ふたつの世界を繋ぐことができるのも、わたしが最初じゃないみたいだし。
     あの子たちはふたりでひとつだったから、片方が死んじゃってからできなくなったみたいだけど。それにわたしみたいに、時間までは変化しなかった。
     ああ、ううん。この今はまだ、彼女は生きてるか」

    「……なるほど」

     さっぱりわからないけれど、理解できそうにもなかったので、わかったふりをして話を続けることにした。

    「つまり、種は二つあるわけだ。不自然な力と、分かたれた世界」

    「そう。おもしろいでしょう?」

    「そしてきみの力は、世界と、時間を、移動する力?」

    「そう。そして、誰かを巻き込むこともできる」

    「当然、願いを叶える力なんて持っていないわけだ」

    「そう。あの抽象的な世界のことは、わたしにもよくわからないけど、たぶん、あなたが言った通りのものだと思う」

     心象風景――。

     そして、ざくろの言葉が真実ならば、この世界の在り様は……。

    「バタフライエフェクト」

    「そう。なんだかあなたとは、趣味が合いそうね」


    676 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:32:35.88 ID:Scz7BVnko

     初期値鋭敏性。
     
     猫が生きるか死ぬか、少女が生きるか死ぬか。

     その些細な変化から始まって、世界にはあらゆる変化が起きた。

     結果、この世界には愛奈がいない。穂海は当然に、この世界の僕と一緒にいる。
     
     穂海は穂海という名前で、僕は僕のままで、愛奈だけがいない世界。

     おかしな世界。
     不自然だという気もする。
     
     でも、そうと言われれば、そうとしか思えない。

     そこにざくろのような存在が介入する。

     あちらの世界から姿を消し、こちらの世界を訪れる人間が現れる。
     そうしてさらなる変化が加わる。

     互いが繋がった状態が、既にひとつの世界になってしまったように。

     これは悪意でもなんでもない、ただほんの少しいびつなだけの変化。

     この世界の僕は生見小夜と一緒に歩き、
     この世界のあさひは僕と同じ委員会ではなく、
     この世界の姉は僕たちと一緒に暮らしている。

     そのすべては、何の作為でもなく、ただ、結果的にそうなってしまっただけの話。


    677 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:33:15.34 ID:Scz7BVnko

     きっと、そうなんだろうな。
     なるほど、としか今は思えない。

     分かっていたことだ。

     僕が生きていることにも、愛奈がいないことにも、なにか劇的な理由があるわけじゃない。

     僕はただここに来てしまっただけの人間で、そこには何の意味も理由もない。

     ここに来るべきではなかった。

    「ねえ、あなたは後悔してるの?」

     僕は正直には答えなかった。

    「そういうわけじゃない」

     でも、知らなければよかった、と思った。
     こんな世界が存在することを、知りたくはなかった。
     
     僕があんなふうに生きていた世界が存在することを、知らなければよかった。
     そう思った瞬間、僕の胸にふとひとつの疑問が浮かんだ。

    「きみは……何がしたかったの? 本当に、僕らをからかっているだけだったの?」

     彼女は口を閉ざして、そのまま微笑みを浮かべた。


    678 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:33:46.73 ID:Scz7BVnko

    「……ねえ、帰りたい?」

    「……」

    「あなたは帰るべきだって、わたしは思う」

    「そうかもしれないね」

    「今、あなたを送り帰すことができる。どうする?」

    「今?」

    「そう。今。これを逃したら、いつになるかわからないし、わたしの気が変わってしまうかも」

    「どうして、今、そんなことを言う?」

    「もう十分に、堪能してくれたみたいだから」

    「……すみれは」

    「心配しないで」とざくろは言う。

    「あれでもわたしの姉だもん。悪いようにはしない。すぐに帰ってもらう」

     そのときのざくろの笑みには、何か昏いものが含まれているように見えたけれど、僕にはそれがなんなのか、よく分からなかった。

    「……帰るよ。僕も、帰るべきなんだと思う」

     そうだ。
     これ以上こんなところにいても仕方ない。
     この世界には、何の用事もない。僕の願いが叶った世界でもなんでもない、こんな他人事の世界には。


    679 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:34:21.57 ID:Scz7BVnko





    「少し、目を瞑ってくれる?」

     そう言って彼女は僕の手をとった。
     刺された傷が、今になってほんのすこしだけ痛んだ。

     瞼を閉ざす。

    「開けて」と彼女は言った。

     そのときにはもう、僕はあの、一度見た奇妙な場所にいた。

     あの、地下貯蔵庫。

     背後には扉がある。
     
     あたりは真っ暗闇だ。

     ざくろの言葉を信じるなら、ここは既に僕の心象風景。

     このからっぽの真っ暗闇が。

    「出口までは、案内してあげる」

     そう言って、ざくろは近くにあった燭台を手に取ると、マッチを取り出して火をつけた。

     あっさりとしたものだな、と僕は思った。
     そんなものなのかもしれない。



    680 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:34:48.62 ID:Scz7BVnko

     ざくろの先導に従って、僕は歩き始めた。

     埃っぽい、黴臭い空気の中、僕は隣にすみれがいないことをほんのすこしだけ寂しく思った。

    「すみれのことなら、大丈夫。わたしが全部伝えておくから」

     ざくろはこちらを見ずにそう言った。

    「ねえ、沢村が言ってたのを聞いたんだけど、もうひとつ質問があるんだ」

    「なに?」

    「きみはたしかに、世界を繋ぐことができる。でも、その繋いだ先の時間は、大きくズレることがあるって」

    「……うん」

     ざくろは否定しない。

    「だったら僕も、元いた時間には帰れないのかな」

     ざくろは考えるような間を置いた。

    「わからないけれど、でも、大抵の人の時間が大きくズレるのは、その人達が行きたい時間を持っていないからだと思う。
     だから、あなたの場合は平気だと思う。帰りは、もとの時間に行くことが多いの」

    「もうひとつ、質問してもいい?」

    「なに?」

    「すみれと僕は、一緒に帰ることはできなかったの?」

    「できなくはないけど……」ざくろは少し言いにくそうにした。

    「でも、さっきは一緒にいなかったでしょう?」

     なるほどな、と僕は思った。

    「さっきから、どうしたの?」

     ざくろはまた前を向き直った。僕は蝋燭の灯りがちらちらと揺れているのを眺めながら、言葉を続けた。 

    「――きみは嘘をついているよね?」


    681 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:35:41.13 ID:Scz7BVnko

     ざくろが、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情からは、何の感情も読み取れない。

    「どうしてそう思うの?」

    「そんなにたいした疑問じゃない。根拠も、そんなに多くもない。でも、さっきからきみの言葉は不自然だ。
     すみれと僕が一緒に帰れたなら、どうしてすみれと僕が一緒にいたときに姿を現さなかったんだ?」

    「それは、たまたまはぐれたときに会ったから……」

    「違うね」と僕は言った。反駁する隙を与えないように、口を動かす。

    「きみは僕とすみれが別行動するタイミングを狙っていたんだ。僕がひとりになる瞬間を」

    「……いきなりどうしたの?」

    「そして、きみは僕だけを先に元の世界に帰してしまいたかった。僕が厄介だったんだ。
     すみれに対して何かをするために、きみは、僕にいられると不都合だった。違う?」

    「……」

    「いったい何をするつもりなんだ?」

    「ここまで来て、今更それを言うのね」

    「正直、してやられたよ。目を瞑るだけでここまで戻ってくるなんて思ってなかった。
     それに、気付くのも遅れた。だけど、さすがに見過ごせない。きみはいったい、何を企んでいるんだ?」


    682 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:36:25.11 ID:Scz7BVnko

     僕は立ち止まる。ざくろもまた、僕を待つように足を止めた。
     暗闇の中で、彼女の姿の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がり、足元にだけ闇と同化する影を作っている。

     ふう、と短く、ざくろが溜め息をついた。
     ほんの少し、また、何かを考えるような間をおいて、彼女は口を開く。

    「本当は、誰もに言いたい話ではないんだけどね」

     そんな前置きをしてから、ざくろがこちらを向き直った。

    「言っても、ピンと来ないでしょうけど……あなたと一緒の時間にすみれが帰ってしまうと、少し困るの」

    「……どうして?」

    「わたしが死んでいるからよ」

     ざくろは表情もろくに変えずにそう言った。

    「わたしは父に殺されるの。すみれがバイクでどこかに出かけているときに。
     ううん。あなたとすみれがこの世界にやってきた夜に、わたしは父に殺されたの。
     そして父に殺されてから、わたしはこういう存在になった」

    「……」

     僕の頭は、その言葉の意味をよく理解できなかった。
     目の前にいる少女が、急に得体の知れない怪物のように見え始める。


    683 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:37:02.52 ID:Scz7BVnko

    「それは……おかしい」

    「どうして?」

    「きみがあの夜に死んで、そういう存在になったんだとしたら、おかしい。
     だって、きみはあれ以前からも、僕たちのような人間をこっちに繋いでいたんじゃないのか?」

     かろうじて頭を働かせながら、僕はどうにかそう訊ねた。
     ざくろの答えはシンプルだった。

    「わたしは時間から解き放たれた。わたしの時間はもう、あなたたちと同じようには流れていない。
     普通の時間が一本の線だとしたら、わたしの時間は二本の線を無作為に行き来する、線と線とを結ぶ線。
     だから、あの夜にあなたたちと出会ったわたしは、あの夜に生まれたばかりのわたしではなかった」

    「……言っている、意味がわからない」

    「だからね、わたしはすみれを、あなたの時間に帰したくないの。
     だってそうでしょう? 自分が逃げ出している間に妹が殴り殺されていたなんて、そんなにショックなことはないじゃない?」

    「……」

     僕はうまく答えられない。説明されたことのすべてが、なんだか本の中の出来事のように現実感を伴わない。

    「これでいい? だからわたしはこう言ったの。"悪いようにはしない"って。だって、わたしのお姉ちゃんだもの」

     ざくろはそれだけ言うと、自分の言った言葉を振り払おうとするみたいに歩くのを再開した。

     僕はもう何も言わずに、彼女の後を追いかけた。


    684 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:37:32.09 ID:Scz7BVnko

     そのとき、不意に僕の足が何かに躓いた。

     音に気付いたのか、ざくろは立ち止まってくれる。僕は蝋燭の灯りで、その何かの正体を見た。

     それは写真立てだった。
     中には、セピア色に褪せた一葉の写真が入れられている。
     僕は吸い込まれたようにその写真立てを手に取った。

     映っているのは、僕と、姉と、それから愛奈だった。
     
    「どうしたの?」とざくろの声が聞こえた。

     不意に僕は泣いてしまいたくなった。

     どうしてこんなことになってしまったんだろう?
     どこで間違ってしまったんだろう?

     それが、本当に、ただ、一匹の猫の生死を境に、食い違ってしまうだけのものに過ぎなかったのだろうか。
     そう思うとたまらない気持ちになった。

     姉さん。
     愛奈。


    685 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/22(火) 00:38:00.18 ID:Scz7BVnko

     巻き戻しの方法はないのか? やり直すことはできないのか?
     どうしてこんなことになってしまったんだ?

     僕はその場に膝をつき、写真立てを地面に落とした。
     顔をあげることもできないまま、ただぼんやりと、頭の中をさまざまな言葉がよぎるのを、ずっと止められずにいるだけだった。

     もう、どこにも行きたくないような気がした。
     ずっとこの場に、ただ蹲っていたい気分だった。

     僕は、ほんの少しの間だけ、本当に涙を流した。

     ふたたび僕が立ち上がったのは、何かの覚悟を決めたから、というわけではない。

     ただ、衝動のような強い感情が、胸のどこか昏い部分から、滲み出てくるのを感じる。

    「ねえ、ざくろ――」

     僕の声は、自分でも分かるくらいに冷えていた。
     それでも、そうしないわけにはいかなかった。

     ざくろは、僕の言葉を待っている。何も言わずに、ただじっと待っている。
     だから僕は、もう体の内側にその考えをとどめ続けることができなかった。

    「――ひとつ、お願いがあるんだけど」


    688 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:29:40.51 ID:wgHUnuE7o

    ¬[Jerusalem] S



     まだわたしたちが当たり前の姉妹でいられた頃、ざくろが教えてくれた。
     
     花の名にまつわるふたつの神話。

     一つ目はこうだった。

     あるところに、ひとりの女の子がいた。

     アポロンは、他の多くの女を求めたのと同じように、彼女を見初め、彼女を求めた。
     けれど、彼女には婚約者があったので、その求めを受け入れるわけにはいかなかった。

     かといって、もしも自分がアポロンの要求を拒めば、彼は自分や自分の周りの人間に激怒して罰を与えるだろう。

     自らの境遇に苦悩した彼女は、貞潔の女神にこう祈りを捧げる。

    「どうか私を、人間以外の姿にしてください」

     女神アルテミスは彼女の祈りを聞き届け、その身を一輪の花に変えた。

     それが"すみれ"。だから、花言葉は「誠実」。


    689 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:30:12.45 ID:wgHUnuE7o

     二つ目は、また別の話。

     あるところに、ひとりの女の子がいた。

     彼女の母親が亡くなったあと、父親は彼女に対して情交を迫った。
     
     彼女はその求めから逃れるが、自らの境遇を嘆き、母親の墓前でその命を絶った。

     神は彼女を憐れに思い、その魂を花に宿らせ、父を鳶に変えた。
     
     そして、鳶が決してその花のなる枝に泊まらぬようにさせた。

     それが"ざくろ"。花言葉は「愚かしさ」。

     ふたつのお話には類似点と相違点がある。

     同じなのは、情交を迫られること。
     異なるのは、片一方は自らの祈りを聞き届けられ花になり、片一方は自ら嘆き擲った魂を花に宿らされたこと。
     

    690 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:31:21.14 ID:wgHUnuE7o

     このふたつの神話はギリシアのものだったはずだ。
     でも、ギリシア神話について書かれた本をいくつか探したけれど、
     わたしはこのふたつのお話を見つけることができなかった。

     彼女は何か思い違いをしていたのかもしれない。

     代わりにわたしが見つけたのは、"ざくろ"にまつわるふたつのお話。

     一つ目は、酒神バッカスにまつわるもの。

     占い師に、「いつか王冠を戴くことになる」と言われたひとりの妖精は、
     酒神バッカスに「王冠を与える」と欺かれ、弄ばれて捨てられてしまう。

     妖精は悲嘆に暮れ、そのまま死んでしまう。

     あまりの様子に気が咎めたバッカスは、彼女をざくろの木に変えて、
     その実に王冠を与えたという。だからざくろの実には、王冠に似た部分がある。

     二つ目は、冥府の女王ペルセポネにまつわるもの。

     デメテルの娘ペルセポネは、冥府の支配者であるハデスにさらわれる。
     ペルセポネを見初めたハデスが、彼女を妻にしようと拉致したのだ。

     怒ったデメテルがゼウスに抗議すると、ハデスは一計を案じた。

     ペルセポネにざくろの実を食べさせたのだ。

     神々の間には、冥界の食べ物を口にしたものは、冥界に属するという掟があった。

     ペルセポネは、一年のうち、食べた実の数に応じた時間だけ冥界にいなければならなくなり、結局ハデスに嫁ぐことになった。
     そして豊穣の神であるデメテルは、ペルセポネが冥府にいる間だけ、地上に実りをもたらすことをやめた。

     これが冬という季節の始まりの神話。


    691 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:31:49.76 ID:wgHUnuE7o

     三つすべてに、相似点がある。
     
     まず、すべてに共通するのが、合意を待たない強引な交合の求め。

     鳶とバッカスの物語に共通するのが、女の子は死に、その後哀れみから花になったこと。

     最後に、鳶とペルセポネの物語に共通するのが、近親姦のモチーフだ。

     ざくろに変えられた少女は父に犯されそうになり、自死した。

     そして、ハデスにさらわれたペルセポネは、そもそもゼウスとデメテルの子であり、二人は姉弟だった。
     くわえてハデスもまた、ゼウスとデメテルの兄であったので、ペルセポネはハデスの姪にあたる。
     
     ざくろは自らの名前を恥じていた。

    「わたしがすみれならよかったのに」とざくろは言った。

     だってこんな名前、なんだか呪われている。
     花言葉だって、"愚かしさ"なんて、と。

    「でも、ざくろには他の花言葉もあるでしょう?」

     わたしはそう言って彼女を諭した。

     王冠に似た部分があるから、権威の象徴とされていたって話もあるし、再生のシンボルとも言われる。
     花言葉だって、愚かしさだけじゃない。円熟した優美、結合……。

     それに、すみれだっていい意味ばかりじゃないわよ、とわたしは続けた。

    「小さな幸せ、慎ましい喜び……わたしは大きな幸せを求めちゃいけないってわけ?」

     わたしがそう言ったとき、ざくろはようやく笑ってくれた。

    「それに、白昼夢っていうのもあった。でも、こんなの気にするだけ無駄。名前は名前でしかないんだから」


    692 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:32:28.88 ID:wgHUnuE7o

     そう、わたしはそう言った。
     べつに、気にすることはない。

     名前なんて、所詮、音の連なりでしかない。

     名前で人間の何かが決まるなら、世界中の人がみんなおんなじ名前だったらどうなるの?
     誰もが同じ境遇になるの? そんなわけはない。

     こじつけで不幸になることはない。

     わたしたちはわたしたちなんだから。

    「ねえ、ざくろ。だったらざくろが、思い切りやさしくて、思い切り幸せな人間になって、ものすごく有名になればいいの。
     世界中のひとたちが、ざくろって言葉を聞いた瞬間に、とっさにやさしさと幸せを思い浮かべるくらいに。
     神話や聖書よりも先に思い浮かぶくらいに。言葉の意味なんて、そんなものよ」

     ざくろはくすくす笑って頷いた。

    「だったらすみれも、ものすごく大きな幸せも手に入れないとね」

    「そうよ。そういうもの」

     そう言ってわたしたちは、くすくすと笑い合った。

     わたしたちは仲の良い姉妹だった。

     母が死んで、父が変わってしまうまでは。


    693 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:34:16.47 ID:wgHUnuE7o



     
     ――水滴の音が、ずっと聞こえていた。
     
     ふと、目が醒めたとき、わたしはそれを意識した。
     目が醒めてそれに気付いたというわけではない。

     というよりはむしろ、その音がずっと、絶え間なく続くのを聞いていた自分に、気が付いた。
     そんな感じがした。

     同じように、わたしは遅れて、目をずっと瞑っていたことに気付き、頭が鼓動のような痛みを訴えていることに気付き、
     自分が拘束されていることに気付いた。

     驚いて瞼を開いても、状況はつかめないままだった。

     黴臭い匂い、水滴の落ちる音、暗闇の中にちらちらと揺れる蝋燭、張り付くような湿った空気。

     意識の連続が、唐突に絶たれて、それから急にこの場に放り込まれたような気がする。

     わたしは、いったいいつ、意識を失ったのだろう?
     
     そして、この状況は、いったいなんなのか?

     考えてみても、頭に響く痛みをこらえながら記憶を辿るのは難しかった。

     静かに、自分の手足を見る。

     何かが、わたしの手足を縛っている。これは、植物の蔓? あるいは、枝……だろうか。

     その蔓は、わたしの体を椅子にくくりつけていた。

     身をよじって振り返ってたしかめる。どうやら、アンティーク風の、上品そうな椅子だった。
     漫画や映画でしか見たことがないような代物。

     背もたれと座の部分は、赤い革張りになっている。
     わたしの手は椅子の肘付きの部分の上にのせられ、そこで縛られている。
     足もまた、椅子の脚の部分に、長い蔓でくくりつけられていた。
     


    694 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:35:04.11 ID:wgHUnuE7o

     これは悪い夢だろうか?
     それにしてはいやに……感覚が、意識が、はっきりとしている。

     痛みも、変に現実的だ。

     けれど、ここは、どこなのだろう?

     よく見れば、わたしは奇妙な服を着せられている。
     真っ黒な、ドレスのような衣装。

     水滴の音が響いている。

     わたしは、どうしていたんだっけ?
     
     何も、思い出せない。
     
     そこに、向こうの方にずっと続く暗闇。 
     差し出されるような蝋燭。

     体が重くて、うまく頭が働かない。


    695 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:35:59.78 ID:wgHUnuE7o

     どれくらい、じっと座ったまま、痛みが引くのを待っていただろう?
     水滴の音と、蝋燭の灯りだけが、わたしの意識を保たせていた。

     やがて、暗闇の向こう側から、カツカツと足音が聞こえ始める。

     そして彼女が現れた。

     真っ黒な服を着て、どこか青ざめた顔をして、ざくろが現れた。

    「具合はどう?」と彼女は訊ねてくる。わたしはうまく返事ができなかった。

    「混乱してるみたいね」

     口がうまく開かなかった。
     何を言えばいいのかも、わからない。

    「ねえ、すみれ、わたしが分かる?」

    「……」

    「わたしのことが、分かる? ねえ、すみれ……」

     朦朧とした意識は、目の前で起きていることをたしかに認識しているけれど、
     それをうまく消化できずにいる。

    「わからないかもしれないね。……だって、一度、逃げ出したものね」

     わたしは、何も返事ができない。

    「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」

     彼女は、ただ冷たい目で、わたしを見ている。

    「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」



    696 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/24(木) 23:36:27.83 ID:wgHUnuE7o

     分かっていたでしょう、とざくろは言う。

    「あなたは、わたしからも、お父さんからも逃げたのよ。そして自分だけ、へらへら楽のできる場所に逃げようとしたの。
     だから、わたし、お父さんに殺されて、こんな姿になって――お父さんのことも、殺しちゃった」

    「……どういう」

     そこでわたしは、ようやく声を発することができた。
     自分でも驚くくらい、かすかな声だった。水滴の音にかき消されそうなほど。

    「どういう、意味……」

    「そのままの意味よ」と、ざくろは言う。

    「ねえすみれ。わたしが嫌い? わたしが悪かった? 鬱陶しかった?
     すみれ。すみれ。どうしてあなたがすみれなの? どうしてわたしがざくろなの?
     どうしてあなたがざくろじゃなかったの?」

     どうしてあなたじゃなかったの?

     彼女はそう言った。

     彼女の右手に握られている、鈍く輝くひとつの刃物に、わたしはそのときようやく気付いた。

    「ね、分かる? すみれ」

     鋏だ。

    「分からないわよね。あなたは、すみれだものね……」

     ざくろは、振りかぶる。
     わたしは、身じろぎもできない。ただ、それを見上げているだけだ。

     それは、ゆっくりと、ゆっくりと、わたしの目前へと迫ってくる。
     それはきっと、本当なら、一瞬の出来事だったのに。

     わたしはそれを、ただ――見ていた。


    699 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:17:54.95 ID:g7lGRQwso

    ◆[Lima] A/b


     ケイくんが、碓氷遼一を刺した人間を追いかけた。
     わたしは、取り残されたひとりの少女と一緒に、ただ横たえたままの碓氷遼一を見ていた。

     公園には電話ボックスがあった。救急車を呼ぶことは簡単だった。

     数分後、救急車がやってくると、少女と碓氷遼一は一緒に運ばれていった。

     話を聞きたいからここにいてくれと言われたけれど、わたしは隙をついてその場から逃げ出した。

     警察を呼ぶのは忘れていた。怖かったから、わざと忘れたつもりになっていたのかもしれない。

     わたしの足は勝手に動いていた。途中で何度も転びそうになった。
     電柱やブロック塀に何度もからだをぶつけそうになるくらいふらふらだった。
     意識していないと縁石をはみ出して車道の中心にまで放り出されそうだった。

     誰もわたしの手を引いてくれたりはしない。
     お兄ちゃんはいない。

     わたしにはもう誰もいない。

     ぐるぐると似たようなことばかりが思い出される。

     お兄ちゃんが死んだあの夜のことを思い出した。

     わたしは彼の死を翌朝まで知らずにいた。
     ぐっすりと眠って、当たり前に夢を見ていた。

     いつものように置き去りにされる夢だった。

     目を覚ましたらお兄ちゃんはいなかった。
     

    700 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:18:29.30 ID:g7lGRQwso

     まひるの部屋に向かったのは、単に他に行き場がなかったからだと思う。
     
     この世界にわたしの居場所があるとしたら、きっとそこ以外にはない。

     まひるは既に帰ってきていて、わたしに何かを言ったけれど、ろくに返事もできなかった。

     彼女はわたしのために冷たい飲み物を用意してくれた。

     それって素敵なことじゃない? ねえ、どう思う?

     わたしはフローリングの床に座り込んでぐるぐると混乱したまま膝を抱えた。
    (――からたちの枝を思い出す)

     ぐるぐるぐるぐるといろんなことを思い出して、いろんなことを考えたつもりになる。
     本当は何も考えちゃいない。ただ浮かびあがる連想を止められずにいるだけだ。

     お兄ちゃんは死んでしまったんだとわたしはもう一度思う。

     ――愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ。一緒にいるから大丈夫だよ。

     嘘つき。

     嘘つき。

     嘘つき。

     死んだくせに。
     本当はわたしのことなんて、居ないほうがよかったって思っていたんでしょう?
     

    701 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:19:20.21 ID:g7lGRQwso

     わたしなんて居ないほうが幸せだったんでしょう?
     だから、穂海と手を繋いで、あんなに幸せそうに笑えたんでしょう?

     本当は、お兄ちゃんは、お母さんと仲直りしたかったんだって、わたし知ってたよ。
     お母さんのことが大好きだったって知ってたよ。
     
     お兄ちゃんは、お母さんのことを、そんなに責めていなかったんでしょう?

     穂海のことを、愛してもいたでしょう?

     穂海の父親のことも、許していたでしょう?

     だってわたしは聞いたもの。

     お兄ちゃんは、お祖母ちゃんと話していたもの。

    「理屈では引き取るべきだと分かっていても、他の男の子供と一緒に暮らして、その子の世話をして、お金を払わなきゃいけないと思えば、
     それが、仲がいいならともかく、あまり懐かない子なら、感情で拒否してしまうこともあるだろう」って。

    「僕が彼の立場でも、ひょっとしたら、受け入れることはできないかもしれない」って。

    「姉さんだって、愛奈が憎いわけじゃないだろう。でも、今の旦那は、自分の娘と他の男の娘とじゃ、やっぱり気持ちが違うと思う。
     そう考えると、旦那を説得してまでそうするべきなのか、とか、いろいろ考えちゃうんじゃないか?」

     お兄ちゃん。お兄ちゃん。わたしそれでもよかった。
     だって言ってくれた。

    「代わりにはならないかもしれないけど――」

     お兄ちゃんは言ってた。

    「――いざというときは、僕があの子の傍にいるよ」

     そう言ってた。
     言ってたのに。


    702 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:19:46.06 ID:g7lGRQwso

     だからわたしは、お兄ちゃんさえいればよかった。
     お兄ちゃんが一緒にいてくれるならそれでよかった。

     でも、お兄ちゃんは違ったの?
     
     やっぱりわたしは厄介者でしかなかったの?

     わたしは重荷だった?

     お兄ちゃんも、わたしなんかいない方がよかった?

     お母さんもわたしのせいで苦しかったの?

     お祖母ちゃんもわたしのせいでつらかったの?

     わたしが家族を台無しにしたの?

     わたしなんか生まれて来ない方がよかったの?

     こんなこと考えたら、きっと余計に心配させるから、余計に不安にさせるから、余計に世話をかけるから。
     だからわたし、ずっと我慢してきた。

     怖くてもつらくても、泣かないようにした。


    703 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:20:37.61 ID:g7lGRQwso

     勉強だってがんばったよ。
     みんなと仲良くしようとしたよ。

     目の前のことに集中して、いろんなことを経験して、
     それでいつか、お兄ちゃんやお祖母ちゃんを心配させないくらいに立派になって、
     それでお母さんにいつか会いにいって、
     気にしてないよって、
     穂海にだって、変なわだかまりなんて全部なげうって、
     好きだよって、愛してるって、あなたはわたしの妹なんだって、
     いつか、そう認められるって思ってた。

     そうしていつか、お兄ちゃんが幸せになれたら、その幸せの手伝いをしたいって、
     わたしもその幸せの一部になりたいって、
     そう考えてたわたしは、やっぱりとんでもないばかだったのかな。

     血溜まりの中で横たえる彼のあの姿が、
     膝をついて泣いていた穂海の姿が、
     わたしの中でお兄ちゃんの姿と重なって、
     その場にいられなかったわたしの存在がどこまでも恨めしくて、
     頭の中の情景をかき消すことができない。


    704 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:21:21.90 ID:g7lGRQwso

    「愛奈ちゃん……?」

     まひるの声が聴こえる。聴こえている。それは分かる。

    「ケイくんは、どうしたの?」

     わたしの体が、勝手にピクリと跳ねたのを感じる。
     
     声を出そうとして、口を開く。喉が絡まって、うまく声にできない。
     やっと出てきたのは、かすれたような、不細工な音。

     そのときまで、わたしはケイくんのことを思い出しすらしなかった。
     そんな自分を、心底おそろしいと思った。

    「ケイくんは……」

     ケイくんは。
     ひとりで、あのときの誰かを、追いかけた。

     刃物、を、持っているはずの相手を、ひとりで。

     ケイくんは、たぶん、丸腰で、
     もし追いついたとしたら、そのとき……ケイくんは、無事で済むのだろうか。

    「ケイ、くん……」

     わたしは、どうしてあのとき、ケイくんを止めなかったの?

     そう思ったら、居ても立ってもいられない気持ちになるのに、
     もう、立ち上がる気力さえない。

     言い訳のしようもない。

     携帯はどっちにしても使い物にならない。
     ケイくんには、連絡できない。


    705 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:21:52.97 ID:g7lGRQwso

    「ケイくん、が……」

     声がかすれて、うまくしゃべれない。

    「ケイくんが、死んじゃったら」

     そのことばを、それでも口にした瞬間、
     
    「どうしよう、わたしは……」

     背筋に、寒気のような感覚が走った。

    「ごめんなさい……」

     誰に、何を、謝っているのか、それが、自分でも分からない。
     こらえようとしていたのに、視界が潤むのを止められない。

     膝に額を押し付けて、わたしは涙を抑えることを諦めた。

    「わたしのせいだ……」

    「愛奈ちゃん」

    「わたしが連れてきたせいだ……」

    「愛奈ちゃん」

    「わたしは……」

    「愛奈ちゃん」


    706 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:22:30.83 ID:g7lGRQwso

     不意に、無理やり、わたしの顔が引き上げられた。

     まひるが、目の前まで来て、わたしの両方の頬を手のひらで挟んで持ち上げたのだ。

     ケイくん、ケイくん、ケイくん。

     言葉が意味を失って、ただの音みたいになる。
     空気の振動も伴わないくせに、ずっと頭の中で鳴っている。

     それをせき止めるみたいに、

    「てい」

     額に軽い痛みが飛んできた。

     ……。

    「……痛い」

    「でこぴんしたからね」

    「ひどい」

    「ひどくないよ。愛奈ちゃんの方がひどいよ。さっきからわたしのことずっと無視だもん。
     ちょっと落ち着いて。いま、相当トンでたよ」

     まひるは、わたしの目の前に座って、安心させようとするみたいに微笑をたたえて小首を傾げた。

     わたしは、また泣きたくなった。

    「お兄、ちゃんが」

    「うん」

    「わたし、お兄ちゃんのこと、追いかけて、お兄ちゃん、が、刺されて、誰かに。
     ケイくんが、救急車、呼べって、言って、いなくなった。刺した人、追いかけて」

    「……刺された? 碓氷が?」

    「わたし、ケイくんが……」


    707 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/08/26(土) 01:23:31.67 ID:g7lGRQwso


     ――ああ、わたしは、なんて、嫌な人間なんだろう。

    「ケイくんに、なにかあったら、どうしよう、って」

     まひるは、戸惑った表情のまま、それでもわざと明るく振る舞うみたいに、笑った。

    「ケイくん、警察に任せればよかったのに。そういうとこ、男の子なのかな。
     大丈夫だよ。ケイくん、器用そうだし、危なかったら逃げると思う。そのうちここに来るよ」

    「……ちがうの」

    「……なにが?」

    「わたし、ほんとは、ケイくんのこと、心配してなかった」

    「……」

    「わたし、ケイくんが死んだら、わたしのせいだって、ケイくんが怪我したら、わたしのせいだって、
     最初にそればっかり、考えてた」

    「……」

    「ケイくんのこと、心配してたんじゃない。わたし、のせいなら、ケイくん、きっとわたしを恨むって。
     わたしのこと、嫌いになるって、まっさきに、そんなこと考えてた」

    「……」

    「どうしてわたし、こうなの……? 今だって、どうしてこんなことしか考えられないの?
     どうして、ケイくんのこと、心配してないの? わたし、ケイくんがいなくなったら、わたしはどうなるんだろうって、
     わたしが、またひとりぼっちだって、そればっかりだ……」

     わたしは――

    「こんなところに、ケイくんを連れてきたから……わたしが、わたしが刺されれば、どうしてわたし、
     ケイくんを止めなかったの? 危ない目に遭うなら、わたしが行けばよかった。
     ケイくん、わたし、が……わたしが。わたしは……」

     ――自分のことばかり、考えている。
     

    710 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:19:11.49 ID:kcvJASswo



     わたしはいつのまにか眠ってしまっていたらしかった。

     そう気付いたのは夢の中にいることに気付いたからだったけれど、
     それが夢だと気付いた瞬間、目の前に広がっていた光景は全部綺麗に消え失せてしまった。

     何もないところにいる、のではない。

     ただ目の前に広がるすべての事物が名前を失って、
     それがいったいわたしにとってどういう存在なのか、
     はっきりとはわからなくなってしまったような、
     そんな不自然な景色だった。

     そこには温かみも冷たさもなく、虚ろというのでも満ちているというのでもなく、
     ただ茫漠とした"何か"が曖昧に広がっているだけだった。

     時間、あるいは、世界、未来、それとも可能性……。
     わたしはその"何か"に名前をつけようとしたけれど、
     結局うまくはいかず、ただ"何か"としか呼ぶことができなかった。


    711 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:19:40.11 ID:kcvJASswo

     意味。
     言葉。

     色。
     景色。
     
     音。
     声。

     ――ある状況が何を意味しているか、なんて人間に分かるわけないじゃない?
     ――わたしがこの街に生まれたことは? あの両親のもとに生まれたことにどんな意味があるのか?
     ――わたしがわたしとして生まれたことにどんな意味が? そんなの説明できないよ。

     声。
     音。
     
     意味。
     言葉。

     わたしの目の前に広がる景色。
     わたしの身に起きた出来事。

     お兄ちゃんは、どうして死んでしまったんだろう?
     わたしは、その答えを、どうしてだろう、この世界でつかめるような気がしていた。

     でも、本当は、そんなことにも、理由も意味はないのかもしれない。

     今目の前に広がっている、塗り絵の元絵のような、縁取りだけの空白の世界のように。

     音に、色に、意味を求めることは、無駄な期待なのだろうか?
     わたしたちはそこに、意味を望んで、意味を求めてはいけないのだろうか?
     それは、徒労に過ぎないのだろうか。

     結局、わたしは何を得ることもできず、ただ誰かを傷つけてばかりだ。


    712 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:20:49.20 ID:kcvJASswo

     わたしはいいかげん、目の前の景色に飽きてきた。
     夢から醒めないとな、と、夢の中で思う。

     意味のない空白の景色。
     ここにいたって、きっと得るものはない。

     ケイくんは、無事だろうか。今考えるべきなのは、きっとそれだけだ。

     ケイくんが無事に戻ってきたら、わたしたちはもう、元の世界に帰ろう。
     わたしが妙な考えを起こさなければ、きっとケイくんだって危ない目に遭わずに済んだんだから。

     こんな場所にいたって、きっと、意味なんて、なにも見つけられない。

     だから、もう、諦めないと。
     どれだけ探したって、お兄ちゃんが死んだ理由なんて、きっとわからない。
     お兄ちゃんがお金を遺した理由だって、わからない。

     お兄ちゃんは、もう、死んじゃったんだから。
     
     だからいいかげん、諦めて、わたしは……現実に帰らなきゃいけないんだ。

     お兄ちゃんのことを、忘れて。


    713 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:21:22.56 ID:kcvJASswo




     ――起きたことには、必ず意味があるはずだ。

     

    714 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:22:08.78 ID:kcvJASswo



     わたしが目を覚ましたとき、部屋の中には誰もいなかった。
     まひるもケイくんも、誰も。ここにいるのはわたしだけだ。

     わたしは財布だけを手にしてそっと部屋を出ると、歩いてすぐのところにあるコンビニに向かった。
     そこで見覚えのある煙草とライターを買ってみた。

     年齢確認はされなかった。まだそんな時代じゃなかった。

     軒先の灰皿の隣に立って、わたしはぼんやりと空を眺めた。
     いつのまにか雨が降り出していた。

     小さな小さな、浮かぶような白い粒が、夜の空から降り注いでいた。

     わたしは、静かに煙草をくわえて、火をつけた。
     
     流れ込んでくる煙の苦さ、紙の焼ける匂いに、思わず顔をしかめる。
     それにも、じき慣れた。

     深く吸い込もうとして咳込む。


    715 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:22:38.00 ID:kcvJASswo

     思わずかがみ込んでしまった。
     煙が目に沁みて、視界が潤む。

     そうしていつかはこんな痛みだってマシになっていく。
     楽になって忘れていく。

     だったらわたしは消えてしまいたい。

     膝をかかえたまま、煙草を唇に挟んで、静かに雨粒が落ちるのを眺めている。
     
     ケイくん。まひる。

     お兄ちゃん。
     お母さん。
     お祖母ちゃん。
     
     ……お父さん。

     

    716 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:24:32.31 ID:kcvJASswo



    「……何してるんだよ、こんなところで」

     わたしは返事をしなかった。

    「煙草なんてやめとけよ」

     わたしは返事をしない。

    「愛奈」

     顔をあげない。

     泣いていたから。

    「……なんで」

     やっとのことで、わたしは声を上げた。

    「ケイくんは、吸ってるくせに、わたしはだめなの」

    「それは……なんでか、分からないけど。でも、よくない」

    「じゃあ、ケイくんもやめてよ」

    「……考えてみる」

     わたしは顔をあげて立ち上がり、灰皿に煙草を投げ捨てた。水の中に落ちて、煙草は小さく音を立てる。


    717 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:26:12.36 ID:kcvJASswo

    「……ごめんなさい」

     ケイくんは、いつものように呆れた溜め息をついた。

    「どうして一言目が"ごめんなさい"なんだよ。"大丈夫だった?"とかだろ、普通。謝る理由がどこにあるんだ?」

    「だって……」

    「言ったろ」とケイくんはわたしの言葉を遮った。ほとんど奪い取るみたいに、わたしの手から煙草の箱とライターを掠め取る。

     そうして彼も煙草をくわえて火をつけた。

    「セロトニンの不足だよ」

     煙が静かに立ち上って、雨の粒をほんのすこしだけ隠した。
     いくらか躊躇うような素振りを見せてから、ケイくんは結局、言葉を吐き出す。

    「首尾はどうだった、って、訊かないのか?」

    「首尾?」

    「犯人、追いかけただろ、俺」

    「……どうだったの?」

     ケイくんは、黙り込んだ。
     わたしは、彼が無事に戻ってきたら言おうと思っていたたくさんの言葉を、なにひとつ口に出せないままだった。


    718 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:26:58.91 ID:kcvJASswo

    「……ケイくん」

    「ん」

    「ケイくん」

    「なんだよ」

    「ケイくん……」

    「だから、なんだよ」

     本当に言いたいことは、どうしていつも言えないんだろう。
     それを求めたら、きっと、拒まれるから?
     それとも、拒まれないかもしれないと思っていても、それでも拒まれることが怖いから?

