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    開かない扉の前で【前編】

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    開かない扉の前で【前編】【中編】【後編】


    1 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:12:24.79 ID:BFmKl9Djo

    ◆[Alice] A/a


     とりあえず見てみなさい、と言って祖母が差し出してきた通帳の名義は、どうみてもわたしのものになっていた。

     なんだこれ、と思いながら開いてみると、だーっと並んだ残高欄の果ての果てには、
     いまいち実感の湧きにくい額がそっけなくぽつんと記載されている。

     非現実的な額ってほどではないけど、それでも何気なく見せられた自分名義の通帳に入っていたら、
     大きな戸惑いを覚えても不自然ではない程度の額。

     そういうわけで、わたしはとりあえず呆然とした。

    「なにこれ」

    「うん。わたしもびっくりした」

     祖母はそう言って、食卓の上の湯のみに口をつけて緑茶をずずっと啜ったあと、ほうっと溜め息をついた。



    2 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:13:54.88 ID:BFmKl9Djo

     彼女の顔つきも、ここ二、三週間でかなり変わった。というかやつれた。
     溺愛していた息子が二十代前半にして死んでしまったんだから、無理もないだろう。

     叔父が亡くなったのはつい先月のこと。

     夜中に歩いてコンビニに煙草を買いに行ったら、
     信号待ちのあいだに突っ込んできた(と思われる)車か何かに撥ねられたらしい。

     らしいというのは、まだ事故の相手が特定できていないから。

     どうも、ひき逃げという奴らしい。

     ひょろながくて痩せっぽちだった叔父のことだから、車に軽く当たられただけで道路を何バウンドかしてあっさり死んでしまったんだろう。

    「ああ、痛いな、うん。これはやばいな」なんて苦笑くらいしたかもしれない。

     今頃は賽の河原で子供たちに混じって石積みでもしていることだろう。そういう姿を想像するとちょっとだけたのしい。


    3 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:15:46.59 ID:BFmKl9Djo

     こんな想像をするからと言って、べつに叔父のことが嫌いだったり、叔父が死んだことを悲しく思っていなかったりするわけじゃない。

     素直に悲しんで見せるよりも、皮肉っぽい想像のなかに彼の死を閉じ込めてしまう方が、
     韜晦に満ちた叔父の生涯の締めくくりに捧げるものとしては、なかなかにふさわしい弔いのように、わたしには思えるのだ。

     実際、たいした隠蔽力だ。誰にも気付かれずにこんなものまで遺すんだから。

    「これって、まさかとは思うけど」

     通帳の数字と日付、数年前からの定期的な入金の記録。
     祖母は「びっくりした」と言っているから、たぶん知らなかったのだろう。

    「そう。あの子、あんた名義の通帳に、だいぶ入れてたみたい」

    「なんでまた」

    「なんででしょうねえ」

     呆れたみたいに、祖母は溜め息をついた。


    4 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:16:30.76 ID:BFmKl9Djo

     叔父が死んで以来、溜め息の数と暗い顔をしている時間が増えた祖母だったけど、今はどことなくうれしそうに見える。
     悲しいのを通り越したら呆れが、呆れを通り越したら笑いが湧き出てきたんだろう。

     祖母のそういう表情を見るのはひさしぶりだから、わたしはなんだかうれしくて、
     死んだあとでさえ人にそんな顔をさせられる叔父のことを考えて誇らしくなった。

     それと同時に、彼女の心を少しでも安らがせるためにも、はやくひき逃げ犯が見つかってほしいとも思った。

     きっと叔父自身は、気にしていないだろうけど。
     まあ、死んじゃったんだから、気にすることもできないんだろうけど。

    「本当は、あんたが高校を卒業してから見せようかとも考えたんだけど」

     と、祖母は言う。

    「……なんだか、秘密にしておくのも、ばからしくてね。わたしもおじいちゃんも、いつまで生きてるかわからないし」

     そうして彼女は困ったように笑った。


    5 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:17:38.77 ID:BFmKl9Djo

     わたしは通帳の数字から目を離して、自分の湯のみに口をつけて、ずずっと緑茶をすする。

    「どうして、わたし名義でこんなお金が?」

    「口座は、わたしが昔、あんたのお母さんに作らせてたんだけど……どういうつもりなんでしょうね」

    「大いなる謎ですね。親なき子だからですかね」

    「どうでしょうねえ」

     肩をすくめた祖母の声をききながら、わたしは叔父がよく腰掛けていた定位置の方を見て、その空白をたしかめた。

     叔父は、金銭的に余裕がある生活を送っているようには見えなかった。
     口癖は「金がない」と「金がほしい」だった。

     結婚もしていなければ彼女もいなかったし、特に金のかかる趣味があったわけでもなく、
     酒も呑まず飲み会にもほとんど行っていなかった。


    6 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:18:11.75 ID:BFmKl9Djo

     そんな生活でどうやったら金がない状態になるのか、と、
     わたしはちょっと呆れていたんだけど、蓋を開けてみたらこういうことだ。

     どういうことだ。

    「預かっておこうかとも思ったけど」

     と言って祖母はちらりと通帳を見たかと思うと、鼻で笑うように息をつき、

    「好きにつかいなさい」

     とまた困り顔をした。

     はあ、とわたしはあっけにとられた。


    7 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:19:28.35 ID:BFmKl9Djo



     そういうわけで、自由にできる七桁の財を大いなる驚きとともに得て、
     そのお金でわたしが最初にしたことはといえば、高校の屋上でサボり仲間に缶コーヒーをおごることだった。

     九月になって最初の金曜日。

     八月上旬頃は各地で猛暑日が連続したとかなんとかと、天気予報士が額に汗をにじませながら言っていたけど、
     下旬頃から一気に気温がさがりはじめて、残暑なんて言葉は最初からなかったみたいに肌寒くなった。

     季節は手品みたいにあっというまに景色と感覚を塗り替えて、
     おかげでわたしも、半袖で平気で出歩いていた先月までの自分の気持ちがわからなくなってしまっていた。

     急に冷えるようになって、鼻風邪をひいたらしいケイくんは、
     わたしが手渡したあたたかい缶コーヒーを受け取ると、ありがとうも言わずにプルタブを捻って飲み始めた。

    「感謝の気持ちがたりないよ」

     とわたしが抗議すると、

    「気持ちはあるよ」

     と彼はどうでもよさそうに答えた。


    8 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:21:29.48 ID:BFmKl9Djo

    「声に出さないとわかりません」

    「感情表現が苦手なんだよね」

    「居直らないでよ」

     は、とバカにするみたいに鼻で笑って、ケイくんはまたコーヒーに口をつけた。

     吐き出した息が白くなるほどの寒さではないけど、先月までの暑さを思うと、世の終わりかとでも言いたくなる。

    「居直りっていうかね、これでも表に出してるつもりなんだ」

     わたしは呆れて溜め息をつく。

    「あのね、ケイくん。わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、
     そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。それはね、言葉っていうの」

    「はあ」

    「それを使うと不思議なことにね、ケイくんみたいな超がつくくらい不器用な人でも、
     たった一秒、文字にしたら五字ほどで相手に感謝を伝えられるんだよ」

    「うん」

    「ご先祖さまは偉大だよね。はい、ケイくん?」

    「ありがとう」

    「よくできました」


    9 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:22:26.92 ID:BFmKl9Djo

     ケイくんはまたバカにするみたいに笑った。

     べつにわたしだって、どうしても彼にお礼を言ってほしいわけではなかった。
     ただどうでもいい思いつきをぺらぺらと並べてみただけだ。

     本当のところなんでもよかった。

     彼が返事をよこすかどうかさえどうでもよかった。ただなんとなく口が止まらなかっただけだ。

     わたしのそういう傾向については、たぶん彼も見透かしていると思う。

     放っておかれると、中身のない言葉を延々と、だらだらと、並べ始める。

     それはひょっとしたら、内面のからっぽを見透かされまいとする自己防衛なのかもしれない。


    10 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:24:35.96 ID:BFmKl9Djo

     うちの学校の屋上は開放されていない。
     生徒はもちろん教師でさえ必要に駆られたときにしか出入りできない。

     というのも、開放してしまうと当然危ないし、くわえて人目につかないのをいいことに、
     悪さをしたりいかがわしいことをしたりする生徒が出てくるから。

     なのだが、ケイくんはどうしてか東校舎の屋上の合鍵をもっている。

     そのおこぼれにあずかって、わたしもここでたまに授業をサボってお昼寝をしているのだ。

     というより、ケイくんがここでサボっていたところをわたしが偶然発見して、
     口止め料代わりに屋上への侵入手段を共有させてもらっている、というのが正しいのだけれど。

     とはいえ、今は放課後で、べつに授業をサボっているわけじゃない。

     缶コーヒーを一気に飲み干してしまうと、
     彼は制服のズボンのポケットから煙草の箱とライターを取り出して、いつものように火をつけた。

    「不良」とわたしが言うと、

    「そのとおり」と楽しげに頷く。


    11 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:25:23.39 ID:BFmKl9Djo

     咎めはするものの、彼に喫煙癖があろうと飲酒癖があろうと本心ではどうでもいいし、
     彼の肺が何色をしていようとわたしの肺とは関係ない。

     むしろ彼が煙草に火をつけて、その煙をたっぷりと吸い込んで、
     やがて吐き出すときのその表情を見ると、安心にさえ似た気持ちを覚える。

     どうしてなのだろう?
     ……分からない。

    「それにしても、その金、さっそく手をつけたわけか」

     サボり仲間同士の気安さからか、あるいは屋上という空間が妙にそういう気持ちにさせるのか、
     わたしはケイくんに、わたしについてのいろいろなことを話していたし、ケイくんもけっこう、自分の話をしてくれていた。

     少なくとも、クラスの友達よりも彼の方が、わたしの家庭事情について詳しいことを知っているだろう。

     もちろん、それがすなわち絆の強さや信頼の重さをあらわすわけではない。

     なにもかも包み隠さずに話し合うから良い友だちだなんて、幼稚園児の発想だ。
     友だちだからこそ言いたくないことだってたくさんある。

    12 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:27:13.17 ID:BFmKl9Djo

     ケイくんは煙草の灰を空き缶の縁で落とすと、足元にその灰皿を置いた。

    「ゴミ収集の人が困るよ」

    「俺は困らない」とケイくんは言う。

     それはそうだ、とわたしは思った。

    「でもバカな使い道だな、缶コーヒーってさ。普通こういうのって、進学とか、何かあったときのためとか言って、とっとくもんだろ」

    「うん。そう思ったんだけどね……」

     言葉を続けようとしたけど、どう説明していいかわからなくなって、やめた。

     そういう使い方をするところを叔父がもし見ていたら、きっと呆れて笑うだろうから?
     そんな想像に心地よく浸りたかったから?

     あるいはわたしは、叔父が大切に使ってほしいと思って遺しただろうお金をこんなふうに消耗することで、
     こんなお金なんかよりも、もっと生きていてほしかったのだと、けっして伝わらない主張をしているつもりなのかもしれない。

     よくわからない。


    13 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:27:51.19 ID:BFmKl9Djo

    「……だけど?」

     言葉に詰まったわたしを見て、ケイくんは続きを促したけど、わたしは何も言わずに、かわりに景色を眺めた。

     放課後の屋上から見える街並。
     今日は朝からよく晴れていて、夕陽はずいぶんと綺麗に街を照らしていた。

     こんなに良い天気なのに、肌を撫でる空気は秋のつめたさ。

     それはある意味で幻想的と言えなくもない光景だった。
     なんだか、現実味がない、嘘くさい、加工した風景写真みたいな、つくりものめいた美しさ。

     そう感じてしまうのはきっと自分のせいなのだろう。

    「……なんだか、億劫だな」

     わたしのそんな言葉に、ケイくんは新しく煙草をくわえながら反応した。

    「なにが?」

    「……生きてるのが?」

     は、とケイくんはまた笑った。


    14 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:28:19.04 ID:BFmKl9Djo

    「ね、一本ちょうだい」

    「いやだよ」

    「なんで?」

    「そんなこと言い出したことなかっただろ。どういう心境の変化?」

    「べつに深い意味はないけど……」

    「一本二十三円」

    「ケチくさい」

    「割り切れるものは割り切っておくことが大事なんだよ」

    「ふうん」

     煙草をわけてもらえなかったわたしは、フェンスの網目をぎゅっと手のひらで掴んでみる。

     金網に指の肉が食い込んで痛い。


    15 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:29:05.81 ID:BFmKl9Djo

     学校の敷地内を、ぼんやりと見下ろす。

     下校しようとしている生徒たちの姿が見える。階下から吹奏楽部の音階練習、剣道部が外周を走っている。
     武道場から畳を打つような音、体育館からバスケットボールの跳ねる音。

     みんな頭をからっぽにして打ち込んでいるんだろう。それがどうしてわたしにはこんなに平坦なんだろう。

    「セロトニンの不足だよ」とケイくんが言った。

    「なにが?」

    「そういうことを考えるのは、脳内物質の問題らしいよ」

    「……」

    「頭のなかが不調だと、気分が落ち込んで、感情がわかなくなって、幸福が感じ取りにくくなって、だからつまんないことを考えるんだってさ」

    「へえ」

    「解消する方法を知ってるよ」

    「どんなの?」

    「日光を浴びること、適度な運動、栄養バランスのとれた食事」

     ケイくんは皮肉っぽく笑った。


    16 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:30:11.42 ID:BFmKl9Djo

     わたしはその言葉を聞き流しながら、いくつかのことを思い出した。

     母さんのこと、叔父のこと、妹のこと。そのどれもがなんだか遠い。

     どうして叔父は――お兄ちゃんは、死んでしまったんだろう?

     煙草を買いにいって、信号待ちで、事故で。
     お兄ちゃんは、どうして、お金を遺したんだろう?
     そのお金を、わたしにどうしてほしかったんだろう?

     分からないことばかりで、嫌になる。

    「なんだか、遠いな」

     そう言って、わたしは空を眺める。

     影が後ろに伸びていく、反対側の空が藍色に濃さを増していく、何もかもが融け合ってまざりあって、よく見えなくなっていく。
     
     昔のことを思い出しそうになる。

     わたしはそれを、可能なかぎり素早く頭の内側から追い出してしまう。
     そうやって今日まで生き延びてきたのだ。

     そうして最後に残るのは、お兄ちゃんが死んでしまった、という感慨ですらない感想だけ。

     お兄ちゃんは死んでしまって、わたしはこれから彼のいない世界で生きていかなければならない。


    17 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:31:33.72 ID:BFmKl9Djo

    「……どうしてなんだろう?」

     思わず、そう声をあげたとき、ケイくんが不可解そうにこちらを見た気がした。
     わたしは彼の方を見ていなかったから、彼の視線がどこに向かっていたかは、本当のところ分からなかったけど。

    「なにが?」

     少ししてから、ケイくんはそう訊ねてきた。

     なにが? なにがだろう。なにが、"どうして"なんだろう。
     自分でも、やっぱりよく分からない。

     だから、言葉にできる部分だけを、問いにして答えてみた。

    「どうしてお兄ちゃんは、わたしにお金を遺したりしたんだろう?」

     彼はまだ二十代で、やろうとしていたことも、行きたい場所も、きっとあったはずなのだ。
     わたしに遺しただけのお金があれば、きっと、いろいろなことができたはずなのだ。

     それなのにどうして彼は、わたしにそれを渡してしまったんだろう。
     どうして自分のために、そのお金を使わなかったんだろう。

     それがひどく、申し訳ないことに思える。

    「俺が知るわけない」とケイくんは言ったけど、もちろんわたしだって答えを期待していたわけじゃなかった。


    18 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:32:28.47 ID:BFmKl9Djo

    「本人に聞けよ」

    「だって、もう死んじゃったし」

    「そりゃそうだ」、とケイくんは楽しげに笑った。
     わたしは彼の、こういう取り繕わないところが好きだった。
     
    「わたしは悲しい」。でも、「彼は悲しくない」。それは本当のことだ

     だったら、わたしの感情を鏡写しに真似されるよりは、まったく気にならないと笑ってくれた方がだいぶやりやすい。
     こっちだって神妙そうな顔をせずに済むし、文句だって言いやすい。

     取り繕った言葉だって言わないで済む。 
     気遣われたら、平気な顔をしないといけない。大丈夫だって強がらなきゃいけない。

     でも、彼にそんな態度をとられると、わたしは反対に、ちょっとくらい気を遣ってくれてもいいじゃないか、とか、
     そんなめんどくさいことを考えそうになって、そのちょっとした不満が鼻の奥をつんと刺激して、
     不覚にも、泣きそうになる。

     そういうとき、彼は決まってこっちを見なかった。
     おかげでわたしは涙をこらえる理由が見つけられなくなって、我慢できなくなる。

     ケイくんは、何も言わない。からかいも、笑いもしない。
     だから近頃のわたしは、彼といるといつも、最後には泣き出してしまう。


    19 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:34:06.36 ID:BFmKl9Djo

     それでも五分もしてしまえば、泣き続けるのにも疲れてくる。
     尽きない悲しみがあったとしても、それをずっと貫けるほど肉体は付き合いがよくない。

     彼は気を遣わないわけじゃない。
     必要以上に気を遣わないことが、気遣いすぎだと言えるくらいの、彼なりの気遣いなのだろう。

     疲れるくらいに泣いてしまったあとは、赤い目を拭って、息をととのえて、滲む視界をもとに戻さなきゃいけない。

     わたしがそうなるまで、ケイくんは黙って煙草を吸っている。 

     やがて落ち着いた頃に、タイミングを見計らったみたいに、なにかを話しかけてくる。

     そのときだってきっと、深い意味なんてなかったんだと思う。

    「……そういや、死んだ人に会える場所があるって噂、聞いたことがあるな」

     頭の奥に宿った痛みに額をおさえたまま、わたしはケイくんの方を見る。
     彼は、しくじった、という顔をした。

     たぶん、思わず口をついて出てしまった話題が、悪趣味なものに思えたのだろう。
     彼にはそういう、変な潔癖さがある。
     

    20 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:34:58.39 ID:BFmKl9Djo

    「それ、どんな話?」

     わたしは、ただのくだらない噂か何かなんだろうと、そう分かっていたのに、
     どうしてか変に気になって、思わず聞き返してしまった。

     ケイくんは少しためらうような間を置いてから(彼が“ためらい”なんてものを見せるのはかなり珍しい)、
     不承不承という顔つきで、視線をこっちに向けないままで答えてくれた。

    「ただの噂、都市伝説だよ」

    「ここらへん、都市じゃないけど」

    「フォークロアって言えば満足か?」

    「どんな?」

     もちろん、信じたわけでも期待したわけでもない。
     ……いや、ひょっとしたら、期待したのかもしれない。なにかに、縋り付きたかったのかもしれない。

     ケイくんは困り顔のまま、足元の缶を拾い上げて煙草の灰を落としてから、話しはじめた。


    21 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:35:28.31 ID:qZtjRuTp0
    なんかいいな
    この2000年代前半のジュブナイル小説みたいな感じ

    22 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:36:45.18 ID:BFmKl9Djo

    「……隣の市に、遊園地の廃墟があるの、知ってる?」

    「あの、心霊スポットとかっていう?」

    「そう。ずっと放置されてとっくに荒れ果てるけど、観覧車とかメリーゴーラウンドなんかは残ってる。
     草だらけで近付きにくいけど、簡単に入れるし、忍びこんでる奴はけっこういるらしい。肝試しにはいいところだろうしな」

    「そこが?」

    「残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。 
     なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ」

    「……景色?」

    「俺も詳しい話は知らないけど、その人が見たいと望む光景、過去の思い出や、ありえたかもしれない可能性、もしくは――」

     ――死んでしまった人間と、再会できるって話もある。

     ケイくんはそう言って、「つまらない噂だよ」と言わんばかりに肩をすくめた。

     わたしはなんとなく溜め息をついてから、空を見上げる。
     その瞬間、鼻先にぽつりと何かがあたる。

     雲のない空から、雨粒が降り始めた。


    23 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:38:38.60 ID:BFmKl9Djo

     ケイくんが舌打ちをする。わたしの頭のなかを、いくつかの景色が過ぎる。 
     無性に走り出したいような気持ちになる。何かを叫びたいような。でも、何を叫びたいのかなんて自分じゃ分からない。

    「……雨だな。戻るか」

     話を打ち切ろうとするみたいに、ケイくんは空を睨んだ。
     
     わたしが別のことを考えている間に、雨は一気に強くなってきた。

     ケイくんがフェンスから離れて校舎へ戻ろうとする。
     わたしは晴れた空の下の雨に打たれながら、まだ街並を見下ろしている。

    「おい、どうした?」

     怪訝げな声。わたしは振り向かずに、言った。

    「……ね、ケイくん。もしよかったら、そこに案内してくれない?」

    「そこ?」

    「その、遊園地」

    「……タチの悪い噂だぜ。何にもないに決まってる。心霊スポットなんていっても、事故が起こった記録だってないんだ。
     放置されて景観が不気味になったからあれこれ言われてるだけで、何のいわくもない」

    「うん。それでもいいんだよ」

     わたしはそこで、彼の表情が気になって、振り向いた。
     不思議と、心配そうな顔をしていた。
    “心配そうな”彼の表情なんて、わたしはそのとき初めて見た。今日はずいぶん、珍しいものを見ている気がする。


    24 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:39:38.36 ID:BFmKl9Djo

    「ちょっとした、暇つぶしっていうか、儀式っていうか、ただの肝試しでもいいんだけど、何かしたい気分なんだ」

    「……探検?」

    「そう、それ」

     本当は違うのかもしれない。本心からそんな軽々しい気持ちだったかと訊ねられれば、違うような気がする。
     藁にもすがるような思い、というのとも違う。

     そこまで切実ではないにせよ、面白半分というほど軽薄でもない。
     かといって、廃墟に対する好奇心だとか、そういうものがまったく含まれていないとも言いがたい。

     感情の割合なんて、自分でも分からない。

     しいていうならきっと、何かをすることで、気を紛らわせたかったのだろう。


    25 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/04(月) 00:41:18.46 ID:BFmKl9Djo

     とにかく、その場所に行ってみたいと思った。

     なにもないなら、なにもないことを確認したい。
     なにかあるなら、それがなんなのか知りたい。

    「だめかな」

     わたしは、そう訊ねた。ケイくんは少しの間沈黙してから、仕方なさそうに苦笑した。

    「……ダメだって言ったら、ひとりでも行きそうだもんな」

    「うん」

    「じゃあ仕方ない。言っておくけど、見に行くだけだぞ」

    「……ケイくん、そんなに付き合いよかったっけ? 心配してくれてるの?」
     
     純粋な問いかけを、ケイくんはバカにするみたいに笑った。

    「何もないとは思うけど、仮に何かあったら、俺の寝覚めが悪いだろ」

     それだけだ、とそっけなく呟いてから、ケイくんはこちらに近付いてきて、
     わたしの背中をぽんと押して、「早く中に戻るぞ」と、いつもよりちょっとだけやさしい声で言った。

     その瞬間も、廃墟のミラーハウスのなか、ひとりで立っているかもしれない女の子のことが、
     どうしてだろう、わたしの頭からは、離れてくれなかった。


    32 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:36:22.07 ID:b+Qvcd5ho



     台風だ、と何日か前からテレビで言っていた。
     けれど後になってみれば、問題は台風そのものではなかった。

     詳しいことはわたしには分からなかったけど、気象予報士が言っていたいくつかのキーワードを抜き出すことはできる。

     台風は東海地方に上陸したのち、日本海上で温帯低気圧になった。
     そこにいくつかの要素が絡まった。太平洋側からの暖かく湿った風、もうひとつの台風。

     結果としての線状降水帯。夜中降り続く打ち付けるような雨粒。

     関東から東北に及ぶ長い帯状の雨は数日間降り続いて、
     いくつかの堤防が決壊し、いくつかの川が氾濫し、いくつかの街で特別警報が発令された。

     一言で言えば、未曾有の大雨だった。
     
     死者数名、負傷者多数、建物被害は甚大、農作物被害は深刻、避難指示、避難勧告を受けた人はかなりの数に及ぶ。
     ニュースでは土砂崩れや建物の倒壊や沈没、道路を飲み込んだ圧倒的雨量の映像ばかりが流れ続け、
     避難している人たちの不安そうな表情が痛々しいくらいに繰り返された。

    (あとになって考えてみれば、わたしの家の近所の橋が崩れて通行不可になったことは、
     全国ニュースでは一度流れたかどうかというところだった)
     

    33 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:39:22.58 ID:b+Qvcd5ho

     そうしてそれから十日もしないうちに、今度は海外で地震が起きた。

     コンビニの募金箱は、それまでは関東から東北に及ぶ広範囲の豪雨災害への義援金を目的とするものとされていたが、
     地震が起きた翌日には、百万人が避難したチリ沖地震の被害への義援金へと名目を変えていた。

     いずれにしてもわたしの周りでみんながしていた話はといえば、
     チリの地震や津波警報のことでもなければ、他県で起きた土砂崩れのことでもなく、
     インパクトのある沈んだ道路の映像のことでもなければ、死者数や被害を被った建物の数のことでもなかった。

     全国ニュースでは一度しか流れなかった橋を通れない不便さ。

     それが一番の話題だった。

     つまり、そういうものなのだ。

     被害の大きさや関わった人間の数が物事の重大さを決めるわけではない。
     近さが、それを決める。

     わたしにとっては、中国で爆発事故が起きようとバンコクで爆破テロが起きようとそれはさして重大なことではなく、
     信号待ちの間にひき逃げされた男の、どこにでもあるような他愛もない死の方が、よほど大きな問題だった。
     
     世間から見れば大きなはずの問題が、わたしにはとても些細なことで、
     世間から見れば些細なはずの問題が、わたしにはとても重要だった。


    34 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:40:15.20 ID:b+Qvcd5ho



     だからわたしは、チリで地震が起きた週の土曜に、ケイくんとふたりで例の遊園地の廃墟を訪れた。
     べつにコンビニで募金箱に小銭を入れたりもしなかったし、特にニュースを気にかけたりもしなかった。

    「そういえばチリで地震だってね」

    「最近おかしいよな。温暖化のせいだな」

     というのがわたしとケイくんが交わしたその地震に関する唯一の会話だった。
     それ以降はどちらも、遠い国のだめになった建物のことや死んでしまったひとびとのことについては何も触れなかった。

     例の大雨から一転、その日は気持ちのいい秋晴れだった。

     公共交通機関を乗り継いで隣の市までやってきたわたしたちは、
     そこから更に電車やらバスやらを駆使して移動した。

     なにせお金なら余るほどある。


    35 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:40:57.50 ID:b+Qvcd5ho

     ケイくんとふたりきりで出かけるのは、この日が初めてだった。
     
     というよりは、屋上以外の空間で彼と会うのも、初めてだという気がする。
     
     たまに廊下ですれ違うことがあったけど、わたしも彼も互いに話しかけなかった。
     それは暗黙の了解のようなものだ。

     自分には、誰にも知られていない"誰か"がいる、という事実が、わたしの心をいつも少しだけ強くしてくれる。

     そのケイくんは、寂れた木造のバス停留所に降り立った途端、
     似合うはずがないのに似合っている爽やかな青いシャツに身を包んだまま、いつものように溜め息をついた。

     初めて男の子と出かけるんだからと、ちょっとだけその気になって、
     あざといくらいにフェミニンなワンピースを着てみたりもしたんだけど(おろしたてである)、
     案の定ケイくんは無反応だった。まあ、過剰反応されたらこっちがびっくりしていたところだけど。

     毛先だってちょっと巻いてきたのに。
     位置上目で留めるの、ちょっとむずかしかったのに。


    36 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:41:44.91 ID:b+Qvcd5ho

     言うことといったら、

    「草がすごいって言ったのにワンピースにヒールのサンダルって、バカなのか?」

     とかだ。

    「パンプスだもん」

     とわざわざ言わなきゃいけないのが悲しい。
     ヒールは低めのにしたし、なんて言ったら視線の温度が五度は下がりそうだ。

     ケイくんは馬鹿にするみたいに笑ったかと思うと、

    「探検の基本はジーンズにスニーカーだろ。なにせスニーカーは、足音があまりしない」

     と、オモチャの剣を自慢する小学生の子供みたいな調子で言った。

     いわく、スニーカーの語源は「Sneak」なのだとか。それがどうした。

     とはいえ、たしかにけっこう歩くかもしれないのにパンプスで来てしまったあたり、
     やっぱりバカだというのには反論はできない。

    「ちなみにジーンズはどうして?」

    「目立たないから」

     納得できるような、できないような。


    37 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:43:43.19 ID:b+Qvcd5ho

     とにかく、そんなどこかそぐわない調子で、わたしたちは歩き始めた。
     
     つい先日のことだというのに、豪雨なんてなかったみたいに街並は平和だった。 
     ブロック塀に挟まれた狭い道は、きっと十年前もこんな景色だったのだろう。
     
     塀の向こう側に見える民家の敷地のトタンの壁には、キリスト教の聖句風の怪しげなポスターが張られている。
     田舎ではよくある光景だ。

     しばらくわたしとケイくんは、のどかと言ってもいいような静かな景色に紛れて歩いていた。
     車もほとんど通らなければ、人の姿だってろくに見なかった。
     
     目を閉じると濡れた土の匂いがした。

     なにもかもが嘘みたいに平和な景色。

     それが、ある曲がり角を見つけたとき、変わった。
     あきらかに、そちらに曲がる道だけ、何かが違った。

     冷静に考えればすぐに分かる話だ。
     
     横の民家の庭から伸びた木が枝を伸ばして、上から狭い道を覆っている。
     そのせいで日があまり差し込まず、他の場所よりいくらか翳って見えてしまうのだ。
     
     ただそれだけ。ただそれだけのはずなのに、なんだか踏み入るのがためらわれた。

     わたしたちふたりは何も言わずに一度立ち止まってから、視線を合わせて、黙って頷き合って、そちらへと進む。


    38 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:44:55.39 ID:b+Qvcd5ho

     暗い道を歩きながら、わたしはケイくんの方を盗み見た。
     
     彼はこちらに気付かずに道の先を見ている。
     案内を勝手に押し付けたから、道が合っているかどうかを確認しながら歩いているのかもしれない。

    「ねえ、ケイくん」

     沈黙がなんとなく気まずくて、わたしは声をかけてみた。

    「なんだよ」

    「どうしてわたしたち、こんなところまで来ちゃったんだろうね?」
     
     ケイくんは一度立ち止まって、あたりの様子を確認した。
     道の脇から伸びた木々の梢が空を隠している、右手に見えるブロック塀の向こうは古い家々。
     この一本道の先、翳る道を抜けたところに、光を浴びた小さな坂道がある。