    「ケイくん……帰ろう?」

    「……」

    「わたし、もう、やだ」

    「……なあ、愛奈――」

     そうして彼は、いつのまにか呼ぶようになった、わたしの下の名前を、当たり前のように呼んで、
     わたしにほんの少しだけ寄り添ってくれる。


    719 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/02(土) 01:27:49.87 ID:kcvJASswo

    「俺は……」

     何かを言いかけて、でも彼はそこで話すのをやめてしまった。

     何を見つけたというわけでも、何に気付いたというわけでもなく、
     ただ、続けるべき言葉が彼の中で形にならずにうごめいているみたいに、わたしには見えた。

     わたしは彼の手のひらから煙草の箱を奪い取った。

     そうして、もう一本を取り出して、唇にくわえる。

     そのまま、彼の煙草の先の火に、わたしのくわえた煙草の先を触れさせた。

     息を吸い込むと、火が移った。

     そうしたらもう、彼は何かを言う気も失ったみたいだった。

     わたしが煙草を吸うことについてさえ。

     そうしてわたしたちは、並んで煙草をくわえたまま、静かに手を繋いだ。
     
     雨が降るのを眺めていた。


    722 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:25:18.53 ID:NPrJqGUeo

    ∴[Dorian Gray]K/b


     理由があったわけじゃない。
     きっかけがあったわけでもない。

     それでも、嘘でも誇張でもない。

     自分が、自分を取り巻く景色が、
     何が足りないわけでもなく、何が欠けているわけでもなく、
     それなのに、
     俺は、ただ、憂鬱でしかたなかった。

     なんとなく。
     わけもなく。

     嫌いというのとは違う。憎いと言っても、もちろん違う。
     楽しめないわけでもないし、何もかもに価値がないと悲観しているわけでもない。

     ただ、なんとなく、どこか遠いような、何か隔たりがあるような、そんな奇妙な感覚。

     起きながら眠っているような、夢を見ながら醒めているような、あるいはそれは、たとえるならば、
     一枚の皮膜。

     その一枚の皮膜が、俺の視界をときどき覆う。


    723 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:25:52.05 ID:NPrJqGUeo

     夕方のニュースが、救急車のサイレンが、月曜の朝の曇り空が、真夜中に観た映画が、
     誰かと過ごした思い出が、いつか読んだ本の些細な台詞が、地下鉄の吊り広告が、
     ダムの傍にある「いのちの電話」の看板が、コンビニの有線で流れるポップソングが、
     全部が鋭い刃物みたいに、やけに刺さって仕方なかった。

     棘みたいに抜けなくて仕方なかった。

     その棘が、いつのまにか俺の中で少女のイメージをとった。
     どこかで見たというわけではない、現実に見たというわけでもない。

     ドラマや映画や小説や漫画や、そんなありとあらゆるもののなかの、
     その『傾向』と『性質』を備えたものを寄せ集めて作り上げられたような、
     ひとりの、泣いている女の子。

     きっと、誰の中にもいる、俺の中にもいる、ひとりの少女。

     彼女の視線を、俺はふとした瞬間に感じる。

     振り返っても、その姿はない。ただのイメージなのだから、当たり前だ。

     でも、彼女はいる。

     夕方のニュースや、動物の死体や、あるいはもっと日常的な風景の一部として。
     空気に混じった塵のように、いろんなものに形を変えて、その少女は世界に存在し続けている。

     

    724 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:26:18.09 ID:NPrJqGUeo



     屋上の合鍵は、そもそもは俺の持ち物ではなかった。

     去年生徒会長をしていた先輩が、職員室に出入りできるのを良いことに、屋上の鍵を持ち出して合鍵を作った。
     そうして鍵を作った彼女は、その鍵を一回千円でカップル相手に貸すことで金を儲けていた。

     それに満足すると、彼女はそれを俺によこした。
     
     俺は選ばれたわけではなく、彼女がその気になったときに、たまたま彼女の近くを通りかかっただけにすぎない。

    「内緒だよ。これがバレたら、大変なことになるから」

     誰にも言わない、って、約束してくれたら、あげるよ。

     そうして俺は、開かないはずの扉を開ける鍵を手に入れた。

     偶然。

     すべて、偶然なのだと思う。
     初期値鋭敏性。

     俺はたまたま、屋上に至る扉を開ける鍵を手に入れた。

     授業をサボって昼寝をする癖がついた。

     そして、ふとした瞬間、碓氷愛奈が俺の領域にひょっこりと顔を見せた。


    725 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:27:04.09 ID:NPrJqGUeo



     自分でノブをひねって扉を開けたくせに、彼女は扉が開いたことが不思議でしかたないような顔をしていた。

     そうして俺が煙草をふかしているのを見て、なんだか変な顔をした。

     まるで俺を見た瞬間に、何か別のものを見つけたみたいな顔だ。

     俺もまた、彼女を見た瞬間、何かを思い出しそうになった。
     
     その目が、表象の少女に似ていた。

     碓氷愛奈は、普通に笑い、普通に喋り、普通に過ごす、普通に振る舞う、けれどどこか寂しそうな女の子だった。
     でも、寂しそうな女の子なんてどこにでもいる。抱えこんだ寂しさなんてありふれている。

     だから、たぶん、そこじゃない。

     俺が碓氷愛奈を特別に思ったのは、それが理由じゃない。
     それは理由のひとつだったかもしれないけど、すべてじゃない。

     俺はその答えを知っている。

     時間だ。


    726 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:27:38.40 ID:NPrJqGUeo



     誰にも告げ口をしない、という条件で、屋上の共有を持ちかけてきた碓氷愛奈は、
     少しすると当たり前のような顔で俺の時間に割り込んでくるようになった。

     自分でも意外なことに、俺はそれを不愉快とは思わなかった。
     ただ、自分が不愉快に思っていないという事実に、少しだけ苛立った。

     まるで誰かにかまってほしかったみたいじゃないか。
     ひょっとしたら、それは事実かもしれないけれど。

     そんな俺たちは、べつに他人同士の関係から進もうとも思わなかった。

     彼女はべつに俺と友達になりたかったわけではなく、俺の方もそうだった。

     だから平気だったのかもしれない。
     彼女が近くに居ても、鬱陶しくなかったのかもしれない。

     要するに、彼女は俺に興味を持っていなかったし、興味がないのに興味があるふりをしたりもしなかった。

     ただの暇つぶしのように、俺たちは話をしていた。
     今にして思えば、罠だった。

     あらゆるものは、最初から特別なわけじゃない。
     時が経つにすれ、その重大性が増していく。

     ふと見た花よりも、育てた花が愛しいように、
     見ず知らずの猫の死よりも、飼い猫の死が悲しいように、
     暇つぶしでやっていたことが、いつのまにか自分から切り離せない性質になるように、
     反復した感情が、そのとき以上のものに膨らんでいくように、
     時間がすべてを変える。

     碓氷愛奈は、俺にとって、他の誰かとなんら変わるところのない、いてもいなくてもいいような存在だった。
     そして、何かの転機があったわけでもなく、理由やきっかけがあったわけでもなく、俺たちはただなんとなく過ごし続けた。
     
     だから、俺は気付きすらしなかった。

     碓氷愛奈のことなんてなんとも思っていないと、俺はそう思い続けてきた。


    727 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:28:19.68 ID:NPrJqGUeo



    「名前、なんていうの?」

     彼女がそう問いかけてきたとき、俺も彼女の名前を知らなかった。
     べつに知ろうとも思わなかった。それは、そんなに重要なことではないように思えた。

     何組なのかとか、部活はどこで委員会は何だとか、得意や苦手がなんだとか、期末テストの順位とか、そんなことはどうでもいいことに思えた。
     
     話をされたら聞いたかもしれないし、覚えたかもしれない。
     でも、実際、そのときまで、名前のことが話題になることはなかった。

     俺は彼女の質問に答えなかった。

    「ねえ」

     俺が彼女の質問を無視するのは、よくあることだった。そのたびに彼女は、俺の肩を揺すった。
     どうでもいいことでも。どうでもいいことなら特に、彼女はそうした。それ自体が目的みたいに。

     俺はやっぱり、そうされるのが不思議と不愉快ではなかった。

     この理由は説明できると思う。

     他の人間の言葉は、俺に裏側の痛みを感じさせることが多く、彼女の言葉はそうではなかった。

     彼女の棘は外ではなく内に向いていた。だから、俺には刺さらなかった。
     そういうことなのだと思う。

     だから、俺は彼女が不愉快ではなかったのだと思う。
     もちろん、こんなのは全部、後付の理屈でしかないのかもしれないが。


    728 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:29:21.99 ID:NPrJqGUeo


    「ねえ、名前……」

     本当は名前なんてどうでもよかったんだけど、俺は教えなかった。
     どうでもいい質問をされるたびに、俺は答えない。彼女は不満そうにする。

     俺はそれを楽しんでいた。いつのまにか。

    「当ててみたら」

     と俺は言った。
     彼女は少し考えた素振りを見せてから、

    「佐々木小次郎」

     と真顔で言った。俺は笑わなかった。

    「ハズレ?」

    「当たると思ったのか」

    「じゃあ宮本武蔵?」

    「……」

    「今度から武蔵くんって呼ぶね」

    「……慶介」

    「ん?」

    「佐野慶介」

    「慶介……」

     くだらないノリに気恥ずかしくなって、思わず明かした俺の名前を、彼女は響きをたしかめるみたいに繰り返した。

    「わたし、碓氷愛奈」

    「へえ、そう」


    729 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:30:10.89 ID:NPrJqGUeo

    「慶介、くん。慶介くん。ふうん」

    「なんだよ」

    「なんでもない。ふうん。慶介くん、ね」

    「俺がつけたわけじゃない」

     と思わず俺は言い訳した。

    「親がつけたんだ」

    「べつに文句なんて言ってないでしょ?」

    「何か言いたげだったろ」

    「べつに、普通の名前だと思うけど」

    「……そうかよ」

    「ケイ、くん、かな」

    「なにが」

    「呼び方」

    「なんで」

    「だって、なんか、慶介くんって、そぐわない」

    「……文句じゃないのか、それは」

    「そうじゃなくて、その呼び方が、この場にね」

    「……何が言いたいのか、わからないんだけど」

    「符牒があったほうが楽しい」

    「そうかい。よろしく、あーちゃん」

    「それ、わたしはべつにいいけど、ケイくんは平気なの?」

     俺の方が平気じゃなかったから、その呼び方は二度と使っていない。
     俺は碓氷愛奈には負けっぱなしだった。


    730 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:30:55.87 ID:NPrJqGUeo



     碓氷愛奈。
     特別な存在じゃない。
     みんなのうちのひとりだ。

     ささやかな存在だ。

     たとえば、ある日突然彼女が死んでも、世界は傷一つ負わないだろう。
     周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまうだろう。

     あまりにもちっぽけで、些細で、軽微な存在。

     彼女の寂しさも、悲しみも、きっと世界にとってはよくあるもので、
     取り沙汰するにも値しない、とてもささやかなもので、
     彼女のそれよりも重大な問題が、きっとそこらじゅうに転がっている。

     でも、俺の隣にいたのは彼女だった。


    731 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/11(月) 00:31:35.80 ID:NPrJqGUeo




     
     倒れた碓氷遼一と、
     泣きじゃくる女の子と、
     走り去っていく誰か。
     
     そのとき、呆然と立ち尽くしていた碓氷愛奈は、
     その場で一番気にかける必要のない存在だった。

     それなのに俺は、彼女のその表情を見て、
     どうしても、なんとかしなければと思った。

     この悪趣味な出来事の連続の、その始末をつけなければいけないと思った。

     傍にいた方がよかったのかもしれない。
     別の方法なら、もっとうまくいったかもしれない。

     でも、俺は腹を立てていた。

     いったいこの世界は、この子にどれだけ悪趣味な景色を見せ続けるんだ、と。
     どんな理由があって、どんな必要があって、この子を傷つけているんだ、と。

     だから俺は追いかけた。

     正解だったのか、間違いだったのかは分からない。

     知りたかったことを知れた、とは思う。
     でも、知りたくなかった、とも思う。

     それは後悔しても仕方ないことだ。

     一度、開けてしまった扉。くぐり抜けてしまった扉。それはもう、閉じてしまっている。
     やっぱりあっちの扉に進めばよかった、なんて理屈は通じない。

     やり直しはきかない。

     とにかく俺は追いかけて――碓氷遼一に出会った。

     

    734 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:35:02.46 ID:HJEIAEvso




     進む道はどこまでも古びていた。
     
     古臭い家の並ぶ通り、夕焼けの下で景色は馬鹿みたいに幻想的だった。

     俺は、彼の姿をあっさりと見失っていた。
     曲がり角を曲がったときにはもう、背中も見つけられなくなっていた。

     でも、結局、その人を見つけるのは簡単だった。

     通りには路地がいくつもあった。一本道だったわけでもない。
     身を隠そうとするなら、それは簡単だったろう。

     あるいは、俺は見失ってしまったのだから、言い逃れでもされればそこまでだったかもしれない。

     けれど、俺には彼がそうだと分かった。

     きっと、俺だから彼がそうだと分かった。


    735 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:35:28.87 ID:HJEIAEvso

     街を切り分けるような河川の上に伸びる橋。
     その歩道の欄干の上で両腕を組んで、彼は水面を見下ろしていた。

     あたりはもう暗くなりはじめていて、互いの顔すら影がさしてはっきりそれとは分からない。

     それでも、俺ははっきりとそれが誰だか分かったし、そのことに気付いた瞬間、多少混乱した。

     なにせ、さっき倒れていた人間と同じ顔をしているのだ。
     細部は違うかもしれない。けれど、それは明らかに碓氷遼一だった。

     悪い夢でも見ているのかと思った。

     立ち止まったままの彼に近付いて、俺はその横顔を確かめる。
     
     ここ数日で、何度か見ただけの顔。知らないはずの顔。
     それがもう、俺にとってはその他大勢とは違う意味を持っている。
     
     何も言わずに、俺は隣に並んだ。


    736 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:35:55.39 ID:HJEIAEvso

     そうして気付く。

     背丈はほとんど同じくらいだ。
     顔立ちも、お互い、同年代なんだと思えるくらい。

     服装だって、髪型だってそうだ。今の俺と、何も変わるところがない。

    「……訊いてもいいかな」

     俺は、そう声をかけてみた。
     どう思うのだろう。彼には俺が、どう見えているのだろう。

     同年代の普通の学生だと、思われているんだろうか。

     まさか、未来から来たとは思いもよらないだろう。

    「――あんた、なんて名前?」

     彼はちらりとこちらを見た。まるで興味がなさそうな顔だ。
     ――ふと、彼の呼吸が浅いことに気付く。

    「名前……」

     何か感じ入るところがあったかのように、彼は繰り返した。

    「名前……そうだね。誰なんだろう、僕は」

    「何言ってんだ?」

    「ときどき、僕は思うんだ。僕はひょっとしたら、僕が僕自身だと思っている当の人物ではないのかもしれないって。
     僕は僕を僕だと思い込んでいるだけの別人なんじゃないかって。僕は、本当は、碓氷遼一じゃないんじゃないかって」

    「心配するなよ」と俺は言った。

    「あんたはたぶん碓氷遼一で合ってるよ。そんなことを疑い始めたらキリがない」

    「きみは僕を知らないと思うけど、そう言ってもらえると安心できるよ。ありがとう」

     回りくどい言い回しをする奴だ。俺はいくらか面倒になったが、一応は年上相手だ。言わずに置いた。


    737 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:36:25.84 ID:HJEIAEvso

    「少し訊きたいことがあるんだけど、いいかな」

    「どうぞ」と彼は言った。俺は頷いて頭の中で言葉を整理した。

    「さっきあっちで、碓氷遼一が刺されてるのを見た」

    「――」

    「一瞬、混乱したよ。どうして二人いるのかって。でもすぐに分かった。
     あんた……『あっち』の碓氷遼一だな?」

     彼は、そこでようやく、能面のようだった無表情に、ほんの少し驚きの色見を加えた。

    「『あっち』、って?」

    「あんたも、ざくろに会ったんだろ?」

     彼は黙り込んだままだった。沈黙が、肯定のようなものだ。

    「ざくろが言ってた。ここは使い回しの世界だって。『碓氷遼一がわたしのお客さん』だって、あいつは言ってた。
     考えてみればそうだ。『あっち』のあんたは、こっちに来たことがあるんだ。あいつは、帰ったとまでは言ってなかった」

    「きみは?」

    「俺の話はあとでするよ。たぶん、話が前後するから」

    「そう」

    「――なんだかつらそうだな」

    「気にしないでくれ」

    「……そうか」

     気にするなというなら、気にすることはないだろう。それにたぶん、彼の様子も、俺の質問と無関係ではない。


    738 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:36:58.34 ID:HJEIAEvso

    「俺が訊きたいのは、どっちにしてもひとつだ。――あっちで碓氷遼一が刺されていたことと、あんたは、関係があるのか?」

    「……」

    「単純な質問のはずだ」

    「……そうだね」

    「それは、どっちだ?」

    「……僕が刺した」

     何かを諦めたみたいに、彼はポケットから小さな刃物を取り出した。

     血が、ついている。

    「ホームセンターで売ってた。アウトドア用品だね。
     こっちでも六月のあれはあったみたいだから、てっきり売ってもらえないかと思ったけど、運がよかったな」

     他人事みたいに、彼は言った。
     ほんの少しだけ、俺は身勝手な怒りを覚えていた。

    「なあ、そんなことはどうでもいいんだ。……どうして、そんなことをした?」

     いや、違う。本当に俺が訊きたいのは、そんなことじゃない。
     いつのまにか、俺だって知りたくなっていた。


    739 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:37:26.20 ID:HJEIAEvso


     その疑問をうまく言語化できないうちに、碓氷遼一は答えにもなっていない答えをよこした。

    「……どうして、なんだろうね」

     彼は、逃げもしない。
     べつに、捕まってもいいと思っているわけでもなさそうだ。
     ただ、何もかもがどうでもいいみたいに、投げやりになったみたいに、彼はただ、水面を見ていた。

    「よくわからない。よくわからないな……。よくわからない」

     俺は何も言えなかった。何を言えるだろう。俺は彼のことなんてなにひとつ知らないのだ。

    「わからないんだ。どうしてだろうね、どうしてだろう……」

     耳を塞ぎたくなる。彼は何度も同じ言葉を繰り返した。

     どうしてなんだ?
     どうしてこんなところにいるんだ?
     
     どうしてこんなことになったんだ?

     わからない。わからないな。


    740 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:37:58.41 ID:HJEIAEvso

    「きみもざくろに会ったのか?」

     やがて、さっきまでの話なんて忘れたみたいに、彼はそう訊ねてきた。
     まるで、本当に、刺したことなんて忘れたみたいに見えた。
     
     今話していたことを全部、忘れてしまったみたいに。そのくらい、彼の表情には、不思議な静寂があった。

    「きみはもう知ってるかな。どうなんだろう。ねえ、ざくろには、人の望みを叶える力なんてなかったんだ。
     この世界は、ただ、分かれてしまったふたつの世界で、ざくろにできるのは、それを繋いで、そこを行き来するだけだったんだって」

    「……」

    「だからね、全部、意味なんてなかったんだ。この世界の僕が小夜と一緒にいたことも、愛奈がいないことも、穂海が笑ってることも。
     全部、全部、誰が望んだわけでもない、ただ、そうなっただけのこと、らしいんだ」

    「……」

    「そんなのさ、そんなの、あんまりじゃないか?」

    「……」

    「ああ、ごめん。きみに言っても、わからないよな」

    「分かるよ」と俺は言った。彼は不思議そうに目を細めた。

    「俺は、愛奈とこっちに来たんだ」

     また、彼の表情にひびが入った。

    「2015年……七年後。俺と愛奈は、そこから来た。あんたを探しに来た」

    「……ああ、そうか。時間が大きくズレることもあるって、ざくろはそうも言ってたな。そういうことも、有り得るのか」

    「……」

    「僕を探しに、か。……じゃあ、七年後、僕は愛奈の傍にはいないってことかな」

    「……」

    「……探してもらうほどの人間じゃないのに」

    「そうみたいだな」

     彼はそこで、初めて笑った。


    741 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:38:44.76 ID:HJEIAEvso

    「どうして、刺したか、か……。うん。たぶん、だけど、認めたくなかったんだろうな。
     愛奈がいない方が、僕が幸せそうだなんて、そんなのさ、そんなの……」

     あんまりだ、と、彼はまた繰り返した。

     俺には、この人の考えてることなんて、かけらも分からない。
     でも、言いたいことはある。

    「だったら、幸せになればよかっただろ」

     彼は俺の目をまっすぐに見た。

    「愛奈がいた方が幸せだったって、こっちのあんたには愛奈がいなくて残念だったなって、笑えばよかっただろ。
     愛奈がいなくてかわいそうだって、そう思えるくらい、あんたが幸せになったらよかっただろ。
     そう思えなかったってことは……あんたが、ざくろの言葉に釣られてこっちにいるってことは、結局、違うんだろ。
     あんたは……心のどこかで、愛奈がいるせいで不幸だって、いない方が幸せだって、自分で認めてたんだろ」

     そうじゃない、と、言ってほしかった。口にした言葉が自分に刺さって仕方なかった。
     だって、そんなの……あんまりだ。

     愛奈が求めていた人。
     愛奈が一緒にいてほしかった人。

     その人が、そんなふうに思ってるなんて、心のどこかのひとかけらでさえ、そんなことを考えてるなんて、思いたくなかった。
     
     俺は否定してほしかった。

     そして、実際、彼は否定した。

    「それは、少し、違うと思うんだ」



    742 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:39:23.44 ID:HJEIAEvso

     何かを伝えようというよりは、自分の考えていることを整理しようとしているみたいに、彼は言葉を続けた。

    「愛奈のせいじゃない。それは分かる。それは結局のところ、僕の問題なんだ。
     でも、愛奈がいない世界では、僕はそんなことで悩んでいないみたいだ。だから、結局、それもバタフライエフェクトなんだろうね」

    「……初期値鋭敏性」

    「そう。どうしてだろうな。愛奈は大事だ。愛奈のために、がんばらなきゃ、って。あの子が何か困ったら、僕がなんとかしなきゃって。
     僕が、あの子の、親代わりとまではいかない、それでも、寄る辺になれたらって、そう思ってた。それが僕の責任だ。
     誰もやらないなら、僕がやらなきゃいけない。そのためなら、僕の人生なんてどうなってもいいって思った」

     そう言ってから、ほんのすこしだけ間を置いて、いや、違うな、と彼は自分の言葉を否定する。

    「違う。最初から僕は、自分の人生なんてどうなってもいいと思っていて……ただ、そこに愛奈という大義名分を当てはめただけなのかもしれない」

    「……」

    「わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。
     愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。
     そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
     だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった」


    743 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:40:06.58 ID:HJEIAEvso

    「……なんとなく、わかったような気がするよ」

    「……なにが?」

    「あんたは、背負い込みすぎたんだ」

     彼はからっぽな目をしていた。

    「……そう、なのかな」

    「あんたはもっと、愛奈を大事に思うのと同じくらい、自分のことも大事にしなきゃいけなかったんだ」

    「……」

     愛奈が、あんなふうになった理由が分かった気がした。
     あんなふうに自分を責めてばかりいる理由が。

     この人は、ずっとこんな顔をしていたんだ。

     愛奈の前で、幸せそうになんて笑ってなかったんだ。だから愛奈は不安だったんだ。
     ずっと、自分が周りを不幸にしてるって思い込んでいたんだ。

     この人は――愛奈のためにがんばって、愛奈のために、自分を擲って、そうすることで自分自身の人生から逃げて、
     そうすることで、愛奈を不安にさせていた。

     金を貯めて、遺して、それがこの人なりの、大事に仕方だったんだろう。他にやり方が思いつかなかったんだろう。

     だから愛奈は――この人といても、安心できないままだったんだ。

     自分がいてもいい存在なんだって、そう思うことができなかったんだ。

     ……それをこの人のせいだと、そう言って責める権利が、俺にあるだろうか?

     何も背負っていない俺が?
     この人はきっと、今、俺と同い年くらいで。
     俺はただ、倦んでいただけで、誰のためにも生きていなかった。


    744 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/14(木) 00:40:37.15 ID:HJEIAEvso

     理由はどうあれ、この人は愛奈のために生きて、死んだ。

     愛奈の生を支えようとして、それを一面的には成し遂げた。

     彼を取り巻く空虚が、こうして、別の世界で刃物になって誰かを悲しませようとしている。
     それを俺は、裁けるだろうか。身勝手だと、自分の問題で他人を傷つけるなと、憤る権利があるだろうか。

     法になら、あるかもしれない。
     でも、俺自身には、ないような気がした。

     それでも……どうして、どうしてもっと、上手くいかなかったんだ、と、そんな言葉を吐きたくもなるけれど、
     結局そんなのは、他のありふれた後悔と同じで、言っても仕方ない結果論なのかもしれない。

    「刺して、しまったな」

     長い沈黙の後、彼はそう、静かに呟いた。

    「……もう、戻れないな」

     その言葉に、不意に恐怖が湧き上がるのを感じる。
     やってしまったこと。そのせいで彼は、もう本当に、幸せになんてなれないかもしれない。
     
     彼が幸せになれなかったら、愛奈だってきっと、そうなのだろう。

     あるいは、本当の意味で、彼が未来で幸せになれなかったのは、
     この時点で、彼がこの世界の自分自身を刺してしまったからなのかもしれない。

     そう気付いた瞬間、たまらなくなった。

     自分には何も変えることができないんだと、そう言われたような気がして。

     何かを言わなければいけないと、そう思ったけれど、言葉なんてひとつも思いつかなかった。

     彼の瞳は、とても空虚な色をしていた。
     俺の言葉なんて、届きそうになかった。


    747 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:31:02.42 ID:OWT49ye5o



     本当は、俺は、腹を立てていたはずだった。

     愛奈を残して、死んでいってしまった人。
     碓氷遼一を刺し、愛奈を混乱させた人。
     
     その両方に腹を立てていて、その両方が目の前にいたのに、
     俺は彼になにひとつ言う気になれなかった。

     自分に彼を裁く権利があるなんてどうしても思えなかった。

     それなのに、結局俺は何も言えないままだった。

     何を言うべきだったのかも、わからない。

     碓氷遼一は、どこかに行ってしまった。


    748 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:31:42.61 ID:OWT49ye5o

     愛奈は救急車を呼べただろうか。
     こちらの世界の碓氷遼一は、無事なんだろうか。
     
     そんなことがとりとめもなく頭のなかで浮かんでは消えていったけれど、
     本当のところ俺はなにひとつ考えられなかったのかもしれない。

     誰が悪かったんだろう、と俺は考えてみた。

     どう答えたとしても、それは間違っているような気がした。

     どれかひとつでも違えば、誰も悲しまない世界はあり得たかもしれない。
     でも、もうそんな段階じゃない。

     ありとあらゆる間違いを正してしまえば、きっと世界の在り様は、今とはまったく違っていたのだろう。
     そうしていたら、この世界と同じように、愛奈は生まれていなかったかもしれない。

     俺だって、愛奈とは出会っていなかったかもしれない。

     いまこの瞬間に至るまでの道筋を否定しまえば、それは誰かの存在を否定することになるだろう。
     蝶のはばたきが誰かを消してしまうかもしれない。
     あるいは、蝶のはばたきが別の何かを生んでいたかもしれない。

     そんなことを考えて、どうなる?


    749 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:33:47.58 ID:OWT49ye5o

     俺はひとりで橋の上に取り残されたまま、夕陽が西の山の向こうに沈んでいくのを眺めていた。
     煙草をふかしながら、ここ数日のあいだに自分の身に起きたことを順不同に考えてみる。

     ただこうなってしまっただけのことだ。

     碓氷遼一は、これからどうするのだろう。

     俺は、彼に何かを言うべきじゃなかったのか。
     
     何かを変えられるなんて、思い上がっているわけではない。
     それでもなにか一言くらい、言えたはずじゃないのか。

     そんなことを考えているうちに日が沈んで夜が来てしまった。

     あたりは夕闇に包まれて真っ暗だ。
     煙草はなくなってしまった。

     俺は考えているのがバカバカしくなって、もと来た道を戻り、碓氷遼一が刺されていた場所に戻ることにした。
     警察が来ていた。俺の知っている顔はもうどこにもなかった。


    750 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:34:13.32 ID:OWT49ye5o



     愛奈と連絡を取る手段はなかった。
     でも、あいつのことだから、俺と合流しようと思えばまひるの部屋に戻るだろう。
     
     少し時間はかかったけれど、結局俺もそこを目指すしかなかった。

     案の定、彼女はそこで泣き疲れたみたいに眠っていた。

     隣に座っていたまひるが、茶化すみたいな口調で声を掛けてくる。

    「遅いよ。どこでなにしてたの?」

    「……ちょっと」

     どう説明していいかわからなくて、そうごまかすしかなかった。
     まひるは小さく溜め息をつくと、困ったように笑った。

    「愛奈ちゃん、心配してたよ。ケイくんに何かあったら自分のせいだって」

    「……こいつは、この期に及んでまだそんなこと言うのか」

     少し、軽率だったかもしれない。こいつの心境も、もっと慮るべきだった。
     そんなこと、いまさら言ったって仕方のないことだけれど。


    751 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:34:48.56 ID:OWT49ye5o

     このところ、いろいろあって疲れていたんだろう。
     声を潜めるでもなく話をしているのに、愛奈は目をさますようすもなかった。身じろぎさえもしない。

     ――俺が出会った相手について、俺はこの子に話すべきだろうか。

     話すとしたら、どんなふうに話したらいい?

     こいつのせいじゃない。
     でも、こいつはきっと、全部を聞いたら、やっぱり自分を責めるのだろう。
     自分なんていらないんだって、繰り返すだろう。

    「ケイくん」

    「……ん」

    「お風呂入る?」

    「……」

     まひるは、当たり前みたいな様子だった。

     変な女だ、と思う。俺たちは妙なことばかり言っているのに、なんにも揺らいでいない。


    752 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:35:16.73 ID:OWT49ye5o

    「……ちょっと、気になってたことを聞いてもいいか?」

     俺が不意にそう声をかけると、まひるは何気なく頷いてくれた。

    「この部屋のことなんだけど」

    「家賃?」

    「違う。そんなの聞いても役に立たないだろ。そうじゃなくて、男物の下着とかやらないゲームとか、そういうものについて」

     ああ、とまひるは困り顔をした。答えてもらえないなら、それでいい。そう思ったんだけど、やっぱり控えるべきだったかもしれない。

    「気になる?」

    「言いたくないなら、別にいい」

    「あ、ううん。そういうわけじゃないんだけど、誰にも話したことがないから、どうかな、うん……どう話そうかな。
     少し気持ちの悪い話だと思うし、たぶん、引いちゃうと思うんだ」

    「……無理にとは、言わない」


    753 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:35:42.54 ID:OWT49ye5o

    「そうだよね……。うん。クローゼットの中は、女の子の秘密なんだ」

    「……何言ってんだ?」

    「うん。……クローゼットの中にはね、男物の衣類だけじゃなくて、ゲームとか、おもちゃとか、少年漫画とか、いろいろ入ってる」

    「……実は心の性別が違うとか?」

    「ちがうちがう。そんな言い方失礼だよ。わたしのは、なんだろうね、ちょっと、変なんだと思うんだけど」

     要領を得ない話し方で、でも、まひるは話してくれるつもりがあるみたいだった。

    「……愛奈ちゃん、寝てるね。少し、歩きながら話さない?」

     俺は、愛奈をひとりにするのがなんとなく嫌だったけど、かといって、ここで彼女が目を覚ましたときに、何を言えばいいのかも分からなかった。

     しかたなく、俺はまひると一緒に部屋を出た。


    754 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:36:18.37 ID:OWT49ye5o



     少し歩くだけで、賑やかな通りに出た。
     
     ちょっと離れたところに飲み屋街があるらしくて、通りは騒がしい大人たちでいっぱいだったけれど、
     おかげで俺たちは妙な沈黙を持て余さずに済んだ。

     そういう空間だから、かえって話しやすかったのかもしれない。まひるはよどみなく話を始めた。

    「わたしにはね、弟がいるんだ」

    「……弟? って、ことは、弟の私物?」

     まひるは首を横に振った。

    「ううん。死んじゃったの。わたしが幼稚園の頃だったから、二歳の頃だったかな」

    「……死んだ?」

    「うん。死んじゃった」

    「それは……」

    「まあ、それはいい。……ううん、良くなかったのかな、よくわかんないんだけどね」

    「……」


    755 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/09/21(木) 21:36:49.14 ID:OWT49ye5o

    「それでね、なんだろうな。べつに普通に生きてたつもりなんだけどね。中学くらいの頃かな。
     同級生の男の子がね、なんだかゲームの話とかしてるの。わたし、あんまり興味ないタイプだったんだけど、
     そういう話聞いてるとさ、ああ、弟も生きてたら、そういうゲームとかやってたのかなって思って、
     そう思ったら、なんか買っちゃって」

    「……」

    「もちろん、やらないんだよ。でも、一回そうやってからね、なんか、ああ、こんな漫画読んでたんだろうな、とか、
     年頃になったらこんな服着て、きっと下着もこんなのつけて、なんて、そんなふうに、想像して……。
     まるで生きてるみたいに。きっとこのくらい背が伸びて、こんな顔になって、って、想像して……。
     それが、うん。わたしのクローゼットの中身」

    「……」

    「ごめんね、説明しないで服貸しちゃって。気味悪いよね」

    「……俺は、別にいいんだけど」

    「直さなきゃ、って、思っているんだけどな。誰にも言えないし、みんな知ったら気味悪がるよね。
     でも、でもね、そうしてるときはさ、なんだか、生きてるみたいな感じがするんだ。傍にいるみたいな感じがする。
     変だよね。死んじゃってるのに。でもなんだか、存在するのとは違う形で、傍にいるみたいな感じがするんだよ」

     それからまひるは、思いついたみたいにこちらを振り向いた。
     
    「ひょっとしたら、そっちの世界では、わたしの弟が生きてたりするのかな」

    「……」

    「だとしたら……わたしは……」

     その言葉の続きを、まひるが口に出すことはなかった。

     俺は彼女の言葉の頭のなかで繰り返した。

     存在するのとは違う形で、傍にいる。


    758 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:12:54.56 ID:nIJhl30co



     さっき聞いた話を、うまく整理できなかった。

     何かが掴めそうだという気がしたが、そんなのは結局錯覚に過ぎないのかもしれない。

     部屋に戻ろうというまひるを先に行かせて、俺はそのあたりを適当に歩くことにした。

     煙草を吸いたかったけれど、今は持っていない。

     いつのまにか、雨が降り出していたみたいだった。

     道路を行き交う車の群れは、濡れ始めた黒い路面にヘッドライトの光を散らしながら進んでいる。
     
     自分の身に何が起きているのか、わからなかった。
     何がこんなに、頭を痛めているのか。
     視界が滲むのはどうしてか。

     この感情を、どこに向ければいいのか。
     
     俺にはもうわからない。



    759 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:13:23.72 ID:nIJhl30co

     結局、まひるの部屋に戻る以外に、方法なんてなさそうだった。
     でも、愛奈が目をさましたら、俺は何を言えばいいんだろう。

     おまえの叔父さんと話したよ。
     彼にもいろいろあったみたいなんだ。
     抱え込んだ重い荷物があったみたいなんだ。

     そんなことを、愛奈に告げてどうなる?

     またあいつは自分を責めるだけだ。
     でも、どう足掻いたって、もう俺は否定できない。

     いっそ全部知らない方がマシだった。

     なにもかもがぐるぐると渦巻いて、複雑に頭の中で絡まって、
     それをどうすることもできない。
     
     そんなときに、愛奈の姿を見つけた。

     コンビニの軒先で、吸い慣れない様子の煙草を吸いながら、愛奈は屈みこんでいた。
     今に泣き出しそうに見えた。

     彼女に何を言えばいいのか、そればかりを考えている。 

     雨が降り出している。
     
     どうして、こんなことになったのか。
     それを考えても意味がないと、知っている。


    760 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:13:50.56 ID:nIJhl30co


    「……何してるんだよ、こんなところで」
     
     軒先でかがみ込む彼女に、俺は静かに歩み寄った。
     返事はない。くわえた煙草から、煙だけが立ち上っている。

     いったい、何をどういえばいいんだろう。

    「煙草なんてやめとけよ」

     口を衝いて出るのは、そんなどうでもいいような言葉だけだ。
     俺には何にも言えやしない。

     それでも、返事はない。
     
    「愛奈」

     名前を呼んでも、顔をあげすらしない。
     泣いているみたいだった。

    「……なんで」

     と、彼女はようやく声を出した。
     絞り出すみたいな声だった。

    「ケイくんは、吸ってるくせに、わたしはだめなの」

     出てきたのがそんな言葉で、俺は少しほっとしてしまった。
     どうしてだろうな、と思ってしまう。

     こいつが煙草を吸うのが嫌だなんて、わがままだ。
     俺が言えた義理じゃない。

    「それは……なんでか、分からないけど。でも、よくない」

    「じゃあ、ケイくんもやめてよ」

     その表情が、縋りつくみたいで、俺は困ってしまった。

    「……考えてみる」

     愛奈はゆっくりと立ち上がって、灰皿に煙草を投げ捨てた。
     底に溜められた水に落ちて、煙草は静かに音を立てた。


    761 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:14:18.26 ID:nIJhl30co

    「……ごめんなさい」
     
     これだ。
     自分が嫌になる。

    「どうして一言目が"ごめんなさい"なんだよ。"大丈夫だった?"とかだろ、普通。謝る理由がどこにあるんだ?」

    「だって……」

    「言ったろ」

     俺は愛奈の手から煙草とライターをかすめ取った。
     そこにどんな意味があるのかはわからない。

     でも、もう考えるのも面倒だった。

     ただ、煙草に火をつける。
     いつものように。

    「セロトニンの不足だよ」

     愛奈は何も言わなかった。そのことにほっとしたなんて、どうかしてる。


    762 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:14:53.87 ID:nIJhl30co

     どんな言い方をすればいいのかわからない。
     それでも、何も言わないでいるのも、違うような気がした。

     いや、違う。

     俺は、ひとりで抱え込むのが嫌だったのかもしれない。

    「首尾はどうだった、って、訊かないのか?」

    「首尾?」

    「犯人、追いかけただろ、俺」

    「……どうだったの?」

     本当は、そんなことはどうでもいいみたいな顔だった。
     こいつの見た景色の意味を、俺は知らない。
     
     自分の大切な人が、血だまりの中にうずくまっている風景。
     その人が、自分を知らないという事実。
     自分じゃない誰かが、その人を呼んでいる光景。
     
     こいつにしかわからない。


    763 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:15:30.89 ID:nIJhl30co

    「……ケイくん」

    「ん」

    「ケイくん」

    「なんだよ」

    「ケイくん……」

    「だから、なんだよ」

    「ケイくん……帰ろう?」

     俺は返事をしなかった。
     やっぱり、すがりつくみたいな表情をしていた。

    「わたし、もう、やだ」

     それでいいのか、と聞きたかった。
     このまま帰ったら、きっとこいつは、本当にこの世界から何も持ち帰れない。
     ただ、傷つきにきただけだ。

    「……なあ、愛奈――」
     
     なんて言えばいい?


    764 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/04(水) 23:16:42.58 ID:nIJhl30co

    「俺は……」

     俺は、知っている。ひょっとしたら、伝えるべきなのかもしれない。

     この世界にいる叔父さんとは違う、『おまえを知ってる叔父さん』が、こっちの世界に来てるんだよ、って。
     ひょっとしたら、話せるかも知れないって。

     俺は、伝えるべきなのか?
     でも、そうしてどうなる?

     結局、結果はなんにも変わらない。

     なにも言えないまま、俺は喋るのをやめて煙草の煙を吸い込んだ。
     
     こいつが自分を責め続けるのは、きっと、なんにも変わらない。

     不意に、愛奈が俺の手のひらから煙草の箱を奪い取った。
     何かを証明しようとするみたいに、彼女はそこから一本、煙草を取り出してくわえる。

     そして、一瞬、
     するりと流れ込むように距離が詰められて、彼女のくわえた煙草の先と、俺の吸っていた煙草の先が触れた。

     思わず、思考が止まった。

     彼女が息を吸うのが分かった。

     火が移ると、彼女は「どうだ」という顔をしてみせる。
     それから、なんにも気にしていないみたいな顔で、俺の方から目をそらす。

     彼女の手が、静かに俺の手をとった。

     俺は何も言わなかった。

     雨が降っている。
     何を言えばいいのか、わからないままだ。



    767 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:06:30.82 ID:mlE9det0o





    「ねえ、ケイくん」

    「ん」

    「わたし、わたしさ」

    「……なんだよ」

    「わたし――」


    768 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:07:12.25 ID:mlE9det0o



     結局、離す理由も見つけられなくて、手を握りあったまま、俺たちはまひるの部屋に戻った。

     扉の前で、ほんの一瞬だけ目を合わせて、その手を離した。俺も愛奈も両方とも何も言わなかった。

     まひるは当然みたいな顔で俺たちを迎え入れた。それから、夕飯のこととか、風呂のこととか、あれこれと訊いてきた。
     煙草の匂いのことや、今までどこでどうしていたのかなんてことは、まったく訊いてこなかった。

     俺は、さっき愛奈に言われた言葉のことを考えた。

     ――ケイくん……帰ろう?
     ――わたし、もう、やだ。

    「なあ、まひる」

    「……ん?」

    「明日、俺たち、帰るよ」

     まひるは、俺の方を見て、いくらか驚いたような表情をした。

    「明日?」

    「うん」

    「帰れるの?」

    「たぶん、大丈夫だと思う」

     確認の意味で、愛奈を見る。彼女は静かに頷いた。

    「うん。大丈夫」

    「そっか。……なんだか、急に来て急に帰っちゃうんだね」


    769 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:08:07.11 ID:mlE9det0o

     まひるは不思議な表情を見せた。単に、別れを惜しんでいるというのでもなさそうな。
     それはそうだ。惜しむほどの関係性なんて、俺たちの間にはない。

     だったら、これはなんなんだろう?

     よく分からないけど、気にしないことにした。

     まひると愛奈はふたりでキッチンに立ち、遅い夕食を作り始めた。

     俺は窓の外で降る雨を聞きながら何かを考えようとする。

     料理が出来上がると、三人揃って食事をとった。

     まひるの料理はこなれていて美味かった。
     それがなぜだか悲しくて仕方ない。身勝手な感情だとわかっているつもりなのだけれど。

     この世界を去ると思うと、愛奈の身に起きたさまざまなことのすべてが俺の頭にのしかかってきた。

     母親のこと、叔父のこと。

     ――わからない。わからないよな。そうやって、僕は僕自身から逃げて、だから、なんにもないんだろうな。

     俺にはよくわからない。

     ――愛奈がいなくなったら、僕はからっぽだ。愛奈がいつか、僕を必要としなくなったら、僕は、ひとりだ。

     わからない。

     ―― そうなったら、もう何も残らない。僕は、それが怖いんだ。ずっとずっと怖いんだ。
      
     わからない。


    770 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:08:43.59 ID:mlE9det0o

     誰のせいなのか、何が間違っていて、何が正しいのか。
     誰も悪くないなら、どうしてなのか。

     それを知りたい。

     夕食を食べ終えると、愛奈は壁にもたれて静かに座っていたが、やがて、疲れていたのだろう、目を閉じて眠ってしまったようだった。

     俺は彼女の閉じた瞼からのびた睫毛の長さを、なんとはなしに眺めている。

     小さな女の子みたいに見える。

     迷子になって、不安で、寂しくて、怖くて、どうしたらいいかわからなくて、それでも涙をこらえている、そんな子供みたいに見える。

     いつだって、本当は泣き出したいくらい不安なくせに、寂しいくせに、
     取り繕って笑って、無理をして、それで本当にときどき泣いて、少しあとには何もなかったみたいな顔で笑おうとして。

     ……こいつのために、何ができるんだ、なんて、そんな思い上がりは持ってない。
     そんなに殊勝な人間じゃない。

     考えてみれば分かる話だ。

     どうしようもないことばかりだ。

     親と暮らせない。頼りにしていた家族が死んだ。

     それはきっと、替えがきかないものだ。
     他の何かでは、埋めることのない空白だ。

     その空白のせいで、こいつは今だって崩れそうになっている。
     取り戻せないとわかっているのに、すがりつこうとしている。

    『……わたしのせいかなあ』『ごめんね』『……ごめん。巻き込んで』
    『わたしのせいなのかな』『……ケイくん、ごめん』『……ごめんね』『……ごめんなさい』
    『……ね、ケイくん。お兄ちゃんは、わたしなんていないほうがよかったんだって思う?』

     もう、その扉は開かないのに。
     開かないと、自分でもわかっているはずなのに。

     それでも、こいつは、ずっと、今までも、これからも、ずっと、開かない扉の前で、もう来ない迎えを待ち続ける。

     期待しているわけでもないのに、離れることもできずに、いつまでも。


    771 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:10:07.65 ID:mlE9det0o




    「ねえ、ケイくん」

    「ん」

    「わたし、わたしさ」

    「……なんだよ」

    「わたし――生まれてこないほうが、よかったのかな」

     バカ言えよ、と俺は言った。



    772 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:10:48.82 ID:mlE9det0o




     それでも、俺の言葉なんて、信じてないみたいな顔をしていた。

     いったい、どうしたらこいつは自分を許してやれるんだ?
     どうして、自分が悪いって、自分のせいだって、そんなふうに自分のことばかり責めるんだ?

     誰かのせいにして泣きわめいたっていいはずだ。
     誰かを恨んだっていいはずだ。

     おまえのせいじゃないって、俺は、何度も言ってきたつもりだ。
     おまえに責任なんてない。おまえに何の罪がある? おまえがいなければ幸せだったなんて、そんなことあるわけない。
     
     何かが、この子を縛り付けているんだ。
     からたちの枝みたいに絡みついて、がんじがらめにして、逃げられなくしている。

     俺は……。


    773 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:11:18.95 ID:mlE9det0o



    「ケイくん」

     考えごとに沈み込んでしまっていた。
     声に顔をあげると、まひるが困ったような顔をしてこちらを見ている。

    「……ん」

    「コーヒー、飲む?」

    「……いや、いい。ありがとう」

    「そう?」

     首を傾げてから、彼女は含み笑いを見せた。

    「……なんだよ?」

    「ううん。なんか、ケイくん、ひねくれものって感じなのに、お礼は素直に言うんだなって思って」

     ひねくれもの。……まあ、いい。

    「べつに、礼くらい言うだろ」

    「うん。それはまあ、そういう言い方をすればそうなんだけどね」

    「感謝の気持ちくらいなら、言葉に……」

     ――あのね、ケイくん。

     ――わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。

     ―― それはね、言葉っていうの。

     そうだ。
     ……俺は、教えてもらったんだった。

     言葉にしないと分からないというなら、言葉にするしかない。
     その結果、伝わらないかもしれない。何も変わらないかもしれない。


    774 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/09(月) 22:12:35.96 ID:mlE9det0o

     でも、ぐだぐだと考えるのを続けるくらいなら、
     いっそ俺も、覚悟を決めるべきなのかもしれない。

     それが、なんのためにもならない結果になったとしても。

    「……どうしたの、急に黙り込んじゃって」

    「いや」

    「さっきから、へんなの」

    「ちょっと、いろいろ考えてたんだ」

     とりあえず、頭のなかで漠然と、自分がやることを決めた。

     そうしてしまってからは、それ以上そのことについて考えないことにする。
     余計なことを思いついたら、決意が鈍ってしまいそうだ。

     それで、思わず俺は、碓氷遼一のことを考えてしまった。

     ――だから、考えないようにして、傷つかないようにして、機械みたいになりたかった。

     あのときの彼の表情が、どうして、なんだろう、瞼の裏にちらついて、離れない。


    778 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:51:30.28 ID:1LbshZ6Ho

    ◆[Rapunzel]A/b


     わたしが目を覚ましたのは、朝の四時半頃だった。
     まだ、ケイくんもまひるも眠っていた。

     わたしはまひるのベッドの半分を借りて、一緒になって眠っていた。
     遠慮したのだけれど、まひるに強引にそうするように言われていて、ここに来てからはずっとそうしていた。

     彼女を起こさないようにこっそりとベッドから抜け出す。
     朝はまだ暗く、薄手のカーテンの隙間から覗く空はぼんやりと青褪めている。

     そのまま、すり足で玄関へと向かった。

     借りたパジャマのままで外に出ると、九月の朝は起き抜けの肌にはひんやりと冷たい。

     覆うような霧雨が、音もなく降り注いでいた。
     通路の手すりに体重をあずけて、街の姿を見下ろした。

     くじらのおなかの中みたいに見えた。


    779 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:51:55.42 ID:1LbshZ6Ho


     七年前の景色。
     別世界の景色。

     それはたしかに、わたしの知っているものとどこか違う。
     でも、どこがどう違うのか、と言われても、うまく説明できない。

     街中が、どこか遠くの国の王様の死を悼んでいるように静かだった。

     通りを走る車、ジョギングをする人、霧雨。

     絵の中の景色のようだった。

     夢を見ているような気さえした。

     世界は少し肌寒くて、吐き出す息はほのかに白んで立ち上っていく。
     
     急に心細くなって、わたしは身震いしてから両手を口にあてて息を吹き付けた。
     
     この冷たさに、わたしは覚えがある。
     ほんの少し、だけれど、思い出せる。

     春にも、夏にも、秋にも、冬にも、思い出せる記憶がある。

     手のひらの温度。
     抱き上げられたあたたかさ。


    780 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:52:27.62 ID:1LbshZ6Ho

     不意に、背後から物音がした。

     まひるがあくびをしながら、扉から出て来る。

    「起こしちゃった?」

    「ん。うん」

    「ごめんなさい」

     わたしの言葉に、まひるは笑った。

    「気にするようなことじゃないよ」

    「そうでもないと思うけど……」

    「そう? そうかも」

     まひるはわたしの隣に近づいてくると、触れ合うほどの距離に並んで、同じように手すりにもたれた。

    「寒くないの?」

    「……少し」

    「あんまり冷えると、よくないよ」

    「まひるは、中に戻って」

    「ケイくんとふたりきりで? それは、うーん」

    「……あ、そっか」

     そういう配慮みたいなものは、わたしの頭の中にはあんまり用意されていなかったみたいだ。
     たしかに、まひるからしたら嫌かもしれない。


    781 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:52:57.37 ID:1LbshZ6Ho

    「霧だね」とまひるは言った。

    「うん」

    「この時間は、まだ暗いね」

    「そうだね……」

     べつのことを考えていたせいで、どう返事をすればいいか分からなかった。

     まひるは気を悪くしたふうでもなく笑う。

    「ね、愛奈ちゃん。少し話してみたいことがあったんだけど、いいかな」

     返事をせずに、ただ彼女の顔を見る。

     これまでと変わらない、器用そうな笑みだ。
     そんな笑みで、彼女はいつも、いつも、刃物みたいなことを言う。

    「愛奈ちゃんは、ケイくんのこと、どう思ってるの?」

     静かな風が吹いて、霧雨を舞い上がらせた。

     一瞬だけのことだった。

    「気付いてるよね、愛奈ちゃん」

     何を、とは訊かなかった。
     どうせ、最後にはわたしが答えに窮するに決まっていた。


    782 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:53:40.19 ID:1LbshZ6Ho

    「お兄ちゃんが、ね」

    「ん……」

    「お兄ちゃんが、むかし、教えてくれた話があるの。大きな魚に、食べられてしまう人の話」

    「魚……?」

    「神さまがね、ある人に話をするの。堕落した街の話。その街の悪辣の為に、神さまはその街を滅ぼさなきゃいけない。 
     だから、街に向かってそのことを伝えなさいって」

    「……それは、聖書かな」

    「なのかな。わからないんだけど。それでね、でも、その人はその街に向かうことを拒むの。
     どうして悪辣を尽くす、しかも敵国の街のために、自分が出向かなければならないのか?
     神が滅ぼすと決めたなら、どうしてそれを伝える必要があるのか? そして彼は、神さまの言葉に逆らって逃げようとする」

     でも、神さまは彼が乗った船のまわりに嵐を降らせた。そして彼は船から放り出される。
     
     海の中で、彼は大きな魚に飲み込まれ、腹の中で三日三晩を過ごして悔い改める。

     そして彼は考えを変え、悪辣の街に向かい神の言葉を伝える。
     街の人々はその言葉を聞き届け、驚くことに素直に改心する。

     神さまは、街を滅ぼすという言葉を、それによって翻した。


    783 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:54:12.78 ID:1LbshZ6Ho

     預言者は、これに腹を立てた。

     神さまが、やさしいと彼は知っていた。だから、悪辣の街が改心すれば、神はそれを許すだろうと彼は気付いていた。
     それだからこそ彼は伝えることを拒んだのだ。悪にはふさわしい報いがあってほしかったから。

     そのあと、どうなったんだっけ……?

    「ヨナ書だね」とまひるは言った。

    「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
     ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」

    「……ヨナ書?」

    「旧約聖書かな。たしか、選民思想の否定と……神が言葉を翻すこともある、という根拠って解釈があったような気がする」

    「そうなんだ」

    「それが、どうしたの?」

    「うん。わたし、ときどき不思議になるの。お兄ちゃんは、どうしてわたしにあんな話をしたんだろうって」

     大きな魚にのまれた男の話。

     お兄ちゃんは、どうしてそんな話を知っていて、わたしに何が言いたくて、そんな話をしたんだろう。

     

    784 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:54:50.09 ID:1LbshZ6Ho

     お兄ちゃんは、その話のどこかに、自分を重ねていたのだろうか?

     だとしたら、それは誰だろう。どこに、だろう。

     ――愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ。

     見晴らしのいい丘の上の公園で、わたしとお兄ちゃんはたしかに一緒にいた。

     ―― 一緒にいるから大丈夫だよ。

     あのときの、お兄ちゃんの表情を、わたしは今でも覚えている。

     一緒にいる、と、そう言った。
     
     それはもう、嘘になってしまった。
     
     でも、あのときわたしが感じた気持ちは、一緒に居てくれる、という、そんな言葉に対する安心じゃなかった。

     あのときの、お兄ちゃんは、泣き出しそうな顔で笑っていた。
     寂しくないと、強がるみたいに。

     本当は、わたしは、お母さんのことなんて、もうとっくに諦めていて、
     ただ、お祖母ちゃんと、お祖父ちゃんと、それからお兄ちゃんがいれば、
     それで、それでもいいと思っていた、のかもしれない。

     あのときからわたしは、思っていたのかもしれない。

     わたしは、お兄ちゃんに居てほしくて、泣いていたわけじゃなかったのかもしれない。

     わたしはただ、あの寂しそうな表情の理由を、お兄ちゃんが隠していた何かを、
     結局最期まで分かってあげられなかったことが悲しかったのかもしれない。

     わたしは彼のために何もできなかった。
     
     それが悲しくて、だから、彼が何を考えていたか、どうしても知りたかったのかもしれない。

     彼もまた、魚の中にいたのだろうか。


    785 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:55:22.59 ID:1LbshZ6Ho

    「くじらについてのお話なら、もうひとつあるね」

     まひるは、不意にそんなふうに話し始めた。
     
     それは、こんな内容だった。

     エチオペアの王妃カシオペアは、その娘、アンドロメダの美しさを誇り、海の神の孫娘よりも美しいと褒め称えた。
     それが海神の孫娘の怒りを買った。

     孫娘に泣きつかれた海神は、エチオペアの海岸に化け鯨を差し向けた。

     鯨は津波を引き起こし、作物を台無しにし、街を恐怖の底に叩き落とした。
     そこで、その美しい姫君は生贄になった。

     罪のない彼女が化け鯨の口に飲み込まれようとした瞬間に、馬のいななきとともにペルセウスが現れた。
     メデューサ退治の帰り足に姫が岩にくくりつけられているのを見たペルセウスは、化け鯨にメデューサの首をつきつけた。
     たちまち鯨は石になり、海底へと沈んでいく。

     ペルセウスはその姫君を連れ帰り、やがて彼女と結ばれたという。

     海に沈んだ憐れな鯨は、空に浮かんで星座になった。

     遠い、古い、神話のお話。

    「ピノッキオの冒険もそうだね。勤勉を目指しながら何度も怠惰の誘惑に負けるピノッキオは、大きな化け鯨に飲み込まれる。
     ……ああ、別の魚だったかな」

     くじら。

     くじらとは、なんだろう。いったい、何の比喩だろう。
     迷い、嫉妬、憎悪、失望、落胆、混乱。

    「でも、愛奈ちゃんは大丈夫だと思う」

     わたしはまひるの方を見た。

    「愛奈ちゃんにはペルセウスがいるから」


    786 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:55:48.47 ID:1LbshZ6Ho

     わたしは、アンドロメダではない。

     そんなことを言ったって、意味のないことだ。

    「わたしは……まひる、わたしはね、誰かとずっと一緒にいるっていうことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの」

    「……」

    「ケイくん、と、一緒にいたいよ。でも、わたしは、ケイくんが……」

     うまく言葉に、できない。
     何を、どう、説明すればいいのか、どういう言い方なら、伝わるのか。

    「失うことと手に入らないことなら、どっちが悲しいのかな」

     彼女は、天気の話をするみたいに、そんなことを言った。

    「怯えることが間違いだとは、わたしには言えない。だから、それもひとつの生き方だねって、そう思うけど」

     遠くを見るような目で、彼女は霧に包まれた街を見下ろしている。

    「ある意味だと、それは悟りの境地なのかもしれない。際限のない欲望と手を切って、何も求めなければ、
     傷つくことも失うこともない。ただ物事があるがままにすぎるのに任せていれば、穏やかに生きられる。
     でも――“愛奈ちゃん”はそれでいいの?」


    787 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:56:16.35 ID:1LbshZ6Ho

     わたしは、言葉の意味を咀嚼するのに手間取った。
     霧の粒が肌にまとわりつく。

     溶けてしまいそうだ。

     蒸気のような雨。

     居心地の悪くない朝。

     晴れを望むわけではない。
     雨は嫌いじゃない。

     でも、少し、ほんの少し、肌寒い。

    「わたしたち、動物だよ」

    「……」

    「平気な人はいるかもしれない。でも、愛奈ちゃんは、それで平気なの?
     ケイくんが、たとえば、誰か別の人と……そうなったときに、愛奈ちゃんは、平気なの?」

    「わたしは……」

    「わたしたちは、欲望する。食べ物を食べる、水を飲む、眠る、寒ければ服を着て、暑ければ服を脱ぐ。
     触れられたいと思うし、触れたいと思う。触れることで傷つきたくないとも思うし、気安く触れられたくないとも思う。
     自分を変えたいとも思うし、自分を守りたいとも思う。自分を憎むことで、自分を守ろうとしたりする」

     誰かが言ってたんだ、とまひるは言った。

    「わたしたちは、自分が本当に求めているものを、まず誰かに与えることでしか、手に入れられないって。
     でも、そんなの変だよね。だって、それじゃあ、お返しを催促してるみたい。
    “わたしはあなたにこんなことをしてあげた。だからあなたもわたしに同じようにして”って言うみたい」

     与えた人からしか受け取れないなら、最初に与えた人は、誰から受け取ったんだろう。

     それってやっぱり、変な理屈だよね、と、彼女は言う。

    「挨拶、みたいなものだと思うんだ。“おはよう”って言っても、返事が来るとは限らない。
     相手が“おはよう”って言ってくれないなら、どうしてこっちから言わなきゃいけないの、とも思う。
     でも、だからって、言われるのを待ってるだけじゃ、やっぱりなんにも進まないのかも」

     言われても返事をしないんじゃ、なんにも変わらないのかも。


    788 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/17(火) 22:56:42.66 ID:1LbshZ6Ho

     どうなのだろう。
     わたしは――

     渡すことの方が簡単で、求めることのほうがむずかしいような気がする。

     好きです、と、そう言うよりも、好きになってください、好きでいてくださいと、そう伝えることのほうが、ずっと怖い。

     ずっと一緒にいてください、って、
     ずっと一緒にいたいです、って、
     そう思うことは、好きでいてと求めることなんじゃないのかな。

     わたしは、そんなふうに求めていいほど、求められるほど、良い人間なんだろうか。

    「……欲望」

     わたしは、そう口に出してみた。
     欲望、欲望。

     わたしの“欲望”は白い息になって、かすかに空に透けながら浮かび上がった。

     そのまま、誰の耳にも届かないまま、高く高くに立ち上っていく。

     一緒にいたい。
     一緒にいて。
     
     少しだけ、違和感がある。

     わたしがケイくんに言いたいのは、本当にそんな言葉だろうか?
     もっと、何か別の、言葉だという気がする。

     わたしは、今日、帰ろうとしている。この、よくわからない場所から。
     お兄ちゃんのこと、ケイくんのこと、お母さんのこと。

     お兄ちゃんが刺された景色、わたしがいない景色、くじらのおなかの中みたいな景色。

    「今日で本当にお別れなのかな」

     まひるは、静かにそう呟いた。

    「わたしたちは、きっとぜんぶすぐに忘れちゃうんだろうね」

     どうしてだろう。
     その言葉が、わたしには、まひるが初めて口にした本音のように思えてならなかった。


    791 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:36:28.42 ID:IXxsBwaSo



     あたりまえのように朝が来て、まひるは制服に袖を通した姿で、わたしたちの為に朝食を用意してくれた。

     彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、わたしとケイくんは静かに朝のニュースを眺める。

     わたしたちは、この世界に着たときに着ていた服を着て、昨日の出来事についての報道を見ていた。
     たいしたことは言ってくれなかった。

     ケイくんは何か言いたげな、けれど何か言いあぐねるような顔をしていた。
     でもわたしは何も訊かなかった。

     たいした会話もしないまま、まひるが出かける時間になった。

     彼女が鍵を閉めるので、わたしたちも一緒に部屋を出ることにした。

     それじゃあね、とまひるは言った。

     それじゃあ、とわたしも言った。

     元気でね、と彼女は言った。

     まひるも、とわたしは言う。

     それで本当にお別れだった。

     外ではまだ霧雨が降り続いていて、まだ夢の中にいるような気がした。


    792 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:37:39.83 ID:IXxsBwaSo

     青褪めた朝を、わたしたちは傘もささずに歩いた。
     
     地下鉄駅の構内で、人々はせわしなく改札口に飲み込まれていく。
     切符売り場に小銭を放り込むと、一瞬だけ、何かが変わったような気がした。

     ぞろぞろと続く人並みの中で、わたしたちは付かず離れずの距離を保ったまま並んで歩いた。

     車両の中は、そこそこ混み合っていたけれど、わたしたちは労せずに座席に腰掛けることができた。

     隣り合って並びながら、扉が人々のからだを文句を言わずに飲み込むのを内側から眺めている。
     変な気分だった。

     この中の誰とも、わたしは同じ時間に生きていないのだ。
     彼らにとってこの時間こそが故郷で、わたしはそこに迷い込んだ旅人に過ぎない。
     どこまでも観客だ。

     知っている街。
     記憶のかなたに宿っている街。

     それは、けれど、異郷のようだ。


    793 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:38:11.91 ID:IXxsBwaSo

     ケイくんはずっと黙っていた。

     列車が動き始める。

     地上へと抜けると、車窓の外に、朝の日差しがまとわりつくように棚引くのが見えた。

     霧は光の粒みたいだった。

     座標を移動していく。
     身じろぎもしないまま。

     体に負荷がかかる。

     わたしたちは移動している。

     何かを言いかけている。

     口ごもっている。

     窓の外では霧雨が降り続いている。

     頭のなかで繰り返される。

     血溜まり。


    794 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:39:34.67 ID:IXxsBwaSo

     駅につくたびに、車両の中は段々と混み合ってきた。
     胃袋の中身が膨れ上がっているみたいだ。

     膨れ上がった魚みたいだ。

     時間と景色が流れていくのを眺めている。

     目的地は決まっている。
     
     あの高いビル。
     その先に、わたしたちが帰るべき街がある。

     でも、わたしは、そこに帰ってどうするつもりなんだろう。

     いま、ここにいるあいだは、ケイくんは頼まなくても一緒にいてくれる。

     でも、帰ってしまったら……?

     ――欲望。


    795 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:40:20.72 ID:IXxsBwaSo



     目的の駅につくと、車両の中の人々は蛇のように流れ始めた。
     やがて通路が別れると、糸がほつれるようにそれぞれに分かたれていく。

     まだ、互いに言葉もなかった。

     頭の中をゆっくりとかき回されているみたいな気がした。
     何に? 何かに。

     改札を抜けて駅を出ると、街並みは真っ青に色あせていた。
     何かが終わってしまったような感じがする。

    「……不便だな」

     とケイくんがひそかにぼやいた。

    「なにが?」

    「ナビが使えない。2008年っていうのはどうも」

    「わたしたちは新しいものに慣れすぎたんだね」

    「そんなもんなんだろうな」

    「何かが加わったり、なくなったりしても、当たり前にその生活に馴染んでいくんだろうね」

    「そうだな」としか、ケイくんには言いようがなかったみたいだ。


    796 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:40:51.99 ID:IXxsBwaSo

     目的の場所に向かって、傘もなく歩いていくしかなかった。
     
     この街で今、もっとも高い場所。三十階建てのビル、その頂の展望台。

     そこにざくろはいるはずだ。
     
     たいして入り組んだ地形だというわけでもないのに、目的の場所をなかなか見つけられずに、わたしたちは街をさまよう。

     わたしはときどき立ち止まって、空を見上げてみた。

     雨が真上から降り注ぐ光景を見るのが好きだった。
     自分が空へと昇っているような気がして。
     
     ケイくんはわたしのそんな気まぐれにも、文句のひとつも言ってこなかった。

     ようやくたどり着いたときにはだいぶ雨に濡れてしまっていたが、建物に入るのを躊躇うほどではなかった。

     入る前に、わたしは建物の高さをたしかめてみた。
     
     わたしはここに来たことがある。……お兄ちゃんと一緒に。


    797 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:41:42.56 ID:IXxsBwaSo

     中に入ると、綺麗な制服を着たふたりの女の人が受付の向こうからわたしたちのことをちらりと見た。

     ケイくんは気にせずに先に進んで、展望台まで直通のエレベーターを探した。

     一階はただのエントランスで、ほとんど何もなく、探すのに苦はなかった。

     わざとらしい表示のされたエレベーターの前で、わたしとケイくんは目の前の扉が開くのを待った。

     この塔のような建物の頂上に、彼女は本当にいるのだろうか。

     からかわれただけなのかもしれない。

     あるいは、最初からずっと。

     扉は、静かに開いた。

     わたしたちはふたり一緒にその箱へと足を踏み入れた。
     ガラス張りの窓からは外の風景が見える。

     ケイくんが目的の階のボタンを押した。扉は静かに閉じられていく。
     
     たどり着くまではもう開かない。

     何かが途切れてしまったような気がした。 

     さっきまでの当然のような沈黙も、何もかも。


    798 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:42:11.82 ID:IXxsBwaSo

     エレベーターは静かに昇っていく。

     街があっというまに小さくなっていく。

     さっきまで見上げていた建物も人も車も、全部が全部遠ざかっていく。

     すべてと距離が置かれ、何もかもがわたしから離れていく。

     そうやって全部なくなっていく。

     小さな、小さな粒のようになっていく。

     ふと、ケイくんが、

    「ごめん」

     と、小さく呟いた。

     わたしは目の前の景色から目を離すことができないまま、言葉の意味を考える。

    「ごめんって、なにが?」

    「言うべきだった。……会えたかもしれない。そうしたら、なにか変わったかもしれない」

    「ケイくん?」

    「おまえの叔父さんだったんだ」

    「……なにが?」

    「碓氷遼一を、刺したの。おまえの叔父さんだったんだよ」

    「……どういう意味?」

    「向こうの世界の、過去の、碓氷遼一が、こっちにいたんだ。俺は会った。言葉も交わした。
     でもどうしてもおまえに言えなかった。どうしてだろうな。なんで言えなかったんだろう。
     でも、言うべきだった。おまえは会えたんだ。七年前の姿だったけど、あの人はおまえを知ってたんだ」


    799 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:42:38.78 ID:IXxsBwaSo

    「……そっか。ケイくん、会ったんだ」

     彼はもう、それ以上言葉を続けようとしない。

    「ずるいな。……そっか。お兄ちゃん、こっちに、まだいたんだね」

    「……話したかったか?」

    「それは……ううん。どうだろうね」

     どうだろう。
     どうなんだろう。

     分からない。

     もう、気付いてしまった。
     
     わたしが望んでいたのは、知ったところでどうしようもないことなのだ。
     わたしはただ、彼のことを、もっと分かってあげられるわたしでいたかった。

     それはもう、手遅れのことなのだ。


    800 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:43:04.81 ID:IXxsBwaSo

     わたしたちはエレベーターに乗り込んだ。
     扉はもうしまって、箱は昇り続けている。

     この扉は、もう閉ざされている。
     次の場所にたどり着くまで、開かない。

     そしてわたしたちは、次の場所へ向かうしかない。

     戻れたとしても、全部はもう終わってしまったことだ。

     ――本当に?