     ケイくんが一向に返事をよこさないので、わたしはなんだか不安になった。
     たしかに、怒らせても仕方ない言葉だったかもしれない。

     でも、なんだか……本当にそんな気分だったのだ。付きあわせているのがわたしだと、分かっているけれど。


    39 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:45:41.13 ID:b+Qvcd5ho

    「ケイくん……?」

     もう一度声を掛けたとき、彼はふたたび歩きはじめた。

     返事もしてくれない彼の背中を、わたしは何も言えずに追いかける。
     そんなに怒らせちゃったのかな、と、また不安になる。

     どうしてだろう。
     他の人相手だと、あんまりこういうことにはならないんだけど。

     ケイくんは、なんとなく、わたしが何をしても、いつもへらへらバカにして、それでも普段通りに振る舞ってくれるような気がして。 
     だから、やり過ぎてしまうのかもしれない。

     坂道を昇るケイくんの歩調ははやい。わたしの方を振り返りすらしなかった。

     ようやく立ち止まったのは坂を登り切ったときで、そのときも彼は前を向いていた。
     わたしは彼の背中しか見ていなかった。だから、気付くのが遅れた。

    「ケイく……」
     
     言いかけたとき、わたしはケイくんの肩越しに、古い観覧車を見た。


    40 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:46:56.85 ID:b+Qvcd5ho

    「……あそこみたいだな」

     まだ少し、距離があった。ここから見るかぎり、高台にあるらしい。
     あたりには民家が少ないらしく、周囲は林のようになっていて、ここからでは、どこが入り口なのかも分からない。

     わたしたちのすぐ目の前は下り坂になっていて、その先には細い川があった。
     堤防になっているみたいだ。

     少し先に、五メートルくらいの、石造りの橋があった。車が一台通れるかというくらいの、狭い橋だ。

     坂を降りてしまうと、付近の民家や周辺の林が邪魔をして、観覧車はまた見えなくなってしまった。

     ケイくんは黙ったまま橋の上へと進む。

    「ケイくん、ごめんね」

    「……なにが?」

     わたしの言葉にようやく立ち止まって、彼は振り返った。本当にきょとんとした顔だった。

    「……怒ってたんじゃないの? さっきから、返事してくれないから」

    「……ああ、聞いてなかった」

     平然と言う。わたしはどう反応するべきか、困ってしまった。
     怒るべきなのか、ほっとするべきなのか。

     心情としてはあきらかに後者だったが、表面的にはむっとして見せた方がよかったかもしれない。
     

    41 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:47:29.28 ID:b+Qvcd5ho

    「そんなことより」、と、ケイくんは橋の上で立ち止まったまま、わたしの方をじっと見つめてきた。

    「……なに?」

     思わずわたしはからだをこわばらせる。 
     彼にまっすぐ見つめられるなんてことは、ほとんどない。

     いつもは隣に並んで、互いの顔を見ずにいるから、ときどき彼と目を合わせると、わたしは前を見ていられなくなる。
     もともと、人に見られるのが苦手だった。

    「一応、訊いておきたいんだけど、もし、噂が本当だったら、どうする?」

     なんでもないことを訊ねるような自然さで、彼はそう問いかけてきた。

    「えっと、ミラーハウスの噂が本当だったら、ってこと?」

    「そう」

    「どうかな。抽象的すぎてよくわからない噂だし、どうするもなにも……」

    「本当に?」

     ケイくんの真剣な表情に、わたしは思わず立ち止まって考えこんだ。


    42 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:48:15.44 ID:b+Qvcd5ho

     橋の上で彼と向かい合ったまま、ついこのあいだ聞いた話を頭のなかで反芻する。

     望む景色を、見せてくれる。
     望む景色。

    「どうする気もないなら、どうして突然、来ようなんて思ったんだ?」

     どうしてだろう。

    「おまえは、どんな景色を望んで、あそこに行こうとしてるんだ?」

     わたしは、しばらく考えてから、首を横に振った。

    「……よく、分からない」

     でも、きっと、彼の言う通り、わたしはどこかで、その噂話に期待していたのかもしれない。

     見たい景色がないなら、行きたい場所がないなら、目指すものがないなら、
     歩くことは無意味だ。

     逆説的だけれど、だからわたしは、何かを望んでいるのだろう。
     だって、歩いているんだから。

    「……そっか」

     ケイくんは、わたしの答えに満足したふうでもなく、けれど問いを重ねることもなく、再び歩き始めた。

     わたしたちは、橋を渡った。


    43 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:49:29.18 ID:b+Qvcd5ho



     関係者以外立ち入り禁止、の文字があった。
     わたしたちはそれを無視して敷地内に忍び込んだ。

     錆の目立つ大きなアーチをくぐった向こうには、閉ざされた大きな門が見えた。
     幸いというべきか、もぐりこむのは難しくなかった。

     少し草むらを経由すれば、すぐに園内に入ることができた。

     その際ぬかるみで靴が汚れて声をあげたら、

    「だからそんなので来るもんじゃないんだ」とケイくんは真面目な声で言った。

    「どうしてそう、考え無しなんだ?」

     わたしは大真面目に考えてから、

    「天気予報で雨が降るって言われても、傘を持ち歩かないタイプなんだよね」

     と答えた。ケイくんは、よくわからない、という顔をする。

    「たぶん、どっか浮かび上がってるんだよ」

     そんな話をしていたら、いつのまにか曇り模様になっていた空から、ぽつぽつと細かな雨が降り始めた。

    「……最悪だな」、とケイくんは言った。
     わたしは特に何も感じなかったけど、ひとまず頷いておいた。


    44 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:51:30.11 ID:b+Qvcd5ho

     敷地内は、思ったほど荒廃した様子ではなかった。

     まずいちばん近くにあった建物は、シャッターが閉ざされていた。
     建物の位置と大きさを見るに、土産物や食べ物を取り扱っていた売店か何かだったのだろう。
     
     近くには「園内への飲食物の持ち込みはご遠慮ください」という立て札。

     すぐに目についたのは飛行機の形をしたアトラクションと、
     そこからフェンスを挟んだ向こうにあった小さな小屋。

     歩き疲れたわたしたちは、ひとまずそこで雨宿りを兼ねて休憩することにした。

     幸い、フェンスには人一人通れるくらいの小さな隙間があった。
     鎖で遮られてはいるけれど、おそらく出入り口だったのだろう。

     廃屋のなかは思ったほど荒れていなかった。

     従業員用の休憩室か何かだったのか、埃を被ったテーブルと、使われていたらしい扇風機がそのままにされている。

     畳の上には正体不明の何かのかけらが散乱していたし、障子は破れて木枠以外はほとんど残っていなかった。
     黒ずんだ木枠の向こうは裏手にある山の斜面に面していて、すぐ傍から植物の匂いがした。

    「蛇でも出そうだな」とケイくんが言う。あんまり脅さないで欲しい。

     ぽつぽつという雨音は、強まりもしなければおさまりもしなかった。

    45 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:53:35.11 ID:b+Qvcd5ho

     わたしは鞄のなかに入れてきた水筒で水分補給をした。

    「そういうところは、妙に準備がいいな?」

    「うん。もっと褒めて」

     ケイくんは鼻で笑った。

     壁には埃の被ったカレンダーが貼られたままになっていた。
     日付は十数年前のものになっていた。

     こうして見てみると、わたしが生まれた頃も、まだ営業していたのか。
     勝手に、もっとずっと過去のものだと思い込んでいたけれど。

    「少し休んだら、歩きまわって探さないとな」

    「何を?」

    「ミラーハウス」

    「……うん」

     ひとけのないレジャーランドの中を歩いていると、自分が奇妙な夢に入り込んだみたいな気分になる。 
     こんなに現実感にあふれる建物すらあるのに、それすらもディティールの凝った悪夢みたいだ。

     耳鳴りのしそうな静けさと、雨粒のささやかな音が、その感覚をいっそう強めた。

    46 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:56:32.20 ID:b+Qvcd5ho

     しばらくふたりで黙り込んだまま、雨の音だけを聞いていた。

     今日はなぜか沈黙が落ち着かなくて、うろうろと歩きまわっていると、不意に建物の外から物音が聞こえた。

     思わずケイくんの方を見たけれど、彼が何かに気付いたような様子はない。

    「ね、いま……」

     わたしが声をかけると、彼は怪訝げに眉を寄せた。

    「なにか、聞こえなかった?」

    「なにかって?」

    「なんか、物音」

    「……猫でもいるんじゃない?」

    「……そうなのかな」

     妙に気になって、障子を開けて外に顔を出し、あたりの様子を見渡してみた。
     目の前は草木に阻まれて歩けそうになかったし、すぐそばの斜面のせいで視界は悪かったけど、
     横を見れば広がる敷地の一部が覗けた。


    47 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:57:09.80 ID:b+Qvcd5ho

     どくん、と心臓が嫌な鳴り方をした。
     人影が見えた。

    「……ケイくん、あれ」

     わたしの声に、ケイくんは少し早足で駆け寄ってきた。

    「あそこのアトラクションのそば」

    「どれ?」

    「コーヒーカップみたいなの。あのそばに、ほら……」

    「……なに?」 

    「いま、人影が……」

    「どこ?」

    「……えっと」
     
     もういちど目を凝らしてみたけれど、人らしき姿はもう見えなかった。
     どこかの陰に入ってしまったのか、それとも見間違いなのか。


    48 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/05(火) 23:58:46.79 ID:b+Qvcd5ho

    「……少し、過敏になってるんじゃないか」

     ケイくんは、溜め息をついてから、拳をつくってわたしの肩を軽くトントンと二度叩いた。

    「……そうなのかな」

     そうなのかもしれない。
     なんだか、あの橋を渡ったときから、妙に気分が落ち着かない。

     聞きとりにくい声で、誰かに話しかけられているような。
     強い風の音に隠れて、誰かがわたしに何かを言おうとしているような。

     そう分かっているのに、わたしがどれだけ耳をすませても、言おうとしていることがまるでわからないみたいな。

     もちろん、風なんか吹いていないから、そんなのはただの錯覚でしかないのだけれど……。

     少し、雰囲気に呑まれてしまっているのかもしれない。

     でも……本当に見間違いだったのだろうか?

    「もう少ししたら、また歩いてみよう。……雨、止んでくれるといいんだけどな」

     ケイくんの言葉に反して、雨は止む気配を見せてはくれなかった。


    51 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 00:58:55.04 ID:btuqrQDio



     雨が少しだけ弱まったのを確認してから、わたしたちは園内を歩き回ってみることにした。 
     目的地はミラーハウス。
     
     幸い少し進んだ先に園全体の全景が描かれたガイドマップがあって、わたしたちは目指す方向をすぐに把握できた。

     ミラーハウスという建物を、わたしはそのとき初めて見た。

     ぱっと見た雰囲気は、他の建物とそう大差ない。

     しいていうなら看板などの色合いが他のものに比べて落ち着いた印象だが、
     その色も錆びと剥げとくすみでよく分からなくなってしまっている。

     てっきり小さな建物だと思っていたのだけれど、意外な大きさと広さがあった。

     一度立ち止まって、建物を見上げたあと、ケイくんは平然と中へと踏み入っていった。

     わたしは少し緊張を覚えながら(……どうしてだろう?)彼の背中を追いかけた。


    52 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 00:59:55.98 ID:btuqrQDio

     入り口からは細い通路のようになっていて、脇にはチケット売り場のようなカウンターがあった。
     わたしたちは当然のようにそこを素通りする。

    「ケイくん、ねえ」

    「なに?」

     声を掛けても、彼はこちらを振り返らなかった。

     なにかがおかしいとわたしは思った。でも、何がおかしいのかは分からない。

     そうこうしているうちに、ケイくんはミラーハウスの中へと入っていく。
     わたしは覚悟をきめて彼の背中を追いかける。

     万華鏡のなかに入り込んだような気分だった。

     迷路は薄暗く、青白い光に照らされている。
     想像していたよりもずっと、意識が混乱した。足元がぐらぐらして、立ちくらみを起こしそうになった。
     鏡にうつった自分自身の姿を視界の端に見つけるたびに、ばくばくと心臓が震えた。

    「ね、ケイくん……」

     ケイくんは返事をせずに、慎重な足取りで、迷路を進み始めた。

     何かがおかしい、とわたしはもう一度思う。

    「なにか、変な感じがしない?」

    「変な感じ?」

    「なんなのかは、よくわからないんだけど……」

     

    53 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:00:53.67 ID:btuqrQDio

     ケイくんは一度立ち止まって、わたしの方を見てから――どのわたしがわたしなのか分からなくなったみたいだった。

    「ここ」

     と声をあげると、声の方向で本物のわたしの姿を見つけてくれた。

     彼はわたしと目を合わせて、溜め息をついた。

    「……思ったより、混乱するものだな」

    「足元を見るとかすると、分かりやすいかも」

    「それじゃミラーハウスの楽しみがないだろ」

     ……目的を見失ってはいないだろうか。

     と、そこで、わたしは違和感の正体に気付いた。

    「……ねえ、ケイくん」

    「だから、なんだよ」

    「照明が、ついてる」

     わたしの言葉にケイくんは天井に視線をやった。
     青白い照明が、ところどころから薄っすらと周囲を照らしてる。

     ケイくんは何も言わなかった。


    54 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:01:39.90 ID:btuqrQDio

    「……どういうことかな」

     わたしの疑問はそのままに、今度はケイくんが口を開いた。

    「俺も、気になったことがあるんだけど、いいか?」

    「なに?」

    「……綺麗すぎないか?」

     言われて、わたしは辺りを見回す。

     綺麗過ぎる? そうだろうか? 暗くて見えにくいけれど、床には埃が積もっているように見える。
     でも、言われてみれば……。

     鏡が、綺麗だ。埃も、曇りもない。

     こういう場所は、鏡に汚れがついていると、鏡が鏡だと分かってしまうから、
     入場前に客にビニール手袋をつけさせるところもあるという。

     でも、仮にそういう扱いをされていたとしても……それはいつの話なんだろう?
     簡単に忍び込めるようなこの場所が、いつまでもこんなに綺麗に保たれるものだろうか?
     

    55 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:02:58.15 ID:btuqrQDio

    「……ねえ、ケイくん、ミラーハウスって、迷路だよね?」

    「まあ、そういう場合が多いだろうな」

    「どうしてこんなに、簡単に入れちゃったんだろう?」

    「……ていうと?」

    「建物をそのままにしておくにしても、こんなふうに鍵もかけずに開け放しておくことってある?
     万が一子供が忍びこんだりしたら、出られなくなるかもしれないよね?」

    「……なあ、俺たち、どのくらい歩いたっけ?」

    「ほんのすこしだと思うけど?」

    「……どこから来た?」

     ケイくんの言葉に、わたしは、来た(と思われる)方を見て、通路を探してみる。
     でも、見つからない。
     
     まっすぐ歩いてきたんだから、背中には来た道があるはずなのに、振り向いた先には鏡がない。
     そうこうしているうちにわたしはくるくると回ってしまって、どっちが前なのか、後ろなのか、分からなくなってきた。

     そうしている間、ケイくんは黙って動かずにいた。だからわたしは、かろうじて方向感覚を失わずにいられた。
     やはり、うしろには鏡しかなく、前にしか道がなかった。

     わたしは急に不安になる。


    56 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:03:24.42 ID:btuqrQDio

    「……なにか、変じゃない?」

     わたしの声に、彼は静かに溜め息をついた。

    「話しているうちに、わかんなくなっちゃったのかもな。行き止まりにでも入り込んだんだろう」

     その言葉を、彼自身も信じきっていないのは明らかだ。
     だってわたしたちは、まっすぐ歩いてきたんだから。
     
    「……とにかく、出口をさがさないとな」

     ケイくんの言葉に、頷く。
     ふたたび彼が前に一歩踏み出したとき、わたしはまた声を掛けた。

    「ねえ、ケイくん」

    「なに?」

    「……手を、繋いでくれる?」

     彼は一瞬黙りこんだかと思うと、何も言わずにわたしの手をとった。
     それから、仕方なさそうに溜息をつく。

    「……ありがとう」とわたしは言った。本当は、それどころじゃなかった。
     なんだか、ひどく――肌寒い。


    57 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:04:58.62 ID:btuqrQDio

     既に目的は探検じゃなくて、出口を探すことになりつつあった。
     行き止まりから歩いてきたわたしたちだけど、一本道ばかりで、分かれ道なんて見つからなかった。
     いったい、どこから行き止まりに迷い込んだんだろう。また見逃してしまったんだろうか?

     それとも本当に……行き止まりに入り込んだわけではなかったのか。

     わたしたちは、出口に向かっているんだろうか? 入り口に戻っているんだろうか?

    「……なあ」

     と、ひそめた声で、ケイくんが言う。

    「なに?」

    「何か、聞こえないか?」

     わたしたちは一度立ち止まって、黙り込んだ。……何かが、たしかに聴こえる。
     なにか? 違う。

     声だ。

    「誰か、いるのかな」

     そう言ってわたしは、自分の言葉に、ぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
     誰かって、誰?

    「……ひとつだけ、納得できそうな説明ができるけど、聞くか?」

     ケイくんは、小さな声でそう言った。わたしは彼の方を見て小さく頷く。
     知らず知らず、彼の手を強く握っていた。


    58 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:06:07.15 ID:btuqrQDio

    「ここ、廃墟になってるとはいえ、取り壊しになってないだろ。
     なんでも元の持ち主が、いつか再建するつもりで所有したまま建物を残してるらしい。
     それで、アトラクションや建物を、たまに元の従業員が清掃したりしてるらしいんだ」

    「……つまり、清掃中ってこと?」

    「だとしたら照明がついていてもおかしくないし、人がいてもおかしくないし、鏡が綺麗なのも変とまでは言えない」

     たしかに筋は通っていたけど、納得できる気はしなかった。
     
    「……人のいる方にいけば、出口にはたどり着けるかな?」

    「たぶん。でも、見つかったら怒られるぞ」

    「……謝るしか、ないよね」

     ケイくんはわたしの方を見た。彼には悪いけど、わたしは一刻も早くこの場を離れたかった。

    「……とりあえず、声の方に進むか」

     わたしは頷いた。
     それから、声の聴こえる方に近づこうとするあまり、二、三度鏡に肩をぶつけるはめになった。
     
     そうしながらもどうにか方向感覚を見失わずに、徐々に誰かのいる方に近付いていった。


    59 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:07:34.56 ID:btuqrQDio

     わたしは、声の方に向かってきたことを、徐々に後悔しつつあった。

     その声は、どこか変だった。

     だからと言って、戻ろうと振り返ったところで、鏡ばかりで道が分からない。
     それに、実際に戻ろうとするのも不安だった。

     もしまた通ってきた道が見つけられなかったら……? それを確認するのが、怖かった。

     近付けば近付くほど、声のひびきがはっきりと聞こえてくる。
     陶酔するような、うたうような、女性の声だった。

     ――"How would you like to live in Looking-glass House, Kitty?
      I wonder if they'd give you milk in there?
      Perhaps Looking-glass milk isn't good to drink――"

     日本語ではない。演劇の台詞を読み上げるような調子。
     わたしはなんとか、それを聞き取った。

     ――"Oh, Kitty!
      how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House!
      I'm sure it's got, oh! such beautiful things in it!"

     握った手のひらに、ぎゅっと力を込める。

     不意に、声が止む。
     
     小声で、ケイくんのことを呼んだ。
     彼は何も言わずに、通路の先を見ていた。

     彼の視線の先には、鏡の迷路の出口があった。


    60 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/07(木) 01:11:38.97 ID:btuqrQDio

     それなのにわたしは、迷路から出たのではなく、いま迷路に入ったかのような錯覚を覚えた。

     鏡の通路の向こうは、そっけない壁。そちらもまた、青白い照明で薄暗く照らされている。

     その果てには、大きな扉があった。

     洋風の、大きな扉だ。両開きで、上部は丸みを帯びている。
     物語にでも出てきそうな、上品な扉だった。

     その前に、こちらに背を向けて、ひとりの女の子が立っていた。
     薄暗くてよく見えないけれど、後ろ姿だけだと同い年くらいに見える。

     声を掛けるのを、なぜかためらう。
     
     そうしているうちに、彼女が扉に向けて腕を伸ばすのが見えた。
     
     彼女はそのとき、小さな声で何かを言った。
    「待っててね」、と、わたしには、そう言ったように聞こえた。

     ドアノブを捻って、彼女は扉を開ける。
     わたしは思わず息を呑んだ。

     その扉の先は、鏡になっていた。

     にもかかわらず、彼女は足を一歩踏み出して、
     当たり前みたいに、その中へと吸い込まれていく。

     その間際、わたしは鏡の中の彼女の片目が、わたしの姿をとらえたような気がした。 
     もう片方の目は、眼帯に覆われていた。

     そして彼女の背中が消えてしまうと、わたしとケイくんの前には、大きな扉の奥の鏡と、そこに映る自分の姿だけが残されていた。


    64 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:14:15.57 ID:ZjlcYbSYo

     その場に残されたわたしたちふたりは、互いに顔を見合わせた。
     
     後ろには鏡の迷路、正面には開いたままの扉と大きな鏡。
     さっきまでそこにいた女の子の姿はもうない。

     鏡の中に溶けるように消えてしまって、今は鏡にすら映っていない。

     今みた光景を受け止められずに、言葉を失った。

    「……なんだ、今の」

    「……見たよね?」

     ケイくんは返事もせず、訝しげな顔をして、目前の扉へと近付いていった。

    「あぶないよ」

     とわたしは思わず言った。

    「……なにが?」

    「……えっと、何がだろう?」

     自分でも、よくわからなかった。なんとなく、口から出てしまったのだ。


    65 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:14:45.64 ID:ZjlcYbSYo

    「……おまえも見たんだよな?」

     ケイくんは鏡に歩み寄りながら、そう訊ねてきた。
     うん、とわたしは頷きながら、辺りの様子を見てみる。

     鏡の迷路の出口は、ごく当たり前の通路になっている。それらしい装飾もない。ただの壁。
     その先にはただ、開かれた扉と、大きな鏡だけ。
     
     明らかに迷路の果て。
     でも、出口がない。

     ケイくんは、落ち着いた足取りで鏡に近付くと、それに指を伸ばした。

    「……何かの仕掛けか?」

    「仕掛け?」

    「アトラクションの一部とか」

    「さっきのが? まさか……」

    「そうじゃないとしたらなんなんだよ?」


    66 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:15:29.17 ID:ZjlcYbSYo

    「……あのね、ケイくん。たしかに、現実的に考えたら、ありえないことかもしれないけど、
     ひょっとして、わたしたち、なにか変な状況に巻き込まれてるんじゃない?」

    「……変な状況?」

    「うん。だって、見たでしょう? さっきの、女の子」

    「やっぱり、見えたよな? 黒い服の……」

    「うん。眼帯をして、何かをぶつぶつ言ってて、鏡に……」

    「……たしかに、何かの仕掛けだったとして、俺たちを騙す理由もないし、大掛かりな仕掛けが必要になりそうだ」

    「ここは何年も前に閉園した遊園地だし、あんなのを再現できるような精巧な仕掛けがあるとも思えないし……
     それが動作している理由もない。ましてや、ここはそういうコンセプトの場所じゃないはずだし」

    「となると、問題は振り出しだな」

     ケイくんは溜め息をついてから、鏡に伸ばしかけた手を下ろした。

    「さっきの女は何者で、この鏡は何なのか?」

    「それは、わからないけど、なんとなく分かるよ」

    「……なにが?」

     ケイくんは、やっぱり気付いていないみたいだった。
     

    67 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:16:21.45 ID:ZjlcYbSYo


    「前、見て」

    「前……?」

    「あわせ鏡になってるよ」

     正面にあるのは、扉の奥に埋め込まれた大きな扉。
     そしてわたしたちの後ろには、ミラーハウスの迷路が、さっきまでたしかにあった。

     それなのに、正面の鏡は、わたしたちの背後に、大きな鏡を映している。
     ケイくんが後ろを振り返る。わたしもそれに従う。

     やっぱり、後ろには鏡しかない。

    「……これは、つまり」

    「閉じ込められちゃった、みたいだね」

     出口が見つからない、どころか、来た道さえ戻れなくなってしまった。

    「というわけで、ひとつ提案してもいいかな、ケイくん」

    「なに?」

    「つまりね、この状況をどうにか現実的に解釈しようとするよりはむしろ、
     素直に認めちゃった方が建設的だと思うんだよ」

    「認める、というと?」

    「超常現象」

     ケイくんは深々と溜め息をついた。

    「なんでそんな冷静なんだよ、おまえ」

    「……そんなことはないんだけどね」

     顔に出ないタチだというだけだ。


    68 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:17:24.87 ID:ZjlcYbSYo

     それにしても……さっきからなんだか、現実感がない。
     夢の中みたいだ。視界にうつるものをなんだか遠くに感じる。

     ケイくんは背後の鏡に近付き、手のひらで触れた。

    「……鏡だな。どう考えても」

    「うん」

     と、わたしが頷くと同時に、ケイくんが思い切りその鏡を蹴りつけた。
     大きな音がした瞬間に、壁がわずかに揺れた気がした。

     それでも、鏡は不思議と割れなかった。

    「……冗談だろ。どうするんだよ、これ」

     わたしも、ケイくんが触れている鏡の方に近付いて、手のひらでその感触を確かめてみる。

     ひんやりとしたつめたさ。なんでもない鏡。ただ、映っている自分たちの姿が、ひどく白々しい。
     わけがわからなくて、頭痛すら覚える。


    69 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:17:51.77 ID:ZjlcYbSYo

    「悪い夢でも見てるみたいだ」

     とケイくんは言う。本当にそのとおりだとわたしは思う。
     
     窓も、ドアもない。出入り口はない。……そのうち、酸欠にでもなりそうだ。

     わたしは、正面の鏡へと近付いていく。

    「どうした?」

     ケイくんの質問に、振り返る。

    「扉のかたちを、してるよね」

     ケイくんは、黙ったままだった。呆れているのかもしれない。

    「さっき、女の子が、こっちに向かって消えていった。とにかく、調べてみない?」

     ケイくんは少しの間黙っていたけれど、最後には仕方なさそうに頷いてくれた。
     気持ちは分かる。

     ただの鏡だと思いたい。でも、既に状況はおかしなことになっている。
     その結果自分たちがどうなるのか、分からない。

     でも、他にどうすることもできない。


    70 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:18:41.74 ID:ZjlcYbSYo

     わたしは黙って、ケイくんに右手を差し出した。

    「……なに?」

    「手」

     彼はわたしの手をとった。
     うん、とわたしは頷いてみせる。
     
     彼は緊張した面持ちのまま、ちょっとだけ笑った。
     同じように、わたしの表情もこわばっているんだろう。

     手を繋いだまま、わたしたちは、虎の巣穴に忍びこむみたいに足音をひそめて、
     慎重に、鏡か扉か分からない何かへと近付いていった。

     慎重にすることに意味があったのかは分からないけれど、とにかくそうしないと進めなかった。

     そうして、鏡に触れられそうなくらい近付いたとき、
     鏡面がわずかに波打ったのを見た。

     思わずケイくんの名前を呼ぼうとした、のに、
     ひかりが、
     視界を覆った。
     
     白い光が埋め尽くした景色のなかで、聴力も不意に失われる。
     鋭い音が波として耳の隙間を揺さぶり埋め尽くすのを感じる。目からも、耳からも、溺れるように感覚が失われていく。

     かろうじて、繋いだままの手のひらを握る。
     握り返すような感触を、感じる。

     何かに飲み込まれるような、感覚。

     意識が、不意に途切れる。


    71 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:20:02.90 ID:ZjlcYbSYo



     
     そうしてふたたび意識が浮かび上がったとき、わたしとケイくんは手をつないだまま、
     見覚えのない瀟洒な街並に立っていた。

     起きたのでも、意識を取り戻したのでもない。

     長いあいだぼーっとしていて、いまハッと意識がはっきりしたみたいな、そんな感覚。

     そんな感覚で、わたしたちは、どこかのテーマパークを思わせる洋風な街並に立っていた。

     急に、夜だった。暗い街並、空には星と月。
     目の前の石造りの街路は坂になっていて、左右には壁のような建物が立っている。
     
     ランプのようなデザインの街灯が等間隔に狭い道を照らしている。

     音はない。何の音もしない。動物の気配はない。鳥の声も猫の足音も犬の遠吠えも聞こえない。
     人の気配も、やはりない。

     後ろを振り返ると、閉ざされた扉があった。 
     
     遮るような高い壁に、埋め込まれるようにして、厚い鉄扉が立ちふさがっている。

     ケイくんが、その扉を軽く押した。思ったよりも簡単に扉は開いたけれど、
     その先にはやはり見覚えのない街並が広がっているだけだった。
     

    72 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:20:32.69 ID:ZjlcYbSYo

    「……ここ、どこ?」

     ケイくんが思わずこぼしたようにそう呟いたけれど、もちろんわたしにも答えは浮かばなかった。

    「……日本なのか?」

    「ヨーロッパっぽくも見えるね」

    「どちらかというとイエメンとか、そっち系にも見える」

     いずれにしてもエキゾチックというか、異国情緒ただようというか。

     ……さすがに現実逃避もしたくなる。現実かどうか、怪しいけど。

    「なんでこんなことになったんだっけ?」

    「……わたしのせいかなあ」

    「……俺のせいでもあるなあ」

     来ようと言ったのはわたしだし、この場所の存在を教えてくれたのはケイくんだ。
     お互い素直に謝ったけど、どちらかというとわたしに責任がある気がする。

    「ごめんね」

    「いや、いいよ。そのうち覚める夢だと思うことにした」

     ……それがよさそうだ。


    73 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:21:09.32 ID:ZjlcYbSYo

    「……厄介なことになったな」

    「意外と落ち着いてるね、お互い」

    「叫び声でもあげて駈け出した方がいいなら、そうしてもいいけど」

    「追いかけるのが疲れそうだから、やめて」

    「……あまりにもおかしな状況で、呆気にとられるくらいしかできねえよ」

     たしかに、そうかもしれない。
     人というのは、予想がつくことにこそ恐怖を覚えたり、不安になったりできる。
     暗がりから狼が、背後から幽霊が、海から鮫が出てくるかもしれないというなら、おそろしい。

     でも、あまりに脈絡がないと、恐怖すら覚えない。そんな感覚は麻痺してしまう。
     それとも、恐怖が閾値を超えているのか。

     もう、よくわからない。


    74 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:21:58.44 ID:ZjlcYbSYo

    「……とにかく、どうしよう?」

    「……どうしよう、なあ」

     わたしたちはしばらくその場で立ち尽くしていたけれど、残念なことに展望は開けそうになかった。
     いつまで立っても何も起こらない。
     
    「とにかく、歩く?」

    「……そうしよう」

     ケイくんが仕方なさそうに頷いてくれたので、わたしたちは歩き始めた。
     選択肢は前と後ろ両方にあったけど、わたしたちはとにかく前に向かって歩くことにした。

     どちらにしても知らない道だから同じだし、扉をくぐってみても特に何も起こらなかったからだ。

     だったら、最初来たときに向いていた方向に進む方が自然に思えた。


    75 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:22:39.95 ID:ZjlcYbSYo

     乾いた夜風が吹いている。少しの肌寒さと、足首の痛みを、わたしは感じ取る。

    「どうして夜なんだろう?」

    「それをいったら、どうしてこんな景色なんだろう、が先だな」

     そんなことを話していると、不意に物音が聞こえた。

     わたしたちは顔を見合わせてから、坂を上り切った。

     そこは円形の広場のようになっていた。
     中央には噴水があり、その中心には何かの石像が飾られていて、それを囲むようにベンチが置かれている。
     
     そこに、奇妙なものが動いていた。
      
     犬のぬいぐるみ……のように、見える。

     安っぽい、クリーム色の毛並みはくるくるにねじれていて、目玉は縫い付けられたボタン。
     奇妙な動きで立ち止まって、辺りの様子をうかがうように首を左右に振ったかと思うと、ふたたび歩き始める。

     背中にはゼンマイがついていて、一定のリズムでぎいぎいと回っている。


    76 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:23:27.35 ID:ZjlcYbSYo

    「……こいつは悪夢的だな」

     とケイくんは言った。たしかに、とわたしは思った。

     わたしたちがその子犬の動きに視線を奪われていると、不意に誰かの声が聞こえた。
     思わず、身をこわばらせる。その声の主は、わたしたちが来たのとは別の道から、すぐにあらわれた。

    「やあやあ、今日は。今日は」

     わたしたちは、また唖然とした。
     その男は――たぶん男だと思うのだけれど――どこから声を出しているのかわからなかった。
     
     わたしは最初に、どこかに本物の声の主が隠れていないかを確認したし、ケイくんもそうしたと思う。

     服装に変わったところはない。といっても、それはそれだけで十分過ぎるくらいに不自然ではあったのだけれど、
     それでも体のことに比べれば、全然奇妙だとは言えなかった。

     シルクハットに燕尾服。何かの映画でしか見たことがないような洋装で、ステッキを機嫌よさそうにくるくると振り回している。
     石造りの地面を叩くように歩く革靴の音は軽快だ。

    “それ”の体は、大小、太さ細さ、さまざまなかたちの色付きゴム風船で出来ていた。
     
    「――やあ、今日は、御機嫌いかが。久しぶりだね、その後どうです」

     わたしたちが黙っていると、風船の紳士は当然のように言葉を続けた。

     それも明らかに(風船だからどこが正面かはわからないけど、服装の向きを見るに)こちらを向いて。


    77 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/10(日) 01:26:02.82 ID:ZjlcYbSYo

     顔は赤。シルクハットをかぶっている。首元に黄色の細い風船が伸びているが、その下は服で隠れていてよく見えない。
     手指は更に細く小さい風船でできていて、その奇妙な指で彼(?)はステッキを掴んでいる。
     
    「どれ、その子はどうした」
      
     とそいつは言って、いつのまにかわたしたちの足元へやってきていたゼンマイ仕掛けの子犬をステッキでつついた。

    「いかんな、きみ。順路を破ってはいかん。いや破るのは好きにするがいいが、私には責任が持てなくなる。
     まあとはいえだ。きみの人生だ。きみの好きにするもよいだろう。しかしねきみ、勝手というのはどこにいっても許されぬものだよ。
     団体行動を乱してはいかん。いまのうちに肝に銘じておきなさい。きみのためを思ってこそ言うのだよ。さあ、皆が行ってしまう。戻りなさい」

     戻りなさい、と彼は言って、ステッキで何度も子犬を突つく。
    (決して強く叩いているというわけでもないのに、わたしはなぜかその光景に烈しい反感を覚える――)

     子犬はしばらくクンクンと録音音声らしき声を垂れ流していたけれど、やがて静かな声をあげて、
     風船紳士がやってきた方の道へとゆっくりと進んでいった。

     ケイくんは、静かにわたしの手のひらを握る力を強めてから、

    「あんた、言葉は通じるのか?」

     と、風船に向けて話しかけた。
     風船は一瞬、動きを止めたかと思うと、さっきまでと同じようにステッキをくるくる回し始め、

    「――やあ、今日は、ご機嫌いかが。久しぶりだね、その後どうです」

     と言った。
     わたしは静かに瞼を閉じて、落ち着け、と、意識を強くもとうとしたけれど、
     立ちくらみのような気持ちの悪い感覚が、ぐらぐらと足元を揺さぶっている気がして仕方なかった。


    81 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:13:55.57 ID:r7ZkODrmo

     わたしたちが唖然として立ち尽くしていると、風船紳士は不意に動きを止めた。
     彼は燕尾服の内ポケットから銀色の懐中時計を取り出して時間を見た(と思う。目がないけど)。

    「おや、失敬。もう時間です。私はこれにて。あんまりお酒は、飲まんがいいよ」

     そう小さく呟いたかと思うと、彼は燕尾服のなかに慌ただしく時計をしまいこみ、
     またステッキをくるくるとさせながら、さっきの子犬が歩いていった道を戻っていった。

     あたりには噴水の音だけが響いている。

     街灯の明かりがモノクロ映画みたいに重々しい。
     
     何か不自然な感じがして、わたしは噴水に近付いた。
     でも、おかしなところはない。水面は街灯の明かりを受けて、ただ当たり前にきらめいている。

     そのとき、なぜかぞっとして、わたしは自分の足元を見た。

    「どうした?」

    「……なんかいま、影が、動いたような」

    「……そりゃ、おまえが動けば動くだろ」

    「そうじゃなくて……」

     勝手に、動いたような。


    82 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:15:37.31 ID:r7ZkODrmo

     わたしは頭を振って、落ち着こうとする。
     もう何を考えようと無駄だという気がした。

    「……ケイくん、どうする?」

     彼もまた、困り果てたというふうに天を仰いだ。
     本当に綺麗に、星が見えた。それは、でも、きっととても遠くにあるもの。
     もしかしたらとっくになくなっているかもしれないもの。

    「さっきのあれ、追いかけてみるか」

    「やっぱり?」

    「どうせアテがあるわけでもないしな」

    「……うん」

     出口。帰り道。そんなものがあるのだろうか?
     わたしたちはどうしてこんなところにいるんだろう。

     誰かにぜんぶ説明してもらいたい気分だ。

     そうしてこんなところから早く離れて、すぐにでも帰りたい。

     ――でも、帰りたい場所なんて、どこにあるというんだろう。


    83 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:17:19.28 ID:r7ZkODrmo

     わたしたちは噴水の広場を抜けて、風船紳士の消えていった坂を登っていった。
     その先からはぎいぎいぎいぎいと耳を覆うような音のつらなりが聞こえた。

     さっきと同じ、ゼンマイ仕掛けの子犬だった。
     違うのは数だ。十数匹の従順そうな子犬が、わたしたちの前を横切るように歩いていく。

    「どこへいくの?」とわたしは試しに訊ねてみた。
     
     子犬たちは一斉にわたしの方に顔を向ける。ちょっと気味の悪い光景だ。
     それから彼らは、困ったみたいに顔を見合わせて何かを相談するような身振りをする(器用なものだ)。

     そうして頷きあったあと、何も言わずに歩くのを再開した。

     道は、左右に分かれていた。右に向かう下り坂の方へと、犬たちは歩いていった。

    「昇るか」とケイくんは言った。

    「……うん」

     どうして昇ろうと思ったのか、ケイくんは言わなかったし、わたしも訊かなかった。
    (何かを判断する基準なんて、わたしたちふたりはどうせ持っていない)

     とにかくわたしたちは左に向かった。

    84 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:18:56.07 ID:r7ZkODrmo

     結果から言ってしまえば、その判断は正解だったのだと思う。
     何かしらの、"それらしき"ところには辿りつけたからだ。

     でも、本当のところはどうなのだろう?
     
     ひょっとしたら、下り坂を選んでも、何かの変化には辿りつけたかもしれないし、
     もしかしたらそちらを選んだ方が、わたしたちにとって、もっと都合の良いことが起きたのかもしれない。

     わたしたちは、選ばなかった未来、"こうじゃなかったかもしれない現在"を知ることができない。
     
     もしもあの日、出かけようとしたお兄ちゃんを止めていたら?
     お兄ちゃんが、わたしがさんざん言っていた通りに、煙草をとっくにやめていたら?

     たとえば、もしあの日の気温が一度でも低かったら、お兄ちゃんは出かけていなかったかもしれない。
     そんな些細な違いだけで、すべては違ったかもしれない。
     
     いずれにしてもそんな“もしも”を考えることに意味はない。

     そうしなかったわたしたちがどこに辿り着くかなんて、分かりっこない。


    85 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:20:38.50 ID:r7ZkODrmo

     坂を昇った先は、また広場のようになっていた。けれど、さっきよりもずっと広く、何もかもが大きい。
     今度は、中央近くに花壇があった。

     花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
     
     花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
     
     花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。
    "ざくろ"だ。

    「……なんでもありだな」とケイくんが呟いた。

     枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。

     もはや奇怪さを通り越して、神秘的ですらあった。

     夜の景色は、さながら"星月夜"。
     種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。

     なるほど、これもまた悪夢的だ。

     そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。

     わたしたちはそちらへと歩いていく。
    (……濃厚な花の香りが鼻腔を侵す)



    86 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:23:12.86 ID:r7ZkODrmo

     近付いて分かったのは、その壁に扉があること。
     その扉が、木の枝に覆われていること。

     その木の枝に隠されるように、ひとりの女の子が磔にでもされたみたいに吊るしあげられていたこと。

     もはや、驚くことさえできなかった。

     その子が誰だとか、ここがどこだとか、今がいつだとか、そんなことはもう、頭から抜け落ちてしまった。

     からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。

     この景色がいったい何を意味しているのか、わたしにはまったく分からない。

     にもかかわらず、景色は勝手に動く。
     現実感なんて、もはやない。

     驚きも恐怖も、既に感じない。

     からたちに捕まった少女が、瞼を静かに開いた。
    (彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している――)


    87 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:23:44.06 ID:r7ZkODrmo

    「――ああ、来てくれたの」

     と、少女は笑う。

     わたしたちは、その光景に呑まれる。

    「でも、残念。やっぱり、間に合わなかった」

     吊るしあげられたまま、少女は微笑みを保ち、どこも見ていないような目で、わたしたちの方を見ている。

    「……だって、一度、逃げ出したものね」

     彼女はわたしのことを知っているみたいな口振りで、
     でもわたしは、彼女のことなんて知らない。

    「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」

     抑揚のない声で、少女は続ける。

    「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」

     彼女は最後にそう言うと、愉しそうに笑いはじめる。
     声は徐々に膨らんでいく。
     それと同時に、彼女の体が砂のように崩れはじめたかと思うと、夜風に舞って遠くへと流されていく。

     不意に、からたちの枝が、意思を持っているかのように左右に開けた。


    88 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/12(火) 00:24:13.75 ID:r7ZkODrmo

     わたしはケイくんの手をぎゅっと掴む。
     
     これは悪い夢なのだろうか?
     それとも何か、妙なことに巻き込まれただけの現実なのだろうか?

     目の前の大きな扉は、出口なんだろうか。
     それとも、入り口なんだろうか。

     ぜんぶ、わからなかったけど、わたしたちは声も交わさずに頷き合った。

     他に、選べる扉がなかった。
     
     だからわたしたちは、その扉の取っ手を掴んだ。

     開くかどうか、確かめてもいなかったのに、勝手に開くと思い込んだ。
     こちらへどうぞと言わんばかりに、からたちの枝が避けたから。

     そうしてそれは、実際開いた。
     
     不意に、まばゆい光。

     また、視界を覆う。耳が、音に呑まれていく。

    "待っててね"、と、光に灼かれた視界の中で、そんな声がかすかに聞こえたような気がした。


    92 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:18:05.93 ID:MgYlpmbSo

    ◇[Diogenes] R/a

     
     僕と彼女にとって、だいたいの会話がそうであったように、
     その日、篠目あさひがその話を僕にしたのだって、
     たいした理由があってのことではなかったのだと思う。

    「消えちゃうらしいよ」
     
     と彼女は言った。

     僕たちは、昼休みの図書カウンターの内側で、ふたりそろってパイプ椅子に座って、
     それぞれに別々の本を読んでいた。

     八月の末だ。

     どこか遠くの街で大雨が続いているらしく、
     水浸しになった道路をかき分けるように進む車の映像が、
     テレビでは朝から繰り返し何度も放送されていた。
     
     そんな日だったけど、その雨は僕たちの暮らす街にはまだ辿り着いていなくて、
     だから窓の外の景色は実に平穏な、夏の終わりにうってつけの、少しうつろな晴れ空だった。

    93 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:19:31.85 ID:MgYlpmbSo

    「消えちゃうって、なにが?」

     僕は本のページに視線を落としたまま、斜め隣に座る篠目に訊ね返す。

    「人が」

     篠目はいつものように、話している内容にも相手にも興味がないのだけれど、という感じの、
     静まり返った水面のような無関心な表情で、どうでもよさそうにそう言った。

     僕はそれまで本に集中していて、彼女の話を適当に聞き流していたから、
     それが何の話なのか結局思い出すことができなかった。

    「……何の話だっけ?」

     そう訊ねても、彼女はやはり腹を立てることすらせず、
     向けられた問いにただ当たり前のように答えてくれた。

    「遊園地」

    「遊園地?」

    「の、廃墟」


    94 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:22:16.71 ID:MgYlpmbSo

     こちらの質問に対する篠目の返答には、
     おおかたの人間がするような修飾や補足というものがいつも欠如していた。

     数学の問題で、結果として出てくる答えだけを書いて、 
     過程の計算や手順をいっさい省いてしまうような話し方。
     
     当然それは難解で、僕だけじゃなく、大多数の人間にとって、
     彼女はかなりやりづらい相手であるらしい。

    「……遊園地の廃墟で、人が消える」

     と、とりあえず僕は、意味もわからないまま、彼女の言葉をつなげてみた。

    「そう」と言ったきり篠目は黙りこんでしまって、やはりその言葉に関する補足をしてくたりはしない。

     そんなぶつ切りの情報だけを渡されて興味を持てという方が難しい。

     だから僕は篠目の話にたいした関心を覚えなかったし、
     話の全容をつかめないからといって、あえて質問を重ねるようなことはしなかった。

    「そうなんだ」

     と、ただ頷く。彼女といると、だいたいいつもそんな調子だ。


    95 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:23:50.94 ID:MgYlpmbSo

    「ねえ、碓氷」と、彼女は僕のことを呼んだ。

    「なに?」

    「碓氷は、どうなの?」

    「……なにが?」

    「叶えたい願いって、あったりする?」

     僕は面食らって、篠目の方を振り向いた。彼女はページに目を落としたままだった。

    「何の話だっけ?」
     
     と、僕はもういちど訊ねた。

    「だから、遊園地の廃墟の話」

     急に脈絡のない質問になったかと思ったら、篠目のなかでは、ちゃんと話がつながっているらしい。

     遊園地の廃墟で人が消えることと、叶えたい願いがあることとのどこに関連があるか、
     僕にはよくわからなかったけど、たいして気にせずに、彼女の質問について考えてみる。
     
     そうして、すごく悩んでしまった。
     なにかあるはずなのに、それをどう言葉にしていいか分からない。
     漠然としたイメージは湧くのに、それをどう口に出せばいいのか、わからない。


    96 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:25:00.01 ID:MgYlpmbSo

     しかたなく、僕は首を横に振る。

    「急に言われても、ピンと来ないな。……篠目はどうなの?」

     篠目は、僕の言葉に何秒か考えるような間を置いたあと、緩慢な動作で面を上げて、こちらを見た。

    「わたし?」

    「そう」

    「わたしは……」

     篠目は、黙りこんでしまった。
     真剣に考え込んだ様子の彼女には悪いけど、僕は彼女の個人的な望みになんてほとんど興味がなかった。

     昼休みの図書室の利用者は少ない。
     日に焼けたカーテンに濾された日差しが、薄暗い室内にかすかに差し込んでいる。
     
     僕と篠目のほかに、いま、この場には人間なんていなかった。

     そんななか、僕は黙りこんだ篠目を思考の隅に追いやって、自分のことを考える。
     放課後のバイトのこと、午前の授業で出された課題のこと、家のこと。

     僕が考えごとをしているあいだも、篠目は結局黙りこんだままで、
     僕たちは昼休みの時間を、退屈しのぎの本を読み進めることすらできないまま不毛に使いきってしまった。


    97 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:27:22.84 ID:MgYlpmbSo



     MDは、決して劣ったメディアというわけではなかった。

     容量に優れていたし、CDよりも持ち運びが容易で、カセットテープより再生にまつわるストレスが少ない。
     ディスクがカートリッジに入っているから、傷や汚れによる破損も少ない。
     
     持ち運びに難のあるCD用のポータブルプレイヤーと違い、MDプレイヤーはポケットにだって入った。

     それでも、問題点をあげようとすると多岐に及ぶ。
     
     ダビング可能な機材の普及率の低さや、ダビング作業自体の手間とかかる時間の多さも一因だろうし、
     デジタルコピーに関する権利関係のゴタゴタで普及が進まなかったのもそうかもしれない。
     
     MDによる音源の販売は多くのデメリットのせいで広まらず、その結果、
     MDは買ったCDから音楽を移し替える用途でしか機能しなかった。

     そして、CDからわざわざ音楽を移し替える手間をかけるほどの意義を、
     多くの人間はMDに見出だせなかった。

     音質だって、他のものと比べてよかったわけでもない。


    98 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:31:32.71 ID:MgYlpmbSo

     携帯電話の普及によるインターネット利用者の増加、
     それによって流行しはじめた音楽のダウンロード配信。
     くわえて、ハードディスクドライブを内蔵した携帯音楽プレイヤーの知名度の高まり。

     より使い勝手の良い機器の登場により、MDの需要はみるみると減っていった。

     マルチメディアと称した、CDドライバ内蔵のPCの普及によって、
     CDの録音・コピーが容易になり、利便性が高まったのも原因のひとつだろう。

     あらゆる要因が、MDにとっては逆風となった。
     すべての風向きと巡り合わせが、MDを衰退へと向かわせてしまった。

     決して、他のものに比べて圧倒的に劣っていたというわけではない。

     ただ、大きな流れのなかにあって、MDはあまりに無力だった。

     それは実に哀れな姿だった。

     時代の徒花。


    99 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:32:12.01 ID:MgYlpmbSo

     従来のメディアに取って代わる新たな媒体として登場し、
     一時は流行としてもてはやされ、カーオーディオにだって取り付けられていた。
      
     それが今となっては、誰からも忘れ去られようとしている。
     用済みとなり、誰にも相手にされず、姿を消してしまいつつある。

     誰も名前を呼ばないし、誰も姿を探さない。
     いつなくなってしまったとしても、誰も気付かない。

     忘れられた存在。
     ある一時期のみ務めを果たし、それを終えたら見向きもされなくなる存在。

     やがては完全に、姿を消すことになるだろう。
     もはやMDは役目を終えてしまった。

     たしかにそこにあったはずなのに、ただ一時期衆目を集めただけで、
     定着する前に廃れてしまった。
     
     何の為に生まれたのかさえ、今となっては分からない。

     何か悪いことをしたわけではない。
     ただ、時代にそぐわなかった。期待されただけの役目を果たせなかった。 
     状況と事情が大きく変化して、それについていくことができなかった。

     それはつまり、ただ不運だったということだ。 


    100 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:34:27.50 ID:MgYlpmbSo



     放課後になると同時に、鞄からMDプレイヤーを取り出して、イヤフォンをつける。
     姉が以前使っていたものを、譲り受けたものだ。

     かつて音楽好きだった姉は大量のMDとプレイヤー、コンポを所有していて、
     最近になって、邪魔だからという理由でまるまる僕に渡してきた。

     勝手に処分してくれ、ということだろう。

     最初は厄介なものを押し付けられたと思った。
     姉の音楽の趣味の大部分は、僕と重ならないからだ。

     そう思いながら、一応MDの中身を確認してみると、
    (おそらく当時付き合っていた男や、好きだった芸能人の影響のおかげで)
     僕にとってもそんなに悪くない音楽がけっこうな確率で含まれていた。

     姉にとってのゴミの山が、僕にとっては宝の山になったというわけだ。

     そのおかげというべきか、せいというべきか、とにかく僕は時代に逆行して、MDを偏愛していた。
     

    101 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:36:46.17 ID:MgYlpmbSo

     音楽をかけてから、立ち上がって鞄を持つ。
     
     周囲のクラスメイトたちの話し声を掻き分けながら黙々と歩いていると、
     自分が透明人間にでもなったような気分になる。

     誰も僕に声をかけないし、誰も僕を気にかけない。
     
     もちろん、僕だって話し相手すらいらないと思うほど達観してはいないし、
     人付き合いに倦むほど他人と関わってきたわけでもない。

     自分以外のクラスメイトたちの仲のよさそうな姿を見て、羨望を覚えることはある。 

     とはいえ、わざわざ自分から声をかけたり、今更どこかに混ぜてもらいたいと思ったりするわけでもない。
     
     最初から友達がいなかったわけではない。
     ただ、だいたいのクラスメイトとは話が合わなかったし、予定も合わなかった。
     彼らが楽しんでいる遊びが僕には楽しめず、彼らの言うジョークの笑いどころが僕には分からなかった。

     それは、彼らの、というより、僕の問題なのだろう。
     
     多少、疎外感は覚えるけれど、話の合わない相手と無理に一緒にいるよりは、
     ひとりで好きなことをしていた方が疲れないし、気持ちも軽い。

     人にはその人なりのスタイルというものがある。僕にとってもこれがそうなのだと思うことにした。
     周りからは、強がりにしか見えないかもしれないけれど。


    102 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:37:26.09 ID:MgYlpmbSo

     聴く音楽は、できれば日本語でないものが望ましい。
     歌詞が頭の中に入ってくると、余計なことを考えてしまうことが多いから避けてしまう。

     そこに個人的な好みが加わると、自ずと聴く音楽の傾向は定まってくる。

     最近はスティングばかりを聴いていた。
     流れ始めたのは、十数年前に映画の主題歌として使われていた曲だ。
     いちばん気に入っている曲だった。

     イヤフォン越しに聞こえてくる周囲の騒がしさを無視して、
     なるべく人の視界に入らないように、邪魔にならないように廊下を歩く。
     
     一緒にいたいとは思わない。でも、誰かの邪魔をしたいとも思わない。
     だから僕はなるべく不自然ではなく、なるべく不愉快でもない存在でいようと努めている。

     それが達成できているかどうかは分からない。
     そういう心がけでいる、というだけだ。


    103 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:38:00.45 ID:MgYlpmbSo

     昇降口を出て、空を見る。やはり、雨は降りそうにもない。

     なんとなく、そのまま立ち止まってしまう。

     溜め息が出る。

     やらなければいけないこと、考えなければいけないことはたくさんある。
     
     それなのに近頃は、なんだか何をするにも億劫で、気分が乗らない。
     このままじゃ駄目だと思う自分はいるのに、どうしてか、体が重い。

     寝不足というわけでもないのに、頭がぼんやりと働かない。

     いつからだろう? 
     ちょっと前までは、もっと、違ったような気がする。

     それなのに最近は、麻酔にかけられたみたいに、いろんなことに鈍感になっている。
     自分自身の緩やかな変化を、僕はたしかに感じている。

     それなのに、それをどうすることもできない。


    104 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:38:56.89 ID:MgYlpmbSo

     そのことに対する焦り(……なのだろうか?)に、じわじわと考える力を奪われている。

     どうしてだろう? 体調がすぐれないのだろうか?
     季節の変わり目だ。気温の変化も、少し激しいように感じる。
     調子を崩してもおかしくはない。

     でも、そういうことではないような気がした。
     
     僕はあまり体調のことを考えないようにしながら、
     しばらく昇降口の側の壁にもたれて目を閉じた。 

     やがて、頭痛は収まってくれた。

     ポケットに手を突っ込んで、時間を確認しようとしたとき、携帯を教室に忘れてしまったことに気付いた。

     思わず舌打ちをする。
     
     戻るのは面倒だったが、さすがに教室に置いていく気にはなれない。

     やむを得ず校舎へ戻っていく。教室は三階だ。面倒だったが、仕方ない。


    105 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:40:00.91 ID:MgYlpmbSo

     少し休んでいるうちに、大抵の生徒はもう移動してしまったらしい。
     廊下も教室も、人の姿が一気に少なくなっていた。

     部活に行くなり、帰宅するなり、どこかに繰り出すなり、いろんな過ごし方がある。
      
     僕にも、このあとの予定があった。
     
     無駄に時間を過ごしてしまったから、少し急いだ方がいいかもしれない。
     
     そう思いながら教室に入ると、残っていた生徒がふたり居て、両方が僕を見た。

     女の方は知っている相手だった。男の方は、見覚えはあるけれど、名前は知らない。 
     教室に残って、何かを話していたみたいだ。

     僕は彼らの邪魔をしてしまったことを後悔しながら、あまりわざとらしくならないように、 
     それでも少し急いで、何も言わずに自分の机へと向かう。

    「どうしたの?」と、女の方が言った。

     僕は机の中に手を突っ込んで、携帯を取り出す。 
     そしてそのまま教室を出ようとした。

    「無視かよ」

     と男の方が言った。
     僕は思わず固まり、振り返った。両方、こちらを見ている。
     失敗した、と思った。まさか、自分に向けられた声だとは思っていなかった。


    106 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:41:56.88 ID:MgYlpmbSo

     何を言おうか迷い、戸惑っているうちに、沈黙が流れる。
     ひどく嫌な感じがした。

     男の方が、僕から視線を離した。

    「何考えてるか分かんねえんだよな、こいつ」

    「ちょっと……」

    「どうせ聞こえてねえよ。音楽聴いてるんだろ。俺たちの声なんて聞くつもりありません、って態度だ」

    「やめなよ」

     僕にとっても彼にとっても残念なことに、周囲の様子を把握するために、音量はいつも低めにしていた。

    「気に入らないんだよな。いつもつまんないって顔してさ、自分だけどっか周りから一歩引いてるみたいな顔して、 
     気取って距離置いて、馴れ合わないのがかっこいいとでも思ってるのかもしんないけど、
     ただ誰にも相手にされてないだけだろ」

    「やめなって。どうしてそんなこと言うの?」

    「ムカツくんだよ。こいつ、俺たちみたいな奴のことバカだと思ってんだ。
     何の悩みもない脳天気で気楽な奴らだと思ってる。そういう奴ってのは態度で分かるんだよ。
     顔を見れば分かる。自分だけがつらいと思ってる顔だ。自分だけが不幸だって思ってる顔だ。自分だけが特別だと思ってるんだ」

     耳元で音楽が流れている。
     女の方が、気まずそうな顔で僕の方を見た。男は黙って外を見たままだった。


    107 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:43:08.02 ID:MgYlpmbSo

    「……ごめん」

     と、僕はとりあえず謝っておいた。
     多少驚いたし、いくらか傷ついてもいた。

     でも、それ以上に、誰かからそんなふうに思われているということに、
     気付けなかった自分の迂闊さが恥ずかしかった。
     
     とはいえ、それを気にしても仕方ない、と僕は頭を切り替えることにした。

     そんな僕の態度に、彼はいっそう腹を立てたみたいに眉を逆立てた。

     もしかしたら、聞こえないと思って言っていた言葉が聞こえていたと分かって、引っ込みがつかなくなったのかもしれない。

    「おまえさ、人生楽しくねえだろ」

     何も言わずに、黙ってその男子の顔を眺めた。
     そして、なんだか不思議な気分になる。

     それ以上その場にいても、かえって気まずい思いをするだけだと思い、僕は彼らから視線をはずした。
     このあとはバイトが入っている。時間が余っているわけじゃない。

     僕は忘れ物を取りに来ただけだ。

     あんまり気にしないようにしたけれど、廊下に出たとき、思わず溜め息が漏れた。


    108 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:43:49.67 ID:MgYlpmbSo

     少し歩いたとき、後ろから、「ねえ、待って」と声を掛けられた。

     さっきの女子が、教室から飛び出してきた。
     落ち着かないみたいに視線を揺らしながら、僕に何かを言おうとする。

    「……その、ごめん、ね?」

     どうして彼女が謝るのか分からなくて、僕は戸惑った。
     
    「いいよ、べつに、気にしてないから」

     もちろん嘘だったけど、嘘だからどうなるというものでもない。
     
    「あのさ、碓氷くん」

    「なに?」

    「えっと、その、さ」

     彼女は何かを言いかけたけど、結局何も言わなかった。


    109 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/17(日) 23:45:01.49 ID:MgYlpmbSo

     少し気になったけど、時間を置いたせいでさっきの彼の言葉が胸に重く引っかかり始めたし、
     なにより僕は今は急いでいた。

    「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」

     彼女ははっとしたようにこちらを見て、気まずそうに顔を逸らした。

    「……そっか、ごめん」

     彼女に背を向けてから、携帯の時間を確認する。幸い、まだ急がなきゃいけないほどの時間じゃない。
     MDプレイヤーに指を伸ばして、音量を少しだけ上げる。

     ――おまえさ、人生楽しくねえだろ。

     それにしても不思議だ。

     ――どうして、分かったんだろう?
     ――彼らは、人生が楽しいのだろうか?