     そんな声が聞こえた気がしたけれど、それが誰の言葉なのか、よくわからない。

     エレベーターは昇り続けて、街は遠ざかっていく。
     

    801 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:43:46.42 ID:IXxsBwaSo




      風船は がらんどうなので、
      軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
      針でつつけば ごらんのとおり
      からかうように ぱちんと弾け
      川面に浮かんだ あぶくのようだ
      
      風船は がらんどうなので
      割れてもだれも気にしません
      割れてもだれも気にしないのに
      割れてもだれも気にしないことを
      みんながみんな気にしていません

      みんな気にせずぷかぷか浮かんで
      よくも平気でいられるものだ
      どんなにぷかぷか浮かんでも
      どうせ割れるか萎むかするのに


    802 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:44:17.12 ID:IXxsBwaSo



     
     扉が静かに開いた。
     
     灯りは付いているのに、最上階の通路は薄暗く寒々しい感じがする。

     わたしたちは箱を抜け出して、通路の先へと進む。

     展望台へはすぐにたどり着いた。

     ガラス張りの壁の向こうに、街並みはある。

     けれど、わたしの目に最初に飛び込んできたのは、そうではなかった。

     青褪めた街を背負って立つ、黒い服の女の子。

     ざくろは、たしかにそこに立っていた。

     わたしたちの姿を認めると、彼女はかすかに微笑した。

    「―― そっか。今日なんだね」

     その言葉の意味を考える前に、彼女は話を続けた。

    「安心して。ちゃんと送り返してあげる」

     その表情の、素朴な柔らかさに、わたしは戸惑いを覚える。
     今までの彼女はずっと、皮膜の向こうに隠れたような、そんな得体の知れない相手に見えてしかたなかったのに、
     目の前にいるざくろは、なんだかひとりの女の子みたいだった。

    「……ね、始まるのね。ここから」


    803 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:45:00.16 ID:IXxsBwaSo

     誰かに話しかけるような、ざくろの言葉の意味はわからない。
     わたしは、静かにケイくんの手をとった。

    「お兄ちゃんが、この世界のお兄ちゃんを刺した理由、なんとなく分かる気がするの」

    「……」

    「わたしも穂海に、どうかしたら同じことをしたかもしれない、って」

    「愛奈」

    「お兄ちゃんが誰かを傷つけることをするなんて、思ってもみなかった。
     たとえ、違う世界の自分自身でも。でも、それはたしかなことなんだよね」

    「……」

    「ねえ、やっぱりわたしたちは、ものすごく勝手な生き物なんだね。
     わたし、お兄ちゃんを轢いた人が憎いよ。過失だったとしても。
     でも、お兄ちゃんが誰かを刺したとしても、それを責める気にはどうしてもなれないの」

     わたしは―― そうだ。

    「どうしてそんなことをしたの、って、そこまで追い詰められてたのに、どうしてわたしは何もできなかったの、って……。
     そんなふうにしか、どうしても思えない。正しさなんかより、わたしは、親しい誰かのことのほうが、きっと大事なんだ」

    「……」

    「わたし、間違ってるよね」

     そんな言葉で保険をかけるのも、やっぱり間違っているかもしれない。


    804 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:45:28.75 ID:IXxsBwaSo

    「――加害者側からの、理屈ね」

     不意に、ざくろがそう言った。

     わたしは、彼女を見上げる。

     塔の上の少女、黒い服の少女、わたしたちをここに連れてきた人、お兄ちゃんを、ここに誘い込んだ人。

    「刺した人にどんな理由があったとしても、刺された方は、関係ない。
     刺された方は、ただ痛いだけなのよ。たとえどんな理由があっても、刺された方は、血を流すの」

     血は流れたのよ、とざくろは言う。

    「目の前で、刺された人の前で、あなたは言える? あなたの叔父さんが誰かを刺したとき、その刺された誰かに、そう言える?
    "お兄ちゃんにも、理由があったんだ"って。ねえ、言えるの?」

     わたしは、だから、やっぱり間違ってるんだ。それは、たしかだ。

    「――ねえ、流れた血を贖うものってなんだと思う?」

     彼女は、まっすぐにわたしを見下ろしている。

    「それはね、やっぱり血なのよ。血は血でしか贖えない。だからね、"血は流されないといけない"」



    805 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:46:52.54 ID:IXxsBwaSo

    「血……?」

    「そうよ。そうじゃないと不合理でしょう?」

     どうしてだろう?

     ざくろは、泣き出しそうな顔をしているように見えた。

    「痛みを与えられた人間が、ただ痛みを堪えていれば済むなんて、そんなの間違ってる。
     理由があったから、事情があったから、人を傷つけていいなんて理屈にはならない」

     だから、血は流されないといけない。

     ざくろはそう繰り返してから、何かを覆い隠すみたいに笑った。

    「……まあ、これはどうでもいい話だね」

     こっちにきて、とざくろはわたしたちを手招きした。

     手を繋いだまま、わたしたちは彼女の立つ場所へと向かっていく。

     ガラスの向こうには、灰色の空と静かな街並みが、無音のままひらべったく広がっている。

    「誰かが誰かを傷つけてる。あなたのお母さんが、あなたを捨てたように。
     あなたの叔父さんが、誰かを刺したように。わたしのお父さんが、わたしを殴って、わたしを殺したみたいに」」

     と、そう、ざくろは言う。

    「でも、誰かを傷つけた誰かにも、理由はある。そんなふうになってしまったのは、その人だけのせいじゃない。
     環境、遺伝子、何かの出来事、世間、社会の雰囲気、法律、もっと根深い、"大いなる不安"とでも呼ぶべき何か。
     連綿と続く歴史がつくった、社会通念。流布される常識。そんなものが、わたしたちの行動を縛り付けてる。
     わたしたちはそれを、自分の意思で決めたことだと信じているけれど、でも、その意思を決めているのは……誰なのかな」


    806 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:47:49.68 ID:IXxsBwaSo

     ねえ、そんな"誰か"なんていると思う?

    「ねえ、わたしたちが心の底から笑える場所ってどこだと思う? そんなものがあると思う?
     居心地が悪いのよ。なんだか何をやっても無理やり笑わせられてるような気がする。
     幸せってなんだろうってずっと子供みたいなことを考えてた。死んだいまになっても考えてるの。
     ねえ、なんだかそぐわないのよ。わたし、きっと欠陥品なの。世間っていうのは、多数派が作るでしょう。
     だったら、多数派にとっての幸福が少数派にとって幸福でないことは当たり前でしょう。
     馴染めないの。淘汰されるの。居心地が悪い……だから、心の底から笑える場所なんてどこにもないのよ。
     そんな場所に産み落とされて――傷つけて―― それが“誰のせいでもない”なんて、ねえ、理不尽じゃない――?」

     わたしはただ、彼女の言葉を黙って聞いていた。
     何の話なのかは、分からない。

     彼女は、きっと、誰かに傷つけられていた。
     分かるのは、それだけだ。

     わたしは、何かを言いかける。

     そのとき、背後から、声が聞こえた。

    「――ずいぶんな理屈ね」

     その声は、ざくろのものに似ていた。
     わたしは、背後を振り返る。

     足音は近付いてくる。

     最初に目に入ってきたのは、やはり、また、黒い、黒い服。

     そして、片目を覆う、眼帯。

     その瞬間に確信した。

     わたしはこの人を見た。ついこの間――この世界に、やってくる前に。

     わたしは、この人を追いかけて、この場所にやってきた。


    807 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:49:12.52 ID:IXxsBwaSo

     その人は、わたしとケイくんのことなんて見えていないみたいに、まっすぐにざくろに視線を向けていた。

    「ねえ、ざくろ。あなたの言いたいことは分からなくもない。血は、流されないといけない。
     でも、それは他の誰かの血ではないはずよね。遼一が、こっちの遼一を刺した。それは、事実かもしれない。
     でも、ねえ―― そうさせたのは、ざくろ、あなたじゃない?」

     ざくろは、からかうように笑った。

    「そんなことを言うために、ここまで追いかけてきたの?」

    「ようやくわかったのよ」とその人は言った。

    「さっきの話を聞いて、ようやく分かった。あなたがどうして、こんなことをしたのか。
     誰かを迷い込ませて、その人を混乱させているのか。ただ繋ぐだけの力しかないくせに、どうして"願った景色が見える"なんて言ってたのか。
     ようやく分かった。……あなたはただ、"自分を苦しめた世界"を、"苦しめたい"だけなのね。
     誰かを傷つけることで、自分が流した血を贖わせているのね」

     ざくろは何も応えない。

    「ずいぶん探した。見つけるまで、時間がかかった。あっちこっちを行き来して、あなたを追いかけた。
     あなたの背中を探して、わたしはずいぶん時間を無駄にした。でも、考えてみれば、何も追いかける必要はなかったのね……。
     あなたは、"どこにでもいる"んだものね」

     黒衣の女の人は、ざくろを片目で見据えたまま、片方の手のひらで自分の眼帯をそっと撫でた。

    「――あなたを止める。絶対に。それがわたしの責任だと思うから」

     目の前で起きていることの意味が、わたしにはうまくつかめない。
     戸惑ったまま、知らず手に力がこもる。
     
     彼の手のひらは、静かに握り返してくれた。


    808 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:49:41.65 ID:IXxsBwaSo

     にらみ合いのような沈黙が落ちたけれど、それはほんの数秒のことだった。

    「なんだか気まずいところを見られたね」

     ざくろはそう言って、わたしとケイくんの顔を交互に見た。

    「帰してあげる。約束だから」

     彼女の笑顔は、どこか優しく見えた。

     血。
     流される血。

     まるで、夢を見ていたみたいな、そんな気分だった。

     ――"How would you like to live in Looking-glass House, Kitty?
      I wonder if they'd give you milk in there?
      Perhaps Looking-glass milk isn't good to drink――"
     
     ――"Oh, Kitty!
      how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House!
      I'm sure it's got, oh! such beautiful things in it!"

    「ねえ、目を閉じて――」

     最後にわたしは、ケイくんと、ほんのすこしだけ目を合わせた。

     彼は、何かを言いかけて、結局言わなかった。
     両の瞼を、わたしは閉じる。

     もう、何も見ない。

    「――お別れね」

     そんな言葉だけで、わたしたちの奇妙な旅は終わる。

     何もわからないままに。


    809 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:50:08.64 ID:IXxsBwaSo




     白い光が見えた気がした。
     
     白い光が瞼の向こうに見えた気がした。

     白い光が瞼の向こうの遠く先に見えた気がした。

     あまりにまぶしくて、目をひらくことができなかった。

     その光がおさまって、ようやくわたしがわたしの体を認識できるようになった頃、手のひらはからっぽになっていた。

     ふと気付けば、わたしは真っ白な景色の中に立っていた。

     わたしは、さっきまでケイくんがいたはずの場所をたしかめた。

     そこにはもう、ただ真っ白な空白があるだけだ。

    「ケイくん」、と、彼の名前を呼んでみたけれど、返事はない。姿すらないのだから、当たり前かもしれない。

     手を繋いでいたのに。


    810 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:50:34.86 ID:IXxsBwaSo

     あたりを見回してみたけれど、彼の姿はなかった。

    「ケイくん」と、もう一度名前を呼んでみる。
     あたりは物音ひとつない静寂に包まれていて、発したはずのわたしの声でさえどこかに掻き消えてしまったみたいに思えた。

     景色は真っ白だ。

     わたしは真っ白な通路に立っている。
     床も、壁も、天井も、光でできたように真っ白だ。

     境目と境目が曖昧に思えるほど、真っ白だ。

     通路の壁には、さまざまな意匠の施された、さまざまな扉が、等間隔に並んでいる。

     回廊の果ては、見えない。どこまで続いているのかも、さだかではない。

     わたしは手近な扉のノブを掴んで見る。ノブはピクリとも動かない。

     ひとつひとつ試してみる。どの扉も、開かない。

     どこか、見覚えのある扉が多かった。学校の教室の引き戸のようなもの、わたしの家の玄関のものによく似た扉、
     まひるの部屋の扉、さっき見た、エレベーターの扉、どこかの喫茶店のような、ガラスのはめ込まれた扉(磨りガラスのように向こう側の景色は覗けない)。

     どれもこれもが開かない。

     やがて、通路の果てまでたどり着く。いくつの扉を試したのかさえ分からない。
     たしかなのは、開く扉はひとつもなかったということだけだ。

     通路の突き当りは、左右に分かれていた。見れば、両方とも、さっきまで歩いてきたような通路がずっと続いている。

    「ケイくん」

     呼んでみても、返事はない。


    811 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:51:01.06 ID:IXxsBwaSo

     似たような扉が続いているだけの通路の、どちらに進めばいいと言うのだろう。
     どちらにいってもどこにつくか分からないなら、どちらにいっても同じことかもしれない。

     どちらかに何もないとわかれば、もと来た方へと戻ればいいだけだ。

     わたしは、なんとなく、そちらの方が近かったからというだけの理由で、左の通路へと曲がった。

     また、扉が延々と続いているだけだ。

     扉は等間隔で続いている。

     わたしはひとつひとつそれを点検していく。
     開かない扉だけが立ち並ぶ通路のどこかに、例外が、あるいは、誰かの姿がないものかと。

     やがて、また突き当りに差し掛かって、通路は左右に分かれていた。わたしはため息をついて、後ろを振り返る。

     そのときになってようやく気付いた。

     歩いてきた廊下が、なくなっている。

     わたしのすぐ後ろ、さっきまで扉が並んでいた廊下がなくなって、そこには一枚の扉が正面に立っているだけだ。

     その両開きの大きな扉に歩み寄り、わたしは輪のような取手を掴んで引いてみる。
     開かない。

     押してみる。開かない。持ち上げてみても、横にずらしてみようとしても、開かない。

     開かない。


    812 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/24(火) 00:51:28.20 ID:IXxsBwaSo

    「……ケイくん」と、もう一度わたしは彼の名前を呼んでみる。

     彼はどこにいったんだろう。
     わたしはどこにいるんだろう。

     どうしてこんなことになる?
     わたしはこんな扉をくぐった覚えなんてないのに。

     戻れないなんて、思いもしなかった。

     打ちのめされかけた心を、どうにか平常に保とうとする。

     強がる必要は、本当なら、そんなにはないような気がする。
     本当は、叫んでしまいたかった。

     でも、そうしてしまったら、二度と立ち上がれないような気がした。
     蹲って泣いて、助けを待つくらいしかできなくなりそうだ。

     この状況はわけがわからないけれど、ここ数日でそんなことはいくつもあった。

     心が保つかぎりは、ひとまず、たしかめてみないといけない。

     わたしは、開かない扉に背を向けて、左右に別れる通路のどちらへ向かうかを考える。

     どこに向かえばいいのかを。

     でも、そもそもの話――わたしに、行きたい場所なんてあったんだろうか?



    815 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:29:41.17 ID:J5LgB8ivo




     どのくらい歩いたかは、もうわからなくなってしまった。
     
     ひとつの扉の前で立ち止まる。

     それは見覚えのある扉だった。

     何度も何度も、目にした扉だった。

     お兄ちゃんの部屋の、扉だ。

     どこまでも伸びる白い廊下の、その途中に、見逃しそうなくらいさりげなく、その扉はあった。
     他のどの扉とも、違ったところがあるわけでもない。ただ何気なくあるだけだ。

     それなのに、わたしにはその扉がそうだとすぐに分かった。

     そうなのだ。

     結局、わたしはこの扉の前で立ち止まってしまうのだ。

     そして、ノブを捻ってしまう。最初から分かっていた。見た瞬間に気付いていた。


    816 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:30:16.79 ID:J5LgB8ivo

     
     ドアは、どうしてだろう、驚くほど簡単に開いた。

     見覚えのある景色だった。

     家具の配置もカーテンの色も、本棚に並ぶ背表紙の文字も、わたしが知っているものと同じだ。

     お兄ちゃんの部屋だ。お兄ちゃんの部屋だと、すぐに分かった。

     同時に、この部屋の主はもう、ここに現れることはないのだと、そう分かった。
     たとえこの景色が夢のようなものだったとしても、それだけは揺るがない。

     当たり前のように、部屋の中に足を踏み入れる。

     本の匂い、少し埃っぽい空気。どうしてだろう。
     たった数日、家から離れていただけ。それだけなのに、ずいぶん懐かしいような気がした

     この数日間の出来事に、いったいどんな意味があったんだろう?
     お兄ちゃんは、どうしてお金なんか残したんだろう。

     お兄ちゃんは、どうして死んでしまったんだろう。

     お母さんは、どうして――

     この景色は、わたしにいったい何を伝えようとしているんだろう。

     わたしは、なんとなく、並ぶ背表紙の中の一冊に目を止めた。

     それはたまたま、ジャック・ラカンの「二人であることの病」だった。

     べつにたいした意味なんてなかった。
     ただ、パラパラとページをめくって、たまたま開いたページ。その記述が目に飛び込んできた。
     

    817 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:30:51.36 ID:J5LgB8ivo




    "まず明らかなように、個人の意味作用が、なにかしら耳にきこえた文句とか、ふとかいまみた光景とか、通行人の身ぶりとか、
     新聞を読んでいて目についた《糸くず》とかの効力を変えるのは、ただの偶然によるのではない。

     そこで、こまかく見ていくと症状はなんらかの知覚、たとえば、無生物や感情的意味あいのない対象に関してだけではなく、
     もっぱら社会生活の諸関係、つまり家族や仲間や隣人との関係について現れることがわかる。

     新聞を読むという点でも同様の意味が出てくる。

     解釈妄想は、われわれが別のところでも述べたように、踊り場や街路や広場の妄想なのである。"



    818 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:31:49.76 ID:J5LgB8ivo




    "運命の晩、さしせまる処罰の不安のなかで、二人の姉妹は女主人たちの心像に自分たちの禍の幻影をまぜあわせる。
     彼女たちが残虐なカドリールへと引きずり込むカップルのなかで彼女たちが嫌うのは、彼女たちの苦悩である。

     彼女たちは、まるでバッカス神の祭尼が去勢でもするように、目をえぐりとる。
     
     大昔から人間の不安を形づくっている冒涜的な興味こそが彼女たちを駆り立てるのだが、
     それは彼女たちが犠牲者を欲する時であり、また彼女たちが、のちにクリスティーヌが裁判官の前で
     無邪気に《人生の神秘》と名付けることになるものを犠牲者のぽっかり開いた傷口のなかへ追い詰める時である。"


    819 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:32:22.91 ID:J5LgB8ivo




     わたしはページから目を離すと、本を元の位置に戻した。

     いま読んだ文章がわたしに何か重要な示唆を与えるものであるかのような錯覚を覚える。

     それが"解釈妄想"でなくてなんだろう?

     けれど、そう、"解釈妄想"と呼ぶならば、そうだ。

     たとえば、遠くから聞こえるクラクションの劈きを、自分に向けられた警告であると感じるかのような、
     ファッション雑誌のコラムの文章に、政治的な暗号があると思い込むかのような、
     何もかもに、目に見える以上の意味があると勘違いしているかのような、
     それを解釈妄想と呼ぶのなら、わたしは。
     
     あるいは、この状況にも、
     母さんがいなくなったことにも、
     お兄ちゃんが死んでしまったことにも、
     お兄ちゃんがお金を遺していったことにも、

     そこに意味が隠されていると考えるのは、
     それはもう、似たような妄想ではないだろうか。

     ため息をついてから、違和感を覚える。

     部屋の様子をもう一度眺めてみる。何かが変だという気がした。

     どこか……何か……なんだろう。


    820 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:32:56.92 ID:J5LgB8ivo

     そうだ。お兄ちゃんの部屋は、昔、お母さんが使っていた部屋と、扉で繋がっていた。
     その扉はずっと使われていなかったけれど、それでも、たしかに繋がっていたはずだった。

     でも、その扉があった場所に、今は本棚が立っている。

     どうにか動かそうとしたけれど、簡単なことではなかった。

     本の重みのせいで、そのまま動かすことはできない。かといって、中身を取り出すとなると骨が折れる。
     
     かといって、それらの本を雑に扱う気になれなかったのも事実だ。

     一冊一冊、わたしは本棚から本を取り出していく。

    「嘔吐」「水いらず」「黒猫・アッシャー家の崩壊」「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」「モンテ・クリスト伯」
    「嗜癖する社会」「孤独な群衆」「箱庭療法入門」「洗脳の世界」「論理哲学論考」「死に至る病」「生誕の災厄」「時間への失墜」
    「夏の夜の夢・あらし」「テンペスト」「リア王」「ハムレット」「かもめ・ワーニャ伯父さん」「桜の園・三人姉妹」

     一冊一冊、積み上げていく。

    「桜の森の満開の下・白痴」「すみだ川・新橋夜話」「タイムマシン」「夜の来訪者」「オイディプス王」「アンティゴネー」
    「Xへの手紙・私小説論」「モオツァルト・無常という事」「物語の構造分析」「映像の修辞学」
    「全体性と無限」「ドン・キホーテ」「外套・鼻」「河童・或る阿呆の一生」「人間椅子」「芋虫」「パノラマ島奇譚」「玩具修理者」
    「幽霊たち」「ガラスの街」「オラクル・ナイト」「予告された殺人の記録」「百年の孤独」「鏡の国のアリス」

     文字。言葉。紙とインク。

    「大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア序章」「ナイン・ストーリーズ」「元型論」「自我と無意識」
    「精神分析入門」「夢分析」「車輪の下」「デミアン」「人間の土地」「アメリカの鱒釣り」
    「文鳥・夢十夜」「嵐が丘」「若きウェルテルの悩み」「シーシュポスの神話」「ツァラトゥストラはこう言った」

     こんなにたくさん言葉があるのに、誰も、お兄ちゃんのことなんて教えてくれない。

     このすべてが、お兄ちゃんの韜晦なら、空の本棚は、ひょっとしたら――。


    821 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:33:44.74 ID:J5LgB8ivo

     中身をすべて床の上に吐き出させると、本棚はようやくわたしの腕でも動かせるくらいになった。
     
     ずらすように横に押すと、やはり、そこには扉が隠されていた。

     今度は、見たことのない扉だった。

     少なくとも、お母さんの部屋に通じていたものではない。

     この空間では、お母さんとお兄ちゃんの部屋はつながっていない。
     そこに意味を感じ取るのも、やはり解釈妄想と呼ばれるべきだろうか。

     確かめるしかなかった。

     本当は泣きたいくらいに怖かった。
     ずっと心細かった。

     何にも分からない、わたしはもうなにも知りたくない。

     それでも、目の前の扉を開けるしかない。

     他にどこにも行けない。


    822 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:34:23.71 ID:J5LgB8ivo

     ふと、足元を見ると、一枚の写真が落ちていた。

     古い、古い写真。

     そこに映っていたのが誰なのか、わたしには最初、よくわからなかった。

     少しして、気付いた。

     お兄ちゃんと、お母さんだ。

     幼い頃のお兄ちゃんと、その頃のお母さんだ。

     たぶん、家の玄関の前で、ふたり並んで立っている。

     お母さんが着ているのは、高校の制服だろうか。

     写真の裏側を見ると、そこには次のような記述があった。

    [Plaudite, acta est fabula.]

     わたしは……目の前の扉を開ける。
     それは、どこに繋がっているんだろう。

     わたしは、どこに向かっているんだろう。


    823 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:35:23.13 ID:J5LgB8ivo

     そんなことは分からないままだ。

     今までだって、ずっと、そうだ。

     ずっとずっと分からなかった。

     何を求めて、どこに向かって、何が欲しくて歩いているかなんて、
     ずっとずっとずっとずっと、いつだって、わからないままだった。

     そうやってどうにか歩いてきた。

     何が待ってるかも分からない扉を開けて、
     戻れないかもしれないことなんて承知で歩いてきた。

     知ってしまったら戻れないことだって、
     進んでしまったら失ってしまうものだって、
     覚悟を決めたら擲ってしまうものだって、
     自分がいつか大事に思っていたものだって忽せにしながら、
     それでもわたしは進んできた。
     
     ずっとそうして来るしかなかった。
     望んだわけじゃない。

     そうするしかなかった。

    "――It takes all the running you can do, to keep in the same place."


    824 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:35:58.42 ID:J5LgB8ivo

     全力で走ってきたつもりだ。

     お兄ちゃんに、お祖母ちゃんに、お母さんに、いつか、認めてもらえる。

     わたしの全身を、全身で誇れるように。

     でも、それでもとどまることなんてできなかった。

     世界はわたしのことなんて平気で置いてきぼりにする。

     そうしてわたしはいつかひとりぼっちになって、
     どこにも辿り着けないまま、誰にも褒めてもらえずに、誰にも認めてもらえずに、
     それでも息を続けていかなければいけないんだろうか。


    825 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:36:37.39 ID:J5LgB8ivo

     扉の向こうは下り階段になっていた。

     埃と黴の匂いの混じった湿った空気が、地下から吹き込んでくる。
     風の音が怪物の吠える声のように聞こえる。

     どうしてこんな場所に踏み込んでいかなきゃいけないんだろう?
     
     わたしはここを通らなきゃいけないのだろうか?

     でも、それは仕方のないことだ。

     この扉しか開かなかった。

     ここに至る扉以外のすべては閉ざされていた。

     探せばもっとあったかもしれない。

     でも、とにかく今はこの先に進むしかない。

     このおぞましくすらある階段を降っていかなければいけない。


    826 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:37:25.92 ID:J5LgB8ivo

     一歩踏み出すと、冷たい風がわたしの首筋をするりと撫ぜる。

     身をすくませるような怖気。

     この先へ降りていくことは、間違っているのかもしれない。
     本当は正しいべつの扉があって、今からでも、探せばそこにたどり着けるのかもしれない。

     でも、でも……そんなことを言っていたら、いつまで経ってもひとつの扉なんて選べない。
     べつの扉の先に向かったところで、やっぱりここも間違いなのかもしれないと足踏みするだけだ。

     そう分かっていても、踏み出すことがおそろしいと、そう思ってしまうのは、やっぱり間違っているんだろうか。

     この扉はなにかもが間違いで、わたしの選択はなにもかもが間違いで、この先にはなにひとつ残っていないかもしれないと、
     それをたしかめるのがおそろしいと思うのは……。

     だからわたしは二歩目を踏み出せずに、ただ吹き付けるような冷気を浴びながら、どうしようもなく立ちすくんでしまう。

     答えを見るのはいつだっておそろしい。

     踏み出すことはいつも。

     だから、

    「――」

     肩を掴まれて、おどろいて、怯える余裕もなくて、
     そうして次の瞬間には、安心していた。

     ケイくんが、そこにいた。


    827 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/10/30(月) 00:38:09.29 ID:J5LgB8ivo

    「……探した」

     息を切らして、彼はそこに立っていた。

     額に滲んだ汗を拭って、わたしの目をまっすぐに見た。

    「なんて顔してるんだよ、おまえは」

     分からない。

     わたしは今、どんな顔をしているんだろう?
     とっさに、俯いて、彼に見られないようにしてしまう。

     どんな顔をしているんだろう。

    「なあ、大丈夫か?」

     大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫だろうか?
     そんなことを考えて、笑ってしまった。

    「……わかんない」

    「……なんだそれ」

     呆れたような声が嬉しかった。
     
     探してくれた。見つけてくれた。それが嬉しかった。

     それでなにもかもが十分だと思えてしまうくらいに。
     だから、わたしは、わたし自身がいつか彼に言ったのと同じ言葉を、自分自身に、口にせずに呟いた。
     言葉にしなきゃ、伝わらない。

    「……ケイくん」

    「ん」

    「ありがとう」

     目を丸くしたかと思うと、彼はすねたようにそっぽを向いた。

    「どういたしまして」と、彼の口調はそっけなかった。


    830 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:18:44.68 ID:lNpLKx20o




    「この先なのか?」

     ケイくんは、わたしの顔を見て、そう訊ねてきた。

     わたしたちは、扉の向こうの暗い階段を見下ろしている。

    「行こうぜ」とケイくんは言う。
     彼はわたしの方を見ずに、さっさと歩きはじめてしまう。まるで怖いものなんてなんにもないみたいだ。

    「待って」

     と言いながら、わたしは彼の後ろを追う。

     一段一段とくだるたびに、暗闇がその濃さを増していくようだった。

     呼吸さえもおぼつかなくなるような、濃厚な黒だ。

     息が詰まるような。


    831 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:19:40.83 ID:lNpLKx20o

    「ケイくん、待って……」

    「待たない」

     ケイくんは、振り返ってもくれなかった。

    「……なにか、怒ってる?」
     
     ケイくんは、ほんの少し、ためらうみたいな間を置いた。

    「べつに、そういうわけじゃないけど」

     一歩進む度に、闇が深くなる。彼の姿も、表情も、わたしの目にはわからなくなる。
     まだおぼろげに影が見えるうちに、彼の服の裾をわたしは掴んだ。

    「ね、ケイくん……ここ、どこだと思う?」

     ケイくんは、返事をしてくれない。
     
    「ケイくん……?」

    「分からない。たぶん、夢みたいなものなんだろうな」

    「夢……?」

    「そう、夢」

     彼の口調が、どことなく、わたしを不安にさせた。


    832 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:20:33.78 ID:lNpLKx20o

    「たぶん、夢みたいなものなんだよ」

     彼はもう一度繰り返した。

    「たいした意味なんてない」

    「……そうなのかな」

     ケイくんは、どうしてだろう、真っ暗闇の中を、灯りさえもたずに、足早に歩いていく。
     惑いも迷いもなく、どんどんと奥深くへと。

     やがて、階段が途切れた。
     酸素が薄いような気がする。どこかから、水滴の落ちる音が聞こえる。

     ケイくん、と、また呼んでしまいそうになって、やめた。

     わたしはいつも、ケイくんの名前を呼んでばかりいる。
     返事をしてほしくて、かまってほしくて、不安で、それをごまかしたくて、無性に呼びかけてしまう。
     それはきっと、あんまりよくないことなのだ。

     わたしの不安定を、彼に押し付けてはいけないのだ。

     そう思ったら、何も言えなくなって、苦しくなった。


    833 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:21:03.51 ID:lNpLKx20o

     階段の先は暗闇で、どこまでも吸い込まれそうな暗闇で、たとえその先に足場がなかったとしても不思議ではないような暗闇で、
     わたしは進むことがおそろしくなった。

    「なあ、愛奈。おまえに聞いておきたいことがあるんだ」

    「……なに?」

     彼が声をかけてくれたという、ただそれだけのことが、どうしてか、今は嬉しかった。
     そんな内心の動きを気取られたら、鬱陶しがられそうな気がして、わたしは感情が声に乗らないように、声を落ち着かせた。

     この暗闇の中で、それが無愛想に聞こえなかったか、それが少し心配だった。

    「この先に進んで、帰れたとしてさ」

    「……うん」

    「おまえ、どうする気だ?」

    「……」

     どう、する。

     その言葉の意味が、わたしにはよくわからなかった。

    「どういう意味?」

     彼は、わたしの問いかけを一度無視して、暗闇のなかを歩き始めた。

     まるでその先に何があるのかを知っているかのような歩調で。

    「だって、帰ったら、おまえ、ひとりぼっちじゃないか」

    「――」


    834 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:21:50.93 ID:lNpLKx20o

    「結局、ひとりぼっちじゃないか。こんな奇妙な旅までして、なんにも得られずに、ただ帰って、誰もいない」

    「……」

    「なあ、愛奈。ひとつ言いたいことがあるんだ」

    「……なに」

    「ここから無事に帰れたらさ、俺と――」

     心臓がどくりと跳ねた。

     それと同時に、何かが警鐘を鳴らす。

     どうしてだろう。
     次に言われる言葉が、わたしにとってなにかよくないものなのだと、そのときに既に分かってしまった。

    「――俺と、もう関わらないでくれないか?」


    835 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:22:47.25 ID:lNpLKx20o

    「……え?」

     それでも、その言葉に、思わず頭がまわらなくなった。

     わたしの様子なんておかまいなしに、ケイくんは歩幅を変えずに進んでいく。
     予期していた言葉は――心のどこかで、そう言われるんじゃないかと思っていた言葉は―― それでもわたしに突き刺さった。
     
     それでも、引き離されないように、手だけは彼の服から離せずに、
     置いていかれないように、足だけは止められずに、
     ただ、何事もなかったみたいに、彼についていく。

    「……こんなことになるなんて思ってなかったんだ」

     ケイくんは、そう言った。

    「俺が、軽率だったよ。おまえに変な噂話を聞かせたせいだ。そのせいで、こんなことに付き合わされるハメになった。
     そりゃ、義理がないわけじゃないし、おまえが憎いわけでもない。でも、正直……ここまでのことは、俺には重荷なんだ。抱え込めないよ」

    「……」

    「俺は、叔父さんの代わりにはなれないよ」

    「そんなの……」

     そんなの、ケイくんに求めてない、と、
     わたしは本当にそう言えるだろうか?

     煙草の匂いに、彼の博識に、背丈に、
     お兄ちゃんの姿を、重ねていなかったと、わたしは言えるだろうか?

    「死人に重ねられるのは、つらいよ」

    「……」

    「おまえは結局、俺のことなんて見てないし、だから本当は、おまえは俺のことなんて必要としてないんだ」

    「……」

    「そうだろ。たまたま、近くに俺がいただけだろ? おまえはべつに俺じゃなくてもよかったんだろう?
     都合の良い相手がたまたま俺だっただけで、おまえは俺を必要としてるわけでも、俺を好きなわけでもない。
     ただ近くにいただけだ。それなのに、どうして俺がこんなものまで引き受けなきゃいけないんだ?」

    「違う」

    「馬鹿らしいんだよ」


    836 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:23:13.29 ID:lNpLKx20o

    「……違うよ、ケイくん、わたしは」

    「だったら、なんだっていうんだ。言ってみろよ。なあ、どうせ俺のことなんて、寂しいときに近くにいてくれるだけの相手だって思ってるんだろ」

    「違う」

    「だから、だったらなんなんだよ」

     わたしは。
     でも、ケイくん、わたしは。

     想像できないんだ。

     誰かとずっと一緒にいるってことが、どういうことなのか。
     誰かがわたしと、ずっと一緒にいてくれるなんて、そんなことがありえるのかってことが。
     そんなの、都合の良い妄想にしか思えない。

     誰も、わたしのことなんて見てくれない。
     好きになってくれない。見放されていく。いつか、去っていく。

     そう思っていた方が――わたしが安心できる。

     重荷。頭のなかで、その言葉を繰り返した。

     わたしは、彼の服の裾から、そっと手を離した。

    「……ごめんね」

    「……ああ」



    837 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:23:45.37 ID:lNpLKx20o

    「わたし、大丈夫だよ」

    「……」

    「ひとりで、大丈夫」

    「本当か?」

    「うん。本当」

    「……」

    「先に行って」

     暗闇の中に、足音が響き始める。

     徐々に遠ざかっていく。
     その音を聞きながら、わたしは静かにその場に腰を下ろした。

     少し湿ってひんやりとした、石畳の感触。


    838 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/03(金) 00:25:06.72 ID:lNpLKx20o

     そのまま、体を仰向けに横たえた。

     やがて足音は聞こえなくなる。

     どんな言葉を期待していたんだろう?

     目を開けても閉じても、もう暗闇しか見えない。
     誰かの呼吸さえ聞こえない。

     怪魚のおなかのなか。でもわたしには、祈る神さえいない。

     目を、閉じている。
     呼吸だけを意識する。

     それ以外のことが、今は難しい。

     頭のなかでぐるぐると、同じような考えごとがめぐっている。

     それをどうすればいいのか、今は分からない。
     ずっと、分からないままかもしれない。

    「……こういうのも、自業自得っていうのかな」

     わたしの声は、たぶん、この暗闇に響きすらしなかった。


    841 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:50:08.38 ID:rBhi7b25o



     暗闇に横たえている。
     冷え冷えとした空気がある。
     むせ返るような沈黙がある。

     ここはとってもまっくらで、
     だからとっても安心だ。
     だあれもわたしを呼ばないし、
     だあれもわたしを傷つけない。

     ここは静かで何もない。
     
     喉の奥に、かすれるような違和感を覚える。

     胸の奥が熱を持つ。

     この感覚はなんだろう。

     

    842 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:50:45.70 ID:rBhi7b25o

     ――ごめんね。

     そんな声が、どこからか、聞こえてくる。

     ――あなたは、間違って生まれてきたのよ。

     お母さん。
     お母さんの声。

     ――ごめん、愛奈。

     咳が、出た。

     また、似たような響きで、声が聞こえる。

     ――きみのために、何かできたらって思ったけど……。

     お兄ちゃん。
     お兄ちゃんの声。

     ――僕には重荷だったんだ。

     咳が、止まらない。

     咳が、咳、咳が、喉を、首元を、えぐるような咳が、止まらない。


    843 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:51:11.77 ID:rBhi7b25o

     ――重荷なんだ。

     咳にまぎれて、笑みがこぼれた。

     今、この今、わたしは何かを掴もうとしている。
     それはたぶん、狭隘で閉塞的な空間でしか手にできない何かだ。

     深い穴の底で見るような、果てのないトンネルの中で見るような、狭い箱の中で見るような、この暗闇の底で見るような、
     そこでしか得られないような、何か。それが今、わたしの手元まで来ている。

     それがあると楽だ。
     それさえあれば他に何もいらない。

     暗闇は、ただ親密にわたしを受け入れてくれる。わたしを取り囲んでいる。

     それは、『かもしれない』の集合体だ。
     あの暗がりに、誰かの背後に、視界の隅に、握りしめた手の中に、何かが『あるかもしれない』。

     シュレディンガー、二重スリット、量子力学の比喩。

     光は波か粒子か、定まるのは観測者がいるからだ。

     観測者がいなければ、それは不明確のまま。
    "明"言されなければ、"明るみ"にさらされなければ、"暗がり"はすべてを内含する。
    "無明"の中では何もかもが"不明"だ。

    "不明"であることは、何ひとつはっきりしないということだ。

     その暗渠のなかで、わたしを苛む声。

     お兄ちゃんに会えるかもしれない、と聞いたとき、わたしが引き返さなかった理由が、今なら分かる。
     はっきりさせるのが怖かった。お兄ちゃんの憎しみ、わたしを重荷に思う心、それは、"明るみ"にさらさなければ、ただの"可能性"にすぎない。
     
     もし、会ってしまったら、話してしまったら、観測してしまったら、それは確定してしまうかもしれない。
     知ってしまったら、戻れないかもしれない。

     だから、わたしはここにたどり着いたのだ。

     この暗闇の中で、わたしはわたしを維持できる。
     何も知らなければ、何の事実もなければ、わたしは傷つかない。
     わたしを苛む空想を、けれど、空想だと分かった上で、そこに溺れながら払いのけ続けることができる。
     
     そうしているのが楽なのだ。


    844 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:52:01.42 ID:rBhi7b25o

     聞こえる声すらも、"そうだったかもしれない"という可能性にすぎず、
     だからわたしは、ここでなら傷つかない。傷つききらない。

     だったら、生きていける。

     この暗闇がわたしの居るべき場所だ。

     知ろうとしないこと、考えないこと、絶え間ない自傷的な空想に苛まれながら、事実を確認せずにいること。

     どこにも向かわず、何も求めないこと。

     それがわたしの居場所、それだけがわたしの安らぎ。

     それでいい。

     それでいいのに、咳が止まらない。

     誰も来ないから、わたしは泣くことができる。
     嘆くことができる。思いのままにわめくことができる。

     誰かに聞こえるかもしれないと思ったら、泣くことさえ上手にできない。
     目を閉ざしていれば、何も見ないで済む。

     今までだってそうだった。
     ずっとそうやって生き延びてきた。

     こうなりたかったわけじゃない。

     ……咳が止まらない。


    845 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:52:54.08 ID:rBhi7b25o

     ここでわたしが、わたしを諦めてしまえば、きっとずいぶん楽になる。
     そうすればなんにもいらなくなって、誰もいなくなって、そうすればわたしはなんにも気にしないで済む。

     あとは、この声が、止むのを待つだけだ。
     その頃にはきっと、わたしも抜け殻のようになっているかもしれない。

     この暗闇の中で、わたしはただ、わたしを否定する言葉だけを聴き続ける。
     そうしていつか消えてなくなって、
     さよならだ。

     苦しかったのだろうか?
     つらかったのだろうか?
     悲しかったのだろうか?
     寂しかったのだろうか?
     
     すべてが今は暗闇の中に溶けていく。

     やがてわたしも小さな小さな粒になって、この体は消え失せて、
     誰からも気にされずに、誰からも忘れられて、そうやって生きていけるようになる。

     この声が止む頃には。


    846 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:53:43.86 ID:rBhi7b25o



     咳がとまらない。


     ――重荷。
      
     ――重荷。

     ――重荷。


     ――重荷。


    847 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:55:03.88 ID:rBhi7b25o


     

    「――あのな」

     と、声がした。

    「なに寝てるんだ、こんなところで」

     それは、"明"らかに他の声とは違っていた。

    「必死に探してたこっちがバカみたいだろうが」

     わたしは、ほとんど考える暇もなく、瞼を開いていた。

     ほのかにあたたかい光が見えた。
     深い暗闇を、その小さなあかりはやわらかく削り取っている。

     ライターの炎。

     その火を握っているのは、ケイくんだ。
     寝転んだわたしの傍に、彼は座り込んでいる。

    「……なんで、戻ってきたの」

    「……戻る?」

     いかにも不審げな顔で、彼は首をかしげた。

    「さっき……」


    848 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:55:34.83 ID:rBhi7b25o


    「さっき、なんだよ」

     どっちだろう。

     どっちが、幻だったんだろう。

     炎が"明"かりになって、彼の表情を照らしている。

     ライターの火が、蛍の光みたいだと思った。

     蛍なんて、見たこともないけど。

    「こんなところで休んでたら、何もかも嫌になっちまうぞ」

    「……」

    「……おまえがそれでいいなら、それでもいいのかもって、今までの俺なら、そう言ってたかもしれない。
     でも、もうだめだな。そんなふうに気取ってもいられないな」

    「……ケイくん?」

    「いや、まあ、いいか。……ほら、立てよ」

     そう言って彼は立ち上がり、それから、わたしに向けて手を差し伸べた。

     わたしは―― その手を受け取った。


    849 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:56:17.96 ID:rBhi7b25o


    「ずいぶん探したよ。なんだか迷路みたいなつくりをしてたな」

    「うん。まっくらで、分からない」

    「……明かり一つ持たなかったら、そりゃそうだろうな。ほら、今なら見える。見てみろよ」

     ケイくんに言われて、わたしはあたりの様子を見る。

    「――」

     暗闇は払いのけられて、
     そこにあるのは、ただほんの少し広がっているだけの、石造りの地下室だった。
     貯蔵庫……だろうか。周囲にある木製の柵に並べられているのは、ワインの瓶か。

     ……なんだか、ばからしくなってしまう。

    「行こうぜ」と、ケイくんはわたしの手を握り直した。
     わたしたちは、先へと進んでいく。

     もう、さっきまでの暗闇はない。明るみにさらされて、けれど光は、陰ならぬ影を作り出す。
     何もかもを照らすことはできないとでも言うみたいに。


    850 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:57:01.99 ID:rBhi7b25o

    「真っ暗闇の中にいたら、そりゃ、分からないか。でも、きっとおまえはずっとここにいたんだろうな」

    「……どういう意味?」

    「なんで、叔父さんのことをおまえが知りたがったのか、ずっと不思議だったんだ。
     叔父さんはきっと、おまえのことを愛してたし、大事にしてたって、俺は思う。
     でも、おまえは不安だった。疑ってた。単純に自信がないって話じゃなさそうだ。なんでかなって、ずっと思ってた。
     叔父さんと話して、なんとなく、なんとなくだけど……分かった」

    「……」

    「あの人は、言葉や態度にできなくて、だから、ものやかたちでしか表せない人だったんだと思う」

    「……ケイくん?」

    「はっきり言うべきだったんだ。それが支えになるって、あの人だって知らないわけじゃなかっただろうから。
     それとも、たしかに言っていて、でも、少なすぎただけなのかもしれないけど……」

     まあ、人のことはいいか、と、ケイくんは頭を振った。
     何かをごまかそうとするみたいに、彼は饒舌だ。

    「おまえが、俺に言ったんだ。"声に出さないとわかりません"ってさ。
     たぶん、それが全部なんだ。それで全部なんだよ」

    「……何の話?」



    851 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:57:46.19 ID:rBhi7b25o

    「そうだな。どう言えばいいんだろうな」

    「……うん」

    「つまり……なんて言ったらいいかな。
     俺は、そうだな……。おまえに居てほしくて、おまえから目を離したくなくて……違うな。
     なんて言えばいいんだろうな」

    「……ケイくん?」

    「ちょっと待て、今考えてるから。おまえが落ち込んでると落ち着かなくて、泣いてるのを見るとどうにかしたくなって。
     それで……違う。こんなんじゃダメだな」

    「……あ、あの、ケイくん?」

    「なんだよ。ちょっと待てって。なんだろうな、いったい」

    「けっこう、すごいこと、言ってるけど……」

    「つまりさ」と、わたしの声なんて無視するみたいな勢いで、彼はこちらを振り返って、まっすぐにこちらを見た。

    「俺はおまえのことが好きで、おまえがいなきゃ困るんだ。なあ、言ってること分かるか?」

     彼の表情は、ライターの灯りに照らされて、その光は、繋いだままの彼とわたしの手さえも明るみにさらした。
     
     頬、に、ほんの少し、赤みがさしている、ように見えた。

     わたしは、突然、顔が熱くなるのを感じた。


    852 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:58:18.67 ID:rBhi7b25o

    「……な、なんで急に」

    「ん」

    「なんで、急に、そんなこと言うの?」

     彼は、開き直ったみたいな、すねたみたいな顔をした。

    「言わなきゃ、分かんないだろ。ここまで言わないと、おまえはずっと俺のことなんて信じないだろ? ここまで言ったって、きっとまだ信じきれないだろ?
     だったら、おまえが信じるまで言うしかないだろ。それとも、なあ……やっぱり俺なんかの言葉じゃダメかな」

     わたしは、うまく返事さえできずに、うつむいた。

     これは、幻じゃないのかな。

     都合のいいだけの、幻じゃないのかな。

     わたしはただ夢を見ているだけで、まだ暗闇に横たえていて、そこに妄想を浮かべているだけじゃないのかな。

    「ケイ、くん……」

    「なあ、叔父さんがおまえを恨んでたかもって、おまえがいなければ幸せだったかもって、そんなこと、本気で思うか?」

    「……」

    「俺は、おまえと叔父さんがどんなふうに過ごしたか、知らない。知らないから、無責任な言い草になると思う。
     でも、思い出せる限り、思い出してみろよ。おまえと過ごした叔父さんは、どんな顔をしてた?
     楽しそうじゃなかったか? おまえをどんな目で見てた? おまえを憎んでたと思うか?」

    「……」

    「前も似たようなことを言ったっけな。でもさ、結局、そういう問題なんだと思う。俺が今言った言葉だって、きっとそうだよ。
     ――おまえが、それを信じるか、信じないか、それだけのことなんだよ」 


    853 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:58:51.70 ID:rBhi7b25o

     わたしは、静かに考え込んだ。
     何を、どう、言えただろう。

     ただ、いま言われた言葉のすべてが、頭の中を掻き乱して、ショートしそうだった。

     ケイくんは、ふたたび前を向いた。目を合わせるのが恥ずかしくなったみたいに見えた。
     わたしは、彼に手を引かれたまま、彼の背中とか、首筋とか、後ろ髪とかを、ぼんやりと見上げる。

     そうしてふと、思い出した。

    「……ね、ケイくん。昔見た夢のことを、今思い出した」

    「……どんな?」

    「真っ暗な海が、荒れ狂ってるの。わたしは、小舟にのって、波の間を必死に進んでいく」

    「ああ」

    「どこかに、たどり着こうとしてるの。でも、あたりは真っ暗で、波は荒々しく山みたいに盛り上がって、
     わたしが乗っている船は何度もひっくり返りそうになる。オールを漕いでも、ほとんど意味なんてない。そういう夢」

    「なるほどな」

    「……なるほど、って?」

    「いや、有名な話を思い出したよ」

    「どんな?」

    「どっかの太陽神話だったか……。
     朝、神の英雄が東から生まれる。そして日の車に乗って、空の上を動いていく。西には偉大な母が待ち構えていて、その英雄を飲み込んでしまう。
     そして暗い夜が訪れる。英雄は、真夜中の海の底を航海するはめになる。そこで、海の怪物と凄まじい戦いをする。
     一歩間違えば、死んでしまうかもしれない、生き残れないかもしれない、そんな危険な戦いだ。怪魚に飲み込まれるって話もあるんだったか。
     そして、その戦いを生き延びると、英雄はふたたび東の空に蘇る。死と再生の元型……"夜の航海"って言ったっけな」

     太陽、夜、魚、航海。

     暗い夜、波浪は激しく、生命すら脅かされる。
     その暗闇を抜けた先で――日が昇る。何もかもが"白日にさらされる"。それは、必ずしも、祝福ではないかもしれない。

     でも、その連想は、今はどうでもよかった。


    854 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/04(土) 23:59:41.54 ID:rBhi7b25o

    「そうじゃないの」

     とわたしは結局言うことにした。

    「ケイくんは……灯台みたいだね」

    「……灯台?」

    「うん」

    「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」

    「どうして?」

    「身動きがとれない。迎えにもいけない。ここにも来れない」

    「……そっか」

     だったら、彼を……何に例えるべきだろう?

     そんな考えは、きっと、うまく回らない頭が、どうにか思考を維持するために空転していただけの動作でしかなく、
     たぶん、わたしの頭はもう、彼の言葉でいっぱいだった。

     ほんのすこし歩いただけで、わたしたちは簡単に向こう側の扉にたどり着く。

     その扉の先にもまた、貯蔵庫が広がっている。
     今度は少し、構造が入り組んでいた。


    855 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/05(日) 00:00:11.44 ID:5szBys0go



     ラプンツェルの童話を思い出した。
     何年か前に、映画になった、有名なグリム童話。

     あのお話を、今ではいろんな人達が知っているけれど、本当の姿は、ほんの少し違う。
     お兄ちゃんの持っていた本を読んで、わたしはそれを知った。
     
     ラプンツェルというのは、野菜のことだ。日本だと、ノヂシャと呼ばれる。

     物語の冒頭に、まず夫婦がいる。
     彼らはなかなか子宝に恵まれず、ようやく妊娠したと思ったら、妻が弱ってしまう。

     それで、妻は近くの家の庭のラプンツェルを食べたがり、夫はそれを盗み取って妻に与える。
     そこは、魔女の家だと知られていて、だから近付こうとするものは誰もいなかった。

     その魔女は、夫がラプンツェルを盗んだことに気付いて怒り狂うが、話を聞いて顔色を変える。
     そして、ある交換条件を出した。

     庭のラプンツェルを好きなだけ食べてもいい。
     その代わり、子供が生まれたときには、その子をわたしに差し出しなさい。
     
     夫婦はその条件をのんだ。


    856 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/05(日) 00:00:48.92 ID:5szBys0go

     無事に生まれた子供は、ラプンツェルと名付けられて、魔女に連れ去られていった。

     娘はやがて美しい少女になり、魔女は彼女を高い塔の中に閉じ込める。
     そこには扉もなければ梯子もない、ただ窓だけがある高い塔だ。

     魔女は、ラプンツェルの長い髪を梯子の代わりにして、塔の中へと出入りする。
     
     美しい娘は、世界から隔絶され、塔の中をすべてとして生きる。

     けれど、何年か後、その塔の傍を、ひとりの王子が通りかかり、ラプンツェルの美しい歌声を耳にする。
     王子は心惹かれ、塔を昇る入り口を探すけれど、どこにもそんなものは見つからない。

     それで彼は、毎日塔の近くへと出かけていくようになった。

     そしてある日、魔女がラプンツェルに髪を下ろしてもらうのを見たのだ。

     王子は、賭けのような気持ちで、魔女のいない隙をつき、ラプンツェルに声をかけ、髪を下ろしてもらおうとする。
     そして、彼女は髪を下ろした。

     ラプンツェルは、男というものを初めて見た。王子は、自分が彼女の歌声に惹かれたことを話し、彼女を安心させる。
     そうしてふたりは惹かれ合い、王子はラプンツェルを妻にしたいと言い始める。

     彼女はそれを受け入れるが、塔の下へと降りられない。
     そのため、彼女は王子に、会いにくるたびに絹紐をもってくるように頼む。それを撚って髪の代わりに塔を降りようとしたのだ。

     魔女が塔を訪れるのは、大抵"昼間"で、だから二人は日が暮れた"夜"に会うと約束した。


    857 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/05(日) 00:01:41.02 ID:5szBys0go

     ところが、約束は思わぬところで破られる。
     
     ラプンツェルは、うっかり口を滑らせて、魔女に王子の存在をほのめかしてしまうのだ。

     ラプンツェルを閉じ込めているつもりだった魔女は、この事実を知って怒り狂い、彼女の長い髪を切り落として、誰もいない砂漠に追放してしまう。

     その日の夕、何も知らずに塔を訪れた王子は、いつものようにラプンツェルに髪を下ろすように頼む。
     魔女は、ラプンツェルの長い髪を窓から垂らす。
     
     そして、塔の中へとあらわれた王子に、こう言うのだ。

     ――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない。

     王子は、ラプンツェルを失った悲しみから前後不覚になり、塔の上から身を投げ出した。
     なんとか命はとりとめたものの、茨に刺されて目を潰し、"盲"いてしまった。

     彼は体を引きずって、木の実や草を食べて、ラプンツェルを思いながらさまよった。
     そして数年ののち、悲嘆の旅路の果てに、王子は彼女が棄てられた砂漠へとたどり着く。

     彼女は、二人の子供を産んで、そこで暮らしていた。

     ラプンツェルは、王子の姿を認めると、首へ抱きついて涙を流した。
     その涙が王子の目に入ると、盲目だった彼の目は、ふたたび"光"を取り戻す。

     王子はラプンツェルを国に連れ帰り、ふたりは国中に歓迎され、幸福に暮らす。

     けれど、魔女がその後どうなったのか、知るものは誰一人いない。


    858 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/05(日) 00:02:26.05 ID:5szBys0go



     ラプンツェルは"妊娠"していた。

     これは過保護を諌める寓話であるともとれるらしい。

    "過剰な保護"、世間との隔絶により世間知らずだったラプンツェルは、初めて見た男というものに心を簡単に許し、
     それ故に"妊娠"した。それによって魔女が王子の存在に気付いたという話もある。

    "適切な行動を取るためには、それについての知識を身につけていなければならない"。

     それは、たしかに面白い受け止め方だ。一面的だという気もするが、べつにそれがすべてと言うつもりもないのだろう。

     魔女とは何か、両親の存在はどうなのか、王子は何なのか、なぜラプンツェルは王子に最初からロープのようなものを頼まなかったのか。
     どうして魔女は、娘をラプンツェルと名付けたのか。
     童話だからと言ってしまえばそれだけかもしれない。けれどここには、汲み尽くしがたい何かが含まれているようにも見える。

     どうしてラプンツェルの涙が王子に"光"を取り戻させたのだろう?
     それは比喩なのかもしれない。

     王子の暗闇と彷徨。それもまた、"夜の航海"なのかもしれない。

     旅の果ての砂漠で彼がラプンツェルと出会い、"光"を取り戻したのは……。

     べつに、この物語に自分を重ねたわけじゃない。わたしはラプンツェルでもなく、王子でもなく、魔女でもなく、両親でもない。
     でも、そのすべてに、わたしがいるような気がした。
     
     わたしは塔の上に閉じ込められ、
     あるいは、塔の上に閉じ込め、
    "盲"目になってさまよい、
     あるいは、"暗"い旅の果てに"光"を取り戻し、
     そして、生き延びるために、愛しい人を失うことを受け入れる。

     ……けれど、魔女は、どこに行ったのだろう。

    (――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない)


    859 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/05(日) 00:03:13.08 ID:5szBys0go




     わたしとケイくんの前に、階段がある。
     
     石造りの黒い階段は、わたしたちの上方へと伸びている。
     
     二人で並んで、昇っていく。

     その先には、白い扉が見えた。

     白い扉。見覚えのない扉。まだ、開けたことのない扉。

     その先に、わたしたちは向かっていく。何が待っているのかも知らないまま、それでも。

     その先に。

     わたしたちは、扉を前に、目を合わせ、頷き合う。

     わたしは、手を伸ばし、ノブを掴む。

     扉は、簡単に開いた。
     そして、光が溢れ、わたしは一歩、先へと踏み出す。

     光に、わたしは覆われていく、その瞬間、突然に、

    (――笑い声が聞こえる)

     手が、手の中の手が、なくなっていた。

     わたしは振り返る。

     彼のからだが、宙に放り出されている。

     何かに引きずられたように、暗闇の中に落ちていく。

     わたしはその先に、黒い服の女を見た。

    (彼女が牙を剥いて笑っている――)

     けれどわたしのからだは既にそこにはなく、


    860 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/05(日) 00:05:38.67 ID:5szBys0go





     まばたきのあと、わたしのからだは、遊園地の廃墟にあった。

     背後には既に、固く閉ざされたミラーハウスの扉しかない。

     彼の姿はどこにもない。

     辺りは暗く、何かを悼むように、ただ雨だけが降り注いでいた。

     ――東の空が、ほのかに赤く、雲を照らしている。

     脈絡のない朝が、唐突にわたしの前に現れていた。


     

    863 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:14:56.81 ID:Ch5AfJxSo


    ◇[Monte-Cristo] R/b



     ――夕陽が傾こうとしていた。

     夜が近付いている。

     橋の上を離れて、僕はひとりで歩き始めた。

     何処に向かうでもなく、何処に行くでもなく、歩くしかなかった。

     橋の向こうからこちら側にやってきて、僕はもうあちら側には戻れない。
     懐には血に濡れたナイフがある。

     僕が見たもの。僕がしたこと。いろんなことがよくわからないうねりになって胸の内側を這いつくばっている。

     けれどそれは重要ではない。

     たとえこれがあろうがなかろうが、僕がしたことはひとつだ。
     僕は一人の人間を刺し、一人の少女を泣かせた。

     穂海のあの表情。

     僕が僕を刺したときの穂海のあの表情。
     あの表情!


    864 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:15:23.17 ID:Ch5AfJxSo

     さっきまで、僕と話していた彼。
     彼の名前は、なんというのだろう。
     愛奈がこの世界にいる、と聞かされたとき、僕の頭を支配したのは一種の諦めだった。

     もう、何もかもがあからさまに示されてしまった。

     僕はもう、愛奈のためになんて言葉を言う資格を失ってしまった。

     たったひとりの大切な存在。大切にしてきた存在。大切にしなければいけないと信じてきた存在。
     彼女に見抜かれてしまう。

     芝居は終わりだ。

     彼女は知る。彼から聞いて知る。僕の醜さを、あるいは勘付いていたかもしれない僕の妄執を、彼女は知る。

     僕は死ぬ。愛奈にはきっとなにひとつ残せないままで、愛奈のためになにもできないままで、
     僕自身すらなにひとつ得られないまま、死ぬ。

     僕はこんな姿のままで死んだのだ。
     だから愛奈は僕を探しにこんなところまで来なくてはならなかったのだ。

     どうしてだろう、はっきりとそうわかった。 

     街は夕焼けに染まっていく。空は紫を帯びていく。
     途方に暮れているわけにはいかない。

     僕はどこかに向かわなきゃいけない。
     どこかに……でも、どこに行けるっていうんだろう。

     僕を迎え入れてくれる場所なんて、はじめからどこにもないのに。


    865 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:15:49.33 ID:Ch5AfJxSo



     
     川沿いの道をぼんやりと歩きながら、僕はこれまでのことを思い出そうとしていた。
     
     いったい何が僕をこうしてしまったのか、それが分からないままだ。

     河川敷の遊歩道を、誰かが散歩している。僕はその姿を眺めている。
     街並みが昏くなっていく。

     やがて、僕は自分の進む道の先に、ひとりの人間を見つける。

     彼女は、待ち構えるように立っていた。

     僕からは何も言わなかったし、彼女も僕のことを呼ばなかった。
     それでも目を合わせて、お互いの姿を認めているのが分かる。

     立っていたのは篠目あさひだった。

     僕は彼女の立ち姿に、ひどくつくりものめいた気配を感じた。
     その表情のひとつにさえも。


    866 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:16:16.78 ID:Ch5AfJxSo

    「少し、話そうか」と彼女は言った。彼女にしては、とても明晰な声音だった。

     僕は返事をせずに、彼女の傍まで歩いていった。

     彼女は歩き出し、僕はその隣をついていく。
     街はよく見知ったはずの空間だ。それなのに、どことなく、異郷のような雰囲気がある。
     それと同時の言い知れぬ懐かしさ。

     これはいったいなんだろう。

    「今朝、夢を見たの」

     その溶けるような一言だけで、彼女が僕の存在に驚かない理由が分かった気がした。

    「遼一」と、まだ一言も言葉を発していない僕のことを、彼女はそう呼ぶ。
     もう、気付いているのだ。

    「あなたがやったんでしょう?」

     僕は、返事をしなかった。どう返事をすればいいのかも、わからない。

    「ねえ、遼一……どうなの」

     彼女は、その答えを既にわかっているはずだ。それなのにどうしても、僕の口から言わせたいらしい。


    867 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:17:17.22 ID:Ch5AfJxSo

     まるで裁判所みたいだ。

    『タルトを盗んだのはあなた?』

     もし問われたら、僕は認めるしかないだろう。

    『だったら、首を刎ねないとね。刑が先、判決は後』

     どうせ罪状は否定できない。
     止めてくれるアリスもいない。

    「……僕が刺した」

     結局、認めるほかないような気がしたし、そもそも、認めたところで失うものなんてないような気がした。

     たとえ誰が知っても知らなくても、僕自身は知っている。
     そうである以上、僕にとって僕は刺した僕以外の存在ではありえない。

     だったら、他人が知っているか知らないかなんてことは、些細なことだ。

    「どうして?」とあさひは続けた。僕は彼女の方を見ない。僕と街の間にはまだ一枚の鱗がある。それが剥がされきっていない。

     僕はそれをどうしたらいい?

    「わからない」と、そう答えるしかない。
     でもそれは逃げだ。僕は許せなかった。

     愛奈がいない世界の僕が幸福な顔をしているのを許せなかった。

     どうして?
     それは僕ではないのに。

     いつもそうだ。
     まだ、何か、剥がれていない膜がある。

     そして僕は、できるならそれを剥がさないでいたい。


    868 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:17:45.02 ID:Ch5AfJxSo


    「僕には、何が正しくて何が間違ってるのか、もう分からない」

     そんな、取るに足りない一言を、あさひはすぐに笑った。

    「そんなの、最初から誰も知らないよ」

     そのとおりだと、僕は思った。

    「……ねえ、遼一、わたし、少しだけ分かったの」

    「……何を?」

    「ねえ、わたしの家にいかない?」

    「……」

    「少し、あなたは落ち着くべきだと思う」

     僕は、ほんのすこしだけ考えて、結局従うことにした。
     なんだか、何もかもがどうでもいいような気がした。


    869 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:18:43.47 ID:Ch5AfJxSo



     そしていま、僕とあさひは夕日がさしこむ彼女の家のダイニングで差し向かいになってテーブルを挟んで座っている。
     
     あたりには沈黙が――無音とは違う、沈黙が――漂っている。

     あさひが入れてくれたコーヒーがカップに入っている。綺麗な意匠のソーサーには金色のマドラーとスティックシュガー。
     
     あさひは何も言わずに僕にそれを差し出して、僕は何も言わずにそれを受け取るでもなく受け取った。
     違う、受け取ったつもりなんてない。でも、気付いたら差し出されていて、受け取ったことになっていた。

     いつもそうだ。

     いつだってそうだった。

     いつのまにか、僕は受け取っていた。受け取るつもりのないものを、差し出されていた。
     そして、抱え込んで、いつのまにか、その重さで崩れ落ちそうになる。

     引き受けたつもりのないものを、いつのまにか引き受けている。

     夕日が沈めばやがて夜が来る。
     
     外では雨が、蒸気のような雨が、辺りを覆い隠そうとしている。

     僕らは屋根の下にいる。
     壁があり、床があり、窓がある。

     雨は、外に吹き付けている。

     ここではない。


    870 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:19:11.42 ID:Ch5AfJxSo

     床に投げ捨てた僕の鞄から、MDプレイヤーが顔を覗かせている。

     スティングの例の曲を思い出す。

     シェイプ・オブ・マイ・ハート。

    『I know that the spades are the swords of a soldier
     I know that the clubs are weapons of war
     I know that diamonds mean money for this art
     But that's not the shape of my heart』

     知っている。

     スペードは兵士の剣、クラブは戦う為の武器、
     ダイヤは賭けで得られる富を象徴する。
     けれどハートは……僕のハートの形をしてはいない。
     
     あんなに綺麗な輪郭じゃない。

     あんなかたちなんかで、人のハートは表し切れない。

     頭の中で、その曲を流し続ける。

    『Those who speak know nothing
     And find out to their cost
     Like those who curse their luck in too many places
     And those who fear are lost』

     優雅と言えば優雅な時間かもしれない。


    871 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:19:49.14 ID:Ch5AfJxSo

    「すみれは――」と、あさひは口を開いた。

    「どうしたの?」

    「さあ。どうしたんだろう」

    「遼一は、帰ったんじゃなかったの?」

    「そうするはずだった」

    「遼一たちがいなくなってから、もうずいぶん経ったから、てっきり帰ったんだと思ってた」

    「僕としては、それは昨日くらいの話なんだ。なんなら、今日かもしれない」

     帰り道の途中で、僕はざくろに頼んでこの世界に帰ってきた。
     そして出てきたら、日付はずいぶん変わっていた。変な話だ。

     あさひからすると、もう三週間くらいは経っていることになるのだろう。

     僕もまた、ざくろと同じような動きに巻き込まれてしまった。
     もはや僕にとっては、空間と同じように、時間もまた座標に過ぎない。


    872 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:20:17.50 ID:Ch5AfJxSo

    「どうして……碓氷を刺したの?」

    「どうしてだろうな」

    「……」

    「許せなかった。許したくなかった。でも……」

     でも、なんだ?