     その二点が、とても、不思議だ。

     それもきっと、僕の側の問題なのだろうけど。


    112 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/21(木) 00:11:31.96 ID:g1DgvRTQo


     
     バイトが始まる十五分前には、もう店についていた。
     
     家から自転車で十分くらいの場所にあるガソリンスタンドで、一年の頃からバイトをしている。
     この店を選んだことに特別な理由はない。
     
     ほどほどに近かったから、ほどほどに時給がよかったから。
     あとは、休みが少なかったから。

     学校が終わったあと、四時から閉店の九時までの五時間、僕はその店で毎日のように働いている。
     日曜日が定休日だから、だいたいの場合は週六日。土曜日と祝日は八時間の勤務。
     
     人件費をギリギリまで削りたがる上の都合で、余計な人員を確保せず、
     今いる人数だけで回すかたちが基本になっている。
    (オーナーと店長、事務の女性がひとり、社員がひとり、バイトがふたり)

     休みが思うように取れないからと続かない人間も多いけれど、
     僕に限って言えば、毎日のように働けるのは嬉しいことだった。

     退屈しのぎになるし、金も入る。
     特に欲しいものがあるわけでもないし、目的があるわけでもないけど、
     金というものはあって邪魔になるものではない。


    113 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/21(木) 00:11:59.38 ID:g1DgvRTQo

     一度、店長にきかれたものだった。

    「碓氷はそんなに働いて、金の使い道とかどうしてるの?」

    「特に……」

    「遊んだりはしてるんでしょ?」

    「あんまり。友だち少ないので」

    「彼女とかは?」

    「いないですから」

    「じゃあなんか趣味とか?」

    「特には……」

    「……おまえ、何が楽しくて生きてるの?」

     そうだ。そのときも僕は、肩をすくめたのだ。

    「さあ?」

     と笑って見せたのだ。
     

    114 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/21(木) 00:12:43.94 ID:g1DgvRTQo



     うちは大手の看板を借りただけの個人経営のスタンドで、
     だからマニュアルもなければ規則と呼べるものもほとんどない。

     車に関する作業をインパクト片手に学生がやらされることもあるし、
     それでだいたいの場合問題なく回っている。

     学生が作業を任されるような店で客は不安がらないのかと最初の頃は訝ったものだが、
     ここは二十年以上前からそのように回っていて、
     今となっては固定層の客しか来ないのだと言う。

     契約している企業なんかを除けば、近所の年寄りやその家族が来るばかりというわけだ。

     うちが潰れないのは、先代社長の人脈で、
     大手の企業や会社の給油やタイヤ交換なんかをうちでやってもらえるように話を通してあるかららしい。

     オンボロでサービスもよくないスタンドの経営が、それで毎年黒字だというのだから驚きだ。
     
     そういう店だから店内の雰囲気も大雑把で、
     学生が煙草を吸っていようが、外の人間に見つかりさえしなければ何のお咎めもない。
     
     学生だろうがなんだろうが煙草を吸い放題、らしい。
     一度休憩室でシンナーを吸っている奴がいて、そのときは店長が半殺しにして二度と来るなと追い出したそうだ。
     
     基準が分からない。


    115 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/21(木) 00:13:39.32 ID:g1DgvRTQo

     だいたい二時間に一回くらい小休憩を与えられて、その隙にみんな二階に繋がる階段の狭い踊り場で煙草を吸う。
     そこまでいくと『見て見ぬふり』ですらない。
     
     そんなことが当たり前の店の中で、僕は煙草を吸っていない。
     興味がないわけではないけれど吸う機会がなかったし、金もなかった。
     
     ここに来てから何度も「吸ったら?」と聞かれたけど、人に言われるといっそう吸う気がなくなるものだ。

     そういうわけで僕はもらった小休憩の時間を、水筒の中にいれた水を飲みながら過ごしている。
     水筒の中身はもともとお茶なのだけれど、学校で飲みきってしまって、それを一度洗ってそこに水道水を入れている。
     
     あんまり気にしたことはないけど、他人から見ると苦学生みたいに見えるらしい。

     甘ったるいジュースを飲むよりは、水道水を飲んでた方が気分が楽だというだけなんだけど。
     あるいは、もしかしたら、こういう日々を削り取るような行動こそが、近頃の憂鬱の原因なのかもしれないけど。


    116 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/21(木) 00:14:05.68 ID:g1DgvRTQo

     水道水というのもぬるいとまずく感じるもので(もともとそう美味くはないけど、それ以上に)、
     最低限喉を潤す以上は飲む気になれない。だからこそいいのだとも思う。

     溜め息をついて、不意に今日の放課後のことを思い出した。

     ふたりの男女。

     男の方は知らない。
     女の方は知っている。

     生見 小夜。
     クラスメイト。中学が一緒だった。小学校も。昔は仲がよかったような気がする。いつのまにか疎遠になった。
     どうして? どうしてだっけ。忘れてしまった。考えなくなったからかもしれない。

     彼女は何を言いかけたんだろう。たいしたことではないのかもしれない。
     でも、妙に気になった。

     いや、妙なことでもないのかもしれない。

     どうなんだろう? 

    『かもしれない』、『かもしれない』。自分のことなのに、よくわからないことばかりだ。
     自分の気持ちさえ、あんまりはっきりと考えたくなくなったのは、いつからだろう。

     考えるのは、金のこと、家族のこと、学校のこと、バイトのこと。
     自分のことは、いつ頃からか、考えなくなった。


    117 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/21(木) 00:14:51.81 ID:g1DgvRTQo

     篠目の言葉を思い出す。

     ――叶えたい願いって、あったりする?

     ……どうなのだろう。
     
     願い。
     少し考えてから、ふたつのことが思い浮かぶ。

     金のこと、姉のこと。

     でも、そのどちらもが、途方もないことのように思える。 

     遊園地廃墟のミラーハウス? 叶えたい願い?
     
     頭にちらつくのは、生見小夜の声。
     小夜啼鳥の童話。ナイチンゲール。 そんなささやかな連想。

     彼女が俺に向けて声を発したのはいつぶりだろう?
     とっくに存在を忘れられていたと思っていた。

     でも、だからどうだというわけではない。
     と、僕は思おうとする。そうしている自分を見つけて、自嘲する。
     そして、すぐに忘れようとする。……近頃は、そんなふうに、自分の感情に打ち消し線を引くことが増えた。

     叶えたい願い。
     それにも打ち消し線だ。


    120 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:38:17.50 ID:SBg1uAoOo



     土曜の昼過ぎに、黒いドラッグスター250が店にやってきた。
     フルフェイスのヘルメットを脱いで出てきたのが、自分と同年代くらいの女だった。

    「満タン」

     とだけ言って、彼女はバイクを降りると、ショートカットの髪が額に張り付いたのを疎むように顔を振った。
     
     愛想もなければ他に言葉もなかった。
     給油を終えて、代金のやり取りを済ませると、彼女はあっといまに去っていった。

     昼休憩のときに、休憩室の暑さを嫌って店の裏手のコンビニに行くと、そのドラッグスターが止まっていた。

     彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。店に入った僕の方をちらりと見ると、すぐに視線を逸らす。
     かと思うと、もう一度こちらに視線をよこして、「ああ」という顔をした。

     僕は店の制服のままだったから、すぐにさっき会った相手だと分かったのだろう。
     こちらから声を掛けずにいると、彼女は黙ったまま再び雑誌に視線を落とした。



    121 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:38:50.16 ID:SBg1uAoOo

     顔見知りの店員に声を掛けられながら、飲み物を買う。
     節約はしているが、生活費を切り詰めてまでというほどではない。可能な限り削って、という感じだ。

     極端なやりかたでは、身も心も持たない。ただでさえ、精神的に弱い人間だという自覚はある。
     飲み物を買ったりするのは避けていたが、気温次第では持ってきた水筒だけではどうしても足りなくなる。

     喉が渇くのだ。

     店を出て軒先でスポーツドリンクに口をつけたとき、例の女の子が店から出てきた。

     紙パックの野菜ジュースにストローをさして口をつけたところで、僕と目が合う。
     僕はとっさに視線をそらした。

     僕は彼女を意識の埒外に追いやろうとしたが、彼女は黙ったまま僕の近くまでやってきた。


    122 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:40:18.58 ID:SBg1uAoOo

     なんだろうと思って見ていると、どうやら目的は僕の脇にあった灰皿らしかった。

     煙草をポケットからひとつ取り出して、彼女は口にくわえて火をつけた。

     どうみても未成年のように見えたが、不思議とその様子は似合っていた。

     じっと見ていると、彼女は疎ましそうにこちらを睨んで、煙を吐き出した。

    「……何か?」

    「いえ」と僕は否定して視線を逸らした。

     そこで話が終わるかと思ったら、彼女は苛立たしげに言葉を続ける。

    「何か言いたいことがあるんでしょう?」

    「特には」

    「あんたみたいな人、大っ嫌い」

    「本当に何もないんだ」と僕は言った。彼女は怪訝そうに眉を寄せた。

     言うか言わないか迷って、結局言った。

    「はっきり言うと、あなたにそんなに興味がないんだよ。どうでもいいんだ。
     ちょっと目に入ったから見てただけで、べつに何にも思うところはない。さまになってるなって、せいぜいそれくらいだ」


    123 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:40:49.85 ID:SBg1uAoOo

     どうでもよかったから、言葉を返してしまった。
     どうでもよかったから、どう思われようがかまわなかった。

     彼女は僕の言葉に、少し意外そうな顔をして、煙草にまた口をつける。

    「あんた、変な奴ね」

    「どうだろうね」

    「変よ。普通、わたしみたいな奴に話しかけられたら、へらへら笑って逃げ出すでしょう?」

    「べつに、僕がここを立ち去る理由がないと思うから」

    「理由、ね」

     女は何か考えるような素振りを見せた。

    「ねえ、あなた名前は?」

     僕は一瞬面食らったけど、名前を教えたところで生まれるような問題があるとは思えなかったから、結局答えた。

    「碓氷遼一」


    124 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:41:40.24 ID:SBg1uAoOo

    「遼一、ね。わたしはすみれ」

    「すみれ?」

    「そう、すみれ。ねえ、遼一」

     突然の名乗りにも呼び捨てにも、僕は対して戸惑いを覚えなかった。
     ただ、どうしてだろう。彼女の声をきいていると、頭がすっとするのを感じる。

     僕が持っていないものを彼女がもっているような気がする。

    「あんた、死にたがりでしょう?」

     空気が、しんと止まるのを感じた。周囲から音が消えたような気さえする。

    「どうして?」

    「目が死んでるもの」

     ひどい言われようだ。


    125 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:42:21.27 ID:SBg1uAoOo

    「目で分かる」と彼女は言う。

    「目で分かるのよ」

    「そういうもの?」

    「ねえ、今暇?」

    「まあ、休憩中だから」

    「わたしと一緒に行かない?」

    「どこへ?」

    「どこか」

    「どうして急に?」

    「道連れがいてもいいと思ったから」

    「悪いけど、バイト中なんだよ」

    「サボっちゃえばいいじゃない」

    「そうもいかないよ」

    「どうして?」

    「どうしても」

     彼女は心底不思議だというふうに首をかしげた。


    126 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:43:04.71 ID:SBg1uAoOo


    「どうして? 働くのが好きなの?」

    「そういうわけじゃない」

    「好きでもないことをやってるの? どうして?」

    「みんなそんなもんだろう」

    「みんなそう言うわよね。やらなきゃいけないことをやらなきゃ生きていけないんだって。 
     でも、わたし、違うと思う。生きていくためにやらなきゃいけないことをやらなきゃいけないなら、
     そのせいでしたいことができないなら、わたし――べつに、生きられなくてもかまわない」

     僕はちょっと感心した。

    「全部全部投げ出して、好きなことばっかりしてたいって、思うじゃない? その方がきっと、ずっと気持ちいいのに」

     それはずいぶん、分かりやすい甘言だ。

    「……たしかにバイトは嫌だけどね。かといって、きみと一緒にどこかに行きたいかと言われたら別にそうじゃない」

    「どっちもやりたくないことってわけだ」

    「そういうことになるね」


    127 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:43:30.78 ID:SBg1uAoOo

    「だったら、あんたのやりたいことってなに?」

    「……さあ、なんだろうね」

     彼女は僕の方を見て笑う。僕も思わず笑った。
     きっと彼女は、質問の答えに既に勘付いていたことだろう。

     不思議と、そういうことが分かった。さっき会ったばかりの人なのに。おもしろいものだ。

     彼女は手を振り上げながら、僕の方に何かを投げてよこした。

     まだ半分以上中身の残った煙草と、安いライターだ。

    「また会いに来るよ。気が変わったら、一緒にどっかへ行こう」

    「……気が向いたらね」

     また彼女は笑って、去っていった。
     僕は手の中に残された煙草のパッケージを見ながら、少しだけ考えごとをした。
     
     やりたいこと。
     叶えたい願い。
     
     少し滑稽だという気がした。


    128 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:44:41.60 ID:SBg1uAoOo



    「碓氷! おまえこっちやれ!」

     夕方のピークタイムだった。
     現場帰りのトラックと帰宅途中の現金客が押し寄せて、ただでさえ混みあう時間だ。
     
     ひとりが煙草休憩に入っているときに混みあうタイミングが来てしまった。

     店に居たのは僕と社長だけ。店長は月末だというので集金に行っていた。
     べつに回そうと思えば回せない数じゃない。落ち着いていれば、問題なくこなせる仕事量だ。

     問題は社長の仕事の振り方だ。
     こっちが何かをやっているときも構わずに指示を出してくる。指示に従えば効率が落ちるし、従わなければ怒鳴られる。
     
     普段は配達にばかりいってろくに店にいないから、社長と時間が被ることはまずないのだけれど、
     この日は偶然、それが忙しい時間に重なってしまった。

     まいったな、と僕は思った。こうなるとあとで絶対に小言が始まる。
     自分のせいで怒られるのは仕方ない。

     でも、どうしようもないことは……。
     仕方ないことだけれど……。


    129 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:45:16.93 ID:SBg1uAoOo

     たしかに、僕の動きは良いとは言えなかった。
     
     それは僕自身の能力の問題だ。

     僕はなるべく、できることはこなそうと思うし、可能なかぎり最善を目指そうと思っている。
     もちろんその心がけだけでは意味がない。

     僕は基本的に真面目に仕事をこなそうと思っている。
     それでも失敗をするし、判断ミスをする。僕はとても愚鈍な人間だからだ。
     
     ミスは指摘されるべきだし、非難は甘んじて受け入れるべきだ。

     僕は能力があるとは言いがたい人間だ。

     それでも僕は僕なりに一生懸命にやっていくしかない。
     ……やっていきたいわけじゃない。……やっていくしかない。



    130 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:45:54.10 ID:SBg1uAoOo

     案の定、客の流れが途絶えたとき、社長は顔を真っ赤にして僕に説教をはじめた。
     
     曰く、やる気がないなら帰れ。曰く、お前がやっているのは仕事をしている振りだ。曰く、やりたくないことをやらないで済ますってわけにはいかないんだ。
     曰く、楽な仕事に逃げていても見ていれば分かる。曰く、そんなことでやっていけるほど世間は甘くない。

     はい、はい、はい。と僕は返事をする。

     本当に分かっているのか、と彼は言う。

     はい。

     何を言われてるか分かるか。

     はい。すみません、自分の判断ミスでした。

     お前もここに来て半年以上になるんだぞ。いい加減何を優先していいかくらい分かるだろ。

     はい。すみませんでした。

     掛けの客は適当にやったってどうせ店に来るんだ。現金の客を大事にしてくれ。うちの売上に関わるから。

     はい。

     何か言いたいことがあるのか?

     ありません。

     言いたいことがあるなら言っていいぞ。

     ありません。

     本当に頼むぞ。

     はい。気をつけます。すみませんでした。


     心は鈍くなっていく。


    131 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/24(日) 19:47:17.51 ID:SBg1uAoOo


     
     結局のところ、咲川すみれとの出会いは、僕にとってのひとつの大きな分岐点だったのだと思う。

     僕はひょっとしたら彼女に会うべきではなかったのかもしれない。
     あるいは、彼女の言葉に耳を貸すべきでなかったかもしれない。

     そんな『もしも』の話は、けれど無意味だ。

     僕の頭も心も、ひたすらに鈍さを保とうとしていた。
     何も感じないように、できるかぎり平坦でいられるように。

     そんな僕の気持ちの蓋に、あのときのわずかな会話だけで、すみれは隙間を作ってしまった。
     おそらく、すみれだけではない。

     篠目あさひが世間話のつもりでしただろう奇妙な質問。
     生見小夜と一緒にいた男子生徒の言葉。

     いろんな出来事が、いっぺんに起きてしまった。
     何も起きなければ、自分を保っていられた。けれど、起きてしまった。

     だから僕は、揺らいだ。

     ――やりたくないことをやらないで済ますってわけにはいかないんだ。
     ――そんなことでやっていけるほど世間は甘くない。

     叱られた日の帰り道の途中、不意に、小夜の顔が頭に浮かんだ。
     突然、何もかも投げ出して、この街から逃げ出したい気持ちになる。

     叫び出したいような、気持ち。
     でも、そんなのはきっと子供っぽい感情だ。そう分かっているから、僕は自分の気持ちを殺す。
     
     感情のままに動いたって、誰も認めてなんてくれない。僕にはやらなきゃいけないことがある。

     でも、それでも、何かに置き去りにされているような焦燥感が離れない。
     何かを間違えてしまったような感覚。
     
     いつものように、その感覚を押し殺して、鈍くなろうとする。

     ――そのせいでしたいことができないなら、わたし、べつに、生きられなくてもかまわない。
     ――だったら、あんたのやりたいことってなに?

     それなのに、頭の中で耳鳴りのように響くすみれの言葉が、僕の感覚を、視界を、妙にはっきりと、くっきりとさせていく。
     感覚が、痺れを覚えるほど、鋭敏になっていく。


    134 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:28:52.74 ID:8kSA3hS+o




     翌週の月曜の朝のことだった。

    「いま、平気?」

     そう声を掛けてきたのは生見小夜だった。僕は怪訝に思いながら頷いた。

    「ちょっときて」

     彼女は少しためらいがちな素振りで、僕のことを廊下の方へと手招きした。
     僕は頷いて、彼女の後を追う。

     彼女は僕がついてきていることを確認すると、すたすたと廊下を進んでいく。

     向かう先は廊下のはずれ、上階へと繋がる、あまり使われていない校舎端の階段だった。

     踊り場までやってくると、彼女は「ふー」と溜め息をついて、僕の方を見た。

    「えっと、遼……一、くん」

     続きを待って黙っていると、彼女は不安がるみたいに言い直した。

    「……碓氷くん」

    「……なに?」

     彼女は僕と目を合わせようとしなかった。
     怯えられているのかもしれないし、気味悪がられているのかもしれない。
     

    135 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:30:18.31 ID:8kSA3hS+o

    「あのさ、先週は、ごめん」

     僕の方を見ないままで、彼女はそう言った。
     
    「どうして生見が謝るの?」

    「どうして、って?」

    「生見が僕に何か言ったわけでもないのに」

    「えっと、それは……」

     どうも、彼女の話は要領を得ない。
     それとも、違うのか? 僕が彼女の言葉を理解できないだけで、彼女の言葉にはちゃんとした脈絡があるのだろうか。
     よくわからない。

    「なんとなく、怒ってるのかな、って」

     生見小夜の言うことは、やっぱり僕にはよく分からない。


    136 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:31:01.58 ID:8kSA3hS+o

    「……ううん、ごめん、うそだ」

     と、少しして、生見は自分の言葉を否定した。

    「逆だった。ねえ、碓氷くん……あのとき、どうして怒らなかったの?」

     僕は、その問いに面食らった。

    「どうして、って?」

    「けっこう、ひどいこと言われてたでしょ」

     まあ、たしかに。いくらか傷ついた。
     でも……。

    「別に、その通りだと思ったから」

     僕の答えに、生見小夜がぎゅっと手のひらを握りしめたのが分かった。

     苛立っているのかもしれない。そういうことがたくさんある。
     
    「なにそれ?」

    「それに、あんなことで怒っても仕方ない」

    「……なに、それ。達観してるのがかっこいいとでも思ってる?」

     まっすぐにこちらを見つめる生見小夜の眉はつり上がっている。
     さっきまで謝る気だったらしいのに、今はこれだ。気持ちは、わかるけれど。


    137 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:31:40.30 ID:8kSA3hS+o

    「べつに、そういうつもりじゃないよ」

    「だったら、なに?」

    「……」

     別に、答えてもよかった。どうでもよかったから。 
     でも、そんな態度で、何かを推し量ろうとするような態度できかれると、なんとなく……反発心を覚える。
     
     答える義務はない、けれど。

     まあ、いいか。

    「怒るのって、エネルギーがいるだろう」

    「エネルギーが、もったいないって意味?」

    「まあ、そうなる」

     生見は呆れたように溜め息をついた。質問に答えただけで、どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだろう?

    「……碓氷くん、変わったよね」

     彼女はそんなことまで言った。


    138 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:32:16.46 ID:8kSA3hS+o

    「なんか、遠くなった。壁があるみたい。誰も近付けなくしてるみたい」

     生見小夜は、ときどき、抽象的なことを言う。昔からそうだった。

    「距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
     昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
     昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった」

     そう言って、彼女は俯いた。
     冗談だろう。そう思った。

     遠くなったのも、近付けないのも、何を考えているのか分からないのも、僕に言わせれば彼女の方だ。

     昔はそうじゃなかった?
     彼女の知ってる僕にそぐわなければ、僕は生き方を正さなければならないのだろうか。

     いちいち何かに腹を立てなければいけないのか?

    「……ちがう、こんなこと、言いたいんじゃなかった。まちがえた」

     生見小夜は、前髪をかきあげて、瞼を閉じた。

    「ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……」

     それから彼女は、僕の目を見て、どこか怯えるような顔をした。

    「……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの」

     最後まで言い切る頃には、彼女は僕の方を見ていなかった。


    139 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:32:49.48 ID:8kSA3hS+o



     放課後に、「碓氷くんいますか?」と教室にやってきた人がいた。

     入り口に一番近い席に座っていた奴がちらりとこちらを見た。どうやら名前は覚えてもらっているらしい。

     僕は立ち上がった。

    「いたいた」

     と彼女は平気そうに笑う。変わった人だ。

    「碓氷くん、今日も部活出ないつもり?」

     小さな体だ、とまず思う。中学一年生くらいにすら見える。顔つきもそれくらい幼い。
     これで最上級生で、先輩だというのだから驚きだ。

    「……出ませんけど。どうかしましたか?」

     うちの学校は、特別な理由がないかぎりアルバイトは許可されていないし、特別な理由がないかぎりは部活動への参加を義務付けられている。
     そして僕に特別な理由はない。

     それでも僕は金がほしかったので、サボりやすそうな文芸部に入部して、許可をとらずにバイトをしていた。
     ごくたまに、店が休みだったりしたときにだけ顔を出すようにしているけれど、
     部員たちは僕の名前を覚えていないだろうし、僕も彼らの名前を覚えていない。
     
     そうじゃない人がいるとしたら、目の前のこの人くらいだろう。


    140 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:33:22.53 ID:8kSA3hS+o

    「文化祭。もうすぐでしょ。部誌、どうするの?」

    「ああ。書きません」

    「どうして?」

    「忙しくて」

    「ほんとにー?」

    「ほんとに」

    「怪しいなあ」

    「怪しくないです」

    「なんで碓氷くん、部活出ないの?」

    「バイトあるんで」

    「なんでそんなに働くの?」

    「お金がほしいので」

    「なーんでそんなに、お金ほしいの?」

    「……あるに越したことはないですから」

    「……ふーん?」

     意味ありげに首をかしげて、子供みたいに彼女は拗ねてみせる。
     この見た目で文芸部の部長だというのだから、なかなかおもしろい。

     くわえていうなら、何かをさぐろうとするような、観察するような、うかがうような、目も。


    141 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/07/30(土) 00:34:08.89 ID:8kSA3hS+o

    「……部長は、暇なんですか?」

    「んや。これから部誌まとめる作業しなきゃだよ」

    「だったら、俺なんて相手にしてないで作業をしたほうが……」

     うーん、と彼女はちょっと笑いながら腕を組む。

    「そんなこと言わないでよ。きみだって部員でしょ、いちおう」

    「いちおうって、言っちゃってるじゃないですか」

    「あはは」と彼女はわざとらしく笑う。

    「ま、きみはちょっと特別だから」

    「そうですか」

    「あれ、信じてない?」

    「冗談ですよね?」

    「うーん、どうかなあ」

     部長はへらへら笑って、「ま、気が向いたら顔出してよ」、と、どうでもよさそうに笑って去っていった。
     
     ごくまれに、彼女は似たような質問をしに僕のところにやってくる。 
     意味ありげなことを言っていたようだけど、おそらく、幽霊部員の様子を定期的に覗きに来ているだけだろう。
     たぶん、他の人間にも似たようなことを言っているのだと思う。

     さて、と僕は溜め息をついて、イヤフォンをつける。

     今日もバイトだ。……バイト。こんな生活を、いつまで続けるんだろう? もうずっと変わらないのかもしれない。
     今日は久しぶりに、小夜と話した。部長に会った。でも、どうしてだろう。

     すみれのことばかりを、思い出してしまう。
     

    144 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:27:11.12 ID:hKubEbbBo



     バイトが終わった九時過ぎに、僕は店の敷地の脇に立ち尽くしていた。

     何か理由があってのことじゃない。早く家に帰りたい気持ちもあった。
     でも、なぜだかそれが億劫だった。

     僕は鞄からMDプレイヤーを取り出して音楽をかけた。 
     手持ちの音源を片っ端から突っ込んで作ったオリジナルプレイリストのMDは、
     ランダムにすると基調も統一性も見えないわけのわからない流れを生み出す。

     僕はしばらく音楽に身を委ねて休んでいた。
     敷地に止めた自転車のそば、街灯には虫がたかっていた。
     灯りの消えたガソリンスタンドのそばは薄暗い。車の通行量は少ない。
     
     月は雲に隠れていた。
     
     ふと思い出して、僕は鞄から例の煙草を取り出した。
     
     すみれが、別れ際に僕に渡した煙草とライター。
     
     暗い中でこうしていると、いろいろなことが分からなくなってくる。
     いや、最初から、僕にはわからないことばかりなんだけれど……。

     バイクが一台、道路を通り過ぎていく。


    145 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:27:42.45 ID:hKubEbbBo

     煙草を一本、箱から取り出して眺めてみる。しばらくそれを続けた。
     MDプレイヤーからざらざらと歪んだノイジーなギターサウンドが聴こえる。浮遊感のある甘やかなボーカル。

    "マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン"。
     血なまぐさいバンド名は、何度聴いてもあまり似つかわしいとは思えない。
     
     僕は煙草を口にくわえてみる。

     なぜか、妙に頭が冴えはじめる。
     急に意識がはっきりと現実感を持つ。

     僕はライターを煙草の先に近づける。
     そっと火を点ける。

    「……ん」

     後ろから物音が聞こえた。

    「吸いながらじゃないと、点かないよ」

     僕は、驚いて振り返った。
     
     それが誰なのか、暗くてよく分からなかった。
     でも、すぐ傍に止まっていたバイクには見覚えがある。

     ドラッグスター250。


    146 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:28:21.47 ID:hKubEbbBo

    「いるとは思わなかったな。たまたま通りがかったから、来てみただけなんだけど」

    「……」

    「あれ、わたしのこと、覚えてない? ……なわけないか」

    「ああ、うん」

     立っていたのは、すみれだった。

    「ちょうど、きみのことを考えてたんだ」

    「わたしも。素敵な偶然だと思わない?」

     本当にそうなのだろうと思った。
     僕は彼女のことを思い出したから煙草を口にくわえたのだし、彼女も僕のことを思い出したからこの道を通ったのかもしれない。

    「ひどい顔をしてる」と、彼女は言った。

    「暗いせいだろうね」と、僕はすぐに嘘だと分かる嘘をついた。暗さなんかでごまかしがきくものか。

     僕はイヤフォンを外した。


    147 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:29:14.96 ID:hKubEbbBo

     光を避けるように街灯に近付こうとしない彼女の表情は、僕からはよく見えない。

     彼女はポケットから煙草を取り出して、くわえて火をつけた。
     僕も彼女に言われたとおりにしてみた。今度は火がついた。

     煙が口の中に流れ込む感触に戸惑いを覚える。
     想像していたより嫌な感じはしなかった。

    「ねえ、遼一」

    「……よく覚えてるね、人の名前」

    「あんたは忘れたの?」

    「覚えてるよ」

    「言ってみて」

    「すみれ」

    「自分でも不思議なの」

     彼女は楽しそうに笑う。

    「どうしてあんたの名前なんて覚えてるのかな」

     僕にしたってそうだ。
     印象深かったから? ……どうして、印象深かったんだ?

    「あんた、わたしが知ってる奴に似てるのよね」

    「……へえ。そうなんだ。彼氏か何か?」

    「いないから、そんなの。……妹」

    「ふうん」

     どうでもいい、と、そう思った。どうしてそんなことを訊いてしまったんだろう。


    148 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:30:24.86 ID:hKubEbbBo

     彼女は煙草を足元に捨てると、靴の裏で踏みつけた。

    「ねえ遼一、あんた、死にたがりなの?」

    「どう思う?」

    「わたしの見立てだと、そうなんだけど」

    「残念ながら、死にたがりとは言えないと思う」

    「そう」

     どうでもよさそうに、彼女は呟くと、片手に何かを掴んで、こちらに差し出した。

    「……なに?」

     それは、ヘルメットだった。

    「死にたがりじゃないなら、退屈してるんでしょ? 一緒に行かない?」

    「どこに」

    「ここじゃないどこか」

     彼女は真顔でそう言った。


    149 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:31:09.94 ID:hKubEbbBo


    「ここじゃないどこか……?」

    「そう」

     月を翳らせていた雲が、ゆっくりと流れていく。
     そのとき、彼女の姿が月光にかすかに照らされた。

     彼女はひそやかに笑っていた。
     なにか、とても楽しい内緒の話を、僕だけに打ち明けてくれるような表情で。

    「あんた、生きてて楽しい?」

     そんな、小馬鹿にするみたいな問いかけ。
     僕は答えずに笑った。

     連想したのは蛇だった。

     楽園の中央には二本の樹が生えていた。
     一方は生命の、一方は知恵の。一方の実は永遠の生命を与え、一方の実は善悪を教える。

     知恵の実だけが、食べることを禁じられていた。それを食べたら、死んでしまうから。

     知恵の実を食べなければ、楽園で幸福に過ごせたのかもしれない。
     それでも彼らは知恵の実を食べずにはいられなかった。なぜか?


    150 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:31:43.96 ID:hKubEbbBo

     好奇心? 反抗心? 禁忌を破る愉悦?
     それが禁断の実だと知らなかったから? 蛇のそそのかしかたがあまりに狡猾だったから?