     続く言葉なんて、言い訳にしかならない。

    「いいよ」

    「……なにが?」

    「たぶん、わからないから、もういいよ」

     そう言ってあさひはうつむきがちにコーヒーに手をのばす。
     僕もそれを真似て淹れてもらったコーヒーに口をつけた。

     美味しい、というのは分かる。
     これをたぶん、美味しい、と呼ぶんだろう、と、それは分かる。

     僕は責めてほしかった。
     責めて責めて責めて責め抜いてほしかった。

     間違ってるってそう言ってほしかった。

     ごめんなさいと、謝らせてほしかった。
     それは、でも、加害者の理屈だ。

     赦しを求めることすらも、おそらくはしてはいけない。
     裁かれることすらも、求めてはいけない。

     誰かを傷つけるというのは、たぶん、そういうことだ。


    873 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:21:09.16 ID:Ch5AfJxSo

    「遼一について、ほんのすこしだけ、わかったようなことを言ってもいい?」

    「……どうぞ」

    「遼一はたぶん、子供の頃、特に勉強しなくてもテストで良い点がとれたし、何もしなくても足が早かったでしょう」

    「……どうだろうな。よく覚えてない」

    「きっと、そうだと思う。だからなの。だから、遼一は自分が嫌いなの」

     決めつけたような言葉。それは、でも、もう、耳慣れてしまった言葉だ。
     それに、間違いだとも、あまり思わない。

    「出来たっていう経験があるから、出来なくて当たり前のことでも、できるはずだと思っちゃう。でも出来ない。だからつらい。
     最初から出来ない人は、ある意味で楽よ。出来ないことをできるようにするために、努力するって訓練を子供の頃からするからね。
     半端に恵まれちゃった人ほど滑稽なものってないよ。――遼一って、かわいそうね」

    「……わかったような、ことを、言うね」

    「そう言ったもの」

     僕は、べつに否定しなかった。

    「気に入らないことを、許せないのね。思い通りにいくことばかりだったから、気に入らないことがあると、許せなくなるのね」

     あさひは、そうやって僕の幼児性を暴いた。

    「――わたしと一緒」

     そう言って笑う。そして彼女は話を続ける。

    「生きるはずの人を殺すことと、死ぬはずの人を生かすことと、いったいどんな差があるんだろう」

    「その説によると」と僕は反駁する。

    「医者と殺人者の間に違いがないように聞こえるね」

    「『人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね』」

    「ブラックジャック?」

    「そう」

     彼女はくすくす笑う。僕は……笑えない。

     タルトを盗んだのは赤のジャックだ。




    874 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:22:03.14 ID:Ch5AfJxSo

    「それでも……」

     と、僕は言う。

    「それでも、誰かを傷つけるべきじゃない」
     
    「……」

     そうじゃないと、姉のことを赦してしまうことになる。
     でも僕は、もう、責める権利を失ってしまった。

     どんな理屈があっても、感情があっても、事実があっても、
     人を傷つけた人間は、人を傷つけた人間を責められない。

     それをもし認めてしまえば、
     理屈さえあれば、感情さえあれば、事実さえあれば、誰かを傷つけてもいいことになる。
     
     だから僕は……。

    「綺麗な言葉だね」と彼女は言った。

    「嘘みたいに綺麗な言葉」

     僕は何も言わない。


    875 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/11(土) 00:22:29.61 ID:Ch5AfJxSo

    「でも、望むと望まざるとに関わらず、わたしたちが生きているのはきっとそういう世界なんだよ」

    「……」

    「それはきっと、遼一も知っていることでしょう?」

    「でも、刺すことはなかった」

     他人事みたいに、僕はそう言った。

    「刺すことは、なかったな……」

    「後悔してるの?」

    「たぶんね。きっと、沢村もそうだったんだと思う」

    「……」

    「もう帰れない」

    「それじゃあ、これからどうするの?」

    「……」

    「碓氷は、死なないよ」

     あさひは、不意にそう言った。

    「碓氷は死なない。何事もなかったみたいに、生き続けるよ。
     碓氷の代わりに遼一が刺された。そのときの傷を、遼一は碓氷に返した。
     ひょっとしたら、それだけのことなのかもしれない」

    「それは……慰め?」

     彼女は首を横に振った。

    「違うの。これは、きっと事実なの。あなたが彼を刺したことで変えられることなんて、最初から、ひとつもない。
     あなたは――何も変えられないの」

     その言葉は、けれど、
     今の僕には、どうでもいいことだった。



    878 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:47:04.50 ID:lNunJpruo



     話はたいして弾まなかった。
     
     窓の外で夕日が当たり前に沈んでいき、僕達の沈黙は湿気のようにべたついて鬱陶しくなりはじめている。

     僕達が宿を借りたときと同様に、すみれの家族は帰ってくる気配すら見せなかった。

     やがてあさひは立ち上がった。

    「何か飲む?」

    「何かって?」

    「お酒ならある」

    「酒……?」

    「なんだろう、ワインだったかな」

     
     彼女はダイニングを出て行った。キッチンに酒を取りに行ったのかもしれないし、こっそりと警察を呼ぶつもりなのかもしれない。
     どちらでもいい、と僕は思った。

     結局、彼女はすぐに戻ってきた。グラスをふたつとワインのボトルを抱えて。

     僕は立ち上がって彼女からボトルを受け取った。


    879 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:47:33.60 ID:lNunJpruo


     彼女は不慣れな様子で栓を抜き、グラスを並べてそこに注いだ。

    「よかったのか?」

    「いいの」と彼女は言う。

    「どうせわたしのものじゃないし」

     自分のものじゃないから、問題なんだと思うのだけれど。
     とはいえ、それをいまさら僕が気にするのは、なんだか妙な話だという気もする。

    「どうぞ」と彼女は僕にグラスを差し出した。
     ほんのすこしだけ迷ったのはどうしてだろう。

     ワインなんて口にしたこともない。

     けれど僕はそれを受け取った。

     彼女は、また僕と差し向かいの位置に座りなおす。
     そしてグラスをこちらに掲げた。

     触れ合ったガラスの縁が鈴のような音を鳴らす。

     僕はほんの少し、その臙脂の液体を口に含んで飲み下した。

     味はよく分からなかった。


    880 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:47:59.78 ID:lNunJpruo

    「本当はね」、と、僕は話し始めた。

    「今よりほんの少し普通に近い子供だった頃には、未来に対して希望をもっていたことだってあったんだよ」

    「本当に?」

    「いや、嘘かもしれない」

    「どっちが嘘なの?」

    「そうだな。つまり、今よりは、希望を持っていた、かもしれない。でも、それは今よりずっとぼんやりとしたものだった」

     ぼんやりと……そう、ぼんやりと。

     僕は、思っていた。
     
     希望、というよりは、むしろ、欲望のようなものを。

     けれどそれは近付けば近付くほど曖昧になってまた遠ざかるような代物だった。

     真夏の逃げ水のような。


    881 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:48:32.34 ID:lNunJpruo

    「たとえば、僕にも好きな子がいた。それが、今よりは強かった希望というものかもしれない。でも、よく考えてみると分からないんだ。
     僕は別に、その子と一緒にいたいとか、どこかへ行きたいとか、何かをしたいとか、そんなことは考えたこともなかった。
     一緒に夏祭りに行きたいとか、クリスマスを過ごしたいとか、あるいは好きな音楽を言い合ったり休日に出かけたりね、
     そんなこと、僕は別にしたくなかったんだ。映画なら一人で観る、食事も一人の方がいい、本の感想なんてあまり言葉にしたいものじゃない。
     そうしてふとわかったんだ。僕には、『誰かと一緒に何かをしたい』って欲望がことごとく抜け落ちてるんだって」

     一人の方が楽だ。

     何処へ行くのも気楽でいい。
     好きなところに行けるし、好きなタイミングで移動できるし、好きなものを食べられるし、好きなときに帰れる。
     気まぐれや気分で行動しても誰にも文句をつけられることがない。

     誰かに気を使って合わせたりしなくていいし、誰かに付き合わされることもない。
     乱されない、揺るがされない。

     乱されないから、誰のことも疎まずに済む。
     誰のことも嫌わずに済む。
     
     どれだけ好きだと思っていた相手だって、何かの事情で、嫌気がさしてしまうことがある。
     落胆してしまうことがある。失望してしまうことがある。

     そんなのはごめんだ。

     僕は、僕の中の誰かに対する思いを、ずっと守っておきたい。
     それを永遠のように保持していたい。

     だったら、知らなければいい。知らせなければいい。
     覆い隠して、見ないようにして、見えないようにして、触れないことで、それは永遠になる。
     
    "Mundus vult decipi, ergo decipiatur."


    882 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:49:24.15 ID:lNunJpruo

     あさひは何も言わない。僕はまたグラスに口をつけて考える。
     
     少し、違うような気がした。
     そこにはまだ、自覚している以上の何かが秘められている気がする。
     それがなにかは分からないが、何かがまだ明かされていない。僕自身にすら語られていない。

     僕の希望、僕の欲望、僕の失望。僕をこの場に運んできたなにものか。
     それは大河が海に流れ着くような宿命だったのか。
     それとも風に乗った種が地表に根を張るような偶然だったのか。

     あるいはそんな考えは、犯した罪から逃れたいがための責任転嫁か。

     いずれにせよ、そこに何か隠されている。
     
     けれど、そんなことを考えて何になるんだろう。

     イメージしてみる。

     愛奈は、さっき出会った名前も知らない誰かと一緒に、僕を探しにくる。
     愛奈はどんな姿をしているのだろう。

     それは僕の知っている愛奈の姿とどのくらい違うのだろう。

     七年。そのとき僕は愛奈の傍には居ない。きっと死んでしまうんだろう。

    "vulnerant omnes,ultima necat."
     

    883 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:49:57.05 ID:lNunJpruo

     僕のいない世界。
     それはずいぶん簡単にまわりそうな気がする。

     何もかもがうまく回るような気がする。

     僕という余計な歯車をはじき出した機械。
     それはずいぶん綺麗に動きそうに思える。

     僕は所詮余計もので、いるだけ邪魔なまがいもので、
     不潔な生き物の卵で、
     所詮いつかは誰にとっても不愉快なだけの何かになる。

     それはもう決まっていることのように思える。

     そんなふうに思うのはけれど、あるいは自己憐憫にすぎないのだろうか?
     
     愛奈を守ろうと思った。愛奈のために生きようと思った。
     それはどうしてだ?
     
     それはきっと、そうでもしないと僕は、誰にも存在を許されないような人間のままだと思ったからだ。
     僕の醜さを僕は知っている。
     
     その縋りつくような惨めさを、僕だけは知っている。

     だからこそ僕は、誰かのために生きることでしか、誰かのために生きると決めることでしか、
     自分の存在を了解できなかった。

     自分がここにいてもいいのだと、どうしても思えなかった。

    "Aliis si licet, tibi non licet."


    884 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:50:32.24 ID:lNunJpruo

     僕が考え込んでいる間にあさひは立ち上がった。何かつまむものをとってくる、と彼女は言う。

     僕は返事をしなかった。

     どう考えても間違っている。 
     どこかしら間違っている。どこがというのではない。何かが欠けている気がする。

     数分後、あさひはナッツとキャンディチーズを盛り合わせた皿を持ってきた。
     差し出されたチーズの包みをほどきながら、僕はまだ考えていた。

     僕は愛奈のために生きることで僕自身を認めようとした。
     そうすることが正しいように思えたから、褒められるべき、許されるべきことのように思えたから。
     
     愛奈は僕にとって生きる理由になった。
     生きていていい理由だった。

     逆を言えば僕は愛奈がいなければ怪物の卵に過ぎず――
     つまり愛奈は恰好の理由だった。

     僕が周囲に、僕はここにいてもいい存在なのだと、そう主張するための、彼女は理由に過ぎなかった。

     愛情ではない。

    "Peior odio amoris simulatio" 


    885 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:51:25.50 ID:lNunJpruo

     いつのまにか空になったグラスにあさひがワインを注いでくれた。僕はそれに口をつける。

     僕は、僕自身が生き延びるために、生きていていいんだと信じたいがために、愛奈を利用した。
     
     そうすることで許されようとした。
     
     僕は愛奈がいることでしか許されないと思っていた。
     けれど――この世界には、愛奈がいない。

     愛奈がいない世界で、碓氷遼一は許されている。
     あるいは、自分自身を許している。

     居て当たり前の存在のように、受け入れられるのが当然のような顔で、
     生見小夜と街を歩き、
     穂海と手を繋ぎ、
     平然と笑い、
     当たり前に歩き、
     あさひを気味悪がる。

     僕と同じ怪物の卵なのに。
     愛奈がいないと生きていることにさえ自信を持てないのに。

     どうして碓氷遼一は笑っていられた?
     そんなことが――許されるのか?

    "Non omne quod licet honestum est."


    886 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:52:06.74 ID:lNunJpruo

     認めよう。

     僕がこんな有様になったのは、おそらく、祖父の姿のせいじゃない。
     そこに起因する(と僕が思っていた)僕の憂鬱さえも、本当はそうではない。

     おそらくは、そういうものだ。

     どれだけ皮を剥いで肉を抉って見せたところで、自分では見えない、自分では辿り着けない、そういう場所に真実が存在する。
     僕の目では、僕がどんな人間か、どうしてこんな有様になってしまったのか、確かめられない。

     僕にとっての真実は、つまりこういうことだ。

     僕自身の憂鬱の原因を家庭環境に押しこめ、
     その憂鬱を愛奈を利用することで軽症で済ませようとして、
     それによって自分の正当性を担保し、その正しさで誰かを審問し、
     そして傷つけることで裁いたつもりになった。
     
     審問の話法。

     誰かを裁くとき、裁く者の善悪は常に留保される。

     そして僕は人を傷つけ、
     僕の傍には誰もおらず、
     僕は誰にも必要とされず、
     僕の代わりは山ほどいる。

     愛奈にとって、あの彼がその役をなすように。
     生見小夜にもきっと、ふさわしい誰かがいるだろう。

     もともと僕が演じる役は用意されていない。

     僕はもう、誰かの劣化品ですらない。

     怪物の卵。
     いや、怪物そのものだ。

     認められたいだけの、許されたいだけの、受け入れられたいだけの、求めるだけの、
     与えることも認めることも許すことも受け入れることも愛することもできないままの、
     怪物だ。


    887 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:53:12.01 ID:lNunJpruo

     ――ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……。
     ――……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの。

     小夜は、そう言ってくれた。

     でも、僕に何が言えたっていうんだ?

     全部全部話したら、小夜だってきっと僕のことなんて見放していっただろう。
     小夜が僕を気にかけてくれたのは、僕が何も話さずにいたからという、ただそれだけの理由に過ぎないように思える。

     ただ彼女は、不可解を理由に気にしていただけで、すべてが明るみにさらされれば、すぐにうんざりしていっただろう。
     僕はそう思う。それが事実だと思う。それが事実だとしか思えない。

    「ねえ、遼一――遼一は、何が欲しいの?」

    「……え?」

    「何が欲しくて、ここまできたの?」


    888 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:53:51.13 ID:lNunJpruo

     ……必要としてくれる人がほしかった。必要としてくれる人が必要だった。

     そうじゃないと自分が存在していていいのかわからなかった。

     誰にとっても不必要な存在なら、早々に消えてしまいたかった。

     誰かに、ここにいてもいいんだと、
     僕はここにいるんだと、
     それでいいんだと、
     言ってほしかった。

     俺は間違ったのか。ほかに何かやりかたがあったのか。俺は何かを見逃したのか。
     自分のせいにするのは傲慢だと誰かが言う。どんなときでも正解を選べるなんて空想だって。
     それは事実だ。僕たちは無謬ではいられない。

     でも、そういう問題じゃない。

     どうすればよかった? どうすればいい? どうしてこんなことになってしまうんだ?

     この期に及んで自分のことばかり考えてしまう。
     
     ――碓氷くん、変わったよね。距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
     ――昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
     ――昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった。

     過去や、犯した罪や、醜さなんて、そんなものは所詮ごまかしにすぎないのかもしれない。

     僕は単に、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。
     誰かに、そばにいてほしかったのかもしれない。


    889 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:54:17.11 ID:lNunJpruo


     小夜啼鳥の童話を思い出す。
     
     遠い遠い昔の話だ。
     時の中国の皇帝の、絢爛豪華な御殿には、風光明媚な御苑があった。
     
     その広大な地にあるものはなにもかもがすべて美しくきらびやかで、訪れた人々はそこにあるなにもかもに感心し褒めそやしたが、
     そのなかでももっとも美しいのはさよなきどりの歌声だと、誰も彼もが口を揃えて譲らなかった。

     旅行者たちは国に帰るとまっさきにその鳥の声について語り、学者たちはやはりさよなきどりの声にまさるものはないと本を著し、
     詩人たちはきそってその歌声を言葉のなかに顕そうとした。

     けれど、その皇帝は、その広大な庭の持ち主である皇帝は、それまでさよなきどりの声を耳にしたことは一度もなく、
     その鳥の存在さえ、御苑について誰かが著した本を読んで初めて知ったくらいだった。

     そこで彼は、さよなきどりの歌声をどうしても聞いてみたいと、侍従長に命じてこれを探させた。

     さて、侍従長が御殿の台所で下働きをしている娘をつかまえて、彼女に話を聞いてみると、彼女はなんでもないことのようにこう言ったのだ。

     ――まあ、さよなきどりですって、わたしはよくしっておりますわ。ええ、なんていいこえでうたうんでしょう。

     ――きいているうちに、まるでかあさんに、ほおずりしてもらうようなきもちになりましてね、つい涙がでてくるのでございます。


    890 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:54:56.00 ID:lNunJpruo

     下働きの娘は侍従長をさよなきどりの元に案内し、その鳥に皇帝の前で歌うように説得した。
     鳥はその言葉を受け入れる。

     さよなきどりの歌声に、そのあまりのうつくしさに、皇帝の目からは涙があふれて止まらなかった。

     そして、鳥は皇帝に召し抱えられた。
     鳥かごを与えられ、外出を許されるのは日に何度かで、出かけるときは決してひとりにはしてもらえず、
     けれどそれでもさよなきどりの声はうつくしいままだった。

     それからずいぶん経ってから、皇帝のもとに、別の国からの贈り物として、細工物のさよなきどりが届けられた。

     ネジを巻くと、宝石がちりばめられた細工物の鳥は、本物とまごうばかりの声を鳴らす。

     節も乱さぬその細工鳥に、御殿の人々は夢中になった。なによりも、見た目は本物よりもずいぶん綺麗だったからだ。

     けれど、誰もが気付かぬうちに、本物のさよなきどりは姿を消した。
     それでも、細工の鳥の音があるというので、誰もそれを気にとめない。

     それからずいぶん経った後、ふとした瞬間に、けれど作り物のさよなきどりは壊れてしまう。

     どうにか直すことはできたものの、大切な部品が疲弊していて、しかもそれを直す手段がない。
     皇帝は、大事にしなければならないと、年にたったの一度だけ、その鳥の音を鳴らすことにする。

     それから更に五年が経ち、皇帝は病に伏せる。

     ―― それで、どうなったっけ?

     よく思い出せない。


    891 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:55:31.20 ID:lNunJpruo

     小夜啼鳥。
     さよなきどり。
     よなきうぐいす。
     ナイチンゲール。

     さよなきどりの声。

     誰もが聞いている。
     当たり前のように、その声に励まされ、癒され、慰められている。

     僕は―― そんな声を聞いてみたかった。誰もが耳にしたことのある、その声を、僕も、聞いてみたい。

     けれど僕は、そんな声を聞いたことがない。そんなものがあるなんてことすら、信じられない。

     僕だけが、その声を聴くための聴力を持っていないかのような、そんな気さえする。

     鳥の声は、僕の耳には届かない。
     
     それとも、僕は、宝石細工の小夜啼鳥の出来損ないだろうか?

     使い物にならなくなって、誰にも相手にされなくなるだけの。
     同じ節ばかりを繰り返す、聞き慣れてしまえば退屈なだけの。

     ――なかなかいいこえでうたうし、ふしもにているが、どうも、なんだかものたりないな。

    「……僕は、認められたい。必要とされたい。自分が、居てもいい人間なんだって、思いたい」

     どうしてだろう。
     どうして僕は、そう思えないんだろう。
     
     どうしてそんなことを、重要なことだと思ってしまうんだろう。


    892 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/15(水) 23:56:45.58 ID:lNunJpruo

     きっと、気にしていない人なんてたくさんいる。

     当たり前に、自分を許せる人、認められる人、そういう人もいる。
     その人達なりの苦渋に悩まされながら、それはけれども、僕のそれとは、少し違うような気がする。

    「……誰かの評価でしか自分の価値をたしかめられないとしたら、それはとても不幸なことだと思うけど」

     あさひは、見透かしたようなことを言う。僕はグラスの中身を飲み干す。

     たしかに、と僕は思う。自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
     どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。

     でも――誰にも愛されず、誰にも必要とされず、そんな自分を、どうして肯定できたりするだろう。

    「あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね」

     あさひの言葉は、けれど、僕にはよくわからないままで、ただ、今は小夜の言葉を思い出している。

     ――ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……。
     ――……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの。

     愛奈。
     いつか、愛奈が、僕にとっての小夜啼鳥になってくれると思った。

    「――言ってほしい言葉を言ってくれそうな相手を探していただけなんだね」
     
     ――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない。



    895 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/17(金) 00:26:06.60 ID:yCFgfYGCo



     僕とあさひの間にそれ以上の会話はなかった。思考もまた、それ以上は続けられなかった。
     虚ろに広い洋室のなかで、僕たちは向かい合って座ったまま目も合わせなければ言葉も交わさない。
     ただ酒を飲み交わすだけだ。

     遠くの方から犬の鳴き声が聴こえる。車の走る音が聴こえる。誰かの怒鳴り声が聴こえる。
     けれどそれらすべてが今この場所とは関係がない。

     やがてあさひはもう降参だというかのように何も言わずに立ち上がった。
     階段を昇る足音が聞こえ、ドアが開き閉まる音が聞こえ、やがてシャワーの水音が聴こえはじめた。
     あとは勝手にしろと言われたみたいだった。

     僕はグラスの底に残った何ミリかの赤い液体を口に含む。

     電灯のあかりがよそよそしく刺々しい。もはや沈黙すらない、静寂ですらない無音がここにある。耳鳴りのような無音だ。

     しばらくぼーっとしている。何も考えられない、何も思いつかない、何も思い出せない。そんな時間がずっと続いていた。
     時計の秒針の音がやけにうるさく、苛立たしいほどに遅く感じられる。

     不意に、叩きつけるような音が響きはじめ、そういえば雨が降っていたんだ、と僕は思い出した。

     窓の外を眺める。外では雨が降り続いている。犬の鳴き声が聴こえる。
     景色が灰色、灰色だ。

     その夜僕は眠れなかった。あさひはもう僕の前に顔を見せなかった。
     僕は勝手に浴室を借りてシャワーを浴びて、ダイニングのテーブルに突っ伏してイヤフォンをつけて音楽を聴いて夜を過ごした。

     少しも眠れられないままやがて朝日が昇った。

     ふと思い出して鞄をあさると、すみれの煙草が入っていた。
     僕は身支度を整えて外に出た。雨は止んでいたが、街はひどく静かに青褪めている。
     夢の中にいるみたいだと僕は思った。

     煙草に火をつける。その光がやけに暖かかった。
     さて、どこにいこうか、と僕は考える。


    896 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/17(金) 00:26:34.68 ID:yCFgfYGCo



     でもどこにも行き場なんてありそうにもなかった。

     僕はイヤフォンをつけて音楽を聴きながら街を歩くことにした。

     どこまで歩いてみても何も見つけられそうにない。何も聴こえやしない。

     イヤフォンから流れてくる音楽、とめどなく流れてくる音楽、遠い時間の遺物。
     
     聴こえてきたのはSUM41だった。

     姉が遺したものではない、僕が、僕が入れた曲だ。

    「pieces」だった。

    This place is so empty
    My thoughts are so tempting
    I don't know how it got so bad


    897 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/17(金) 00:27:19.20 ID:yCFgfYGCo

     ひどく肌寒い。どこにも行き場がない。
     結局僕はどこにもいけないままだ。

     橋を越えた先に、昨日僕がはじめて人を刺した場所があった。

     もう何も残ってはいない。それは過ぎてしまったことだ。取り戻せない。
     通り過ぎてしまった扉だ。

     そのまま歩いていく。見覚えのある景色。いつか、小夜と一緒にいた公園。
     昨夜の雨に濡れて、灰色の景色はひどくうつろに、心細く見えた。

     ベンチに腰かけて、どうしてこんなことになったのかと僕は考える。

     空気はとても綺麗で、綺麗な分だけその空虚を引き立てていた。
     
     イヤフォンからは音が鳴り続いている。

     血の代わりに音が流れているみたいな気がした。

     そんなふうにからっぽになって、自分じゃないもので自分のなかを満たして、
     そのときはじめて僕はようやくほんのすこしだけ安らぐことができる。
     

    898 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/17(金) 00:27:51.86 ID:yCFgfYGCo




     ――ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?


     ――こわくないよ。うん。へいきだもん。


     ――ね、お兄ちゃん、わたしね……。


    899 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/17(金) 00:28:19.05 ID:yCFgfYGCo

     


     
     そうして、考えるのをやめたときに限って、頭の中に声が響く。
     思い出そうとしたときは、かけらさえも思い出せなかったのに、そんなときにばかり思い出せる。

     あるいは、考えるのをやめたからこそだろうか。

     あの高いビルの上、展望台から眺めた景色。
     どうしてあんな場所にいったんだっけ。もう、覚えていない。

     でも、愛奈と僕は、ふたり、電車に乗って、街を歩いて、そうしてあの塔に向かったのだ。

     あのとき、どんな言葉をかわしたんだっけ。
     
     僕は、なんて答えたんだっけ。


    900 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/17(金) 00:28:48.02 ID:yCFgfYGCo




     空は白から青へとうつり、光は薄闇を簡単そうに満たしていく。
     やがて幕が開くように景色は色を変えていく。

     僕はまだ濡れたベンチに腰掛けている。

     街の景色がうつろいはじめ、人々が姿を見せ始めた頃、僕は歩き始めた。

     ――どうして、高いところってのぼりたくなるんだろうね?
     
     どうしてだったかな。

     もう一度昇れば、思い出せるだろうか。


    903 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:00:50.00 ID:ogkZSEtjo



     霧雨に煙る街を僕は歩いた。

     場所も姿も僕の知っているままの高いビルを見上げて、僕はひどく落ち込んだ気分になる。
     
     僕は、こんなところに昇りたくなんてない。

     そう思った。それなのに、足は止まらない。

     このまま外にいたって、どうせずぶ濡れになっていくだけだ。

     他に行くべき場所も戻るべき場所もない。選べる道なんて他にはなかったのだ。
     
    (――本当に?)

     そんな声が聴こえた気がしたけれど、それは錯覚だと自分でもわかっている。


    904 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:01:17.53 ID:ogkZSEtjo

     建物の中には人の姿がなかった。
     
     奇妙な空間に迷い込んでしまったような、そんな違和感を覚える。

     人の姿がない。にもかかわらず、気配がある。気配だけがある。

     誰かの話し声が聴こえた。
     でも、それさえも、そんな気がしただけのことだ。

     夢の中に迷い込んだような、不思議な感覚だった。

     僕は、入ってすぐの場所にあった、展望台への直通エレベーターの扉の前に立つ。
     
     エレベーターは、今は上に止まっているらしい。
     ボタンを押してからしばらく待たされた。

     いくらか間抜けな音を立ててから、扉は開いた。僕は他にやりようも思いつかずに、結局その扉をくぐるほかなかった。


    905 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:01:47.76 ID:ogkZSEtjo

     ガラス張りの窓の向こうで街が離れていく。
     ああそうだったと思い出した。

     高いところに昇る理由。

     ――ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?

     ――たぶん、なんだけどね……。

     ずいぶん時間がかかるエレベーターだ。
     ゆっくりと昇る小さな小箱だ。

     辿り着く場所は決まっているくせにもったいぶっている。

     結末はもう決まってるのに。
     
     扉が開いて、そうしたら僕にはもう分かってしまう。

     エレベーターが音を立てて止まる。
     待ちくたびれたと僕は思った。


    906 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:04:04.26 ID:ogkZSEtjo


    「――あなたを止める。絶対に。それがわたしの責任だと思うから」

     ――不意に聴こえたその声に、眩暈がしそうになった。

     僕は、けれど急がなかった。
     通路をゆっくりと歩いていく。不思議なくらい寒々しい空気があたりを満たしている。

     やがて階段が見えてきた。 
     向こうに大きな窓が開けている。

     その前に、ふたりの少女が立っている。

     片方はこちらに背を向けて、もう片方は、その子を挟んでこちらを向いている。
     ふたりは向かい合っている。

     黒い衣装の二人組。

     僕は、彼女たちを知っている。

     片方はすみれ。
     片方はざくろ。

     ふたりはよく似ている。そのことを僕は知っている。
     鏡写しのように似ている。

     すみれの背後には階段があり、ざくろの階段には窓が――窓がある。


    907 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:04:58.71 ID:ogkZSEtjo

    「……間一髪、で、間に合わなかったね」

     すみれの肩越しに、ざくろと目が合う。彼女はおかしそうに笑った。

    「何の話?」自分に言われたものだと思って、すみれは訊ねる。
     それから、視線が彼女を向いていないと気付いて、こちらを振り返った。

    「……遼一」

     すみれもまた、僕に気付いた。
     彼女は見慣れない黒い服に着替えていたし、片目が眼帯で隠されていた。
     それでもすみれはすみれだった。
      
     時間。
     
     僕は、何を言えばいいかわからなかった。
     ただ、高い場所に向かおうと思っただけだったのだ。

    「結局ね、あなたたちは何も変えられないの」

     ざくろは、僕達ふたりを見下ろしながら、言う。

    「なんにも、変えられない」

     すみれが、ざくろに向き直った。

    「そんなの、分からない」


    908 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:05:25.12 ID:ogkZSEtjo

    「無理なの」とざくろの声がした。

    “背後”からだった。

    「変えられないの。少なくとも、“今”のわたしにもすみれは追いついていない」

     振り返ると、そこにざくろがいる。同じような姿のままに。
     もう一度、僕は前を見る。そこにもやはり、ざくろがいる。

     さすがに、混乱しないわけにはいかなかった。

     何よりも、正面に立っているざくろが、驚いたような顔をしていたのが意外だった。

    「変えられないの」と、今度は別の場所から聴こえた。階段を昇った先の壁の影から、またざくろが現れた。

    「“今”のわたしにも、やっぱりすみれはわたしに追いついていない」

     今度は、そのその背後から、またひとり。

    「“わたし”は、ここにいる最初の“わたし”は、この光景を見た。だから知ってる」

     今度は、正面に立つざくろの背後から、現れた。
     何もない場所から不意にあらわれるようにして。

     万華鏡めいた景色だった。

    「ずっと先の未来まで、すみれがわたしに追いつけないことを、わたしは知っている」

    「嫌がらせって、さっきすみれは言ったよね。そのとおり」

    「ねえすみれ、そのとおり。どうしてこんなに未来のわたしが集まったんだと思う?」

     次々と現れる。
     ミラーハウスの中にいるみたいだ。
     どのざくろの視線もすべて、すみれへと向かっている。

    「嫌がらせ、だよ」

     そう言って、ざくろが笑い、その影からまたざくろが現れる。
     声は重なり響き合う。


    909 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:06:01.31 ID:ogkZSEtjo

    「ねえすみれ――本当にわたしを捕まえられる?」

    「本当にわたしを止められる?」「わたしは無理だと思うな」「現に捕まえられていないから」「あなたにわたしは止められないから」

    「だからこれは鬼ごっこなの」「終わらない鬼ごっこなの」
    「あなたはまだわたしを捕まえてくれない」「わたしは待ってるのに」
    「あなたはまだわたしを諦めてくれない」「からかわれてるだけだってわかってるのに」

    「絶対に無理なの」「アキレスと亀なの」
    「同じ場所にとどまるためには絶えず全力で走っていなければならない」
    「あなたが走ればわたしも走る」
    「同じ速さでわたしも走る」

    「ランニングマシーンみたいなものなの」
    「あなたがどれだけ速く走っても、地面が反対に進んでいくの」
    「あなたがどれだけ速く走っても、わたしは更に遠ざかっていく」「時間が流れれば流れるほどわたしは遠ざかる」
    「だからあなたはわたしに追いつけない」「追いつけないの」

    「これはもう決まっていることなの」
    「ねえすみれ、あなたは最後のわたしを見つけられる?」
    「諦めなくてもいいし、諦めてもいい」
    「続けてもいいし、続けなくてもいい」

    「だって結果は変わらないから」
    「あなたは永遠にわたしに辿り着けないから」

    「あなたがわたしの扉をくぐる」「わたしはわたしの扉をくぐる」
    「あなたが見つけるわたしはいつもわたしには過ぎ去った時間で」
    「その時間のわたしが捕まっていないことをわたしは知っている」
    「だからこれは嫌がらせなの」
    「ううん、拷問なの」

    「あなたが大好きだよ、すみれ。放課後の校舎と、ガソリンの匂いと、木洩れ日の並木道と、古い図書館と同じくらいに」
    「あなたが大嫌いだよ、すみれ。神話と、冷たい言葉と、馴れ馴れしい人と、あの痛みと、家族と、お酒と同じくらいに」
    「あなたは追いつけない」「――だって、一度、逃げ出したものね」


    910 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:06:29.94 ID:ogkZSEtjo




     ――不意に哄笑が響き、

     ――光が溢れ、

     ――“ざくろ”たちは姿を消した。

     なにもかもが夢だったみたいに、さっきまでと同じように、立っているのはひとりとひとり。
     すみれとざくろが、また向かい合っている。

    「……ね、すみれ、それでもわたしを追いかける?」

     にっこりと、ざくろは笑う。
     その問いの答えを、ざくろは既に知っているのだ。
     すみれがざくろを追い、そしてざくろを捕まえられていないことを、ざくろは知っている。

     ざくろが不意に手のひらを胸の前で広げ、
     彼女の指先がぼんやりと光った。

     その淡く鈍い光が、ゆっくりとその手から離れていく。
     静かに、その光がかたちをなしていく。
     ざくろの背後に、扉があらわれた。

    「ね、すみれ、どうする? この扉の先に、あなたが望んでいる景色は、きっとないけど」

     すみれは、けれど、
     とうに覚悟は決めていたというような声で、応えた。

    「それでも、ここに集まったあなたの中で、一番向こう側にいたあなたのその未来を、わたしが捕まえているかもしれない」

    「そう。そうかもしれない」


    911 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/21(火) 01:07:10.27 ID:ogkZSEtjo

     すみれは、ふと、僕の方を振り返った。

    「遼一、ごめんね。やっぱりわたしが、巻き込んでたみたい」

     その片目が、瞳が、綺麗だと思った。

    「もうひとつ、ごめんなさい。でも、わたしはもう、自分のことで手一杯だから。
     遼一、あなたも、自分のことは自分でなんとかして」

     どうにかして、あげたかったんだけどね、と、すみれは言う。

    「気にしてないよ」と僕は言った。

     彼女は頷いて、ざくろへと向かっていく。ざくろの体は、すみれの手をすり抜けた。
     それを知っていたみたいに、すみれはそのまま手を伸ばし、ドアの把手を掴む。

     扉が開く。
     その向こうには、けれど――

     深い、深い暗闇が横たえている。

    「――待っててね」

     そんな声が、かすかに聴こえた気がした。

     それがすみれを見た最後だった。


    914 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:56:49.61 ID:pmjGcbbto




     僕とざくろだけが、展望台に取り残された。

     さっきまで見た光景、それも今はどうでもいいもののように思える。

     階段の上にざくろが立っている。

     その表情が、穂海のそれと重なる。
     穂海のことなんて、ろくに覚えちゃいないのに。
     
     僕が初めて人を刺したときの、あの穂海の顔を思い出す。

     穂海は僕を許さないだろう。僕が穂海でも、そうするだろう。
     僕自身もまた、僕を許しはしないだろう。

     もし許してしまったら、帳尻が合わなくなる。
     僕も、誰かを許さなくてはならなくなる。

     だから僕は、僕を許してはいけない。
     でも、許さないというのは、どういうことを指してそう呼ぶんだろう。
     ただ許さないと、そう思い続けていれば、許さないことになるのか。
     
     それともそれは、ただ、許していないと思い続けることを咎から逃れる免罪符に使っているだけなのか。
     
     よくわからない。

     誰かが誰かを傷つける。それに傷ついた誰かがまた誰かを傷つける。
     傷つけられた誰かは誰かを許さない。傷つけた誰かも誰かを許さない。
     誰がツケを払うんだ?

     それでも、復讐なんて無益だなんて月並な言葉で割り切れるほど、話も事も単純じゃない。
     痛みは、循環しないといけない。


    915 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:57:24.18 ID:pmjGcbbto


    「あなたはどうするの?」とざくろは言う。

     僕は答えられなかった。

    「それにしても、驚き。どうしてここに来たの?」

    「……」

    「めぐり合わせっていうのかな」

     答えない僕に、ざくろは退屈そうな溜め息をついた。

    「どう思う? すみれは、わたしを捕まえられるかな」

    「……期待してるの?」

     僕のその問いに、彼女は、馬鹿な質問をした子供を見るように目を細めて、唇を歪めて笑う。
     上弦の月のようだと、僕は思った。
     
     見下されているみたいだ。

     いや、今は、現に、見下されている。
     見下ろすこと。
     見下されること。

     なぜだろう、今になって、沢村が僕を不快に思っていた理由が分かった気がした。
     これは……不快だ。


    916 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:57:52.50 ID:pmjGcbbto






    『ねえ、どうして高いところってのぼりたくなるんだろうね?』

     ――たぶん、だけどね……高い場所からの方が、よく見えるからだよ。

    『よく見えるって、なにが?』

     ――いろんなもの。自分が普段立っている場所。いろんな場所を、俯瞰できる。

    『フカン?』

     ――高いところから、見下ろせる。そうすると、遠くまで見渡せるし、低い場所から見るよりも、街がどうなっているのかわかりやすい。

    『ん、んん?』

     ――視点を変えれば、いや……見方を変えれば、うつる景色も違う。そうすることで、自分が立っている場所を確認できる。

    『……んー?』

     ――自分がいる場所についてよく知るためには、自分がどこに立っているかを知るためには、高い場所から見下ろすことも必要なんだ。

    『変なの』

     ――なにが?