     いずれにしても、その実を口にした先に待っていたのは、楽園からの追放と果てのない苦役だった。
     
     バカバカしい、と、その連想を鼻で笑う。

     彼女が差し出したヘルメットが禁断の実だとしたら、ずいぶんと滑稽な話だ。

     僕は差し出されたヘルメットを受け取った。
     彼女はまた笑う。

    「ねえ、そうだよね」と、彼女は楽しげに呟く。

     その目は僕の方をまっすぐに見ている。
     
    「――生きてるって、最高につまんないよねえ?」
     
     だからさあ、と彼女は僕の肩をバシッと叩いた。

    「ここじゃないどこかにいこうよ、わたしたちが心の底から笑えるようなところが、きっとあるはずだもんね!」


    151 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/03(水) 21:32:15.05 ID:hKubEbbBo

     その言葉のばかばかしさに、僕も笑った。

    「どこだよ、それ」

    「知らないよ、そんなの」

     と言って、彼女はバイクにまたがって、後部座席をパシパシ叩いた。

    「ほら、行こう!」

    「だから、どこに」

    「知らないよ! どこかないの? 行きたいとこ」

     行きたいところ。
     そう言われたとき思い出したのは、篠目あさひの言葉だった。

    「遊園地」

    「遊園地?」

    「……の、廃墟」

    「いいセンスじゃん、遼一」

     僕は彼女の真似をして、煙草を足元に捨てて靴の裏で踏みにじってみた。
     どこかに行けそうな気がした。

    「ねえ遼一、あんたのことなんて欠片も知らないけど、わたし、あんたのこと好きになってきた」

     僕は笑った。
     
    「それは、素敵な偶然だね」

     彼女も笑った。
     そのようにして、僕たちは自ら楽園を後にした。


    154 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:35:19.57 ID:/3w4Giamo



     彼女の誘いに乗るべきではなかったのかもしれない、と、
     そう思ったのはだいぶあとになってからのことで、
     彼女の後ろで打ち当たるような風を受けている間は、
     ただ流れていく景色のことだけを考えて頭をからっぽにしていた。

     そんな時間は久しぶりだった。

     目的地の正確な場所を僕らはふたりとも知らなくて、
     ヒントは僕が朧気に記憶している地名くらいのもので、
     あとはコンビニに置いてあった地図を頼るしかなかった。

     僕らは何度かコンビニに寄って地図を眺めてみたりした。
     そのたびにすみれが煙草を吸うので、彼女の持っていた煙草はあっというまに減っていって、
     結局新しく買い直していた。

    「マイセン」

     店員はいくらか訝しげな目を向けてきたけど、結局売ってくれた。
     

    155 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:36:16.62 ID:/3w4Giamo

    「すみれさ」

     店先の灰皿の前で煙草に火をつけた彼女に声を掛けた。
     いくらか、疲れで頭がぼんやりしていた。

    「ん?」

    「いくつなの?」

    「内緒」

     すみれは笑った。どうでもいいか、と僕は思った。

    「ねえ、どうかな? わたしたち、目的地に近付いてると思う?」

    「標識が偽物じゃなければね」

    「あんた、くだんないこと言うよね」

    「嫌い?」

    「どうかな」


    156 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:37:58.75 ID:/3w4Giamo

    「癖になってるんだよ」

    「なにが?」

    「なんだろう。はっきり言わないことかな」

    「"どうして?"」

    「さあ? そろそろ行こうか」

     時刻は十一時を回っていた。

    「急ぐ旅でもないけどね」

    「どうかな」

    「帰りたい?」

    「まさか」と僕は言った。本心なのかどうかは自分でも分からなかった。

     家のことが気になっているのはたしかだ。
     学校や、バイトのことや、いろんなこと、それから……。
     
     でも、帰りたいかと訊ねられると――。

    「さ、行こう」とすみれが言ったので、僕は彼女に従った。


    157 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:39:00.79 ID:/3w4Giamo

     結局、遊園地に辿り着いたのは日付が変わる頃だった。
     
     閑静な街並や狭い道路を走り抜けるとき、バイクの排気音が気になったけど、
     今時間起きている人がいるとしても、きっと「うるさいなあ」と思って特に何もしないだろう(普段の僕だってそうだ)。

     準備の悪い僕たちは懐中電灯すら持っていなかったから、携帯のライトを使ってかろうじて辺りを照らした。

    「バイク、停めとくの嫌だなあ」

     と、すみれは心配そうにしていたけど、ここまで来て引き返すなんて僕はごめんだった。
     そう伝えたら、彼女も結局、遊園地の敷地内へとついてきた。
     
     ひとりにされるのが嫌だったのかもしれないし、僕に対して責任感のようなものを覚えたのかもしれない。

     真っ暗闇の遊園地はただでさえ不気味だったし、廃墟だというのだからなおさらだ。
     僕たちは何を目指しているかも分からずに歩きまわった。

     そうしてときどき、錆びた柵にもたれて煙草を吸ったりもした。

     そもそも、ここが目的地なのだ。僕たちは到着している。

    「ね、空見て」

     煙草の煙を吐き出しながら、不意にすみれが言う。

    「星、綺麗」

    「たしかに」と僕は言った。

    「星座とか、分かる?」

    「いや」

    「わたし、知ってるよ。秋の星座は、カシオペア、アンドロメダ、くじら……今も見えるのかな」

     と、彼女はささやくように言ったけれど、僕にはどれのことだか分からなかったし、そもそもくじら座なんて言葉自体初めて聞いた。


    158 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:41:03.44 ID:/3w4Giamo

     真っ暗闇の遊園地から見える星空は煌々と輝いて綺麗だった。
     周りには空を切り取る建物も光もない

     ひょっとしたら、大昔の人間の見た星空も、こんなふうだったのかもしれないと、ぼんやり考えた。
     
     それとも、その頃の空と今の空は、やはり違っているのだろうか?
     過去と今では、今と未来では、いろんなものが変わってしまっているのだろうか?

    「くじらは怪物なんだよ。お姫様を食べちゃうんだ」

    「……?」

     すみれの言葉に、僕は首を傾げた。

    「そういうお話」

    「誰かがくじらに飲み込まれる話なら、僕も知ってるよ」

    「どんなの?」

     答えようと思って、僕は口ごもる。
     今の自分のその状況が、その話に似ているような気がしたのだ。


    159 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:41:37.62 ID:/3w4Giamo

    「ヨナ書だよ」

    「なにそれ」

    「聖書」

    「詳しいの?」

    「べつに。ちょっと興味があって」

    「悩みでもあるの?」

    「子羊だから」

    「ジンギスカン、美味しいよね」

    「ついでに毛が黒い」

    「それも聖書か何か?」

    「いや。慣用句」

    「ふうん。バカみたい」

    「たしかに」

     どうでもいいようなやりとりが心地よかった。


    160 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:43:58.84 ID:/3w4Giamo

     それから僕たちはまた歩きまわり始める。
     
     べつに新しいものを得られもしなかったし、天啓も降りてこなかったし、腹の底から笑えもしなかった。

     ここじゃないどこか?

     馬鹿らしい。そんなものどこにもない。
     子供にだって分かる。
     
     僕たちは「ここ」にしかいられない。言葉遊びでもなんでもなく、文字通りそうなのだ。

     そんなことを、どこかうんざりした気持ちで考えていたとき、僕らは“それ”を見つけた。

     最初に気付いたのは僕だった。
     一瞬で背筋が粟立った。

     思わず立ち止まった僕の方をすみれが見たけれど、彼女が“それ”に気付くまでは少し時間がかかった。

     無理もない。

     女の子がひとり、建物の前に立っていた。

     真っ黒な服を着て、建物の真っ黒な影に溶け込むようにして。
     そして、僕らの方を見つめながら、何も言わずににやにやと笑っていたのだ。


    161 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:44:25.89 ID:/3w4Giamo

     それに気付いたとき、すみれは怯えたような頼りない声をあげた。女の子の薄笑いは消えなかった。
     やがて彼女は、口を開いた。

    「ひさしぶり。元気だった?」

     その存在の唐突さ、その理解できない発言、不気味な姿、不気味な衣装、不気味な笑み。
     どこをとってもぞっとするような女。

     でも、何よりも僕らを混乱させたのは、
     彼女のその顔と声が、すみれにそっくりだったことだ。
     
     すみれは、信じられないものを見たような顔で、彼女を見る。
     
    「……あんた、誰」

     すみれが問う。

    「わかってるくせに」と彼女は笑う。

     僕とすみれは後ずさり、互いに体を近付ける。
     それを見て、女の子はまたにやにやと笑い始める。

    「寄っていかないの?」と言いながら、彼女はうしろの建物を示した。

     僕は暗闇に目を凝らし、近くにあった看板の文字をどうにか読み上げる。

    「……ミラーハウス、か?」

    「そう。今なら、鏡の国に連れていけるよ」

    「……鏡の国?」

    「そう。あなたが望む景色、なんでも見せてあげる」

     僕たちは黙りこんだ。少女は、また笑う。

    「心配しないでよ。夢みたいなものだと思ったら?」

     ……夢だと思いたい相手に言われるのも、妙な気分だった。


    162 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:46:23.30 ID:/3w4Giamo


    「……ね、どう?」

     女は言う。僕の方を、じっと見ている、気がする。

    「あなたは、叶えたい願いとか、ない?」

     その問いかけを聞いたとき、篠目がしていた話の意味が、ようやく僕の中でつながった。

     夢、幻覚、心霊現象、超常現象、都市伝説、フォークロア。
     いずれにしても、目の前にいるこの少女には、現実を超越したような、高みから見下ろすような不思議な雰囲気がある。

     空には月と星、地上には奇妙な生き物が三匹。ひょっとしたら、ひとりは生きてさえいないかもしれない。根拠もなく、そう思った。

     雰囲気に呑まれたのだろうか?
     それとも、彼女の言葉が、僕の心のどこかに響いたのだろうか?
     そんな他人事めいた気持ちでしか、自分の感情の動きさえ掴めない。

     でも、たぶん僕には、見てみたい景色があったんだと思う。
     きっと僕は、どこかで篠目の話を覚えていて、
     だからこそ、こんな場所に来ることを提案したんだと思う。

     僕は、何も言わず、彼女に近付いていく。

     引き止めるような、すみれの声。
     僕は振り返らなかった。
     

    163 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/09(火) 00:46:51.71 ID:/3w4Giamo

     女は満足そうに頷くと、僕の背後に視線をやり、

    「"すみれ"は」と、知るはずのない名前を告げて、

    「どうする?」と笑みを浮かべたまま訊ねた。

     すみれは、答えずに、

    「……あんた、誰」と、そう繰り返す。それは、僕にはなんでもいいことだった。

    「誰でしょう?」と女は笑い、建物の中へと歩き始める。
     僕は何も言わずに、彼女についていく。

     すみれは何も言わなかった。
     僕は一度だけ振り返って、「来ないの?」と肩越しに訊ねた。
     
     彼女は、苦しげに俯いてから、僕の方へと駆け寄ってくる。
     
     そうして僕らは、ミラーハウスに足を踏み入れた。


    167 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:19:54.05 ID:r5JmSGB3o



    「……ね、どういうことだと思う?」

     肩で息をしたまま辺りの様子をうかがって、すみれはそう訊ねてきた。

    「どれについて?」と僕は訊いた。

    「どれって?」

    「どうしてミラーハウスの奥の扉が知らない街に繋がっていたかってこと?」

    「それもだけど」

    「さっきの女の子はどこに行ったのかってこと?」

    「それもだけど、そうじゃなくて」

    「じゃあ、どれのこと?」

    「本気で言ってる? それとも現実逃避してる?」

    「……これが果たして現実なのかな」

    「現実だと思いたくないのはやまやまなんだけどね」


    168 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:20:23.43 ID:r5JmSGB3o

     ぐるるる、と音がした。
     摺るような足音。

    「……来た?」

     ひそめた声で、すみれが言う。

    「……来たみたいだね」

     僕たちはそのまま息を止める。

    「逃げた方がいいんじゃないのかな」と僕は言った。

    「でも、音を立てたら……」

     気付かれる、とすみれが言いかけたところで、角の方から彼は姿を現した。

     すみれの体がびくっと揺れる。僕も多分揺れたと思う。
     たっぷり三秒ほど、硬直した。

     黄褐色の毛並みとたてがみ。
     逞しい四本足でのそのそと歩き、無機物のような瞳をこちらに向けてくる。
     目線こそ僕らより下にあったけれど、体躯の大きさは比べ物にならない。

     牙を向けば、僕らの腕くらいならやすやすと噛みきれそうだ(というか、噛み切れるのだろう)。

    "彼"というのはそういうことだ。鹿と同じくらい、彼らの性別を見分けるのは容易い。

     声も出せずに硬直した場面が、彼が踏み出した前足で動く。
     僕らは翻って全力で逃げ出した。

    「……なんで、わたしたち、ライオンに追われてるの!」

     裏返った声で、すみれが叫んだ。そんなの僕にだってわからない。


    169 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:21:20.81 ID:r5JmSGB3o

     夜の遊園地(廃墟)に忍びこんだら、ミラーハウスの前でドッペルゲンガーみたいな女の子に出会いました。
     彼女にしたがって建物の中に入ったら、いちばん奥に大きな扉がありました。

     扉を開けたら鏡があって、女の子はその鏡をすり抜けて進んでいって(?)、
     僕らも鏡に触れてみたらすりぬけてしまって、気付いたら西欧風の箱庭めいた街並に立っていて、
     いつのまにか女の子はいなくなっていて、何がなんだか分からずに歩いていたら女の子の代わりにライオンと出会いました。

     おしまい。

     脈絡の無さが古い童話めいていた。

    「遼一、どうしよう?」

     走りながら、すみれは混乱した様子で言う。 
     笑い話だ。

    「どうしようって、逃げるしかないよね?」
     
     肩越しに振り向くと、ライオンはバネのように追いかけてきている。

    「逃げきれないよ! ライオンだよ? ライオンより速く走れるわけない!」

    「べつにライオンより速く走る必要はない」

    「え?」

    「きみより速く走ればいいだけだ」

     すみれは一瞬考えるような間をおいてから、意味を察したのか、悲痛な声をあげた。


    170 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:21:52.47 ID:r5JmSGB3o

    「……わたしが食べられてる間に自分は逃げられるからそれでいいってこと?」

    「そういうことになるね。いいんじゃないか。生きてるの、つまらないって言ってただろ」

    「あんただって死にたがりじゃない!」

    「僕は死にたがりじゃないよ」

    「死にたい死にたい言ってる奴に限って、危機に瀕したらこんなもんよね、結局生きてることに実感が沸かないだけなんじゃない!」

    「それ、自虐? もっとシンプルな考え方があるよ」

    「なに?」

    「仮に死にたがりだとしても、痛いのは嫌だし、生きながらかじりつかれるのはごめんだ」

    「……それは本当に、そう思うけどね」

     なんて言っている間に、すみれが足をもつれさせた。

     慌てて僕は彼女の腕を引っ張ってスピードを上げる。
     彼女はかろうじて転ばずに済んだ。


    171 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:22:30.03 ID:r5JmSGB3o

    「腕、痛い! 肩も!」

    「ありがとうが先だろ」

     すみれは鼻を鳴らした。

    「……どうもありがとう。あんたってとっても偽悪的ね」

    「皮肉を言う余裕があるのは結構なことだけどね」

    「お互い様でしょ?」

     そうこう話しながらも走る速度は緩められない。……とはいえ、後ろから迫る四足獣も、必要以上に距離を詰めてはこない。

     いたぶられている気分だ。
     
     追いかけっこの本質は速さ勝負じゃない。体力勝負だ。
     もし圧倒的に体力に自信があるなら、ゴールが設定されておらず、期限が決まっていないのなら、
     勝つのは速い方じゃない。より長く走っていられる方が勝つ。

     いいかげん、すみれも体力の限界が近いらしい。

     他人事みたいな街灯の灯りが憎々しい。


    172 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:23:28.97 ID:r5JmSGB3o

     不意に、見上げた夜空に、僕は思わず笑ってしまった。

    「……なあ、すみれ」

    「なに?」

    「月に目ってある?」

    「何言って……」

     と、すみれは僕の視線の先を追いかけて、言葉に詰まったみたいだった。

     貝殻のような笑みを浮かべた三日月のすぐ上に、ふたつ、銀色の円がある。
     星というには大きすぎ、月というには小さすぎる。

    「笑われてるみたいね」

    「……」

     見下されて、笑われてる。
     
    「悪夢的だな」

    「言ってる場合?」

     と、後ろからの気配が近付いてくる。
     飛びかかってくるのが分かった。

     まずい、と思った瞬間に、すみれの背中に手を置いて前方に押しやっていた。

     すみれの体が前へと飛ばされていく。彼女の体が地面に向かって倒れていく。
     僕もその勢いでひっくり返って尻餅をつく。
     
     牙、が。
     目の前にあった。


    173 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:24:03.15 ID:r5JmSGB3o

     ああ、これは死んだな、と一瞬、考えて。 
     同時に、ちょっと待てよ、と思う自分を見つける。
     
     僕はそれを望んでいたんじゃないのか?

     自ら選びとることもなく、終わってしまうこと。
     赤信号の交差点で、背中を押されてしまうこと。
     眠っている間に、誰かが首をしめてくれること。

     僕はそれを、期待していたんじゃないのか?
     
     その瞬間、

     パン、と大きな音がして、僕はとっさに目を瞑った。

     奇妙な静寂の後、うしろから、「遼一!」と声が聞こえる。

     瞼を開くと、ライオンの姿は消えていた。

    「……なに、いまの」

    「遼一、それ」

     すみれが、傍らの地面に落ちている何かを指差す。
     
     ゴムの切れ端のような……。

    「……風船?」

     僕らは、目の前で起きたことがよく理解できなかった。

     それでもとにかく互いの無事を確認すると、立ち上がって周囲の様子をうかがう。


    174 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:24:53.03 ID:r5JmSGB3o

     何の気配もしない。落ち着いてみたところで、よくわからない街並。月にはやはり、目があった。

    「ここ、どこ?」

    「どこだろうね」

     僕たちは息を整えながら、それでも立ち止まることができずに歩き続けた。

     立ち止まったところで何かが分かるとは思えなかったし、歩き続ければ、さっきの女の子に会えるかもしれない。
     そうでないにせよ、何か、事情を知っている誰か(誰だろう?)に出会えるかもしれない。

    「……誰か、いるのかな」

     疲れた声で、すみれは言った。もちろんそんなのは僕にもわからない。

     夜風がやけに冷たかった。

    「さっき、転んだとき、怪我しなかった?」

     そう訊ねると、すみれはちょっと気まずそうに頷いた。

    「うん。平気」


    175 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:25:23.26 ID:r5JmSGB3o

     しばらく何も考えずに歩き続けたけれど、誰とも出会わなかった。
     
     やがて、その道の果てに行き着いた。

     似たような街並は、正面にも続いている。けれど、大きな水路が邪魔していて、向こう側にはいけない。
     橋は見当たらない。

     道は左右に伸びていた。

     僕らのいる地面は、円形の水路に囲まれているらしい。
     
    「橋がないね」とすみれが言う。

    「あったところで、渡るべきかどうか、わからないけどね」

     彼女は不安そうに押し黙った。

    「とにかく、橋を探してみようか」

     うん、と彼女は頷く。


    176 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:26:02.24 ID:r5JmSGB3o

     水路と道との間には白い鉄製の柵が張り巡らされていた。 

     僕は水路の向こうの街並の方に視線を向けてみる。
     夜の暗さで、向こうの様子はわからない。

    「……なにか、声みたいなのが聞こえない?」

     不意に、すみれがそう言いながら、水路の向こうを睨んだ。

     耳を澄ませると、たしかにどこかから誰かの声が聞こえる。
     
    「灯りが見える」

     灯りが、暗い水路の向こうに、見える。 

     人がいるのだろうか?
     近付いていくたびに、声をはっきりと感じる。
     誰かの話し声。何を話しているのかは、よくわからない。何を言っているのかも。

     あちら側が、あたたかな光に照らされているのは分かる。
     でも、景色はぼんやりとしていたし、人々の話し声もくぐもったように聞き取りづらかった。

     すみれはあちら側の人々に声を掛けようと何度か試みた。
     でも、何度試してみてもあちらからはどんな反応も帰ってこなかった。

     やはり、そこまでの間にも橋は見当たらなかった。
     でも、どこかにはあるはずだ。


    177 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:26:39.49 ID:r5JmSGB3o

     歩いている途中で、柵の傍にいくつかの銅像が並んでいるのを見つけた。

     なんでもない銅像のように見えた。特に偉人や功績者を称えるようなものにも見えなかった。
     ただ銅で出来たマネキンのような。

     すみれはひとつひとつ、こわごわとその像に触れていた。

     そのうちのひとつに触れたとき、何かおかしなことに気付いたような顔をして、
     こつこつ、と手の甲で叩き始める。

    「これだけ中が空洞になってる」

    「へえ、そう」

     だからなんだ、とは言わないでおいた。

    「ね、この像、少しだけあんたに似てない?」

     僕は何も言わなかった。


    178 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:28:13.98 ID:r5JmSGB3o

     それからは特別何も見つけられなかった。結局橋なんかないと分かったのは、ふたたび例の灯りが見えてきたときだった。
     どうやら一周してしまったらしい。橋は結局、どこにも見つからなかった。

    「閉じ込められてるみたい」と、気味悪そうにしながらすみれは言う。

    「とにかく、内側を探索してみようか」

    「……うん」

     頷いてみせたものの、すみれが体力の限界を感じているのは疑いようもない。
     僕だって、徒労感と倦怠感と混乱で、冷静さを失わないのが精一杯だ。

     水路に沿って歩くのをやめ、内側へと引き返した僕たちは、いつのまにか広場のような場所に出ていた。

     人の話し声。

     僕とすみれは目を合わせて、そちらへと向かう。

     最初はよくわからなかったけれど、そこにはちゃんと人がいた。
     シルクハットに燕尾服。大柄の、洋装の男。彼を中心に集まっているのは、小さな子供たちのようだった。
     座り込んで、彼の方をじっと見ている。

     子供たちの表情は、こちらからでは見えないけれど、男の姿はしっかりと見ることができた。
     広場の隅の街灯に照らされた彼の顔は、白い無表情の仮面に覆われている。

     白い手袋をした両手からは糸が垂れている。足元で踊っているのは、人形……。

     操り人形、マリオネット……。


    179 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:29:13.33 ID:r5JmSGB3o

     やがて劇は終わり、男は「今日はこれでおしまい」と言う。子供たちは不平の声を漏らしながらひとりひとりと去っていく。
     子供たちの顔もまた、同じような仮面で覆われていた。

     ヴィネツィアのカーニバルを連想する。
     
     違うのは、子供たちが着ているのは普通の服だということ。
     そのことに子供たちは何の疑問も抱いていないということ。

     真夜中に、こんな人形劇があって、それを見るためにたくさんの子供たちが集まっている。

    「悪夢的」、と、今度はすみれが言った。

     名残惜しそうに立ち去ろうとしない何人かの子供に、人形師は飴玉をひとつずつ渡した。
     仮面の子供たちはその場を後にしていく。

     最後に残ったのは僕たち二人と、人形師の男だけだった。

     彼は言う。

    「ごめんね。もう飴玉はない。きみの分はないんだよ。本当に残念だけれどね、きみの分はない」

     遠くから笑い声が聞こえた気がした。
     男は荷物を片付けると、落ち着いた足取りで広場を後にした。
     
     残された僕らは、広げられた光景の異様さに立ち尽くした。
     僕に至っては吐き気すら感じていた。

     足元が覚束なくなるような、悪夢と現実の区別が奪われるような、存在と非存在の境が消え失せるような、不気味さ。


    180 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:29:51.97 ID:r5JmSGB3o

    「大丈夫?」とすみれがこちらを見上げながら言う。

    「大丈夫」と僕は言う。

    「……なんなのかな、ここ。わたしたち、変な夢でも見てるのかな」

     ライオン。月。水路。銅像。マリオネット。仮面。

     悪夢以外だとしたら、いったいなんなんだ?

    「象徴だよ」、と声がした。

     すみれが僕の服の裾を掴んだ。

     広場の入口、アーチの傍に、ミラーハウスの少女が立っていた。

    「あるいは、比喩」

    「……なんなのよ、ここ」

     と、すみれが言う。

    「だから、その話をしてるんでしょう?」

     女の子は笑う。黒服が月明かりの下で、魔女みたいに見えた。


    181 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/14(日) 20:30:41.84 ID:r5JmSGB3o

    「鏡は、鏡の世界に繋がってる。そこは扉を開けた人が望む景色。でも、その人が何を望んでるかなんて、鏡は知らない。
     だから鏡は問いかけるの。"あなたが望む景色はどこ?" ここは、その質問の答えの途中」

    「……望む景色?」

    「扉を開いたのは、あなたよね?」

     そう言って、彼女は僕の方を見た。僕は頷いた。

    「だったら、鏡はあなたに問いかけてるの。"あなたのことを教えて"って」

    「……意味がわからない」とすみれは言った。 

    「そもそも、あなたは誰なの?」

     すみれの問いに、彼女はまた笑った。

    「"ざくろ"」と、彼女はそう言った。

     すみれは、その答えに動揺したように見えた。

    「そうじゃなくて、あんたは、何なのよ」

    「さあ? わたしにもよくわからない。それより……」

     彼女ははぐらかすふうでもなく、本当にわからない、というふうに首をかしげて、言葉を続ける。

    「ついてきて。連れて行ってあげる。あなたたち、迷いそうだから」

    「連れて行くって、どこに……」

    「鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……」
     
     少女は、皮肉っぽく笑った。

    「あなたたちが、心の底から笑えるような場所」


    185 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:24:26.71 ID:yanbN1Jio



     ざくろと名乗った少女の姿は、見れば見るほどすみれにそっくりだった。 

     彼女の名前を聞いてから、すみれは一言も喋らなくなった。
     何か考えているふうでもあり、思い詰めているふうでもある。

     少し気になったが、僕が気にしたところで分かることなんてひとつもなさそうだった。

     ざくろの案内に従って、僕らは街路を歩き始めた。
     
     既に見慣れつつある奇妙な街並は、けれど相変わらず僕の目には異郷として見えていた。

     異郷。
     象徴?

     異郷……。

    「ひとつ訊きたいんだけど」

     ざくろは振り返らずに「なに?」と問い返してきた。

    「さっききみは、ここが質問の答えの途中って言ってた。それってつまり、ここが心象風景ってこと? 夢のような……」

     ざくろは、ふむ、と小さく声をあげてから答えてくれた。

    「心象風景。そうかもね。どうかな?」

     帰ってくる答えは要領を得なかったけれど、僕はかまわず質問を続けた。

    「だとすると、この街並も象徴なのかな」

    「……人によっては」とざくろは言う。

    「街なんかじゃない人もいるかもね」

    「たとえば?」

    「工場とか、お城とか」

     僕はそれ以上質問を重ねなかった。



    186 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:25:04.76 ID:yanbN1Jio

     ざくろは、街路の脇に立ち並ぶ家々のうち、ひとつの前で立ち止まった。
     
     他のものと比べても、特別なにか変わったところがあるようには見えない。

     彼女は躊躇わずに中に入っていった。僕達も後に続く。

     最初に感じたのは黴の匂いだった。

     入り口の脇は小さな部屋にそのまま繋がっていた。すぐ傍には通りに面した窓があり、小さな棚が置かれている。
     古びた本が何冊か置かれている。背表紙のタイトルは読めない。

     どこの言葉で書いてあるのかもわからない。頁をめくっても、きっと同じことだろう。

     剥き出しの梁が天井から突き出している。床は石でできている。肌寒いのはそのせいだろうか。
     部屋には暖炉もあり、そのそばにはテーブルと椅子。卓上には燭台もあり、蝋燭も刺さっていたが、火は消えていた。
     その隣には、籠に入った四つの林檎。

     ざくろは燭台を持ち上げると、そばにあったマッチで蝋燭に火をつけた。

     埃っぽい家の奥へと、彼女は進んでいく。奥はどうやら台所になっているみたいだった。

     そのまままっすぐに進むと、行き止まりのような場所へと突き当たる。
     床には、古びた板が置かれていた。
     
     ざくろはかがみ込み、その板を持ち上げる。

     姿を現したのは、地下への階段だった。
     
     その先は暗い。
     


    187 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:25:35.78 ID:yanbN1Jio

     ざくろは、一歩一歩、慎重そうにその階段を降りていった。

     空気が厭な湿り気を帯びている。

     階段の先は、広い空間だった。
      
     石の壁、石の床、空気はひんやりと冷たい。天井には灯りが見えたが、すべて消えている。
     蜘蛛の巣。

     太い柱の向こうには木材でできた柵のような囲いがあり、その中には無数の瓶入りワインが貯蔵されていた。

     ワインの地下貯蔵庫……? 民家の地下だけあって、樽などでの保管ではない。
     瓶には埃が被っていた。貼られているラベルも同様だが、文字は手書きのように見える。
     当然のように、読むことはできなかった。

     周囲を照らすのはざくろの手にしている蝋燭の灯りのみ。
     だから僕たちは、彼女とはぐれてしまうわけにはいかなかった。

     この暗闇、この広々とした空間、似たような柱と壁。
     そのなかで方向を見失ってしまえば、きっとここから出ることは難しいだろう。

     知らず、呼吸を止めていた。

     重々しい、いっそ刺々しいほどの、空気。

     なんだろう? なにが問題なんだろう? ……よくわからない。
     ざくろの足取りを追いかけて、僕とすみれは進んでいく。

     彼女は柱と柱の間を、ワインとワインの間を、迷うこともなく進んでいく。振り返れば暗闇、彼女の進む先以外も暗闇。
     どこに何があって、どこから来たのかなんて、僕たちにはもうわからない。どこを目指しているのかさえ。


    188 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:26:08.60 ID:yanbN1Jio

     途中で、僕は何かに躓いた。足元を見ると、それは一冊の本だった。赤い装丁。なんとなく、それを拾い上げてみる。

     ページをぺらぺらとめくってみる。ほとんど期待はしていなかったが、文字として読むことはできた。

    “In vino veritas.”“vulnerant omnes,ultima necat.”
    “Non omne quod licet honestum est.”“Mundus vult decipi, ergo decipiatur.”
    “Peior odio amoris simulatio”“Aliis si licet, tibi non licet.”

     何語なのかもよく分からなかった。僕は本を閉じて、置く場所もなかったから、結局床に置き直した。

     ざくろは先に進んでいく。
     僕はそのあとを追いかけていく。

     行き着いた先は、行き止まりになっていた。
     ただの壁ではない。何か、奇妙なかたちをしていた。飾りがついているのか、なにかの彫刻でもされているのか。

     ざくろの蝋燭の灯りが、正面の壁を照らす。

     それを見たとき、背筋が粟立つのを感じた。

     すみれが声をあげて、僕の背中に隠れる。

     人骨が、壁に埋め込まれているのだと最初は思った。床近くに頭蓋骨が壁を作るように並び、その隙間を石か何かで埋めているのだと。
     そこから骨は縦に伸び、横に並んだ頭蓋と合流し、七つの骨で十字を描いていた。
     
     他の部分は石ではない。壁をつくっている無数の突起もまた、よくみると骨のように見えた。
     壁に人骨が埋め込まれているのではない。積み上げられた無数の骨が、壁を作り上げているのだ。

     似たようなものを、本で読んだことがあった。

     カタコンベ。


    189 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:26:53.87 ID:yanbN1Jio

     知らず、後ずさる。

     ざくろがくすくすと笑った。

     目眩と動悸。
     僕は間違ったのだと思った。僕は、ここに来るべきではなかった。どこかで引き返すべきだった。
     いや、今だって、逃げ出すべきなのかもしれない。

     けれど、どこに行ける?

     照らされているのは髑髏の壁。
     
     後方はただ暗闇。ここ以外にも、まだ闇に覆われているだけの骨の壁があるのだろう。
     階段を昇って街中を歩きまわったところで、出口などあるかどうかも疑問だ。

     水路に囲われたこの街。
     
     最初からこの場所で、僕達が選び取れる道なんてなかった。

    「怖いの?」

     ざくろは笑う。 
     汗がにじむのを、僕は感じる。

    190 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:27:19.76 ID:yanbN1Jio

     不意に、
     目前の壁がカタカタと音をあげはじめる。
     あざ笑うように音を立てる。段々と大きく響いていく。

     言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
     その音がひときわ大きく鳴り響いた直後、骨の壁は粉末のようにさらさらと砕け散り、塵になって床に散らばった。
     
     それを、ざくろは踏みつけた。

    「行きましょう」と彼女は言う。蝋燭の灯りが離れていく。

     すみれが僕の服の裾をつかむ。

     僕は何も言わずにざくろの後を追った。

     他にどうしようもなかった。

     そうして進んだ先に、小さな木製の、古い扉があった。
     金具には錠前がついていた。

     ざくろがそれに触れると、かたんと音を立てて、錠前は床に落ちた。
     そして彼女は、僕らに道を譲る。

    「どうぞ」とばかりに手のひらで扉を示す。


    191 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/21(日) 23:28:19.97 ID:yanbN1Jio

     後ろを振り向いて、僕はすみれの表情をたしかめる。

     彼女は怯えているように見えた。

     でも、
     もう、ほかにどうしようもない。

     僕達がいまここにいるのは、僕のせいなのかもしれない。

     でも、それを語るのはもう手遅れだ。

     あるいは目の前にあるいびつな景色が、僕自身の心象なのだとして、
     景色に溶け込むような家のなか、気付かれないような板の下の階段、覆い隠すような暗闇の奥、
     人骨でできた壁の向こう、その先の、鍵のかかった扉。

     これが象徴なのだとしたら、この先にある景色は、本当に僕が望んだものなのだろうか?
     それとも僕自身の望みというのは、こんなふうにどこか奥底に隠されているのだろうか?
     これが比喩なのだとしたら、この扉を僕は僕自身から隠してきたのではないのだろうか?
     そうだとしたら、この先の景色を見ることは、僕にとって、望ましいことなのだろうか?

     わからないけれど、うしろはやはり暗闇で、引き返すことはもはやできない。
     手遅れをあざ笑うように、ざくろが蝋燭の火を吹き消した。

     僕は扉に触れて、ゆっくりとそれを押し開けていく。
     そうして、静かに、その先へと、一歩、踏み出した。


    194 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/26(金) 23:48:42.27 ID:b6IVJofBo

    ◆[Paris] A/b


     お兄ちゃんは、やさしくて、強くて、おおきくて、あたたかい人だった。

     わたしに怒りをぶつけたことも、数えるほどしかない。 
     わたしが車の前に飛び出しそうになったときと、わたしが友達と喧嘩したとき。
     あと、何度か。もう思い出せないような記憶だけれど。

     いつも落ち着いていて、感情の揺れ動きというものとは無縁で、
     そのせいでわたしは、お兄ちゃんの本心というものを、結局知ることができなかった。

     韜晦とやわらかな微笑。沈黙と本棚。
     ジャンルを選ばない音楽と映画の海。煙草の匂い。

     お兄ちゃんが死んだあと、わたしは何度か、彼の部屋に何度かこっそりと忍び込んだ。
     本当は、"こっそり"する理由なんて、どこにもなかったんだけど。
     
     大きな本棚につめ込まれたたくさんの本は、わたしにはよくわからないものばかりだった。


    195 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/26(金) 23:49:11.32 ID:b6IVJofBo

     お兄ちゃんが遺したお金。
     
     それをわたしはどうすればいいんだろう?
     
     どうしてお兄ちゃんは、それをわたしに遺したんだろう。
     
     ひょっとしたら、わたしはそれが知りたかったんだろうか。

     あの人が何を望み、何を考え、どんなつもりで生きていたのか。
     急にいなくなってしまったせいで、それを聞けなかったから。
     
     あの微笑の裏に含まれていた何かの存在に、わたしはたしかに気付いていたのに、
     結局、それを知ることができなかったから。


    196 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/26(金) 23:50:46.83 ID:b6IVJofBo



     鏡の向こうに、よくわからない街があって、よくわからない何かがいて、わけがわからないまま、変な扉に行き着いた。
     
     ケイくんとふたりで何度か話し合いを重ねた結果、確からしい経緯はそんな具合だった。

     そうしてわたしたちはその扉をくぐった。それがわたしたちの直前までの認識だ。

     そして現在。

     わたしたちは、真昼の住宅街に立っている。

     今度は、外国風の街並なんかじゃない、日本の、しかもどこかで見たことがあるような景色だった。

     すぐ傍の児童公園で、ちいさな子供をつれた主婦たちが話をしている。
     通りの並木にはかろうじて緑。

    「……ケイくん」

    「……ん」

     お互いに、唐突な変化に言葉を失う。

    「ここ、どこ?」

    「さあ」

    「ミラーハウスは? 遊園地は? へんな街は? 夢?」

    「さあ」

    「いったい何が起きたんだろう」


    197 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/26(金) 23:55:17.66 ID:b6IVJofBo

     わたしたちは辺りを見回して、何かの手がかりになりそうなものを探す。
     が、何もない。どこを見ても、現実的なものしかなかった。

    「ひょっとして……出口だったのかな」

     わたしの思いつきに、ケイくんは訝しげな表情で「ふむ」と考えこんだ様子を見せた。

    「というと?」

    「さっきまでの、あの、変な場所からの、出口。で、なんか、別の場所から出ちゃった、みたいな」

    「……ふむ」とケイくんはもういちど鼻を鳴らす。

    「いまいち納得いかないが、そう考えてもよさそうだな」

     そう言って不審げに目を眇めると、彼は視線をあちこちにさまよわせた。

    「……いや、でも待て」

    「うん?」

    「今何時だ?」

     言われて、わたしははっとした。


    198 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/26(金) 23:56:53.29 ID:b6IVJofBo

     ケイくんが腕時計を見て、考えこむように唸った。

    「何時?」

    「午後二時半」

     わたしは空を見上げた。曇っていたけれど、厚い雲の向こうに太陽の光が見える。
     ……蒸し暑さを覚える。

     さっきまでは夜で……その前までは? 昼過ぎだった? ……もう、覚えていない。

    「……太陽の位置」

    「時計、アテにならないかもしれないな」

     わたしは携帯を取り出して画面を見てみる。
     時間は……。

    「……ん」

     やはり、午後二時半頃になっていた。

     それと同時に、おかしなことに気付く。
     電波が入っていない。


    199 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/26(金) 23:57:28.98 ID:b6IVJofBo

    「どうした?」

    「電波が」

    「電波?」

     ケイくんもまた、ポケットから携帯をとりだして画面を見る。彼はまた不可解そうな顔になる。

    「ホントだ。通信できない」

     いろいろと試してみたけれど、やはりダメだった。ネットに繋がらない、データ通信ができない。
     
    「……どう思う?」

     とわたしは訊ねた。

    「……わからない。ここ、どこだろう?」

     ふたたび不安を感じ始めたわたしたちは、とにかくあたりに手がかりを探してしまう。
     本当はすぐそばにいる人に、いろんなことを訊いてしまえばよかったんだけど、それはなんとなく憚られた。
     
     どうしてだろう。

     公園ではしゃぐ子供たち、談笑する母親たち、やわらかな真昼の日差しを浴びて光る街路樹の葉。
     邪魔者みたいに、思えたからだろうか。

     そんなことをぼんやり考えていたとき、不意に、わたしの脳裏をよぎる記憶があった。


    200 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/27(土) 00:00:02.39 ID:GZdGvjcio


    「……ねえ、ケイくん」

    「ん」

    「わたし、ここ知ってる」

     ケイくんは、返事をくれなかったし、わたしもそれを待たなかった。
     意識が、どこかに引きずり込まれるような感覚。

     目の前の景色に吸い込まれたような。

    「……大丈夫か?」

    「……え?」

    「顔色、悪い」

     少し、驚いたのかもしれない。
     ケイくんは、何も聞かないでくれた。
     
     彼は、本当に、不思議になるくらい、何も訊いてこない。

    「とりあえず、案内してくれるか」

    「……どこへ?」

     そう訊ねると、ケイくんは不思議そうな顔をした。

    「……近場のコンビニかな」

     わたしは少し考えてから、納得した。


    201 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/27(土) 00:00:50.66 ID:GZdGvjcio



     知っている場所とは言っても、そう何度も来たことがあるわけではなくて、案内なんてほとんどできなかった。
     それでも近くを歩いて、なんとなく大きな道路に出そうな方向へと向かっているうちに、ようやく一軒のコンビニに辿り着いた。

     歩いているうちに、わたしは何か奇妙な感覚を覚えた。

     何かがおかしい。

     通りを走っている車、歩いている人々、街並。なんだろう、見慣れない街だからだろうか?
     よくわからない。どこが、というのではない。何かがおかしい。そう感じる。

     ひとまず、わたしたちは店の中に入ってみる。
     
     そうして、やはり、街を歩いているときと似たような感覚を覚える。

     わたしはそれが何なのかよくわからなかったけれど、
     ケイくんは少し入り口で立ち止まったかと思うと、すぐに傍にあった新聞を手にとった。
     
     慌てた様子で。そんな彼の姿を、わたしは初めて見た。

     彼は手にとった新聞の隅を見ると、わたしを手招きしてその一部を指で示した。

     違和感のあるニュース。一面。でもそこじゃない。
     日付だ。

     2008年9月12日、とあった。

    「……あ」

     遅れて、状況を理解した。
     首を巡らせて、店内の様子を見る。

     棚に並んでいる商品、雑誌の表紙、駐車場に並んでいる車、信号の形。
     
     ケイくんが、何か言いたげにわたしを見る。わたしは言葉を返せない。

     七年前の日付だ。


    204 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:01:35.25 ID:jitnn6u/o




     店の軒先で煙草に火をつけて、ケイくんは黙りこんだ。

     わたしはただ、その隣にしゃがみこんで、通りを走る車の流れを見つめていた。

     空は2008年の空で、道路も2008年の道路で、信号も2008年の道路で。
     終わったはずの漫画が表紙を飾る雑誌があって、キャンペーンポスターは過去の日付のままで。
     それをどう消化していいかわからなかった。

     タイムスリップ? 過去の世界? いろんな考えが浮かんでは、打ち消されていく。

     二本目の煙草に火をつけたあと、ケイくんがポツリと、

    「厄介なことになったな」

     と、そう呟いた。
     わたしはしゃがんだまま彼の顔を見上げた。
     こっちを見てはくれなかった。ただ、どこを見ているのかもわからない目で、遠くの方をじっと睨んでいるように見える。
     あるいは、何も見てはいないのかもしれない。

    「厄介なことになったね」

     わたしもそう言った。彼はひとりごとのように続ける。

    「望む景色。過去の思い出。ありえたかもしれない可能性。あるいは……」

     都市伝説の、噂だ。続きは、なんだったっけ。そうだ。死者との再会。

     2008年。
     そうか、とわたしは思う。

     まだ、お兄ちゃんが生きている。

    「……ああ、そうか」と、ケイくんがおかしそうに笑った。

    「なに?」

    「いや。リーマン・ショックの直前だ」


    205 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:02:07.78 ID:jitnn6u/o



     リーマン・ショックが起きた年だった。

     そのときはまだ消費税は5%だったし、アメリカに黒人大統領は誕生していなかった。

     スマートフォンなんて言葉すら普及していなかったし、ラインなんて存在もしていなかった。

     マイケル・ジャクソンもスティーブ・ジョブズも、
     ガルシア=マルケスも、J・D・サリンジャーも、
     志村正彦も忌野清志郎もアベフトシだって生きていた。

     そのはずだ。
      
     けれど、わたしにとってもっとも重要なことは、そうではない。 
     わたしにとって重要なのは、ここではまだ、お兄ちゃんが生きている、ということ。

     周囲の人たちに少しだけ悲しみを振りまいたあと、あっというまに忘れ去られてしまったひとつの死。

     その死は、ジョブズやマルケスや清志郎の死と比べるとあまりにもちっぽけで、些細で、軽微だった。

     世界は、その死によって傷一つ負わなかった。

     お兄ちゃんの死は、世界、あるいは人類、社会、なんでもいい、それらにとって何の損失でもなかった。

     にもかかわらずわたしにとっては、他の誰かの死よりも、"お兄ちゃん"の死こそが問題だった。

     たとえその死が、わたし以外の誰かにとっては、ただ何千分の一のものでしかなかったとしても。

     大きなはずのものが小さく見えて、
     小さなはずのものが大きく見える。

     いつもそうだ。



    206 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:03:56.69 ID:jitnn6u/o



     おかしな状況に置かれていることは明白だった。

     確かなのは、携帯電話の通信機能が使えないこと。
     周囲の状況から見ても、通りすがりの人たちがしている会話の内容から言っても、ここが七年前の九月だということ。
     
     悪い夢だとしても、まだ覚めてくれそうにはない。

     問題は単純だ。

     仮にこの奇妙な事態が現実だとしても、それが何を意味していて、
     わたしたちに何を求めているのか(あるいは、いないのか)、それがわからないこと、
     それがわたしたちを黙り込ませた。

     幸運なことは、三つあった。

     紙幣のデザインが変更されたのは、2008年より更に前。
     だから、使おうと思えば、財布のなかに入っていたお金は(まったく問題ないわけではないが)使えそうだったこと。

     そしてわたしは、遊園地に行く前に、お兄ちゃんの遺したお金のうち、けっこうな額を引き落としていた。
    (特に深い理由があったわけではないけれど、たくさん、無駄にしてしまいたかったから)

     おかげで、とりあえず数日間、状況に光明が見えなくても、どうにか生きていくことはできそうだった。


    207 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:04:26.49 ID:jitnn6u/o

     ふたつ目の幸運は、わたしたちが投げ出されたこの場所が、どこか遠い国や世界ではなかったこと。
     よく知る街ではないが、わたしたちの住むところまで、そんなに時間もかからずに向かえそうだった。

     おかげでわたしたちがひとまずとるべき行動は、ひとまず決まった。

     家へと向かうこと。
     向かったところでどうなるか、という問題については、ふたりとも考えないことにした。
     
     まずはとにかく、状況をより正確に理解したかった。
     
     もし、家に行ってみて、何もわからなかったとしたら、また、例の遊園地へと向かってみよう、とケイくんは言った。
     何か、ヒントがあるかもしれないから、と。

     もちろん、この状況が、"ヒント"や"解決法"なんてものをわざわざ用意してくれるような、
     そんな善意あるものなのだとしたら、の話だけれど。

     最後の幸運は、ひとりではなかったこと。

     本当のところ、いちばんの幸運はそれだった。


    208 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:05:10.40 ID:jitnn6u/o



    「わたしのせいなのかな」

    「なにが」

    「この状況」

    「なぜ?」

    「望んだ景色、死者との再会。ひょっとしたら、わたしが望んだから……」

    「ああ、望んでたのか」

    「なかったとは、言い切れない、かな」

    「まあ、だとしても、違うだろうな」

    「どうして?」

    「七年前まで戻る理由がない。"この時間"でなくちゃいけない必然性がない」

    「……」


    209 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:05:47.77 ID:jitnn6u/o

    「仮におまえの望みの結果こんな状況になったとして、おまえに何の罪がある?
     妙な噂話をきいて、それに何かを期待したとしても、そんなのはちっとも悪くない。
     こんな結果になることを誰が予測できた? こんなバカげた出来事の責任を追及するなんてナンセンスだ」

    「……うん。ケイくん、なんかやさしいね」

    「違う。妙な思い込みで気でも使われたら鬱陶しいから言ってるんだ」

    「なんか、冷静だね」

    「言ったろ。そのうち覚める夢だと思うことにしたんだ」

    「……」

    「会いに行くか?」

    「え?」

    「叔父さんにさ」

    「……うん」


    210 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:06:34.90 ID:jitnn6u/o



     会ってどうしたいのか、それもよくわからないまま、それでもわたしはお兄ちゃんに会いたいと思った。
     ケイくんは、黙ってそれを受け入れてくれた。
     
     とにかく近くの停留所に向かい、そこから路線バスに乗って地下鉄駅を目指した。
     
     乗り合わせた乗客たちはわたしたちのことをごく当たり前の存在のように受け入れていて、それがひどく落ち着かなく思えた。

    「聞いていいかわからないけど」

     座席に座ってから、ケイくんはこちらを見ないまま口を開いた。

    「なに?」

    「さっきの住宅地。知ってるって、なんで知ってたんだ?」

    「……」

    「答えたくないならいいけど。放り出されたのがあそこだってことに、意味があるのかもしれないから」

     黙っている理由が思いつかなかったから、わたしは簡単に答えた。

    「お母さんの家があるの」

    「……お母さん?」

    「うん。お母さんの家」

     ケイくんはそれ以上何も訊いてこなかった。


    211 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/08/28(日) 23:08:13.62 ID:jitnn6u/o

     小学校にあがる前の年から、母とは一緒に暮らしていない。

     いきさつは複雑だけれど、結果だけ言ってしまえばシンプルだ。

     母はわたしの父とは違う男の人と再婚し、その人との間に、わたしにとっては異父妹となる娘を産んだ。 
     そうしていまは、親子三人で、バスが背後に置き去りにしてきた街で暮らしている。

     どうしてわたしが母と離れて生活しているのか、その理由についてよく考える。
     
     わたしが、母の再婚を嫌がったから。母の再婚相手となる男性を受け入れられなかったから。
     
     そのあたりのことはよく覚えていないし、事情を知っているだろう祖父母も、お兄ちゃんも、何も教えてくれなかった。
     
     訊ねれば教えてくれただろうけど……。

     わたしが小学校にあがる頃から、母はわたしの暮らす家(つまり、母にとっての実家)にも顔を出さなくなった。
     お盆も正月も。たまに顔を出したかと思えばすぐに帰った。電話すらほとんどよこさず、祖母からのメールにも返信がないらしい。

     だからわたしは母の電話番号を知らないし、メールアドレスも知らない。ラインのIDだって、わからない。
     それでいいと思っている。仮に知っていて、わたしが連絡をしたとき、返信がこなかったら、どうしていいかわからないから。

     今でも覚えているのは、小学校一年生のときの運動会。母は見にくると言っていて、わたしは前日からそれを楽しみにしていた。
     当日の朝になって、母から祖母に連絡があり、妹が熱を出したからいけないと言われたらしい。
     
     それから半年間、母はほとんど連絡をよこさず、ひさびさに実家に顔を見せたのは、家族旅行のおみやげを置きにきたときだった。
     わたしは母に期待することをやめた。

     あるいは、母にというよりは、
     自分が愛される存在だと、そう思うのをやめたのかもしれない。

    「……雨が降りそうだな」

     ケイくんの言葉につられて、わたしは窓の外を見た。
     灰色の空がいまにも泣き出しそうだった。


    214 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 20:58:30.47 ID:RUM4aPGwo



     バス停を降りて、わたしはケイくんと一緒に、自分の家の近くまでやってきた。

     新聞の日付を信じるなら、今日――と言ってしまうのは違和感があるけれど――は金曜日。
     時間的に、お兄ちゃんはまだ学校にいるはず。それが終わったら、バイトに向かうはずだ。

     最初に、わたしの家へと向かうことにした。
     とにかく、そこに自分の家があるのだということを確認しておきたかった。
     
     この混乱した状況のなかで、頼りにできるかもしれないもの。 
     それをたしかめておきたかったから。

     たとえば、ずっとむかしに一度行ったことのある街に、長い時間を経てもういちど訪れたときのような、
     既視感と違和感をないまぜにしたような奇妙な感覚が、わたしの視界を霧のように覆い尽くしていた。

     ちがうのは、普通とは逆だということだ。
     あったものがなくなっているのではなく、なくなったものがある。

     その不思議な感覚。

     街を歩きながら、その感覚は強まっていく。


    215 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 20:59:00.25 ID:RUM4aPGwo

     近所にあった、潰れてしまった個人商店。
     店主のおじさんが亡くなってから、経営を奥さんが継いだのに、うまくいかずに潰れてしまった。

     道路から店の中を覗くと、顔見知りだったおじさんは、レジの向こうで新聞を読みながら座っていた。
     耳にのせた鉛筆、浅黒い肌。強面だったけど、おもしろい人だった。

     よく、お兄ちゃんとふたりで、ここに買い物にきた。アイスを買って、軒先のベンチで一緒に食べた。
     
     近所の公園には、むかし居着いていた白い猫がそのままの姿で眠っていた。
     わたしたちの足音に気付いたのか、少し目を開いたあと、静かにすがめて、また眠り始めた。

     わたしが中学に上がる年の冬、その猫は道路で死体になって見つかった。

     道の途中でわたしは立ち止まる。そしてこれがどういうことなのかと考える。


    216 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 20:59:42.66 ID:RUM4aPGwo

     あの交差点には信号ができて、あの道は新しい道ができてから誰もつかわなくなって、
     あの建物は取り壊されてコンビニになって、幅員の狭いあの道路は広くなって、
     そんなことばかり、目につく。

     その景色は思っていた以上にわたしを混乱させる。
     ささやかなはずのひとつひとつの変化が、わたしの前にまざまざと立ち現れる。
     
     いつのまにかたくさんのことが変わっていったこと、
     そのひとつひとつの変化を自分が忘れていたことを、否が応でも意識させられる。

     そうしてようやく辿り着いた自分の家の景観も、変わっていないようで、やはり変わっている。

     ……いや、それだけだろうか?
     
     何か、違和感がある。

     目の前にある家と、自分が暮らしていた家。
     そのふたつの間に、何かもっと絶対的な乖離があるような気がした。

     時間の流れだけでなく。
     

    217 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 21:00:43.32 ID:RUM4aPGwo

    「……ねえ、ケイくん」

    「ん?」

    「これが夢じゃないとして、さ」

    「ああ」

    「わたしたちが、元の時間に戻れる手段がなかったとしたら、どうなる?」

    「……どうなるって、どうにもならないだろうな」

    「うん。そうだよね」

     そのときは、どうすればいい?
     誰がこんな話、信じてくれる?

     警察にでも言ってみる?
     それとも、家族を頼る?

     想像すると、ちょっと背筋が寒くなる。

     目の前にある自分の家が、他人の家のように見えたせいで、そんな不安を覚えてしまった。

     それまでわたしは、なんとなく、祖母やお兄ちゃんに話せば、なんとかなるのではないかと思っていた。
     事情を話して、説明すれば、わたしがわたしだと解ってもらえるのではないかと。

     そんな根拠のない自信がぐらぐらと揺れてしまう。
     
     自分の家。そのはずだ。目の前にいるのに、その自信が、薄れていく。


    218 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 21:01:18.13 ID:RUM4aPGwo

    「……あの」

     と、か細い、頼りない声が後ろから聞こえて、わたしたちはびくりとした。
     驚いて振り返ると、面食らったのか、彼女は身を竦めた。

    「……あの。うちに何か、用事ですか?」

     赤いランドセルを背負った、女の子。

     その顔を見て、最初に覚えたのは驚きと戸惑いだった。

    "うち"。

     言葉が出ないわたしの横で、ケイくんが口を開いた。

    「きみは?」

    「……」

     怯えたような、警戒したようなようすで、彼女は視線を逸らした。

    「えっと……この近くに住んでる人に用事があって、たぶんこのあたりなんだけど。佐野さんのおうちって、ここかな?」

     一瞬、ケイくんが何を言っているのかよくわからなかったけど、状況を咎められないためだと少ししてからわかった。
     少しでも下手を打てば、面倒なことになりかねない。

     警察でも呼ばれたら? 身分証でも出す? かえって疑われそうだし、自由も保障されるとは限らない。
     

    219 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 21:01:47.50 ID:RUM4aPGwo

    「……いえ、知りません。うちは碓氷です。この近くには、そういう苗字の人は住んでいないと思う」

    "碓氷"。碓氷。碓氷。

     女の子はそれだけ言うと、玄関へと向かい、扉の前で立ち止まったかと思うと、肩越しにこちらを振り向いた。

    「……まだ何か?」

     怪訝そうな表情。

     わたしは、とっさに、訊ねた。

    「ねえ、あなた――名前、なんていうの?」

    「……」

     彼女は、何か迷うような素振りをみせたあと、仕方なさそうな顔で、その名を口にした。


    220 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 21:02:18.69 ID:RUM4aPGwo

    「ホノミです」

    「……ホノミちゃん?」

    「はい」

    「……稲穂の穂に、海って漢字だったりする?」

     彼女は不可解そうに眉をひそめた。

    「わたしのことを知ってるんですか?」

     穂海。穂海。

    「あなたの苗字、碓氷って言うの?」

    「……いえ。わたしの苗字は、茅木です」

    「ずっと前から、ここに住んでるの?」

    「……はい。あの、お姉さん、誰ですか?」

    「わたしは……」

     わたしは。
     誰なんだろう。


    221 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 21:03:18.06 ID:RUM4aPGwo

     不意にケイくんの手がわたしの腕を掴んだ。

    「いろいろとありがとう」と彼は言う。

    「引き止めてごめん。時間に遅れるかもしれないから、俺たちはもう行くよ。さよなら」

     少女は静かに頭をさげて、「いえ」と視線を落とした。

     ケイくんに引っ張られたまま、わたしのからだはわたしの家だったはずの場所から離れていく。
     頭がくらくらする。

     あてもないくせに歩き続けて、しばらくしてから、ケイくんは口を開いた。

    「さっきの、誰だ?」

    「……」

    「おまえじゃないよな」

    「……うん」

    「誰だ」

    「……妹」


    222 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/02(金) 21:04:12.89 ID:RUM4aPGwo

    「さっき言ってたっけ。でも、同居してないって……」

    「うん。妹は」

     わたしたちが放り出された、あの住宅街で、お母さんと、わたしがお父さんと呼べなかった人と一緒に暮らしている。

    「だったらなんで……」

    「……わかんない」

     何がどうなって、そうなったのか。どうしてこの時間にいるのかもわからないのに、
     その時間の知っているはずの場所が、わたしの知っている過去と違うなんて、
     意味がわからない。

     いったい、この状況は、なんなのか。

    「お兄ちゃんを、さがさないと」

     わたしの言葉に、ケイくんは戸惑ったような顔をした。

    「たしかめないと。いったいここが何なのか。じゃないと……」

     わからなくなる。不安になる。世界が足元から崩れていくような気がして。
     わたしたちが元いた場所が本当に現実だったのかすら、
     わたしの記憶がたしかなものなのかすら分からなくなってしまいそうで。

     ケイくんは思い悩むように髪をかきあげて、

    「分かった」
     
     と頷いてくれた。


    225 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:27:26.46 ID:EcShruDUo




     ずっと前に、ケイくんが言っていたことがある。

    「ときどき、不思議になるんだよな」

     この世界にはたくさんの人間がいて、たくさんの生き物が居て、俺はたまたま、"俺"だ。

     俺として生まれて、この腕、この脚、この体を、この心を、心らしきものを、"俺"だと感じる。
     だから、"俺"は俺の身に起きたことを、俺の気持ちを、何か重大なことのように感じる。

     でも、それは結局、俺が俺だから思うだけで、
     客観的に見れば、どこにでもあるありふれた、陳腐で凡庸なものにすぎない。

     それはきっと、現在と過去との関係に似ている。

     私達の意識は"今"にある。
     だから、今起こっている事、今抱いている気持ちを、なにか特権的なものとして扱ってしまう。

     けれど、連綿と続く過去を振り返ってみれば、
     その一瞬一瞬に抱いてきた気持ちだって、「今」と同じくらい大切なものだったはずだ。

     その価値が本来同一であるなら、今だけを特別扱いする理由はない。


    226 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:27:52.90 ID:EcShruDUo

     要するに私たちは、意識というまやかしにごまかされて、物事の価値を見誤っているのだ。

    "わたし"の意識がここにある。だからわたしは、いま、ここにあるわたしを、何か大切なもののように感じる。
    "わたし"の意識はいまにある。だからわたしは、いま、この瞬間を、何よりも重大なもののように感じる。

     けれど、数直線を書いてみて、一秒ごとに並べてみれば、わたしの生れる前であろうと、わたしが死んだあとであろうと、
     一秒はひとしく一秒でしかない。

     わたしたちは、「自分」という余計なものさしを持ってしまったせいで、世界の価値を勘違いしている。

     大きい物を小さく感じ、小さいものを大きく感じる。
     近しいものほど重要で、遠いものほどささやかで。
     そんな勘違いを、平然としてみせる。

     彼の言葉の意味は、わたしには半分もわからない。
     それでもなんとなく、わたしなりの解釈のようなものもある。
     
     物事は本来的に等しく無価値だ、ということだ。



    227 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:28:19.01 ID:EcShruDUo




     最初に向かったのは、お兄ちゃんが昔働いていたスタンドだった。
     
     時間は四時を回った頃だった。

     この年の平日、この時間帯なら、お兄ちゃんは既に店先に出て働いているはずだった。
     けれど、いない。

     お兄ちゃんはいない。

     どうしてだろう、と考えても、何もわからなかった。
     何が「どうして」なのかすらわからない。とにかく、何もかもが今はわからなかった。

     わたしたちはしばらく店の前で立ち止まったあと、再び歩き出した。
     
     次に目指したのはお兄ちゃんが通っていた高校だった。
     とにかく彼の姿を確認したかった。


    228 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:28:44.54 ID:EcShruDUo


     
     制服姿の学生たちが校門からまばらに外へと流れていく。

     わたしとケイくんはふたりでその場に立ち尽くす。

     祈るような気持ちだった。
     
     とにかくお兄ちゃんがこの世界にもいることを確認したかった。
     そうすることでしか、この世界がわたしの知っているものだと確信が持てない。
     
     わたしはどこにいるのか。
     それが知りたかった。

     不思議なことに、お兄ちゃんを見つけることはとても簡単だった。

     数分も経たないうちに、お兄ちゃんは昇降口から姿を現した。

     あの頃の姿をしていた。
     わたしが子供だった頃の姿で、生きていた。

     誰かと一緒に。


    229 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:29:24.26 ID:EcShruDUo

     それは女の子だった。
     
     黒髪を背中まで伸ばした、綺麗な女の子だった。
     それが誰なのか、わたしはすぐにわかった。
      
     わたしが生まれる前から、お兄ちゃんと仲が良かったひとりの女の子。
     いつからか、お兄ちゃんが、彼女の話をすることはなくなった。

     少なくとも、バイトを始めた頃には。

     そのふたりが、並んで歩いている。
     楽しそうに笑いながら。

     どうしてわたしはそれにショックを受けたんだろう。
     自分でもよくわからなかった。
     
     彼らはわたしたちの姿をちらりと見てから、そのまま横切っていった。

     お兄ちゃん、と、
     とっさに呼びそうになって、思いとどまったわたしをわたしだけは褒めてあげたい。

    「あの!」

     他人相手にするみたいな言い方で、わたしは彼らを呼び止めた。
     

    230 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:29:57.20 ID:EcShruDUo

     見知った人が、自分に向かって見せる怪訝げな表情が、どれだけ自分を傷つけるのか、
     わたしはそのときはじめて知った。
     
     ふたりは立ち止まって、戸惑った表情でわたしの方を見る。
     
     冷静に考えれば当たり前なのだ。
     お兄ちゃんは、この年、まだ高校生で、わたしのことを知ってるとしても、
     わたしのこの姿を見て、わたしだとわかるわけがない。

     それでも何かを期待せずにはいられなかった。

     その冷たい目を見ていても。

    「あの、碓氷遼一さんですか」

     わたしの問いに、お兄ちゃんは、何か戸惑ったような顔になった。

    「……きみは誰?」
     
     その問いに対する答えの代わりに、わたしは質問を重ねた。

    「碓氷愛奈という女の子を、知ってますか?」

     お兄ちゃんは、
     首を横に振った。

    「知りません。……きみは誰?」


    231 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:30:36.03 ID:EcShruDUo



     人違いでした、と無理のある言い訳をしてから、わたしはその場を後にした。
     
     ずいぶん歩きまわった。長い距離を移動した。
     そのせいで髪だってボサボサだったし、埃だらけのところを通ったせいで服だって汚れていた。
     
     そういえばお腹だってすいたような気がする。何か食べたっけ?