    『だって、ここから見える街のどこにも、お兄ちゃんも、あいなもいないよ』

     ――……。

    『あいな、ここにいるもん』

     ――……。

    『お兄ちゃんは、どこにいるの?』



    917 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:58:18.23 ID:pmjGcbbto




    「つまらない、ね」

     ざくろは、そう言った。

    「わたしはもういくけど、あなたは?」

     僕は答えない。

     僕は階段を昇る。
     そして、ざくろを通り過ぎ、窓の傍へと歩み寄る。

     見下ろす街は、以前と変わらない。

     でも、この街は、僕の知っている街ではない。

     よく似ているけれど、違う。
     この街に愛奈はいない、この街は愛奈を知らない。

    「ねえ、聴こえてるの?」

     ざくろの声が、今は、耳障りだ。

    「ねえ、人を刺すって、どんな気持ちだった?」

     ざくろの声が、今は……。

    「そんなふうになっても、生きていたいものなの?」

     今は……。

    「……うるさいな」

     僕は、うしろを振り返らずに、そうとだけ言った。彼女はおかしそうにケタケタと笑う。


    918 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:59:12.09 ID:pmjGcbbto

    「何がおかしいんだ?」

    「ううん。誰かを傷つけた人間が平然としてるのって、おもしろい。それって、もっとなじってほしいって意味でしょう?」

    「……すみれの目は」

    「なに?」

    「すみれの目は、きみがやったんじゃないのか」

    「……それがなに?」

    「気になっただけだよ。姉の目を抉る気持ちはどんなだろうって」

    「……」

    「誰かを傷つけた人間。加害者。たしかに、そうだな。べつに、言い訳する気も自己弁護する気もない」

    「……」

    「でも、審問っていうのは、よくないらしいよ」

    「知ったようなことを言う。わたしは"被害者"だよ」

    「一面的にはね」と僕は言う。「でも、刺した」

    「順番が違う」とざくろは言う。「わたしが最初に傷つけられた」

    「滑稽だな」と思わず口に出さずにはいられなかった。

    「きみが自分で言ったんだろう。"わたしは時間から解き放たれた"って」

    「それでも、"このわたし"を基準にした時間的前後は存在する。それが世界の時間とは異なる意味だとしてもね」

     それはつまり、彼女もなんのことはない、僕らと同じ地を這う蟻だということだ。


    919 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 00:59:38.57 ID:pmjGcbbto

    「傷つけられた人間は、誰かを傷つけてもいい?」

    「……」

    「だったら、きみを傷つけた人間が、誰かに傷つけられていたとしたら、それは許される?」

     今度はざくろが黙り込む番だった。

    「べつに文句を言いたいわけじゃない。僕が言いたいことって、そんなことじゃないんだ。
     きみを貶すつもりも、裁くつもりもない。僕にだってそんな資格はない。
     傷つけたとか傷つけられたとか許すとか許されたって話は、たぶん、単純じゃないんだ」

    「……」

    「傷つけるって、そもそもなんだろう? どうすれば、誰かを傷つけたことになる?
     情状酌量の余地があればいいのか? それとも過失ならば見過ごされるべきか?
     故意でなければいいのか? 反省や後悔の有無は判断材料になるか? ――無駄なんだ、そんな話」

    「……」

    「どんなに着飾って見せても、言葉で正当化なんてできやしない。正しさっていうのは法律とは別の問題なんだと思う。
     僕らは、この世に生まれた時点で、"正しさ"とかいうものに対して取り返しようのない遅れを持たされてるんだ。
     どれだけ言葉で取り繕ったところで、上手にごまかしてみせたって、僕らは逃げられない」

    「――逃げられない。だから、誰かを傷つけても仕方ない?」

    「違うよ」

    「だったら、なんて言いたいの?」


    920 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 01:00:22.84 ID:pmjGcbbto

     傷つけることを肯定すれば、僕は姉が愛奈にしたことを認めることになる。
     姉を許してしまうことになる。

     けれど、姉を許さないことは、姉のしたことを間違いだったと思うことは、
     それはそのまま、穂海の生誕を呪うことになる。
     彼女が生まれたことを、間違いだったと呼ぶことになる。

     傷つけることを否定すれば、僕は僕自身を認められないし、ざくろを認められないし、姉を認められない。
     自分が生まれたことそのものが間違いだったような気さえしてしまう。

     そうだとすれば、それは僕を産んだ両親の判断が間違いだったことになり、
     とすれば両親を産んだ祖父母が間違っていたことになり、
     けれどそうなれば、その判断に至るまでのあらゆるすべてを間違いと呼ぶことになり、
     結果、この世界は"誤った世界"になってしまう。

     正しさなんてものは存在しない。
     どこにも存在しない。

     僕達が普段正しさだと思っているものは、すべて、なあなあの決まりごと。
     単なる社会規範、慣習、あるいは、"法律"の言い換えにすぎない。

     ものを盗むのはよくない。
     でも、所有という概念そのものが、人間が勝手につくった決め事にすぎない。
     人間は自然の占有者、借地人にすぎない。


    921 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 01:00:50.77 ID:pmjGcbbto

     だから僕たちは、正しさなんて言葉とはさっさと手を切ってしまえばいい。
     正しさとか、間違いとか、そんな言葉遊びに付き合ってやる必要なんてない。

     それは単に、「それがあった方が円滑に話が進むから」という、ただそれだけのルールに過ぎない。
     サッカーを円滑に進めるために、「ボールに手で触れてはいけない」とルールを決めておかなければいけないのと同じだ。

     誰かがはじめたその遊びのルールのなかに、僕たちはいる。

     ―― そのうえで、けれど、僕は僕を許せない。

     だったら、なんて言いたいの? ざくろはそう言った。

    「――もっともらしいことを言って、正当化しようとするんじゃねえよってこと。
     たとえ誰に傷つけられたにせよ、順番がどうだったにせよ、ざくろ……"きみ"も刺した。
     たしかにきみも傷つけられた。でも、"それとこれとは別"なんだ」

     ざくろは短く嘆息して、やはり笑った。

    「肝に銘じておく」と言ったけれど、どうやらその気はなさそうに見える。

    「それで――あなたのそれは、審問ではないの?」

     どうだろうな、と僕は思った。

    「もう、行くね」とざくろは言った。

    「あなたと話してると……とても、胸が、ざわざわして、落ち着かない」

    「じき落ち着くよ」

    「……どうして?」

    「さっきのきみたちには、そんな様子なかったからな」

    「……そう、そうね」

     それからざくろは、ゆっくりと瞼を閉じた。
     苦しそうに、胸のあたりを手で抑えていた。 
     その指先が静かに体を昇っていく。

     彼女の爪が首筋に力強く食い込んでいくのを、僕はぼんやりと眺めている。

    「消える……いつかは、消える。いずれにせよ、血は流れているもの」

     言い聞かせるようなその響きが、静けさにこだましたように思えた。
     僕は窓の外を見下ろしている。

     ふと、沈黙が静寂に変わった。

     振り返ると、彼女はいなくなっていた。


    922 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 01:01:23.70 ID:pmjGcbbto



     ――怖くない?

    『なにが?』

     ――高いところ。

    『こわくないよ。うん。へいきだもん』

     ―― そっか。

    『お兄ちゃんこそ、こわくないの?』

     ――うん。平気だよ。

    『ホントに? なんか、つらそうに見えるよ』

     ―― そう?

    『ときどきね』

     ―― そっか。ときどき、そう見えるか。

    『ね、お兄ちゃん』

     ――ん。

    『お兄ちゃんのこと、ときどき、ずっと遠くにいるみたいに思うの』

     ――遠く?

    『うん。なんだかね、さっき、お兄ちゃんが言ってたみたいに。
     あいなや、ママや、おばあちゃんたちのこと、高いところから、フカン、してるみたいって』

     ――俯瞰、してるみたい、か。


    923 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 01:02:08.14 ID:pmjGcbbto

    『うん。だからかもしれない。一緒にいても、お兄ちゃんはひとりだけ、高いところにいるの』

     ――……。

    『違う場所から、あいなたちのこと見てるの』

     ――……。

    『お兄ちゃん、わたしね、お兄ちゃんのこと、好きだよ』

     ――……。

    『いつか、お兄ちゃんが、わたしたちといっしょにいられるようになったら、いいね』

     ――……。

    『高いところから景色を見るのもきれいだけど、ほんとにそこに行かないとわからないことってたくさんあるでしょう?
     それに、ここは少し、さびしいもの。こんなくもりぞらの日は、よけいにそんな感じがするね』

     ――……。

    『それにほら、あんまり高すぎると、見えなくなってしまうものってあるでしょう』

     ――……。

    『なんていうんだっけ? ほら、えっと……灯台……』

     ――……灯台下暗し……?

    『そう! お兄ちゃんは、灯台だから。……そっか。だから、お兄ちゃん、そこにいるんだね』

     ――……?

    『お兄ちゃんは、高いところから、みんなを案内して、みんなの船が迷わないようにしてるんだね』

     ―― そんなに、いいもんじゃないよ。

    『そうかなあ。でも、高いところは、きっと寂しいから』

     ――……。

    『だから、ときどきはおりてきて、そしたら、あいながいっしょにいてあげるから』

     ――……。

    『だから、お兄ちゃんも、あいなといっしょにいてね』



    924 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 01:03:07.70 ID:pmjGcbbto





     どうして今更思い出すんだ?

     どうして今まで忘れていたんだ?

     もう戻れない。戻り方を忘れてしまった。
     
     高い場所から降りる。
     俯瞰するのをやめる。

     それってどうやるんだ?

     壁があるみたい、と小夜は言った。

     自分だけが、周りから一歩引いてたような顔をしている、と沢村は言った。

     あなたのそれは、審問ではないの? ざくろすら、そう言った。

     つまりそういうことだ。

     壁を作り、距離を置き、上段に構えて自分すらを裁く。
     そうすることで僕は僕を維持してきたのだ。

     僕は僕自身を裁き続けることで僕自身を維持してきたのだ。

     かくあらねばならないという像を自らに強いて、
     そうやってここまで生きてきた。

     何かの期待に答えるように、何かのルールに則ったように、自分を縛り付けて歩かせてきた。
     

    925 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/24(金) 01:03:35.93 ID:pmjGcbbto

     他の生き方なんて、僕は知らない。
     知ったところで今更だ。

     戻れない。……戻れない。

     展望台の窓から街が見える。何にも変わらない。
     ガラスに映り込んだ自分の顔つきにすらうんざりする。
     そして不意に、その表情をのせた肩の向こうに、扉を見つけた。

     振り返ると、扉がある。
     
     不意に、耳に、声が届いた。
     どこか遠くから、運ばれてきたような、声。

     ――わたしは、待ってる。

     それは、ついこのあいだ聞いたような、ずっと長いあいだ聞かなかったような、そんな声だ。
     甘く優しく耳朶を打つ。

     その響きに、僕は、今、何かを思い出そうとしている。
     扉を、見つめる。


    928 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:22:27.49 ID:L2HTNNmfo



     僕は、窓の外の景色にもう一度目をやる。

     この窓からは世界を見渡せる。そんな気がする。
     ここにいるかぎり、何もかもわかりきっている。そんな気さえする。

     けれど今、かすかにガラスにうつる僕自身の顔と、その背後の扉が僕の呼吸をひそかに荒くさせる。

     さっき聴こえた声は、なんだったんだろう。

     時がたつに連れて、それが単なる空耳とは思えなくなってきた。
     なにか、啓示のようなものにすら感じられる。

     けれど、今は、それは何かあやふやなものとしてしか、僕のなかには存在していない。
     
     振り返った先の扉を見たときも、たいした感慨なんてわからなかった。

     なぜとか、どうしてとか、そんな言葉は言い飽きた。

     問題は、僕にこの場所を離れる気があるかどうか。
     それだけだという気がする。

     体ごと振り向いてしまうと、僕はもうその扉と向き合うしかない。

     僕は、把手をつかみ、扉を開く。
     その先にあるのは、やはり、暗闇にしか思えない。

     横たえた暗闇、その先にもきっと、何か劇的な変化なんてもwのはないのだろう。
     ただ、今ここにあるすべてと変わらない何もかもがあるだけなのだろう。
     
     それでも僕は、その扉の先へと向かうことにした。

     誰かが泣いているような気がした。


    929 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:23:03.95 ID:L2HTNNmfo




     
     扉をくぐった先は、けれど、さっきまで見ていた景色となんら変わらないものだった。
     展望台、高い場所、さっき見た通りだ。
     鏡の中に入ったみたいにさっきまで見下ろしていたのと同じ景色が広がっている。

     けれど、さっきまでとは違う。何かが、違う。

     一瞬、僕は自分が元の世界に帰ってきたのかと思った。
     でも、それが間違いだとすぐにわかる

     大きな窓から外を見ると、相変わらずの曇り空の上に、月がふたつ、浮かんでいる。

     まだ昼だというのに、やけにはっきりとした輪郭で、たしかに浮かんで見える。

     僕は、窓に背を向けて歩き始めた。
     もう扉の先の景色は向こう側につながっていない。ただ厄介なオブジェに過ぎない。

     展望台の窓から離れ、僕は階段を降りる。
     どこかには行かなければいけないんだ。

     通路の先には冷え冷えと鋭い光を宿すエレベーターの扉がある。
     僕は人の気配のない通路を進んでいく。
     エレベーターは閉ざされている。

     僕は、スイッチに触れる。
     下に向いた矢印の背景が、橙色に灯る。
     
     やがて機械の音が聞こえる。近付いてくる。


    930 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:23:46.28 ID:L2HTNNmfo

     音を立てて扉が開く。
     僕は、しばらく迷っていた。

     ――お兄ちゃんのこと、好きだよ。

     そんな声が聞こえる。

     ――でも、それだけじゃ足りないから、お兄ちゃんはここにいるんだよね。

     そんな声が。

     エレベーターは降り始める。
     僕は空に程近い場所から離れつつある。
     もう鳥の声も姿も見えない。離れていく。

     町並みが近付いていき、やがて、建物の影になって完全に見えなくなった。

     エレベーターはそれでも降り続けている。

     一定のスピードで、動いているかどうかもわからないほど静かに。
     

    931 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:24:24.87 ID:L2HTNNmfo

     そのままどのくらいの時間が経っただろう。

     変化があるまで随分と長い時間だった。
     あまりにも長過ぎたせいで、暇つぶしに時間を計ってみたけれど、二百を越えたあたりで諦めてしまった。

     それでもまだ扉が開かない。

     僕は下降している。

     下降していく。

     いいかげん、機械音にうんざりしてきた頃、ゆるやかにエレベーターが止まった。
     
     突然、扉が開く。

     僕は、自然と一歩を踏み出した。

     何も思わず、何も考えず、気付いたら進んでいた。

     その先は暗闇で、振り向くともう、扉はどこにもなかった。


    932 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:25:01.94 ID:L2HTNNmfo

     そして僕が立っていた場所は、西欧風の箱庭めいた街だった。
     すみれと一緒に、僕が最初に辿り着いた街。

     他人事みたいな街灯の灯りが、やけに刺々しく僕に降り掛かってくる。

     景色は夜、空の色は黒、月の数はふたつ。

     僕はまた放り込まれている。
     今度は風船のライオンもいない。
     
     仮面の男も子供もいない。

     そうだ。
     ここは広場だ。

     飴が配られていた広場だ。

     その中心に、僕は立っている。

     そして、『誰か』が僕を取り囲んでいることに、そのときようやく気付けた。


    933 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:25:32.79 ID:L2HTNNmfo

     前方に高い石段があり、その上に木製の古い椅子が置かれている。誰かがそれに腰掛けている。

     あたりを見回すと、四方もまた同様だった。石段があり、誰かが腰掛けている。

     みんな仮面をつけていた。

     正面の誰かが言った。

    「きみは死ぬ」

     それは僕の声に似ていた。

    「逃れようもなく死ぬ。何もできないまま死ぬ」

    「きみは人を傷つけた」

    「もう戻れない」

    「許されない」

    「きみはきみが許さなかった人と同じことをした」

    「もう許されない」

    「誰一人きみを受け入れようとはしない」

     彼らは僕を見下ろしてる。

     彼ら、あるいは、それは僕だ。
     彼らが口にした言葉は僕が僕に告げ続けた審判だ。

     僕がさっきまで立っていた場所がそこだ。


    934 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:26:02.63 ID:L2HTNNmfo

     不意に、公園の隅に据えられた樹上から声がした。

    「きみ自身を否定し、裁き、審問しているとき、きみは否定されるべききみ自身から逃れて、否定する側に立っている」

     それもまた僕の声だった。
     木の枝は、彼らが立っている石段よりも高い場所にある。

    「きみは、自分を上段から審問し、裁くことで、裁かれる場所、本来立つべき場所から逃れ出ている」

     そして今度は、建物の上から。

    「そう言っているきみは、どこに立っているんだ?」

     繰り返されている。

    「いまのそのきみの思考さえも、裁かれるべき場所に立っていなかったきみを裁く語法でしかない」

     思考はより高い場所へと向かっていく。
     木を越え、建物を越え、塔を越え、やがて鳥も雲も越え、そしていつかは、ああ、そうだ。

     あのふたつの月は、あの眼差しは、僕が僕を見ている目そのものなのか。

     そうやっていつしか、僕の思考は地上から離れていった。
     僕が現に生きている場所を離れ、抽象的で観念的な空間へと向かっていった。

     それがまるで重大な本質的な問題であるかのように。

     けれど、そうすることで僕は、自分を取り巻く周囲の何もかもを地上に置き去りにして、いつしか概念化していた。

     自分が立っている場所を履き違えれば、自分が何を求めているかも、自分が何をなすべきかも、見失って当然なのかもしれない。


    935 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:26:30.69 ID:L2HTNNmfo

     僕らはどこまで行っても地を這う動物だ。
     空は僕らの住処ではない。

     そんな当たり前のことを、僕は忘れてしまっていたのだろうか。

     言うなればこれは裁判だ。
     
     裁判官はひとり、被告も原告もひとり。
     
     すべてが僕で、でも、全員が僕から離れている。

     僕が立つべき場所は、裁判官の席ではない。
     
     被告席だ。

     原告席は僕が傷つけた人のものであって、僕のものではない。
     裁きの法も、僕が決めることではないし、裁きをくだすのも、僕の役目ではない。

     僕が立つべき場所はここだ。

     そう気付いた瞬間、僕の周囲にいた僕の姿が消え失せた。

     空を見る。
     あの月も、もうどこかへ消えてしまっている。


    936 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:27:09.27 ID:L2HTNNmfo

     そしてふたたび視線を地上に戻したとき、僕の目の前に広がっていたのは、
     見覚えのある、僕の過ごしていた街に似ている、そんな場所だった。

     不意に、声が聴こえた気がする。

     愛奈の泣き声。
     
     誰にも秘密で部屋の隅で泣いていた愛奈の声。

     穂海の泣き声。

     僕が僕を刺したときの、穂海の泣き声。

     裁くのは、誰かの仕事だ。
     
     目の前に広がっているのは公道だった。
     夜の景色の中で、ときどき車がヘッドライトの光を撒き散らしながら走っていく。
     人通りは少なく、街灯の灯りも乏しい。

     そこで僕は、道路の向こう、横断歩道の先に立っている、ひとりの男を見つける。

     二十代半ばくらい、だろうか。

     体つきは細く、頼りない。彼はポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた。
     
     どうしてだろう。

     それが僕自身の姿だとすぐに分かった。
     

    937 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/26(日) 23:28:04.63 ID:L2HTNNmfo

     そうして、わけもなく、ただ、直感した。
     これから見る景色が、おそらく、僕に下される判決なのだろう。

     誰かが僕に下す審判なのだろう。

     歩行者信号はまだ赤のままだ。

     自動車が何台か通り過ぎていく。
     男はまだ煙草を吸っている。

     僕は自分の目に見える景色をなんだか不思議に思った。 
     自分が既に死んでしまった人間だという気がしてきた。

     信号が点滅を始める。

     車の音が響く。
      
     通りの向こうの男は信号を見ている。暗がりのなかで、それがはっきりとわかる。

     不意に車のエンジン音が近付いてくる。

     見覚えのない車だ。
     僕はその車に気を取られる。

     自動車用信号は黄色になっている。
     車は減速しない。

     その車が交差点にさしかかったとき、ヘッドライトの光が、向こう側の歩道の影を照らした。
     そこには誰かが――立っている。

     僕は、背筋が粟立つのを感じた。
     ほんの一瞬のことだったのに、男の背後に立つその人物が、僕が少し前に見た人間と同じ顔をしていることに気付く。
     
     ――沢村翔太だ、と僕は思う。
     
     沢村翔太が、僕と話したときと、変わらない姿のまま、そこに立っている。

     一瞬の出来事だった。

     沢村の腕が、男の背中へ伸びていく。突き飛ばすような……あるいはその通りの……スピードで、伸びていく。

    (――ヘッドライトの灯りに目を灼かれる)

     思わず、車の方を見る。減速する様子はない。このまま通り抜けようとしている。

     歌うような鳥の鳴き声が、遠くの空から聴こえた気がした。

    (――煙草が指先を離れていく)


    940 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:09:15.76 ID:OSRTiBSYo

    ∴[Cheshire Cat]K/a


     おそらくは、夢のような光景だ。

     俺は、その光景の中で、愛奈を眺めている。

     愛奈の隣には、俺ではない誰かがいる。
     俺ではない誰かの隣で、愛奈は笑っている。

     そんな光景を見た。

     そこに俺はいない。

     愛奈の笑顔に、俺は必要とされていない。

     俺が居なくても、きっと、愛奈は生きるだろう。
     それは、愛奈がいなくても俺が生きるのとパラレルだ。

     それはきっと、愛奈が見た世界。
     あるいは、碓氷遼一が見た世界。

     自分なんかいなくても、世界は平気で回ると、そんな当たり前のことを、まざまざと見せつけるだけの景色。

     それは、当たり前で、どこにでもある景色で、でも、
     当たり前のことを、どこにでもあるものを、それでも悲しいと思うのは、いけないことだろうか。


    941 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:10:11.13 ID:OSRTiBSYo

    ◇ 


     広場の中央近くに花壇があった。

     花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
     
     花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
     
     花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。

    "ざくろ"だ。

     枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。

     夜の景色は、さながら"星月夜"。
     種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。

     そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。

     その壁には扉があり、木の枝に覆われている。
     そのなかに秘められたように、ひとりの女の子が、磔のように吊るし上げられている。
     からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。

     それが誰だか、俺は知っている。

    "ざくろ"だ。

     彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している。


    942 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:11:35.16 ID:OSRTiBSYo

     どうして俺は、こんなところにいるんだ?
     俺は、愛奈と一緒に、帰ろうとしていた。もうすぐ、階段を昇りきり、扉を過ぎ去るはずだった。

     それが、どうして今、こんな場所にいる?

     からたちの枝にとらわれたざくろは、何も言わない。

     彼女の声は、背後から聞こえた。

    「おはよう」と彼女は言う。

     振り返ると、そこに黒衣のざくろがいる。

     広場の中央、ざくろの木の下に彼女はいる。

     ここは、と訊ねることは無駄だという気がした。

     どうして、と問いかけることも、同じように。

    「あなたに、選ばせてあげようと思うの」

     ざくろは、俺の方をまっすぐに見ている。
     
    「何を?」

    「あなたを、これからある地点に連れて行こうと思う。そこであなたには、選択権が与えられる」

    「ある地点……」


    943 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:12:02.97 ID:OSRTiBSYo

    「それを話さないと、フェアじゃないね」

     ざくろはそう言って笑う。

    「これからあなたが見る景色で、あなたは何かをすることもできるし、しないこともできる。
     何もしなければ、あなたは、今のまま、そのままでいられる。でも、何かしてしまえば、あなたは……
     今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない」

    「……」

     言葉の意味を、測りかねる。頭はまだ、うまく働かない。

     彼女の言っている意味が、よくわからない。
     
     言葉通りの意味だとしたら、俺がそこで、何かをする理由がないような気がする。
     何かしたら消えて、何もしなければ消えずに済むのなら。

    「すぐに連れていく」と彼女は言った。

    「目を、少し、瞑ってくれる?」

    「ひとつ、いいか」

    「なに?」

    「それが済んだら、俺はもとの場所に帰れるのか?」

    「……あなたがそれを選びさえすればね」

     そして俺は目を瞑る。

    (――鳥の声が聴こえる)


    944 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:12:30.30 ID:OSRTiBSYo




     そして、俺は、ここに立っている。

     交差点の前、横断歩道の傍、
     道路の向こう側に、誰かが立っている。

     それは、碓氷遼一の姿に見える。

     彼はただ、ぼんやりと、視線をこちらに向けている。

     俺は、不意に気付く。
     
     自分の斜め前に、ふたりの男がいる。

     片方は、煙草に火をつけて、立っている。二十代半ば頃の、男だろうか。
     その横顔、それは、碓氷遼一のそれに似ている。

     あるいは、そのもののように見える。

     その後ろに立っている誰かは、彼の様子をうかがっている。

     ヘッドライトの光がちらついている。向こうから車がやってきている。

     不意に、音が止まった。

    「ここは、碓氷遼一が死ぬ地点」

     とざくろの声が聞こえた。

     一切は音を失っている。彼女の声だけが聴こえる。
     時間が止まっているみたいだった。いや、その通りなのだろう。

    「背中を突き飛ばそうとしているの」とざくろが言う。

     俺は、斜め前に立つふたりの男を眺める。

    「あなたは、これから起きることを、変えられるかもしれない」

     でも、よく考えてね、と彼女は言う。

    「何が起きるかを、よく考えてね」


    945 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:13:50.47 ID:OSRTiBSYo

     一台目の車が通り過ぎる。
     世界が音を取り戻し、時間が当たり前に流れる。

    "これから起きること"。

    "突き飛ばそうとしている"。

    "死ぬ地点"。

     突き飛ばされることで、碓氷遼一は死ぬ、ということか。

     それは、つまり、突き飛ばされなければ、碓氷遼一は死なないかもしれない、ということか。

     向こうにいる碓氷遼一は、それを眺めている。
     信号は赤だ。
     彼はそうすることしかできない位置に放り込まれた。

     俺は?

     俺は、俺は……こちらにいる。手の届く距離にいる。

     だとすれば。

     俺がここで、"何かを"すれば、碓氷遼一は死なない。

    "あなたには選択権が与えられる"とざくろは言った。

     信号はまだ赤のままだ。


    946 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:14:16.22 ID:OSRTiBSYo

     碓氷遼一が死ななければ、どうなる?

     愛奈は、泣かずに済むだろうか。
     少なくとも、あんなに、自分を責めたりせずに済むんじゃないか。

     時間さえあれば、碓氷遼一と話し合い、わかり合うことができたんじゃないか。

     そう考えれば、俺が取るべき選択なんて、決まっているような気がする。

     ――けれど。

    "でも、何かしてしまえば、あなたは……今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。

     消える?

     それって、どういう意味だろう。
     
     頭をよぎるのは、親殺しのパラドックス。

     ここで、碓氷遼一を助けてしまえば、
     愛奈は俺と向こうの世界に行くことなんてなくなり、
     そこであったなにもかもがなかったことになり、
     俺も、こんなところに迷い込まないことになる。
     そして、ここにいる俺がいなくなってしまえば、碓氷遼一を助けるものもいなくなる。

     そうなれば碓氷遼一は死んでしまい、
     そこから先の何もかもがなかったことになり、
     愛奈は俺と向こうの世界に行くことになる。

     そして俺はここでまた碓氷遼一を、助けるか助けないか、選ぶことになるかもしれない。

     それって、どういうことだろう?

    "今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。

     ざくろを見れば、その結論は出るかもしれない。

     彼女が時間を無制限に行き交うこともできるように、俺もまたそういう存在になるのかもしれない。
     永遠に、時間の檻のなかに閉じ込められ、そこから脱することができなくなるのかも。

     あるいは、そんなことすらなく、ただ未来だけを変えて、今ここにいる俺だけが消え失せてしまうのかもしれない。


    947 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:14:45.33 ID:OSRTiBSYo

     もっとシンプルに考えよう。

     ここで俺が何かをすれば、その時点から過ごしたすべてがなくなってしまう。
     これから生まれる命、これから死んでいく命、これから付けられる傷、これから癒えていく傷。
     そのすべてが、なかったことになり、世界はバタフライエフェクト的に変化していく。

     初期値鋭敏性。

     それが愛奈を消したように、俺がここで何かをすることで、誰かが消えてしまうかもしれない。

     誰かの未来を書き換えてまで、俺は愛奈の悲しみをいくらか軽くすることを選べるのか。

     いや、もっとシンプルに、だ。

     ここで俺が何かをすれば、
     愛奈と俺がさまよった数日間のすべてが、なかったことになってしまう。
     
     木々の遊歩道も、夜のコンビニも、何もかも。

     俺は、それを失えるだろうか?
     なくしてしまってかまわないと、思えるだろうか?


    948 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:15:15.68 ID:OSRTiBSYo

     起きてしまったことを、本当に変えられるのか?
     そんなのありえない、とも思う。けれど、ざくろなら、ざくろだったなら。
     
     彼女なら、できてしまうかもしれない。この俺が消え失せて、愛奈が悲しまない未来を、作れるかもしれない。

     逆から、考えてみよう。

     ここで俺が何もしなければ、碓氷遼一は死ぬ。
     ざくろの言葉を信じるなら、それなら俺は、このまま存在し続けられる。
     そして、元いた場所、愛奈がいる場所に、帰ることができる。
     
     ……けれど、碓氷遼一を見殺しにしたその後に、俺は愛奈と一緒にいられるだろうか?
     それを、俺自身は許せるだろうか?

     いつのまにか、また、音が消えている。

     ざくろが、傍らに立っている。

    「……おまえは、いったい何なんだ?」

     そう問いかけずにはいられなかった。

    「こんなの、どこに選択権があるっていうんだ。どっちを選んだって、ろくな結果にならない」

     ざくろは、俺の姿を笑っている。楽しんでいる。

    「おまえは、いったい、何がしたいんだ? どうして、俺をここに連れてきたんだ?」

    「あなたが、いちばん、まともなままだったから」

     ざくろは、そう言った。

    「まともな人は、苛立たしい」

     吐き捨てるような彼女の言葉を、俺は聞いた。
     悲しそうな目をしている。そんな場違いな印象を覚える。

    「もっと傷ついて。わたしは、それを見たいの」

     何がどう狂ったら、ひとりの少女が、こんな姿になるっていうんだろう。
     こんな、神様みたいな姿に。



    949 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:15:43.45 ID:OSRTiBSYo

     うんざりだ。
     何が正しいとか、間違ってるとか、裁くとか裁かれるとか、痛みとか、何の話なのか、さっぱり分からない。

     俺はここに立っていて、生きていて、
     人が死ぬ姿は見たくない。
     誰かが悲しむ姿も見たくない。

     誰かを好きになったりする。
     誰かを憎んだりする。

     ただそれだけのことじゃないのか。

     それだけで十分じゃないのか。

     ……違うのか?

     不意に音が聴こえる。
     エンジン音が近付いてくる。
      
     歩行者信号が点滅する。

     車のヘッドライトが近付いてくる。
     
     斜め前の男が手を伸ばした。

     きっと一瞬の出来事。
     それがスローモーションに見える。

     誰かを突き飛ばそうとする手。

     選択権が与えられている。
     選択権?

     選択権――。

     ――生まれてこないほうが、よかったのかな。

     俺は、


    950 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:16:28.12 ID:OSRTiBSYo

    ◆(K/c)



     突き飛ばそうとする誰かを、気付けば組み敷いていた。

     車はブレーキすら踏まずに通り過ぎていく。

     横断歩道の信号が青になった。 

     誰もが呆然としている。

     俺に抑えつけられた誰かも、音に驚いて振り向いたこちらの碓氷遼一も、
     あちらで眺めているしかなかった碓氷遼一も、俺自身でさえも。

     頭で考えたことなんて、そんなに多くない。

     でも、嫌だった。

     目の前で、大事な人の大事な人が死ぬのも、誰かを見殺しにして生き延びるのも、
     そんなふうに生きていく自分も、嫌だった。

     子供のわがままのような感情だとわかっている。

     理屈なんてあったもんじゃない。

     それでも、どうして、どうして俺が“そんなこと”に巻き込まれなきゃいけないんだ。
     誰かが死ぬとか、殺されるとか、どうしてなのか知らない、わからない。そんなの、俺には関係ない。

     どうしてそんなものを強いられなければいけない?