     頭がくらくらした。

     知りません。知りません。
     
     不思議な感じがした。
     これまでに味わったことのないような感覚だ。
     自分のからだが自分のものじゃないような感覚。

     いったいなにが起こったんだ、とわたしは自分に問いかけてみる。

     さっきのはたしかにお兄ちゃんだった。
     でも、お兄ちゃんはわたしの名前を訊いてもわからないと言った。
     じゃああれはお兄ちゃんじゃない?

     違う。お兄ちゃんは死んだ。
     死んだのに、どうして生きてるんだ。
     
     それはここが2008年だから。
     でもお兄ちゃんが生きていた2008年なら、わたしだってたしかにいたはずなのに。
     お兄ちゃんの傍に生きていたはずなのに。

     ……やっぱりこれは、悪い夢?


    232 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:31:08.85 ID:EcShruDUo

     くらくらと揺れる視界を引きずったまま、何かから逃げるみたいに歩く。

     ケイくんが後ろから声をかけてくれている。
     うん、大丈夫だよ、とわたしは答えている。それも分かる。

     大丈夫ってなんだ?

     お兄ちゃんがわたしを知らないなんてありえない。
     そうじゃなかったらわたしはどこにいるってことになるんだろう。

     でも、ありえないなんてことを言ってしまえば、そもそもこの状況自体がありえないものだ。
     2008年? タイムスリップ?

     奇妙な夢だと、そう考えたほうがずっと納得がいく。
     こんなわけのわからない状況を、理屈で理解しようとする方が、狂気の沙汰だ。



    233 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:31:36.94 ID:EcShruDUo

     高校から離れて、大通り沿いの薬局の敷地に入り、店のそばの自販機まで歩いていく。
     機械に背中をもたれて、わたしは息を整える。
     
     心臓の拍動が現実的だった。

     喉が渇く。息が詰まる。手の先がしびれるような感覚。そのどれもがぜんぶぜんぶ現実的だった。
     でも、夢というのはそういうものだし、そうであるならこれが夢ではないと言える保証なんてどこにもない。

     手のひらで顔を覆った。
     どうすればいいのかわからなかった。

     ケイくんは何も言わない。わたしも今は何も言ってほしくなかった。

     何を考えればいいのかも今はわからなかった。

     とにかく今すぐに誰かがこの場にきて、分かりやすい説明をしてくれないものかと思った。
     さもないと今すぐにだって叫びだしてしまいそうだった。

     そこに、声が降り立った。


    234 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/07(水) 00:32:04.85 ID:EcShruDUo

    「どうしたの?」

     わたしは、黙ったまま、視界を遮っていた手のひらを下ろした。
     声のした方には、小さな女の子が立っていた。

     中学生くらいの、女の子。
     でも、お兄ちゃんの高校の制服を着ている。どこか探るような、瞳。

    「あんた、誰」

     怪訝げに訊ねたのは、ケイくんだった。警戒? 興味本位に声をかけられたことに対する苛立ち?
     でも、彼女は怯みもせずに、言葉を続けた。

    「迫間 まひる」と彼女は名乗った。でも、名前なんて知ったところで彼女のことはひとつもわからないままだ。

    「何の用?」とケイくんは取り合わなかった。

    「べつに?」と迫間まひるは笑った。

    「ちょっとおもしろそうだと思って。さっき、碓氷に話しかけてたところを見たからさ」

     わたしは、返す言葉を失った。どう答えるのが正解なのか、それが分からなかった。

    「あんた、碓氷遼一の知り合いか?」

    「ん。ま、ね。でも、わたしあの子にはそんなに興味ないんだよね。どっちかっていうと、きみたちの方」

    「……」

    「ちょっとさ、どっかでお話しない? ちょっとくらいなら、奢るよ」

     笑った彼女のその言葉に、頷いてしまったのはどうしてだろう。
     他に頼るものがなかったからか、その笑みに、何か懐かしいものを感じたからか。

     それは両方だったのかもしれない。



    237 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 21:57:45.84 ID:p119a274o



    「夢ってことにされたら困るかなあ」と迫間まひるは言った。

    「だってこの世界があなたの夢ってことになったら、
     わたしの存在だって夢ってことになっちゃうでしょ。そりゃ、否定はしきれないけどね」

     平然と笑いながら、彼女はカップのなかのメロンソーダをストローでかき混ぜる。
     からからと氷が鳴る。

     高校からさして離れていない場所、道路沿いのファミレス。
     わたしとケイくんは彼女と向い合って座っている。

     興味本位だよ、とあっさり言った、目の前の女の子に、わたしたちの身に起こったことをすべて話してしまったのは、
     彼女が無関係の第三者だからかもしれない。

     彼女がわたしの話を信じようが信じまいが、わたしたちにデメリットはない。
     それにわたし自身、状況を整理するために、誰かに話を聞いてほしい気持ちがあった。


    238 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 21:58:11.27 ID:p119a274o

     迫間まひる。彼女については、奇妙な印象をどうしても拭えなかった。
     
     軽薄で何も考えていなさそうにも見えるし、何かを重く抱え込んでいそうにも見える。
     気安く親しげな雰囲気も感じるが、どこか踏み込ませようとしないような一線も感じられる。

     得体が知れない、何を考えているかわからない、そんなイメージ。

     彼女の言葉について少し考えた後、わたしはカップを持ち上げてストローに口をつけた。
     ファミレスとはいえ、ひさびさにゆっくりと落ち着ける場所にきて、静かに飲み物を飲むことができる。
     
     いいかげん、状況が混乱しすぎてわけがわからなくなっていたところだ。
     こういう機会があったのは、ちょうどよかったのかもしれない。

     迫間まひるは、夢だとしたら困る、と言った。

    「でも、そうだとしたら……いったいなんなんだろう」

     正しい答えを期待したわけじゃない。ただ、考えるヒントがほしくて、そうひとりごとのように呟いた。


    239 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 21:58:44.36 ID:p119a274o

     むー、と子供みたいな顔で唸りながら、まひるは自分の鼻の頭を親指で撫でた。
     どうやらそれが彼女の何気ない癖らしい。

    「とっても現実的な解釈をしてみてもいい?」

    「……なに?」

    「ぜんぶ、きみたちの妄想」

    「……」

     ケイくんが溜め息をついた。

    「白昼夢、でもいいよ」

    「妄想? この状況が?」

    「ううん。きみたちが、七年後の未来の人間だって話」

     わたしは、彼女の言葉の意味がわからずに眉をひそめた。
     彼女はメロンソーダに口をつけて楽しげに笑った。

    「現実的に解釈すると、ね」

    「どういう意味?」


    240 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:00:21.30 ID:p119a274o

    「きみたちの話を総合すると――」とまひるは座席の背もたれに体重を預けた。

    「変な鏡、変な女の子、変な街、変な景色。そこに関してはおいておくとして……。
     君たちは、2015年から2008年までタイムスリップした、ってことだよね?」

    「……うん」

    「まず、タイムスリップなんてことは日常的にはありえない。
     現にそれを目の当たりにしたわけじゃないわたしとしては、
     きみたちがわたしをからかってるって考えるのがいちばん現実的。じゃない?」
     
     ……確かに、彼女の立場からすれば、そういうことになる。

    「だから、妄想か白昼夢。精神疾患かドッキリでもいいけど?」

     軽薄に笑うまひるの表情を見て、それまで黙ったままだったケイくんが舌打ちした。

    「嫌な奴だな、あんた」

    「ん? なにが?」

    「言いたいことははっきり言えよ」
     
     ケイくんは、本当に苛立っていたみたいだった。表情はいつにもまして機嫌悪そうだった。
     
     その表情に、まひるは笑う。


    241 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:01:25.34 ID:p119a274o

    「いくら凄まれたって、きみたち2015年から来たんでしょ? そのときにはわたし二十代だし。
     逆に過去のきみたちがもしこの世界にもいるとすれば、街のどこかでランドセル背負ってるわけだよね?
     そう思えば、あんまり怖くはないかなあ。むしろ笑っちゃうくらい」

     ケイくんはまた舌打ちをした。彼の不機嫌さの理由が、わたしにもなんとなく分かる。
     柳に風が吹くような手応えのなさ。

     たしかに話を聞くけれど、親身になるというのではない。
     バカにするわけでもないけれど、真剣に考えているというのでもない。
     まひるには、結局、他人事なのだ。

    「ま、あんまり怒らせてもあれだし、結論から言っちゃうけど……つまりさ。
     夢とか妄想とか言ってても、話が進まないんだよね。否定しきれないから」

    「話が進まない?」

    「うん。だから、きみたちの認識がとりあえず間違っていなくて、かつ、夢でもないってことから話を進めようよ」

    「……」

     それはつまり、今、この状況が、わたしたちに現実として降りかかっていると認めること。
     常識的な考え方を一旦放棄して、超自然的な仮説を検討してみること。
     それはある意味で当たり前のことなのに、どうしても、そう考えるのは困難だった。


    242 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:02:45.99 ID:p119a274o

    「そういう前提に立って話をしてみようか」

     少しだけ前のめりになって、まひるは笑みを浮かべたまま続ける。

    「まず状況の整理。きみたちは2015年の人間。で、今は2008年。つまり、きみたちは七年後から来た」

    「俺たちの認識からすれば、ここが七年前ってことになる」

    「……つまり、タイムスリップってことだよね」

     そこまではわたしたちも考えていた。あまりに白々しくて、まともに考える気にもなれなかった。
     そんなことを真面目に考えるのが馬鹿みたいに思えて。
     けれど……そんな理由で思考停止することの方が、バカみたいなのかもしれない。

    「少なくともそういうことになるけど、変わったのは時間だけじゃないよね?」

     まひるの言葉に、黙りこむ。

     そこからが問題になる。
     
     お兄ちゃん――わたしの叔父――碓氷遼一。
     さっき、対面した。わたしは彼を間違えない。

    「ねえ、確認するけど、きみの言うお兄ちゃんっていうのは、碓氷のことでいいんだよね?」

     まひるは、そう言った。

    「……うん」


    243 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:03:27.76 ID:p119a274o

    「碓氷遼一。間違いない?」

    「そう」

    「でも、碓氷はきみの名前に反応しなかった。一緒に暮らしていたはずなのに」

    「……うん」

    「くわえて、きみが碓氷と暮らしていたはずの家には、きみじゃない女の子が住んでいた」

    「……」

    「大きな変化はこのくらいかな?」

    「……そう、だね」

    「じゃあ、ここからは仮定」

     そのいーち、と言って、まひるは子供っぽく指を立ててから、メロンソーダにまた口をつける。

    「世界が変わっちゃった、って可能性」

    「……変わった?」

    「つまり、作り変えられた」

    「……一気に規模が大きな話になってくるね」

     わたしの呆れた溜め息に、まあ可能性だから、とまひるは笑った。

    「ま、これも夢とかと同じかな。否定もできないし、かといって認める根拠もない。それはふたつめも同じだけどね」

    「……ふたつめって?」

    「そのに」と今度は指を二本立てて、まひるは楽しげに笑う。ケイくんが呆れたような溜め息をついた。

    「並行世界」


    244 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:04:12.84 ID:p119a274o

    「……並行世界」

     正直にいうと、わたしが最初に考えた可能性もそれだった。

     わたしたちは時間だけでなく、世界も移動したのではないか、と。

    「並行世界」とケイくんが呟く。

    「枝分かれした世界。可能世界。多世界解釈」

    「言い方はなんでもいいけどね。"論理空間における異なる諸事態の成立"とか?」

     呪文のような聞き馴染みのない言葉を吐いて、まひるは空になったカップの中の氷をかき回す。
     からからと氷が鳴る。

    「"他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。"」

     まひるはそう続けた。

    「ま、受け売りだけどね」

    「……並行世界だとしたら、なんなの」

     わたしの言葉に、まひるとケイくんがそろって押し黙った。

    「並行世界だとしたら、何が分かるの」

     わたしが知りたいのは、説明じゃない。
     そうだとして、それがいったい何を意味していて、それをわたしがどうできるのか、というところだ。

     この状況がいったいなんなのか。わたしが知りたいのはそれだけだ。
     

    245 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:06:00.45 ID:p119a274o

    「そんなの知るわけないよ」とまひるはきょとんとした顔で言った。

    「ある状況が何を意味しているか、なんて人間に分かるわけないじゃない?
     わたしがこの街に生まれたことは? あの両親のもとに生まれたことにどんな意味があるのか?
     わたしがわたしとして生まれたことにどんな意味が? そんなの説明できないよ」

     わたしたちにできる説明はいつだって、"どのように"だけだよ。
    "なぜ"はわからない。そういうものでしょう?

     ましてやきみにそれをどうできるかなんて、そんなところまで考える義理はわたしにはないよね?

     今度はわたしが黙る番だった。

    「……でも、そうだなあ。ね、一個質問していい?」

     わたしはなんとなく、このまひるという女の子を怖いと感じ始めていた。
     でも、どこかで、それと同じくらいの真逆の気持ちも覚え始めている。
     
    「きみの知ってる碓氷遼一ってさ、どんな人間だった?」

    「……どんな、って」

    「質問を変えるね。きみは、さっき出会った碓氷遼一と、きみの知っている碓氷遼一との間に、何か違いのようなものを感じなかった?」


    246 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:06:26.94 ID:p119a274o

    「違い……?」

    「うん。違い」

     違い。
     
     ――知りません。……きみは誰?

     わたしは。
     たしかに、違和感を覚えた。

     誰かとふたりで、楽しげに並んで歩くお兄ちゃんの姿。
     それは、たしかに、わたしが知っているお兄ちゃんの姿とは遠い。

     それは、わたしが知らなかっただけなのかもしれないけど、でも、それにしたって、
     さっき見たお兄ちゃんには、昔からずっとお兄ちゃんが宿していた影のようなものが感じられなかった。
     あの韜晦を感じられなかった。

     それとも、今のわたしが、この頃の彼と同年代くらいの年齢だからそう思うだけなのだろうか。

    「ないかな?」とまひるが言った。

    「……あるといえば、あるような気も。でもそれは、こちらの見方の問題かもしれないし」

     わからない、と曖昧に首を振ると、「そっかあ」とまひるは少し残念そうにした。

    「どうして、そんなことを訊くの?」



    247 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/11(日) 22:07:04.81 ID:p119a274o

    「んや。どっちにしても彼は、きみのことを知らなかったわけだ」

    「……」

    「きみ、名前、なんだっけ?」

    「愛奈。……碓氷愛奈、です」

    「この世界――って呼び方、なんかバカバカしいけど。ここで碓氷……遼一の方と暮らしている女の子は、なんだっけ?」

    「わたしの、妹。父親が違う……」

    「ふむ。なるほどね」

    「なにか、分かるの?」

    「いや、まあ、思いつきっていうか、今現在の情報だけで判断すると、だけどね」

     そう前置きしたあと、まひるはちょっと躊躇する素振りを見せた。

    「……なに?」

     ケイくんが、小さく舌打ちした。それでも彼は何も言わない。
     わたしはまひるの目を見る。

    「つまりさ、仮に並行世界の仮説が正しいとして、ここがきみにとってどんな並行世界かっていうと」

    「……うん」

     わたしは一瞬、寒気のような感覚を覚えた。
     続く言葉は、あっさりと吐き出された。

    「ここは、きみがいない世界なんだよ」


    250 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:30:53.90 ID:XGrTCyqCo



     初期値鋭敏性って言葉を知ってる?

     ものすごく簡単に言うとね、『最初の状態が少し違うだけで結果は大きく変わる』みたいなこと。
     
     たとえば、この世界にはきみがいない。
     碓氷愛奈という少女がいない。

     最初からいなかったのかもしれないし、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。
     
     ううん、死んでしまったのだとしたら碓氷が名前くらいは知っているだろうから、いなかったんだろうね。

     その結果どうなるだろう?

     たとえばきみは碓氷と暮らしていた。詳しい事情は知らないけど、とにかく碓氷と暮らしていた。
     そして、きみの母親がきみのお父さんとは違う人との間につくった子供は、碓氷とは暮らしていなかった。

     でも、この世界ではその子が碓氷と暮らしている。
      
     名前や見た目はそのままだったの? それっておもしろいね。


    251 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:31:28.20 ID:XGrTCyqCo

     勝手な想像で悪いんだけど、つまりきみのお母さん、再婚して子供を産んだんだよね。 
     半分血の繋がった妹と一緒に暮らしていなかったってことは、つまり、きみは母親と暮らしていなかった。

     どうしてそうなるのか、わたしにはよくわからないけど。

     じゃあ仮に、この一連の流れにきみがいなかったら、どうなるかな。

     仮に。きみのお母さんは、きみのお父さんと結婚しなかった。あるいは、きみのお父さんとの間に子供をつくらなかった。
     
     そして離婚したとして、きみの妹のお父さんと再婚するとする。

     きみの妹が生まれる。そして彼女がきみの家で暮らしているということは、
    『きみがいないから』、きみのお母さんはきみの家で暮らしている、とか、あるいは子供を預かってもらっている、とか。

     そこには碓氷遼一が住んでいるわけだから、ふたりは当然、一緒に暮らすなり、一緒に過ごすなりしていることになる。

     きみがいない。
     だから、この世界はこうなってる。

     どうかな。納得できないかな。


    252 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:31:57.30 ID:XGrTCyqCo



     わたしは黙り込んだ。何を言えばいいのかよく分からなくなってしまった。
     頭をよぎったのは、校門から出てきたときの、お兄ちゃんのあの表情。
     
     楽しそうな笑顔。

     あんな顔を、わたしは見たことがない。
     お兄ちゃんはいつも、大人びた表情をしていて、どんなときも、平然としていて、
     あんなふうに、子供みたいに楽しそうに笑うことなんてなかった。

     グラスに浮かぶ結露に触れる。視線が自然と落ちていく。
     何も言える気がしなかった。

     耳から入ってきた情報をうまく整理できない。
     
     それじゃまるで……。

     わたしがいたから。 
     わたしがいたから、お兄ちゃんは。
     
     誰とも笑い合わずに、
     寂しさを隠すような顔で、
     生き続けていたかのような。

     わたしがいたから。

     お兄ちゃんはお母さんと一緒にいられなくなって。
     わたしが――いたから。


    253 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:32:28.28 ID:XGrTCyqCo

    「――納得できないな」

     そう言ったのは、ケイくんだった。

     まひるが、目を丸くする。

     ケイくんは退屈そうに前髪を揺すり、ウーロン茶の入ったグラスに口をつけた。

    「どうして?」とまひるは言った。

     ケイくんは少し間を置いてから、静かに話し始めた。

    「……理屈は分かる。たしかに、そういうふうに考えることもできる。
     でも、それがどうして『そう』じゃなきゃいけない?」

    「どういう意味?」

    「仮にこの世界が並行世界だとする。ここが『こいつ』のいない世界だとする。
     でも、『だから』こうなったなんて言い切れるか?」

    「……というと?」

    「並行世界なんてものを仮定してしまえば、可能性は無限だ。
     こいつがいなかった世界、こいつがいた世界。俺たちが見たのがそのふたつだとする。
     ここがたしかに、そういう世界だとする。でも、だ」

     彼はまっすぐにまひるを見据えた。ほとんど、睨むような目で。


    254 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:32:55.83 ID:XGrTCyqCo

    「『こいつ』がいなかったからこの世界はこうなのか? 
     あんたの言葉を借りるなら、初期値鋭敏性……その初期値の差だけで、本当に世界がここまで違っているのか?」

    「でも、そうじゃないとしたらなんなの?」

    「たしかに、この世界は、可能性として有り得るかもしれない。実際に目の前に広がってる。
     でも、並行世界の存在を前提にするなら、『こいつがいても、こいつの叔父がそうだった世界』だってどこかにあるんじゃないのか?」

     まひるは、考え込むように目を伏せた。

    「『こいつが母親と暮らした世界』『こいつが妹と暮らしていた世界』あるいは『叔父がいなかった世界』。なんだって言えるだろう」

    「……」

    「どうしてこいつの妹が、『こいつのいない世界』でも同じ名前で同じ顔なんだ?
     あんたの言う初期値鋭敏性ってものを問題にするなら、こいつの母親が同じ相手と再婚すること、同じ名前をつけることだって変じゃないか?」

    「……」

    「もっといろんなことが変わってもいいはずだ。でも、違いはそういうところだけだろう。
    『こいつがいなくて』、『叔父が別人みたいになっている』。『妹が叔父と暮らしている』」

    「……でも、だったら、どう説明するの?」

    「作為的すぎるんだよ」
     
     ケイくんは不快そうに眉間に皺を寄せて、吐き捨てるようにそう言った。


    255 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:33:22.36 ID:XGrTCyqCo

    「並行世界なんて普通に生きてたら存在すら確認できないんだ。それなのに俺たちは巻き込まれてる。
     変な状況だ。その変な状況を、自然現象みたいな理屈で解釈するのが間違ってる。
     仮に無数の並行世界があったとしたら、俺たちは何かの悪意によって、この世界に招き寄せられたんじゃないのか」

    「誇大妄想的だね」

    「はじめから妄想的な説明しかできないような事態なんだよ」

    「じゃあ、いったい何なの?」

    「こういうのはどうだ? ここは無数の並行世界の中で、もっともこいつにとって不愉快な世界だっていうのは」

    「……」

    「単にこいつがいなくて叔父が変化してるっていうのは、まあ納得がいく話だ。
     でも、どうしてそこに妹のことまで関わってくる? それだと分かるような妹がいる?
     初期値鋭敏性って理屈に則るなら、こいつの家は引っ越してるかもしれないし、誰かが死んでるかもしれない」

     隕石が降って人類が滅亡してるかもしれないし、解決不能の疫病が蔓延して危機に瀕しているかもしれない。
     でも、ここはこうだ。


    256 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:34:17.75 ID:XGrTCyqCo

     仮に並行世界間の移動が無作為なものだったとしたら、もっとわけのわからない世界に巻き込まれたってよかったはずだ。

    「だからこれは、誰かの悪意なんじゃないのか?」

    「悪意?」

    「俺には、そうとしか思えないけどね。俺たちの前に、あんたみたいな人間が現れたことも込みで、だ」

     ケイくんは、そう言ったきり黙り込んだ。まひるは何も反論しなかった。

    「……そうかもね。たしかに」

     けれど、わたしはなにひとつ救われなかった。
     並行世界? ふたりとも、それを前提に話をしている。
     でも、そうじゃないとしたら? 世界が無数なんかじゃなく、このふたつしかなかったとしたら?

     だとしたらやっぱり、わたしがいる世界と、いない世界しかなくて。
     わたしがいない世界の方が、お兄ちゃんは幸せそうだった。

     そういうことにはならないだろうか。


    257 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:34:46.55 ID:XGrTCyqCo

    「ところでさ、きみたち、このあとどうするの?」

    「……このあと?」

    「だって、この世界にあなたたちの居場所なんてないんじゃない?」

    「……」

     ケイくんがまた、何かを言いかけた。

    「ごめん、言い方が悪かった。行き場がないんじゃないかな、って思ったの」

    「……だったら?」

    「ふたりとも、うちに来ない?」

     その一言に、わたしたちは呆気にとられた。

    「……どうして?」

    「どうしてって、人助けに理由はいらないでしょ?」

    「……胡散臭いな」


    258 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/19(月) 21:35:13.06 ID:XGrTCyqCo

     ケイくんは睨めつけるような目でまひるを見ている。
     さっきからずっとこうだ。

    「いい加減、イライラするな、あんたと喋ってると。
     人助け? 冗談じゃない。あんた、そういう人間じゃない。見れば分かる。
     目を見れば分かるんだよ。そういうの、通じる相手を選べよ」

    「余裕ないね、きみ。でもいいの? 泊まるアテ、あるの?」

     そう言ってまひるは窓の外を見た。もう、暗くなりかかっている。

    「明日以降、どうするかは置いておいて。とにかく今日は宿が必要なんじゃない?」

     ケイくんは舌打ちした。

    「何考えてるんだ、あんた」

     まひるは、少し考えるような間を置いたあと、笑った。

    「おもしろそう、かな」

     また、ケイくんは舌打ちをした。
     

    261 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/24(土) 00:57:39.77 ID:diwmELugo



     まひるの部屋は地下鉄駅から十分ほど歩いたところにある六階建てのマンションの一室だった。
     彼女はそこで一人暮らしをしているという。

     トイレ、浴室洗面所、バルコニー、エアコン、クローゼット付き1K。

     玄関で靴をそろえると、「どうぞ」と彼女はわたしたちを室内に手招きした。

    「狭いし一部屋しかないけど、まあ三人寝れないこともないからね」

     おじゃまします、となんだか奇妙な気持ちでつぶやきながら上がり込んだ部屋には、あまり物が置かれていなかった。
     テレビ台の上のテレビ、本棚の中の本、
     小さな収納ラックには、無機質な印象の部屋のなかで少しだけ浮かび上がった旧世代のゲーム機。

    「ゲームなんてするんだ。意外」

     場にそぐわない素直な感想をわたしが漏らすと、まひるはきょとんとした顔で、「しないよ?」と返事をよこした。
     だったらどうしてあるんだ、と思ったけれど、考えないことにした。

     まひるが一人でこの部屋に住んでいる理由だってわたしには関係ないし、
     彼女の部屋にゲーム機があるかないかだってどっちだってかまわない。

     絨毯の上にはちいさなクッションとシンプルなテーブル、その上にはカバーに覆われた文庫本。

     たしかにやりようによっては三人寝られなくもなさそうだった。
     それでも、見ず知らずの他人を泊める気になるのは不思議だったけど、
     けっきょくわたしたちには他に行き場なんてなかった。



    262 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/24(土) 00:58:10.15 ID:diwmELugo

    「とりあえず、ふたりとも、お風呂入る? すぐ沸かすけど」

     間延びした口調でそんなことを言うと、彼女は手慣れた様子でぱたぱたと浴室の方へと向かった。

    「ありがたい、けど……」

    「ん?」

    「着替えが……」

     わたしの声に、彼女は廊下の向こうから返事をよこした。

    「あ、うん。わたしの貸すよ。ちょっと小さいかもしれないけど。ケイくんも」

    「……俺に女物の服を着ろっていうのか」

    「借りる立場で贅沢言っちゃだめだよ」

     まひるの言葉に、ケイくんは溜め息をついて額を押さえた。

    「……いい。今日はこの服で寝るから」

     あはは、とまひるの声が浴室で響いた。

    「冗談だよ。ちょっと待ってて、たぶん、あると思うから」

    263 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/24(土) 00:58:56.62 ID:diwmELugo

     まひるは白い柔らかそうなタオルで手を拭きながら部屋に戻ってくると、
     クローゼットの方へと近付いて、取っ手を握る。

     そして一瞬硬直した後、

    「ちょっとそっち向いてて」

     と照れたように笑う。
     わたしたちは顔を見合わせてから、体ごと後ろを向いた。

     そのまま横目にケイくんの顔を見ると、彼は気まずそうに天井に視線を向けていた。
     こんなケイくん、はじめてだ。

    「あったあったー」

     軽い声のあと、クローゼットを閉める音がした。

    「もういいよ。ごめんね」
     
     わたしたちが振り返ると、たしかにまひるは女物の服と一緒に、男物の青いパジャマを持っていた。
     
    「あとこれ、下着」

     と彼女はにっこりと笑ってわたしたちの目の前でトランクスを広げた。
     なんとなく気まずくて、わたしは目をそらした。

    「……誰のだか知らないけど、さすがに下着は借りる気になれない」

    「大丈夫だよ。未使用だもん。ほら」

     と言って、彼女は下着についたままになっているタグをこちらに見せた。


    264 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/24(土) 00:59:24.77 ID:diwmELugo

    「……一人暮らしなんじゃないのか?」

    「ん、そうだよ」

    「彼氏が泊まりにくるとか?」

    「まさか。そんなのいないもん」

     だったらどうして男物の下着を常備しているんだろう。
     
    「ま、あんまり詮索しないのが良い男だよ、ケイくん」

     そうやってまひるが当たり前のように「ケイくん」と呼ぶのに、わたしはなんとなくもやもやしたものを感じたけれど、
     たぶん彼女に他意はないのだろうし、ケイくんも気にしたふうではなかったし、
     そもそもそういうあれこれについてわたしは何かを言えるような立場ではなかった。