     俺はただ、もっとシンプルに生きていたいだけだ。
     小難しい利害なんて、向いていない。
     正しいとか、間違っているとか、そんなものに振り回されたくない。
     
     この結果が、より悪い結果を引き連れてきたとしても、俺は、こうするしかにあ。

     たとえ、こうしたことで俺自身が消えてしまっても、愛奈と一緒にいられなくなっても、
     こうしなかった俺のまま愛奈と一緒にいるよりは、ずっと愛奈の方を向いていられる気がする。
     
     会えなくなったとしても。
     
     あの木々の遊歩道、夜のコンビニ。
     それはたしかにあったことだ。

     俺は、それを知っている。

     たとえ、消えてしまったとしても。
     
     ――存在するのとは違う形で、傍にいる。
     
     たくさんの言葉が、声が、音が、景色が、急に胸をいっぱいにして、
     気付けば俺は泣いていた。


    951 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:18:40.43 ID:OSRTiBSYo




    「残念ね」と声がする。


    「お別れね」と声が言う。


     お別れ。

     お別れだ、と俺は思う。


    952 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/11/28(火) 01:19:18.80 ID:OSRTiBSYo




    「ケイくんは……灯台みたいだね」

    「……灯台?」

    「うん」

    「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」

    「どうして?」

     身動きがとれない。
     迎えにも行けない。

     彼女のところに行くことができない。

     ――お別れだ。


    955 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:28:15.19 ID:IzyndCNto

    ◇[Nightingale]


     僕はそれを眺めている。

     誰かが、沢村の体を突き飛ばし、馬乗りになって彼を抑えつけている場面を見ている。

     ただ見ている。

     景色はざらつき、歪み、音は遠くなりはじめていた。

     僕の意識はどこか遠いところへとさらわれつつある。

     やがて、断線するように、ぷつんと視界が途切れた。

     真っ暗な景色の中、最後に聴こえたのは甲高い鳥の声だった。


     ――わたしは、待ってる。


     鳥の声。
     
     神さまの言いつけを破った男は、怪魚に呑まれてしまう。
     作り物の小夜啼鳥に心を委ね、本当の小夜啼鳥を軽んじた王様は病に伏す。



    956 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:29:31.72 ID:IzyndCNto


     不意に、僕は光のない真っ暗な場所に立っている自分を発見した。
     
     光源なんてひとつもないのに、自分の体だけが確かに見える。ほのかに光っているみたいに思えた。

     僕の目の前を、二人の少女が通り過ぎていく。追いかけっこをしているみたいだった。

     彼女たちの笑い声は僕の耳には届かない。片方はいつまでももう片方に手を伸ばして、もう片方はいつまでも片方から逃げ続けている。

     ここまでおいで。
     
     彼女たちの姿が暗闇に飲み込まれて見えなくなる。

     僕の体に宿った光が、不意に足元から広がっていく。
     やがて景色は、暗闇ではなくなった。

     そこに広がっているのは、鏡の迷路だった。
     鏡、鏡、鏡。奥行きも広さも、とても分からない。

     足元には砕けた何かの破片がある。

    957 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:29:57.74 ID:IzyndCNto

     僕はここに至るまでの道筋を思い出そうとする。

     始まり。すみれに誘われて黒いドラッグスターに乗って街を駆け抜けたときのこと。
     碓氷遼一と生見小夜の姿を見たあのときのこと。
     篠目あさひの夢の話を聞かされて、あっさりと信じたときのこと。
     碓氷遼一と顔を合わせたときのこと。
     沢村翔太と話をしたときのこと。
     碓氷遼一を刺したときのこと。

     すみれ。

     すみれは、どこに行ってしまったんだろう。
     
     心の底から笑える場所が、きっとどこかにあるはずだと、僕を誘った女の子。

     でも、僕にはもう分かっていた。

     自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
     どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。

     そして今、僕は僕自身を肯定できない。

     心の底から笑うことなんて、できやしない。
     幸せになんて、なれやしない。

     でも、もうそんな段階じゃない。


    958 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:30:36.08 ID:IzyndCNto

     ミラーハウスの鏡が砕けていく、そんなイメージが流れ込んでくる。
     鏡の破片のひとつひとつに、僕が出会った人々の顔があった。
     愛奈、穂海、すみれ、あさひ、ざくろ、沢村、碓氷遼一、名前も知らない誰か。
     
     そのどれもが音を立てて床に落ちて砕けていく。僕はただその様子を眺めている。

     鳥の声はまだ聴こえている。

     僕の体は何かどろりとした液体の中へと沈んでいく。

     さっきまで見えていた景色は既になくなり、僕を今まで運んでいた奇妙な力ももう失われている。
     そんな気がする。

     僕は深いところへ落ちていく。

     光のないところ、暗い海の場所のようなところ。

     僕の意識は曖昧になり、思考は脈絡を失い始めた。
     
     まず言葉が、
     次に声が、
     最後に音がなくなった。


    959 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:31:28.07 ID:IzyndCNto

     ふとした瞬間まばたきをして、目を開けたら、僕の目に飛び込んできたのは、ひとつの扉だった。

     どうして突然、目が覚めるように体の感覚を取り戻したのか、
     思考が正常さを取り戻したのか、そんなことは僕には分からない。
     
     問題は、目の前に扉があり、その背景は真っ黒だということだった。

     ただ、空間に浮かび上がるように扉だけがそこにある。

     交差点で見た光景。
     僕を、彼が助けていた場面。

     別に、僕を許したから助けたわけではないだろう。
     
     彼はただ、僕が死んでしまったら悲しむ人がいるから、僕を助けたに過ぎない。

     僕のためじゃない。

     それでも僕は、その景色に従うことにした。
     もう、この扉の先に何が待っていたとしても、その景色に従おう。

     今の僕にできるのは、ただそれだけのことに思えた。

     いったいどこに連れて行かれるかは分からない。

     拍子抜けするような場所かもしれない。

     また暗闇の中なのかも。

     それでもかまわないと思った。

     僕は、今までだってずっと流されていただけだし、これからだってそうしていくだけだ。


    960 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:32:26.73 ID:IzyndCNto




     
     ふと目を開くと、僕はあのミラーハウスの前に建っていた。

     東の空に太陽が浮かんでいる。

     朝が来たのだと僕は思った。


    961 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:33:01.30 ID:IzyndCNto



     僕は、もといた世界に戻っていた。
     すみれと旅に出る前にいた、あの当たり前の日常の世界に。

     僕があちらに行っている内に、こちらでは二週間が経っていた。
     家に帰り着いた僕を迎えたのは両親と愛奈で、愛奈は泣きながら僕に抱きついてきた。

     僕に何も言わなかったし、僕に何も求めなかった。ただ何も言わずに帰ってきた僕に抱きついてなかなか離してくれなかったのだ。
      
     彼女が胸の内側に溜め込んでいるわがままのことを僕は思う。
     こんな顔をさせたのが自分自身なのだと思う。

     その上で僕は謝らなかった。
     それはエゴだという気がしたのだ。


    962 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:33:43.66 ID:IzyndCNto




     まずは家族に、次に警察に、それから学校に、バイト先に、それぞれ事情を聞かれた。
     二週間ものあいだ、いったいどこで何をしていたのかというのだ。

     僕はそのすべての問いに、何も覚えていない、と答えた。

     本当のことを話しても信じてもらえるとは思えなかったし、当人が覚えていないと言ってしまえばそれ以上追及もできないだろう。
     
     実際、僕はあれから今までの間に過ごしたあの時間のことを、もはや現実のようには思えなくなっていた。

     あれは悪夢のようなものだったのではないか。でも、それでも僕はたしかに僕自身を刺したのだ。
     記憶にあるかぎり、それは事実なのだろう。

     バイト先の上司は無断欠勤を咎めてしばらく腹を立てていた。どうやら家出でもして遊んでいたものと思われているようだ。
     僕はべつに言い訳しなかったし、聞き流すことに決めていた。そんなことにかかずらって消耗している場合じゃなかった。

     さいわい、学校では交友関係の狭さが幸いして、僕に何かを訊ねるような相手は二人しかいなかった。

     ひとりは狭間まひる。

    「怪しいなあ」と、いつものようにどうでもよさそうな顔で追求してきたが、僕は相手にしなかった。
     彼女はいつものように、たまには部活に出てね、部誌の原稿を出してね、と、決まり文句のような言葉を吐いていなくなった。

     もうひとりは篠目あさひだった。

    「ひょっとして行ったの」と彼女は言った。その話し方が、向こうのあさひとどこか違うような気がして、僕は不思議に思う。

    「どこに?」と僕は訊ねた。

    「遊園地」

     相変わらずの説明を省いた喋り方が、かえって僕を安堵させた。

    「そうだね」とだけ、僕は答えた。他のことは一切喋らなかった。

     そのようにして僕は以前のような僕の――意味もなく価値もなく欲望もない――日々を取り戻した。
     
     思えば思うほど、夢のような体験だったと思う。
     でも、夢ではない。

     沢村翔太は、この世界にはいなくなっていた。
     何よりも恐ろしいのは、誰も彼のことを気に留めていないということだった。


    963 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:34:15.16 ID:IzyndCNto




     隣町で殺人があったとの報道が、連日ワイドショーを賑わせていた。
     
     死んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
     誰かに刺されていたらしい、と言っていた。

     職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに死体を見つけたのだという。

     不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。

     姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。

     いまだ行方不明のままの二人の少女を、警察は目下捜索中だという。

     おそらく、見つかることはないだろう、と僕は思う。



    964 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:34:54.46 ID:IzyndCNto



     
     周囲は、僕のことを腫れ物かなにかのように扱った。
     
     家族は家出だったんじゃないかと疑っていたし、バイト先の人はあまり具体的な話を聞きたがらなかった。
     学校ではもともと腫れ物扱いだ。

     部活に顔を出すと、部長にしつこくあれこれ聞かれるんじゃないかと思ったが、そうはならず、むしろ他の生徒の視線の方が疎ましかった。
     妙な噂が流れているらしいということだけは分かったが、その詳しい内容を教えてくれる宛もない。

     僕はイヤフォンをつけてMDを流し、学校での時間を受け流し続けた。

     以前と同じ生活だ。

     僕は、僕自身を刺したとき、この日常へと帰ってくることを諦めた。
     それなのに、今、ここで当たり前に生活している。

     何もかもが嘘だったみたいに。

     

    965 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:35:30.81 ID:IzyndCNto



     
     久し振りに部室に顔を出すと、相変わらず物静かそうな部員たちがこそこそと何かを話していた。
     僕は自分の定位置に腰掛け、本を広げた。

     二週間。二週間学校に来なかったからといって、変わったことなんてほとんどなかった。

     テレビや新聞はさまざまなことをやたらと喚いていたけれど、僕にはそれが実感を伴って迫っては来ない。

     今目の前にあること、今僕が過ごしている場所。
     
     そのすべてがなんだか嘘みたいに思える。

     定位置に腰かけて本を開こうとしたところで、部長に話しかけられた。

    「調子はどう?」

    「……特に、変わりないです」

     彼女は、相変わらずの妙な笑みをたたえたまま、僕の隣に椅子を持ってきて座った。

    「なんだか、落ち込んでるみたいに見えるよ」

    「そんなことは、ないです」

    「そうかなあ」

    「そのはずです」

    「はず、か」

     部長はくすくす笑った。

    「おかしいですか?」

    「碓氷くんは、相変わらずおもしろいね」
     
     どこか、おかしかっただろうか。僕にはよく分からなかった。

    「はず……うん。はず、ね」

     部長はそう何度か繰り返すと、おかしそうに笑った。

    「そんなにおかしいですか?」

    「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと弟に似てたから」

    「……部長、弟さんいたんですか?」

    「うん。死んじゃったけどね」


    966 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:36:35.85 ID:IzyndCNto




     部室のドアがノックされたのはその会話の少しあとのことだった。

     扉を開けて入って来たのは小夜だった。

     彼女は部室の中を見渡して、僕の姿を見つけるとすぐに近付いてくる。

    「ちょっといいかな」

     いくらかためらいがちな様子で、それでも彼女は僕の方をまっすぐに見ていた。
     どこか懐かしい、澄んだ瞳。
     
     いつも思っていた。
     この子の目はどうしてこんなに穏やかに見えるんだろう、と。

     彼女に言われるがままについていくと、向かった先は屋上に至る階段だった。

     昇りきると、屋上に向かう扉がある。
     けれど、その扉は開かない。鍵が閉まっているのだ。

     彼女はその扉の手前、一番上の段に、敷いたように積もった埃を気にすることもなく座り込んだ。

    「とりあえず、座ったら」

     彼女がそう言うので、僕は仕方なく隣に腰を下ろした。

     直接話すのは久し振りだというのに、以前よりもすんなりと彼女と一緒にいられるような気がする。

     いろいろあったせいで、僕の中にあった妙なものがうまく機能していないのかもしれない。

     それでも戸惑っていないわけではなかった。どうして、急に声をかけられたりするんだろう。
     彼女の表情が少しこわばっているのが、頭の中で、向こうで見た彼女のそれと勝手に比較される。

     僕は、あんなふうにこの子を笑わせることができない。
     
    「聞きたかったの」と、振り絞るように小夜が言った。

    「でも、何から聞けばいいのか分からない。難しくて。何を言えばいいのかも、ずっと考えてたんだけど」

     でも、でもね。

    「心配した。帰ってこないんじゃないかって、心配、したよ」

     僕は言葉を失った。

     そんな言葉を言われるなんて、想像もしていなかった。
     そんな言葉を僕に言うのは間違ってるって、ふさわしくないって、そう言おうと思って――やめた。


    967 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:38:05.23 ID:IzyndCNto

     それは、きっと僕が決められることではないんだろう。

    「ごめん。今まで、ずっと、何も言ってこなかったのに、突然こんなの、変だよね」

     何も言えない僕に、彼女は言葉を続ける。
     堰き止めていたものが溢れ出るみたいに。

    「ね、遼ちゃん。いったい何に巻き込まれてきたの? 神様と同じくらいの力って、いったいなに?」

    「……どこで、それを言われたの」

    「教えてくれた人がいたの。いつのまにか、いなくなっちゃったけど」

    「……そっか」

    「そういえば……」

     何かを思い出したように彼女は顔をあげて、それから、言いづらそうに口を歪ませた。

    「……ね、何か、声が聴こえたりした?」

    「声?」

    「聴こえなかったなら、べつに、いいんだけど……」

     声。

     小夜には、全部話すべきかもしれない。僕がしたこと、僕が見たこと、僕が行った場所。
     信じてもらえないだろう。それでも、すべてを語るべきだという気がした。

     僕が、逃げ出したことを。

    「少し、長い話になると思う」

    「……うん。大丈夫」

    「声は……たぶん、聴こえたと思う」

     小夜は、その言葉に、安心とも動揺ともつかない、不思議な表情を浮かべた。

    「そっか。……聴こえたんだ」

     それから僕は、長い、長い話をした。
     
     僕が、人を刺すまでの話を。


    968 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:38:35.40 ID:IzyndCNto

     話を終えた僕の膝に、彼女は静かに手を置いた。 
     どうしてそんなことになるのか分からなかった。

    「ごめんね」と、それでも小夜はやっぱり謝るのだ。

    「どうして、謝るの?」

    「気付けなかった」

     まるで、自分に責任の一端があるかのような顔をする。
     彼女は――僕の一部を引き受けているみたいな顔を、する。

    「どうして、怒らないの」

    「……」

    「どうして、責めないの」

    「……」

    「僕は、きっともう……」

    「ね、遼ちゃん。昔、遼ちゃんが話してくれたお話、覚えてる?」

    「……話?」

    「うん。神さまの命令に逆らって、大きな魚に食べられた預言者のお話」

     ヨナ書。怪魚に呑まれた男の話。それをいつか、小夜に話したことがあっただろうか。

    「あのお話の終わりを覚えてる? どうして、悪いことばかりをする街を、神さまが裁かなかったのか、って」

    「……」

    「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
     ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」

    「……」

    「ねえ、遼ちゃん。遼ちゃんがしたことが、たとえ許されないことだったとしても、だから嫌いになったりなんて、できないよ。
     遼ちゃんもきっとそうでしょう? 愛奈ちゃんが誰かを傷つけたって、きっとあの子と一緒にいるでしょう?
     正しさなんて……きっと、無視できないにしても、いちばん大切なものじゃないんだよ」


    969 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:39:46.37 ID:IzyndCNto

     小夜啼鳥の童話の終わり。
     それを突然に思い出す。

     あの話の最後、病に伏せた王のもとに、本物の小夜啼鳥が姿をあらわすのだ。
     変わらぬ美しい声で歌うと、鳥は、ふたたび窓辺を去っていく。
     細工鳥もよく働いたから壊してはいけないと王を諌め、自分のことを誰にも秘めるべきだと助言をして、
     また歌いにやってくると約束を残して。

     その歌声で、王の病は癒える。
     そして、彼の亡骸を拝むつもりでやってきた家来たちに、顔を上げてこう言う。

     ――みなのもの、おはよう。

     ああ、そうだ。

     眠りから覚める。朝が来る。そこで物語が終わったんだ。

     そこは美しい世界じゃない。何もかもが平等な世界でもない。
     小夜啼鳥は歌う。幸福な人のこと、不幸な人のこと、貧しい漁師や百姓のこと、王の王冠ではなく心のことを歌う。
     完璧な世界ではない。小夜啼鳥は、その世界のあるがままを歌う。

     劇的な許しもなく、圧倒的な平和もなく、何もかもが満たされる結末ではなく、ただ王は、ありふれた日常へと帰っていく。

     複雑で不平等な、この世界。心の底から笑える場所なんて、きっと、この世界のどこにもない。
     
     きっと、僕が生きるべき場所も、そんなふうに、何もかもを簡単に割り切ってしまうことのできない、この日常なのだろう。

     けれど今は、単純に、小夜の声が、言葉が、嬉しくて、それだけで何かを取り戻せたような気がした。

    「ねえ、遼ちゃん――もう、ひとりで抱え込まないでよ」

     僕は、思わず両手で顔を抑えてしまった。

     返事さえ、うまくできない。

    「わたし、ここにいたよ。遼ちゃんが、話してくれるの、相談してくれるの、ずっと待ってた。
     待ってただけ、だったけど、でも、そばにいたんだよ」

     膝の上にのせられた手のひらに、ほんの少し力がこもった気がした。

    「わたし、遼ちゃんのこと、ずっと、待ってたんだよ」
     

    970 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:40:15.11 ID:IzyndCNto

     僕は、うつむいたまま、小夜の言葉を噛み締めながら、同時に背後にある扉のことを考えた。
     屋上へ出る扉。決して開かない扉。僕はその先の景色を知ることができない。
     そこにあるもの、ないもの、決して知ることができない。

     たとえばその先にはざくろやすみれがいて、あるいは愛奈やあの男の子がいるのかもしれない。

     僕はおそらく、不釣り合いに恵まれている。

     同じことをした誰かより、おそろしいくらいに恵まれている。

     それを、受け取ってもいいのだろうか。

     僕はそれにふさわしいだけのことをしてきたのだろうか。

    “あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね”

     僕は――。

    「小夜」と、その音が、自分の口から出るのを、久し振りに聴いた気がする。

    「一緒に居て欲しい」

    「……うん」

    「もう、ひとりじゃ無理なんだ」

    「……うん」

    「わけが、わからなくなって、もう、どうしようもない。だから……」

    「――愛奈ちゃんを、守ろうとしてたんだよね」

    「……違う、僕は」

    「違わないよ。……大丈夫だよ、遼ちゃん」

    「……」

    「遼ちゃんが愛奈ちゃんを守るなら、わたしが遼ちゃんを守るから」

     彼女の指先が、僕の頬にかすかに触れた。自分の手のひらで抑えているせいで、その姿が全然見えなかった。
     触れられるまで気付けなかった。

    「やっと、話してくれたね」

     僕の手を、彼女は僕の目から引き剥がす。
     泣き顔を見られるのも、相手が小夜なら、仕方ないことだと自然に思えた。


    971 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:40:58.47 ID:IzyndCNto




     僕が戻ってきて数日が経った頃、母さんがひそかに教えてくれた。

     僕がいない、その間に、姉さんがこの家を訪れたという。

     ただでさえ僕がいなくなって気を揉んでいた――であろう――母さんに、姉さんが言ったことは、母さんの感情を烈しく揺さぶった。

     戸籍を移したい、と姉は言ったのだ。

     どういうこと、と母は訊ねた。

     いいかげんはっきりさせたほうが、母さんも楽でしょう、と姉は言う。

     わたしが楽かどうかの問題じゃないわよね、と母さんが言った。

     そこでわたしの責任にしようとしないで。どうしてそんなことを言い出したの?

     姉は答えなかった。

     結局その日はそれ以上話をしなかったという。

     突き詰めて言えば、それは金の話だった。

     専業主婦として穂海を育てている姉は、夫の収入を頼りにして生活している。
     夫の方が、一緒に暮らしているわけでもない他の男の子供に金を出すのを渋っているのだろうと母は推測していた。

     それがアタリだろうと僕も思った。

     学校からの集金が遅れるようになってからしばらく経つ。
     ついには、口座に金が入っていないから給食費の引き落としができないと通知まで来ていた。

     両親に、娘の食費や衣料品代を出したという話もまったく聞かない。

     そして、弟である僕が行方不明になっていたときでさえ、両親にそんな話をしたわけだ。
     ここまで来ると、なんだかよく分からない。

     姉のことを悪い人間だと思ったことは一度だってない。
     根っからの悪人だと思ったことなんて、一度だってない。
     
     一度だって、ない。

     それでも、もう、そういう問題ではないのだ。

     正しいとか、悪いとか、そういうことではなく、僕たちは、それでもこの日々を生き延びていくしかない。
     この日常を、やり過ごしていくしかない。



    972 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:42:15.58 ID:IzyndCNto



     その日から、僕と小夜はふたりで帰るようになった。

     べつに、それで何が変わるというわけではない。
     何かが解決するというのでもない。ただ、何気ない話をして、一緒に歩くだけのことだ。

     久し振りに話してみると、どうやら互いが互いにそれぞれの様子を窺っていたのだと分かってバカバカしくなった。

     もっと早く話していればよかった、と小夜は言った。僕は、あまりそうは思わない。
     今ある結果に、そんなに不満は抱いていない。それに、贅沢は言えない。

     この結果だけでも、僕には十二分だ。

     ある日、校門の手前で、篠目あさひに呼び止められた。

    「どうしたの」と訊ねると、彼女は少し不思議そうな顔をした。

    「前と違う」

    「何が」

    「顔」

    「……まあ、いろいろあったから」

    「そう」

    「……何か、あったんじゃないの?」

    「うん。沢村翔太のこと」

    「……沢村?」

    「もう、心配しなくていい」

     僕には、その言葉の意味がよくわからなかった。
     行方知らずになった沢村が、帰ってきた、という意味だろうか。
     でも、沢村が、こっちに戻ってくるなんて、僕には思えない。それに、それを篠目が僕に話す理由も分からない。

    「……妙な夢でも見た?」

    「ううん。しばらく見てない。だから大丈夫」

     篠目の言うことは、やはり、よくわからない。

    「わかった。ありがとう」

     とにかくそう伝えると、彼女は何も言わずに僕に背中を向けた。僕もまた、もう彼女に用はないと思った。

    「それじゃあね、遼一」

     何気なく、その声を聞き流して、
     驚いて振り返った瞬間には、篠目あさひの背中はどこにもなかった。

     遼一、と、僕を呼ぶのは。
     その彼女が、“沢村のことは心配しなくてもいい”ということは……。

    「……遼ちゃん?」

     隣にいた小夜が、心配そうに僕を見上げているのに気付く。

     僕は、それ以上深くは考えないことにした。
     
     すみれのこと、ざくろのこと、気にならないわけではない。
     でも、きっと、いくら考えたって、もう分からない。



    973 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/06(水) 01:42:38.21 ID:IzyndCNto




     終わりかけの夏はいつのまにか過ぎ去って、季節は秋に変わり、けれどまだ、紅葉の見える季節にはなっていない。

     やがて、景色はまた移り変わっていくだろう。

     僕は通い慣れた道を小夜と一緒に歩いている。

     それだけのことで、以前より、心がいくらかマシになっている。
     けれど、問題はここからだ。

     僕が見過ごしてきた欲望。
     僕が軽んじてきた僕の言葉。

     それを拾い上げてもらった。
     僕がしてしまったもの、僕が軽んじてきたもの、僕が大切にしたいもの。
     それと、向き合っていかなければいけない。

     守ったり、守られたりしながら。このからっぽの僕自身を、誰かにふさわしいように、少しでもマシにしていきながら。

     小夜と別れ、僕は自分の家の扉の前に立つ。

     そのあたりまえの日常の空間に、向かっていく。

     扉を開ける。

    「ただいま」と僕は言う。

     少しして、とたとたと、軽い足音が聴こえてくる。
     リビングの扉から、愛奈が半身を覗かせて笑った。

    「――おかえりなさい!」


    976 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:54:34.49 ID:S5mn3zpLo


    ◆[L'Oiseau bleu]A/a


     わたしがいない間に、二週間が経っていた。
     わたしが帰ってきてから、二週間が過ぎた。

     季節はもう、秋へと移ろっていた。

     わたしが帰ってきた日の夜、おばあちゃんはわたしを抱きしめてくれた。

     警察の人に事情を聞かれたけど、どう答えればいいのかわからなくて、何も言えなかった。
     
     二週間の間野宿をしていたにしてはわたしの服装は綺麗で、どこかにさらわれていたとしても綺麗で、
     だから結局警察は、不良少女の家出という現実的な解釈をしたのだと思う。

     たいしたことは聞かれないまま終わってしまった。
     
     おばあちゃんは高校に届け出てはいなかったみたいで、だからわたしは、
     季節の変わり目にタチの悪い風邪を長引かせていただけだと、周りには思われていたようだった。

     その奇妙な現実的な感覚は、かえってわたしの頭を混乱させた。

     わたしの世界では相変わらずお兄ちゃんは死んでいて、相変わらずお母さんは傍にはいなかった。

     お兄ちゃんが貯めてくれたお金もそのまま残っていた。ただ時間だけが流れていた。
     そのせいでまるで、あの世界で起こった何もかもが悪い夢だったんじゃないかという気さえした。

     ――言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ。

     結局、彼の言葉の通りになったのかもしれない。

     そのうち覚める夢。

     けれど、夢から覚めたはずのわたしの傍に、ケイくんはいない。


    977 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:55:00.90 ID:S5mn3zpLo

     それがどうしてなのかは、分からない。
     でも、よく考えてみたら、ケイくんがこっちに帰ってきていたとしても、わたしはケイくんを見つけられないかもしれない。

     同じ高校に通っているとはいえ、この学校の生徒なんて何百人といて、
     その中で彼だけを見つけ出すなんて至難の技だし、わたしは彼のクラスも知らなかった。

     もちろん見つけ出そうと思えば名前を頼りに探すことだって出来ただろうけど、それはしなかった。

     屋上の鍵は閉まったままになっていた。彼はわたしの前に姿を見せない。
     そうである以上、ケイくんは帰ってきていない、と考えるのが、自然なことに思えた。

     それでも毎晩夢を見るたびに、ちらつくのはざくろの言葉、ケイくんの声。

     
     ――俺と、もう関わらないでくれないか?

     ――だからね、"血は流されないといけない"。

     
     不吉な響きと、拒絶の言葉。

     それがわたしの心を不安にさせなかったと言えば、嘘になる。

     一週間前の土曜、わたしはひとりで例の遊園地の廃墟へと向かった。

     同じような道のりを一人で歩いて、ミラーハウスのあった場所まで。
     その日は雨は降っていなかったし、奇妙な物音も聴こえなかった。
     
     ミラーハウスだった建物は、もうどこにもなかった。


    978 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:55:27.45 ID:S5mn3zpLo



     ケイくんのいないままの高校で、文化祭が開催された。
     どこにも行き場もないまま、わたしはあちこちをうろうろしたり、校舎裏で本を読んだりして過ごした。

     たまにクラスメイトに話しかけられたりもしたけど、何かを手伝えとか、そんなことも言われなかった。

     べつに仲が悪いわけでもない、苦手なわけでもない、ただひどく疲れていたし、
     わたしが顔を出して楽しい顔をするのは、果実だけを横取りするようで憚られた。
     
     それに、楽しい顔なんてできそうにもなかった。水を差すくらいなら、誰にも見咎められないところにいた方がいい。

     校舎裏の古い切り株に腰かけたまま、ページをめくる手がふと止まった。

     風が肌を撫でていった。

     わたしは思う。

     苦しかったのだろうか?
     つらかったのだろうか?
     悲しかったのだろうか?
     寂しかったのだろうか?

     こっそりとお兄ちゃんの部屋から持ち出した本。

     紙面に目が止まる。

     
    "かたわらにいないと
     あなたはもうこの世にいないかのようだ
     窓から見えてる空がさびしい
     ひろげたまんまの朝刊の見出しがさびしい"

     

    979 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:55:53.41 ID:S5mn3zpLo

     こちらの世界に帰ってきてから、わたしは、お兄ちゃんの部屋の本棚の中身と、祖母が残していたアルバムを眺めた。
     
     写真に映るのが嫌いな人だったけれど、それでも、お兄ちゃんの姿はそのうちの何枚かにちゃんと残っていた。残っている。

     その写真の中で、お兄ちゃんは笑っている。笑っていた。

     そうなのだと思った。

     いつか、遠くの薔薇園に、家族で行ったことがあった。
     家族で、といっても、祖父母とお兄ちゃんと、それからわたしだけだったけれど。

     生憎の曇り空で、人気は少なかったけれど、西洋風の庭園に広がる色とりどりの薔薇たちは、
     見られるかどうかなんてはじめから気にしていないかのように綺麗だった。

     そんな景色のなかで、わたしはお兄ちゃんと、少しだけ話をした。

     どんな話をしたんだっけ。たしか、神さまの話だ。神さまの、悲しみについて話をしたのだった。
     それはどこにでもありふれていて、取るに足らないもので、それでも捨て置けないものなんだと。
     そんな話をしたのだった。

     そのとき、お兄ちゃんは、どんな顔をしていたっけ?

     わたしは、そのとき何かを言って、くだらない、子供っぽいことを、きっと言って、
     お兄ちゃんはそのとき、笑っていたのだった。

     そうだった。笑っていた。

     笑っていたのだと、わたしは思い出した。


    980 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:56:20.12 ID:S5mn3zpLo

     苦しかったのだろうか?
     つらかったのだろうか?
     悲しかったのだろうか?
     寂しかったのだろうか?

     きっと、そのどれもが正解だ。

     でもきっと、それだけじゃなかった。

     それだけじゃなかったと、わたしは信じてもいいだろうか。

     ……違うか。

     それだけじゃなかったと、今のわたしは、そう思える。

     きっと、それだけじゃなかったと、そう思う。
     
     そんなふうに思うことに、誰かの許可なんて、いらない。

     誰かに許してもらう必要なんて、どこにもない。

     ここにいることも。
     誰かを好きになることも。
     誰かと一緒にいようと思うことも。

     そうしてもいいのだろうかと、誰かに求めたところで仕方ない。

     きっと、そうなのだろう。

     そう言ってしまいたくなるのは、きっと、自分に自信がないからで、
     それでも、誰かに許してもらえることを期待しているからで、
     その浅ましさが、弱さが、でも、どうしてだろう、わたしには、
     
     そんなに、悪いものだとも、思えないような気がしていた。


    981 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:56:54.98 ID:S5mn3zpLo





    「……何やってるんだ、こんなところで」

     不意に、そんな声が聞こえた。

    「ひとりなのか?」

     聞き覚えのある声だなあ、とわたしは思った。
     なんだか、まどろみのような心地だった。

    「……なんだか、悪いような気がして」

    「何が?」

    「楽しむのが」

    「誰に」

    「……ううん。どうだろう、いろんな人に、かな」

    「楽しむのに、悪いも何もないだろう」

    「ほら、それでも、お通夜に携帯でお笑いの動画を見る人はいないでしょう」

    「……ひどい例えだな」

    「でも、そういうこと。遠慮というよりは、粛み、という感じ」

    「分からなくは、ないけどな」

    「笑えないわけでも、楽しめないわけでもないの」

    「……」

    「でも、今はもう少し、喪に服していようかと思って」

    「喪、か」



    982 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:57:21.21 ID:S5mn3zpLo

    「……ね、どこに行ってたの?」

    「長い話になる」と彼は溜め息混じりにいって、わたしの背後に腰掛けた。
     同じ切り株に、わたしたちは背中合わせに座っている。

     風がまた吹き抜けて、本のページをめくる。
     木々の梢で赤らんだ葉が、いくつかひらひらと舞い落ちていく。

    「どうしても聞きたいっていうなら、話してやってもいい」

    「そんなに、興味があるわけじゃないかな」

    「……なんだよ。気になるだろ、少しは」

    「聞いてほしいの?」

    「いや。でも話すよ。面倒なところだけ、省略するけど」

    「うん。そのくらいが、ちょうどいいかな」

     彼がわたしの背中にかすかに体重をかけた。
     
    「ね、ちょっと重い」

    「悪いな。さっき帰ってきたばっかりで、疲れてるんだ」

    「……さっき?」

    「ちょっとした賭けに巻き込まれてたんだ。もっとも、俺がどう動くかが対象の賭けで、俺が賭けたわけじゃないけど」

    「ふうん」

    「まあ、でも、結果だけ見れば、俺は騙されなかったってことになるんだろうな。あいつの負けだ」

    「……じゃ、勝ったの?」

    「だから、俺は参加者じゃなかったんだよ。……でも、まあ、勝ったっていえば、勝ったな。ここにいるわけだから」

    「大変だったんだ」

    「そう、大変だった」


    983 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:57:49.29 ID:S5mn3zpLo

    「……帰ってこないんじゃないかって、思ったよ」

    「俺も、そう思ったよ」

    「でも、帰ってきたんだ」

    「帰ってこないと、また拗ねる奴がいそうだったからな」

    「……大丈夫だったよ」

    「それはそれで、ちょっと残念な気もするものだな」

    「そうなの?」

    「いなくても大丈夫って言われるよりは、いないと困るって言われた方が嬉しい」

    「……」

    「たぶん、そんなもんだよ。多かれ少なかれ、人間なんて。誰かに、必要とされたがってる。必要としてくれる誰かを必要としている」

    「そうかも」

    「でも、大変だったよ。なあ、俺がどうやって帰ってきたと思う?」

    「わかんない。そもそも、どこに行ってたの?」

    「ちょっと、いろいろな。案内役がいないせいで、あちこち時間を飛んで回ってたんだ。ざっと、三日間くらい、望む時間につくまで行き来してた。
     途方に暮れたよ。なんだかよく知らない世界まで混じってくるし、あいつらの追いかけっこも続いてたし」

    「……そうなんだ?」

    「ああ。大変だった。……伝わらないか?」

    「うん」

    「参ったな」


    984 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 00:58:49.17 ID:S5mn3zpLo

    「ね……」

    「ん」

    「帰ってきてくれて、よかった」

    「……」

    「ホントは、不安だった。心配、してた。だって、だってさ」

     さっきから、高ぶっていた気持ちをどうにか押さえ込んで、ようやく落ち着いてくれたと思ったのに、
     だからもう、振り向いても平気だと思ったのに、また、だめになりそうだ。

     それでも、もう、振り向こうと思った。
     彼の顔が見たくなった。

    「ケイくんがいないと、困るよ、わたし」

     彼は、わたしが振り向いた気配を感じたのだろうか、肩越しに少しだけ首をかしげて、わたしと目を合わせて、笑った。

     ケイくんは、何気ないふうを装ってみせた。

    「そうかい」

     その照れ隠しが、ひどく懐かしい。

    「言ってくれた言葉、無効になったりしないよね?」

    「……どれのことだ?」

    「全部」

    「……ま、そうだな」

    「ね、だったら、わたし、ケイくんと一緒にいてもいいかな」

    「……」

    「だって、ケイくん言ってたもんね。わたしがいなきゃ、困るんだって」

    「……そんなこと、言ったっけか?」

    「言ったもん」

    「……言ったな」

    「だよね」

    985 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 01:05:16.57 ID:S5mn3zpLo

    「……なあ、なんか」

    「なに?」

    「ちょっと、変わったか?」

    「……そう、かな。そんなこと、ないと思うけど」

    「いや、でも」

    「もしかしたら、気分が変わったからかもしれない」

    「気分?」

    「もう少し、信じることにしたから。いろんなもの」

    「……そっか」

     わたしは立ち上がった。校舎の向こう側から、楽しそうな声が聴こえる。
     こことそことの距離は、ほんの少し、遠い。

     でも、今はべつに、ここでいい。このままでいい。

     わたしは、切り株の上に膝を揃えて載せて、彼の首筋に自分の腕を回した。
     肩に頭をのせてみたら、彼はくすぐったそうに身をよじった。

    「なんだよ、急に」

    「べつに、なんでもないよ」

    「……敵わないな、ホントに」

     そんな声が、当たり前に帰ってくることが、今は嬉しくて仕方ない。
     彼には、それがちゃんと分かっているんだろうか。
     
    「ケイくん」

    「……なんだよ」

    「……おかえりなさい」

     彼は、おかしそうに笑って、それから、首筋にまわしたわたしの手の甲を、指先で撫でた。

    「……ただいま」


    986 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 01:17:31.85 ID:S5mn3zpLo

     空は晴れやかに澄みわたっている。

     わたしたちは自分たちの身の回りに起きたことなんてひとつも変えられないままだった。

     彼の話だとあの追いかけっこは終わっていないらしい。きっとまだ、彼女が彼女を追いかけている。
     
     あの扉をくぐって、何度も何度も繰り返しているのだろう。
     たどり着けるかも分からない場所を目指し続けている。

     それをどうするべきなのか、どう思うべきなのか、わたしにはわからない。

     過去は変えられないし、開けられない扉は開けられないままだ。
     今となっては、お兄ちゃんの真意なんて、鍵のかかった扉の向こうにしまい込まれている。
     わたしはやっぱり、その扉を潜り抜けることができない。

     でも、その向こうが、悲しみや寂しさだけではなかったはずだと、今のわたしは、信じることができる。
     それだけではなかったはずだと、思い出すことができる。

     そして今は、彼が傍にいてくれていて、それを許してくれていて、
     だからもう、足りないものなんてひとつもないような気がしている。
     わたしは心の中だけで誰かにごめんなさいを言った。その意味は、きっと誰にもわからないし、わたしにも本当はよくわかっていない。
     でも、ごめんなさいを言った。


    987 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 01:29:23.04 ID:S5mn3zpLo


    「少し、寒くなってきたね」

     なんて、そんなことを、平然としたふりをしながらいいながら、
     きっと、今日のこの瞬間のことを、わたしはいつまでもいつまでも忘れないだろうな、と、ぼんやりと思った。

    「……そうだな」と、ケイくんは、なんでもいいような相槌を打った。

     また風が吹いて、落葉をさらっていく。

    「そろそろ、行こうか」

     わたしは、そう言って彼の体から離れて、立ち上がった。

    「どこに?」と彼は言う。それでも、わたしに合わせて立ち上がる。

    「わたしたちは日常に帰らないとね」

     は、と彼は笑った。

     わたしたちは、手を繋ぎ直して、校舎裏の切り株に背を向ける。
     
     無言のまま前を見ている彼の横顔を見て、
     そういえば、まだちゃんと、わたしの方から好きだって言ってないな、と、どこか場違いなことを思ったけれど、
     それは、次の楽しみに、照れた彼の顔をもう一度見るために、とっておこうと、そう思った。

     そんなことを考えたとき、わたしの胸の内側に、なんともいえないあたたかくて満たされた感じがじんわりと広がって、
     それはあまり覚えのないもので、わたしを少し戸惑わせたけれど、
     でも、ぜんぜん悪い気はしなかったから、これはよいものだなと思った。

     この気持ちを言葉にしようと思ったら、きっと簡単なんだろうな、とわたしは思った。
     でも、言葉にはしないことにした。きっと、その方がいい。

     冷たい風がまた吹き抜けていくけれど、わたしの手のひらは、彼の手のひらに包まれたままだった。


    988 ◆1t9LRTPWKRYF 2017/12/11(月) 01:29:50.01 ID:S5mn3zpLo
    おしまい

    989 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 02:56:15.90 ID:52Bwdkhwo
    おつです

    990 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 08:09:42.77 ID:Ivh/A9Kfo

    991 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2017/12/11(月) 09:09:36.05 ID:0YkIu4OV0
    おつです

    引用元: 開かない扉の前で

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    コメント

    1. 以下、SS宝庫がryz9jllgzo

      おもしろい
    2. 以下、SS宝庫がry-

      これ屋上さんなん?

      ともかく良かったっす
      こういうSS増えて欲しいね


      なんとなく似たSSがあったような…
      リバイバルかスピンオフ的な感じなのかな

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