    「そういえば、ふたりはどんな関係なの? 愛奈ちゃんの事情はなんとなく聞いたけど、ケイくんは?」

     どんな関係、と言われて、わたしたちはまた顔を見合わせた。
     

    265 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/24(土) 01:00:00.78 ID:diwmELugo

    「……どんな、と言われてもな」

     困ったように、ケイくんが頭を掻いた。

    「ともだち、かな」

     わたしはケイくんの方を見ないようにしながらそう答えた。

    「ふうん」

     まひるはなんだか意外そうな顔をした。

    「まあいいや。さっき何も食べなかったけど、お腹すいてる? なにか作っちゃうけど」

     さっきまで彼女に何か得体の知れないような印象を抱いていたわたしは、
     そんなふうに親切にされると、申し訳ないような、うしろめたいような気持ちになった。
     
     それでも、今日(という言い方でいいかわからないが……)は遊園地に行く前からずっと歩きっぱなしで、
     湯船につかってゆっくり休みたい気持ちも、着替えて体を落ち着かせたい気持ちも、否定できなかった。

     わたしはケイくんの方を見た。

     彼はまだ困り顔をしていたけど、わたしの方を見て小さく頷く。

    「甘えておこう。どうせ俺らには関係のない相手なんだし」

    「そうそう。お姉ちゃんに甘えておきなよ」

     まひるはからから笑う。


    266 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/09/24(土) 01:00:49.82 ID:diwmELugo

    「お姉ちゃんって、おまえいくつだ?」

    「ん。高三」

     高三、とわたしはちょっと驚いた。
     身長や体型が子供っぽいせいで、てっきり一年生だと思い込んでいた。

    「きみたちは?」

    「……高一だった」

    「じゃあ、どっちにしたってわたしがお姉ちゃんなんだね」

     まひるは満足げに腕を組んで頷いたかと思うと、キッチンへと向かった。

     カウンターの上に置いてあった髪留めをとったかと思うと、髪を後ろでひとつに結んで、制服のまま冷蔵庫を開ける。

    「何食べたい?」

     わたしは、少し考えたけれど、結局、思いついた言葉をそのまま吐き出していた。

    「……オムライス」

     まひるは面食らったような顔をした。

    「オムライス? で、いいの?」

    「……うん」

    「ケイくんも?」

    「なんでも、ありがたくいただきます」

     まだ少し皮肉っぽい調子でそう呟くと、ケイくんは羽織っていたシャツを脱いで、床に腰を下ろした。
     クッションはおろか絨毯すら拒否するように、フローリングの上で。ケイくんらしいな、とわたしは思う。

    「わたし、手伝う」

     そう言ってキッチンに向かうと、まひるは楽しそうに頷いた。


    270 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:47:58.07 ID:PZbkCpiXo



    「あのさ、愛奈ちゃんって、ひょっとして」

    「……」

    「あんまり料理とかしない?」

    「……ごめんなさい」

     手伝うとは言ったものの、わたしの行動は「手伝い」にすらなっていなかった。

     オムライスをつくるのはまひるに任せて、わたしはコンソメスープ作りを任されたのだけれど、
     具材を包丁で切り分けるというたったそれだけの作業さえ、手間取ってしまう。

    「あんまり、やったことなくて。ダメだと思うんだけど」

    「ううん、べつにダメってことはないと思うけど。でもなんか意外だったから」

    「意外?」

    「うん。普段は家の人がしてるの?」

    「……うん。意外って、どういうこと?」

    「なんとなく、自分のことは自分でするタイプなのかな、って」

    「そうできたらいいんだけど」

    「そうかな」

     まひるは一瞬、わたしから目をそらした。

    「自分のことを全部自分でできるのって、ひょっとしたら寂しいことかもしれないよ」


    271 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:48:32.26 ID:PZbkCpiXo



     まひるのつくってくれたオムライスと、わたしの切り分けた不格好なじゃがいもの入ったコンソメスープを食べてから、 
     ケイくんは何も言わずにそっぽを向いた。

    「ケイくん」

     とわたしが声を掛けると、彼は仕方なさそうに笑って、

    「ごちそうさま」

     と言った。そんなリラックスした様子の彼を、わたしは随分久しぶりに見たような気がした。
     そんなに久しぶりではないはずなんだけど、そう思うとわたしの胸がちくりと痛んだ。

     夕食を食べ終えて少し休んでから、まひるは片付けを始めた。

     わたしは食器を洗うのを手伝おうとしたけれど、「お風呂、入っちゃいなよ」と断られて、
     厚意に甘えてしまうことにした。


    272 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:49:00.33 ID:PZbkCpiXo



     ひとりきりの浴室、見慣れないシャワーノズル、自分のものとは違うシャンプーボトル。

     わたしはシャワーを浴びながら自分の姿を見た。
     
     ひどく頼りない体に思える。
     何かおかしいような気がする。頭と体のバランス、手足の長さ、指先のかたち。

     なんだかひどく子供っぽく思える。

     わたしはなるべく鏡を見ないようにしながらシャワーを浴びて、髪と体を洗い、
     少し抵抗を覚えながら、ヘアゴムで髪を留めて、浴槽に体を浸した。

     ゆっくりとあたたまってく体、めぐっていく血。
     それを感じながら、これはやはり現実なんだろうと思った。

     今、わたしの身に起こっていることはすべて。


    273 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:49:37.91 ID:PZbkCpiXo

     お兄ちゃんのこと。ケイくんのこと。まひるのこと。お母さんのこと。穂海のこと。
     
     考えて、考えても、ぜんぜん、なんにも分からない。
     
     わたしの身に何が起きて、これからわたしがどうすればいいのか。

     ひとりきりで考えていると、急に心細くなる。

     浴槽の中で膝を抱えて、右手を後ろに回して自分のうなじに触れてみる。
     
     ここが、わたしの知っている世界とは別の世界だとしたら、
     わたしは、どうしたら元いた世界に帰れるのだろう。

     元いた世界は、どうなっているんだろう。
     あちらから、わたしはいなくなってしまっているはずで、 
     だとしたら、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、心配しているはずだ。

     ケイくんだって、こんな変なことに巻き込まれているより、早く帰ってしまいたいはずだ。

     でもわたしは、帰りたいんだろうか。
     お兄ちゃんのいない世界に。

     わたしはいつも誰かを巻き込んで、誰かの重荷になってばかりいる。
     祖父母だってきっと、わたしがいない方が……。
     
     わたしがいなければ、お母さんと喧嘩したりせずに、今でも一緒にいられたかもしれない。
     ひょっとしたら、お兄ちゃんだって、この世界でそうしていたように……。

     ケイくんは、違うと言ったけれど、わたしは、
     わたしは、やっぱり、わたしが生まれなかった方が、何もかもうまくいったんじゃないか、と、
     そんなふうに考えてしまう。


    274 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:50:44.34 ID:PZbkCpiXo


     
     考えごとに沈んでしまうとどうしようもなくなってしまうもので、
     ひとりでいるといっそう深みにはまってしまうから、わたしはそうそうに浴室を出て、
     まひるに借りた着替えを着て、ドライヤーで髪を乾かして、そのあいだずっと鏡で自分の姿を見ていた。

     顔。

     わたしの顔は、わたしにはやはり、どこか、おかしく見える。
     
     変な思いが、浮かんでは消えていくけれど、
     わたしはわたしがどうしたいかと考えるのをやめて、
     ケイくんと、祖父母のことを考えることにした。

     巻き込んでしまったケイくんを、元の世界に帰してあげないと。
     祖父母だって、きっと心配しているから。
     
     だからそのために、わたしは帰らなきゃいけない。
     元いた場所に。


    275 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:51:18.41 ID:PZbkCpiXo



    「明日からのことなんだけど」

     少し買い物をしてくるから、といって、まひるは部屋を出ていった。
     気を利かせてふたりきりにしてくれたのかもしれない。

     実際、わたしはケイくんとふたりで話したいことがあった。

     ケイくんは濡れたままの髪をタオルで拭きながら、我が物顔で冷蔵庫をあけて、
     中に入っていたミネラルウォーターをコップに注ぐ。

    「……ケイくん」

     わたしの声を無視して、彼はふたつめのコップを用意して、そっちにもミネラルウォーターを注ぐ。
     わたしは何も言わずに差し出されたコップを受け取った。

    「……」

    「感謝の気持ちは?」

    「……ありがとう。ケイくんのじゃないけど」

    「ま、そりゃそうだけどな」

    「……それで、明日からのことって?」


    276 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:51:51.00 ID:PZbkCpiXo

    「とりあえず、どうするかってこと」

    「どうするか」

    「そう。こんなとこ、長居したっていい気分にはならないし、早々に帰りたいだろ」

     やっぱり、ケイくんはそうなんだろう、とわたしは思った。
     
    「……ごめん。巻き込んで」

    「え?」

     彼はちょっと驚いた様子でこちらを見てから、タオルで耳の辺りを拭いて、

    「いや、そうじゃなくて」

    「ん?」

    「……まあ、いいや。とにかくそれで、ひとまず今日はここに宿を借りるとして、明日から」

     ケイくんはちらりとテーブルの上を見た。
     煙草と携帯。当然この年にはまだスマートフォン用の充電器なんてないから、電池が切れたらそのままだ。
     もっとも、どっちにしても使い物になりそうにはないんだけど。


    277 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:52:18.63 ID:PZbkCpiXo

    「煙草、吸いたいの?」

     ケイくんは首を横に振った。

    「……いや。さすがにな」

     まあ、ここで堂々と吸われても戸惑ったところだ。

    「それで明日からなんだけど」

     と、何度か遮られた話の続きを、ケイくんは仕切り直した。

    「分からないことだらけだけど、元の世界に戻る方法を探さないといけないよな」

    「あるのかな」

    「一応、思いつくのはふたつあるな」

    「……言ってみて」

    「まず、あの遊園地にもう一回行ってみる」

    「……うん。だよね」

     あそこから来たのなら、あそこから帰れるかもしれない。
     それはいちばんまっとうな考え方だ。

     入口と出口が同じものだとしたら。

    「じゃあ、明日、行ってみよっか」

    「ああ」

    278 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:52:52.69 ID:PZbkCpiXo

    「……でも、もうひとつって?」

    「あのときの、黒い服の女がいただろ」

    「あのとき」

     ミラーハウスの中で見た、あの女の人。

    「あの女を探す、っていうのだ」

    「でも、見つかるかな」

    「分からない。でも、あいつも俺たちと同じ場所を通ってきたはずだ。だったら、こっちにいるかもしれない」

     どっちにしても、骨が折れるけどな。ケイくんはそう言って、壁にもたれた。

    「あの女が、何か知ってるかもしれない。まあ、ミラーハウスにもう一度行って、それで帰れるっていうのが一番だけどな」

     ケイくんが言ってるのは、きっと、「そうじゃなかったとき」の話だ。
     あの遊園地のミラーハウスにもう一度行っても、何も起こらなかったとき。
     わたしたちは途方に暮れてしまう。だからそのときは、あの女の人を探すしかない。

     でも、どっちも駄目だったら?

     ……そんなことは、いま考えても仕方ない。

    「それじゃ、あした、ひとまず遊園地に行ってみようか」


    279 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:53:19.83 ID:PZbkCpiXo

    「……なあ、大丈夫か?」

    「なにが?」

     ケイくんは、自分でも何を訊いたのかよくわからない、というふうにもどかしげに首を振った。

    「いや。べつにいいんだけど」

    「……変なの」

     そう言ってから、わたしはミネラルウォーターに口をつけた。

     少し考えてから、

    「大丈夫だよ」

     と答える。

    「わたしは大丈夫」

     そう言った。自分に言い聞かせていたんだと、そう気付いたのはあとになってからだった。
     

    280 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:53:45.61 ID:PZbkCpiXo



     しばらくするとまひるが帰ってきた。買い物というのはどうやら歯ブラシだったらしくて、

    「さすがに買い置きなかったから」

     と笑っていたけど、わたしとしては男性用下着の買い置きがあることの方がよっぽど不思議だった。
     それでもさすがに、世話になっておいて深く立ち入る気にもなれない。

     当たり前のようにわたしたちによくしてくれるまひるを見ながら、彼女のことがどんどんと不思議になっていく。
     
     この人は、どこか、お兄ちゃんに似ている。そう思った。

    「ねえ、まひる」
     
     と、声を掛けてから、呼び捨てでいいものかどうか、ためらったけれど、
     
    「なに?」

     と気にしたふうでもなく返事をしてくれる彼女の表情を見て、考えないことにした。

    「ちょっと気になったんだけど、まひるは、お兄ちゃんと、どういう関係なの?」

    「関係? ってほど、関係はないけど」

    「知り合いではあるんだよね?」

    「うん。そうだね」

     まひるはテーブルの上に置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを見て、
    「わたしも飲もー」とコップをもうひとつ持ってくると、クッションの上に腰を下ろした。


    281 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:54:14.50 ID:PZbkCpiXo

    「部活の後輩なんだよね。碓氷。碓氷くん。わたし、文芸部の部長でさ」

    「文芸部……」

    「きみたちのいた世界ではどうだった? そっちでも、碓氷は文芸部?」

    「たしか、そのはず」

    「そうなんだ。不思議なもんだよね、性格は、聞くかぎりじゃ全然ちがうのに。
     これはやっぱり、ケイくんの言ってた話の方が信憑性があるかな」

     それはともかく、とまひるは確かめようのない話を打ち切った。

    「それで、碓氷は部員なんだけど……正直、わたしは彼のこと、あんまり好きじゃないんだよね」

    「……どうして?」

    「説明を求められると、難しいかな。いい子だと思うよ。友達も多いし、彼女もいるし。
     でも、うん。そうだね。碓氷の方の問題じゃなくて、わたしの問題かな。
     わたしが、碓氷を個人的に好きじゃないだけ。なんていうか、気質の問題かな」

    「気質……?」

    「うん。気質」

    「よくわからない」


    282 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:54:42.38 ID:PZbkCpiXo

    「碓氷は前向きで、過去にこだわらなくて、良いやつだよ。悪いことも間違ったこともあんまりしない。
     人気者ってほどじゃないけど、後輩にも先輩にも好かれるタイプだし。
     誰かを思いやれるし、面倒見もいいし、見た目もまあ悪くないし、でも……」

    「……でも?」

    「正しすぎる。正しすぎる人とは、話があんまり成立しない」

    「……」

    「だから、わたしはあんまり好きじゃない」

     本当に、個人的にね。まひるはそう言った。

     正しすぎる人とは、話があんまり成立しない。
     正しすぎる人は、怖い。


    283 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/02(日) 22:55:20.34 ID:PZbkCpiXo


     中学校のとき、母の日にお母さんにプレゼントをするか、という話になった。
     その頃よく話していた、四人くらいのグループでの話だ。
     
     わたしは、母の日にプレゼントをしたことがない。
     母の日に顔を合わせたことなんて、ほとんどないから。

     だから、プレゼントはしたことがない、と言った。

     グループの中のひとりは、驚いた顔をしていた。

     そのくらいはしようよ、と、困った子を見るような顔で笑った。

     そこで話は終わった。
     べつに言い訳したかったわけでもないし、話を聞いてもらいたかったわけでもない。
     それでもわたしの中には、少しだけ、肌に刺さった抜けない棘のような暗い気持ちが残った。

     惨めさに近い何か。
     
     正しさは、どんなときでも正しいのだろうか。

     あるいは母にも、何かあるのかもしれない。
     わたしが、母の日に何も贈れないのと同じように、
     母にも何か、『できない理由』があったのだろうか。

     よくわからなくなる。
     
    「うん。だからわたしは、碓氷が苦手」

     中途半端な沈黙を嫌ったみたいに、まひるはそう言ってかすかに笑った。
     わたしは、少しだけ反応に困って、小さく笑った。
     笑えたと、思う。



    286 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/11(火) 20:22:36.75 ID:5Z2H/xJxo



     翌日の朝早く、わたしたちは学校へ出かけるまひると一緒に家を出た。

     早めに出かけると言ったわたしたちに、まひるは忙しい中でトーストを焼いてくれた。
     着る服も、彼女が用意してくれた。服ならばいくらでも用意できるというような様子だった。

     わたしは制服姿のまひるを見送ってから、

    「もし遊園地にいって、そのまま帰れたら、服を返せないね」

     と言った。ケイくんはバカバカしそうに笑った。

    「妙なこと気にするんだな」

    「借りたものは返さないといけないでしょう?」

    「時と場合によるだろうな」

     ケイくんはそう言ってしまうと、あっというまに階段を降りていった。
     

    287 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/11(火) 20:23:50.05 ID:5Z2H/xJxo

     その朝は爽やかな秋晴れで、
     わたしはそれが自分にとって過去のものなんだと、一瞬わからなくなってしまった。

     通りに出ると、空に流れる雲も道路を走る車も、並ぶ建物のひとつひとつも、
     何もかもすべていつかは変わっていってしまうものばかりで、
     そのままの形で保たれるものなんてひとつもないのだという気がした。

     わたしたちは近くのバス停に立ち、時刻表を見て、言葉もなく立ち尽くす。

     ねえ、ケイくん、と、わたしは声を掛けようとしたけれど、
     言葉は喉のあたりに詰まってわたしを息苦しくさせるだけだった。

     こんなバカげた状況のなかでも、わたしは未だに正しい振る舞い方を探してしまって、
     それがわからないからいつまで経っても戸惑ってばかりだ。

     この世界に来る前から、ずっとそうだ。

     浮かび上がらないように、変だと思われないように。

     バスに乗ってからも、わたしたちの間に会話なんてほとんどなかった。
     いつだってわたしは、わたしを取り巻く世界のルールがわからないままで、
     どう振る舞うのがふさわしいのか、ずっとわからない。


    288 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/11(火) 20:24:19.30 ID:5Z2H/xJxo



     遊園地までの道のりは、あちらの世界で――感覚的には昨日――通ったのと同じ道のはずだった。

     暗い道の先の坂。その先の橋。不思議と、前通ったときと印象は変わらない。どうしてだろう。
     
     二人きりで歩いていると、なんだかまた、夢の中を歩いているように現実感が薄れていく。

     ねえ、ケイくん、とわたしはもう一度声に出しかけて、やっぱり何も言わなかった。

     帰りたくない、なんて、そんなことを言いかけたのはどうしてだろう。

     自分でもよくわからなかった。


    289 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/11(火) 20:24:50.61 ID:5Z2H/xJxo



     橋の上で、立ち止まった。もう少し歩けば、あの遊園地にたどり着く。

    「どうした?」と、ケイくんは首をかしげる。

     わたしはうまく言葉にできない。

    「ケイくん、わたしは、このまま帰っていいのかな」

    「……どうして」

    「お兄ちゃんが、言ってた。ずっと前に言ってた。起きたことには、必ず意味があるはずだって」

    「……意味」

    「何かが必ずあるはずなんだって言ってた。だとしたら、わたしが今ここにいることにも、何か意味があるのかもしれない」

    「あのさ、それは」

    「分かるよ。ケイくんはきっと、そんなの嘘だっていう。でも、この世界はケイくんの言うとおり、わたしにとってだけ奇妙な世界で……」

     ケイくんは、静かにわたしの顔を見る。
     彼の表情はいつだって真剣だ。

     彼はそういう人だ。
     一見、斜に構えていて天邪鬼のようにも見える。でも違う。彼は、彼と同じ話法を使う人の話を、絶対に聞き流さない。
     彼は自分独自の価値観と考え方を持っている。価値観の合わない人間にも、その価値観を基準に話をする。

     だから、そういう人には彼が、意味の分からない、理屈の通じない人のように見える。
     そうではない。

    「だから……」


    290 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/11(火) 20:25:18.10 ID:5Z2H/xJxo

     だから?

     だから、なんだというのだろう。

     わたしたちにだってわたしたちの世界があって、
     こっちに迷い込んでいるあいだに、あっちがどうなっているかなんて、確かめないと分からないのだ。

     ケイくんにはケイくんの事情があって、わたしはそれを自分の都合で邪魔できない。

    「……ごめん。なんでもない」

     わたしはケイくんの方を見ることができなかった。
     顔をそむけたまま、止めていた足をふたたび動かす。

    「とりあえず、この後どうするにしても、あの場所の様子だけ確認しておこう」

    「……うん」

    「まだ何にもわからないんだ。ひとつずつでも、いろんなことを確かめないと」

     わたしはもう一度頷く。

    291 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/11(火) 20:25:53.84 ID:5Z2H/xJxo

     
     ケイくんの言うとおり、今は余計なことを考えない方がいいのかもしれない。
      
     そう思って、わたしは再び歩き始めた。
     そのとき、不意に気がついた。

    「……ねえ、ケイくん」

    「なに?」

    「わたしたちが最初に来たとき、遊園地ってどのタイミングで見えたっけ?」

    「……遊園地? どうだったかな。最初に目に入ったのは観覧車で」

     たしか、坂を登りきったときに、と、ケイくんは言いかけて、立ち止まった。
     彼は橋を戻り、坂道の上へと引き返す。

     そこから、遊園地の方を見る。

     わたしも彼のことを追いかけた。

     観覧車は、見えない。

     わたしたちは目を見合わせる。
     
    「……とにかく、言ってみなきゃな」

    「うん」

     けれど無駄だった。
     遊園地のあった場所には草木が生い茂り、木々の枝に邪魔されて敷地内に入ることすら難しかった。
     ほとんどの遊具やアトラクションは取り壊されるか撤去された様子だった。立入禁止の看板だけがやけに綺麗だった。
     ミラーハウスの姿なんて、見つけることすらできなかった。

     わたしたちは立ち尽くした。


    294 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:24:38.91 ID:FmM+TSu0o




    「気は済んだ?」

     そう後ろから声をかけられるときまで、わたしたちはずっと一言も喋らなかった。
     
     驚いて振り返った先には、ひとりの女の人が立っている。

     黒い服を来た女……。

     あなたは、と一瞬声をあげそうになって、言葉を止める。
     ミラーハウスで見た女の人だと、そう考えてしまった。

     けれど、違う。眼帯をしていない。

     喪服のような真っ黒な恰好。裾の長い黒いワンピース、灰色のストール。
     長い前髪の隙間から覗く瞳はつぶらで愛らしい。
     けれど……その笑みは、どこか作り物めいている。

     いつのまに、そこにいたんだろう。
     まったく気が付かなかった。気配も、足音も感じなかった。


    295 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:25:06.25 ID:FmM+TSu0o

    「誰かが紛れ込んでるとは思ってたけど、ずいぶん皮肉な話ね」

     女の人……いや、違う。
     服の色が暗いせいで錯覚していた。

     顔を見ても、体格を見ても、同年代くらいの女の子だ。
     
     それなのに、なぜだろう、違和感があった。
     
     白い白い肌。
     冷たそうな肌。

     何か、変な感じがする。

     風景からどこか浮かび上がっているような不自然さ。
     けれどふと目を離した隙に、すぐにでも消えてしまいそうな存在感のなさ。

     この世のものではないような、と、そんな陳腐な言葉さえ出てきそうになる。

    「はじめまして、アイナ」

     と、彼女は、わたしのことを正しい名前で呼んだ。
     ぞくりと、背筋に悪寒が走る。

     わたしの名前を、知っている。


    296 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:25:42.19 ID:FmM+TSu0o

     ケイくんが、わたしの半歩前に踏み出した。

    「あんたは?」

     彼の言葉に、彼女は笑う。

    「名乗ったところでどうするの? 名前なんて知ったからって、それで何かが分かるつもり?」

    「違う。名前はどうでもいい。聞きたいのは、あんたが何かってことだ」

    「何って?」

    「どうして、こいつの名前を知ってる?」

    「……」

    「こいつが普通の奴なら、まあ、名前を知っていることもあるかもしれない。
     でも、こいつは普通じゃない。こいつの名前を知ってる奴なんて、どこにもいるわけがない」

     女は、笑っている。

    「紛れ込んだって言ったな。この状況を引き起こしてるのは、おまえなのか?」

    「そういう言われ方は心外」

     と女は言って、ひらひらとスカートを揺らしながらケイくんに歩み寄る。


    297 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:26:22.94 ID:FmM+TSu0o

    「勝手に入り込んできたのは、あなたたち」

    「……」

     たしかに、とわたしは思った。
     わたしたちが勝手に来て、勝手に巻き込まれた。

    「でも、わたしが連れてきたと言えば、そうかもしれない」

    「何者なんだ、おまえ」

    「よく知らないの。気付いたらこうだったから。というか、その話、今、大事?」

     その声に、ふと、思い出すことがあった。

     ミラーハウスを抜けた先の、見慣れない街並の先。
     あの坂道の上の広場で、からたちに吊るし上げられた少女。

     この子の声は、あの子にそっくりだ。


    298 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:26:55.69 ID:FmM+TSu0o

    「大切なのは、あなたたちがどうしたいかってこと。帰りたいんだったら、帰り道を用意してあげないこともない」

    「……いやに親切だな。何か目的があって、ここに俺たちを巻き込んだんじゃないのか?」

    「勘違いしないで」と女は言う。

    「あなたたちは偶然巻き込まれただけ。だから、あなたたちのことはどうでもいい。ていうか、使い回しのこの世界自体、もうどうでもいいんだけど」

     話していることの意味がわからなくて、わたしとケイくんは黙り込んだ。

    「……どうも、わからないな」

    「べつに、分かってもらう必要もないから。それで、どうする? 帰りたいなら、案内するけど」

    「……」

     巻き込まれた?
     紛れ込んだ?

     ……。

     ――残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。 
     ――なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ。


    299 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:27:53.01 ID:FmM+TSu0o

     ……わたしたちが見た景色は?
     わたしたちが見たのは、鏡の中に、一人の女の人が入っていく光景。

     わたしたちは、そのあとをついてきた結果、ここについたに過ぎない。

    「……ねえ、あなた、本当に、人の願いを叶えられるの?」

     わたしの問いかけに、ケイくんも女の子も、そろってこっちを見た。

    「ここは、誰かが望んだ世界なの?」

    「……そういう言い方もできる、ってだけ」

     退屈そうに溜め息をつくと、彼女は前髪を指先で弄りはじめた。

    「……さっき、わたしの名前を呼んだ。あなたは、わたしのことを知ってるんだ」

     女は、表情を動かさない。わたしの声を無視して、そっぽを向いている。

    「皮肉、って、言った。それ、どういうこと?」

    「――ねえ、帰りたいの?」

    「この世界は、何なの?」

    「帰るの? 帰らないの? どっち?」


    300 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/18(火) 21:28:19.06 ID:FmM+TSu0o

     この子がミラーハウスの主で、現に誰かの望んだ世界を見せる力があるとするならば、
     ここは誰かの望んだ世界だ。

     単純に想像するならば、わたしたちがミラーハウスの中で追いかけてきた、あの眼帯の女の人。
     彼女の望む世界だということになる。

     けれど……この子はたしかに言った。

     使い回しの世界だと、たしかに言った。
     意味するところはよくわからないけれど、それはつまり、この世界は本来、違う用途で生まれたということだ。

     この世界が、誰かの望んだ景色の、そのひとつの形だとしたら?
     これを望むのは、誰だろう?
     この世界を、もっとも望みそうな人は?

     ――あちらよりもこちらで、より幸福そうな表情をしていたのは?

    「……この世界のような景色を、誰かが望んだ。だからあなたは、その誰かをここに連れてきた。違う?」

     彼女は溜め息をついた。

    「そうなるかな」

    「……教えて。この世界を、誰が望んだの?」

     わたしは、本当は、訊くべきではなかったのかもしれない。

    「本当に知りたいの?」と呆れた調子で溜め息をつく。本当は知りたくなかった。けれど、訊かずにはいられない。
     見なくてもいい景色も、聞かない方がいい真実も、そこらじゅうにあるのだと、わたしは知っていたけれど。

    「……碓氷遼一」

     と彼女は言った。

    「あなたの叔父さんが、わたしのお客さん」

     そう言って、彼女は顔をしかめた。


    303 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:52:26.64 ID:yOBfSdwMo

    ◇[Stendhal] R/b

     
     姉が家を出ていったとき、愛奈は泣かなかった。
     僕だって、驚きはしたけれど、すぐに戻ってくるに違いないと思っていた。

     両親と姉との間でどんな話し合いがあったのか、詳しくは僕も知らない。
     
     僕が中学生だった頃の話だ。

     当時姉はシングルマザーだった。二十四歳で、まだ若かった。
     年若くして結婚し子供を産んだ彼女は、ときどきそれを後悔しているふうでもあった。

     一度、姉は僕の前で口を滑らせた。

    「別に愛奈を産んだことに後悔はないけど……」

     でも、と彼女は続けた。

    「早まったかな、とは思う」

     僕はそれを聞いたとき、姉のことを咎める気にはなれなかった。 

     十も年の離れた姉の人生を、十四歳だった僕は理解することができなかったし、
     それから何年か経つ今でも、彼女のことをどうしても一方的に憎むことができない。


    304 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:52:57.71 ID:yOBfSdwMo

     生きることは迷路を歩くようなものだ。
     長く続く回廊はいくつにも枝分かれし、そのときどきに違った扉を僕たちの前に差し出す。
     
     僕らはそのたびに、その時なりに最善だと思える道を選ぶ。
     時に簡単に開きそうな扉を、時に進みたい方向に続いているように見える扉を、時に自分でもなぜそれを選ぶのかわからないような扉を。

     そして、一度選んだ扉の先から引き返すことはできない。
     通路を遡ってみようとしたところで、他の扉は既に閉ざされてしまっている。

     日々は選択の連続で、僕たちはその先の未来を覗き見ることができない。
     一見易しそうに見える扉の先が幸福に続いているとは限らず、そのとき最善に思えた選択が間違っていなかったとも限らない。
     
     選んできた扉が選ばなかった扉よりも良いものだったという保証はどこにもなく、
     選ばなかった扉が選んだ扉よりも良いものだったとも言い切れない。

     そのなかに、どうしても忘れることができない『選ばなかった扉』がある。
     あの扉を選んでいたらと、後悔してしまう扉がある。

     姉にとっても、きっと。
     あるいは、僕にも。



    305 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:53:30.52 ID:yOBfSdwMo



     目が覚めたとき、そばにはすみれがいた。

     雨の音と、空気の奇妙な冷たさ。現実感は希薄なのに、肉体には奇妙な疲労感がある。

    「やっと起きた」

     と、傍らから声が聞こえた。

     すみれが傍に居た。

     僕は体を起こして、周囲を見回す。

     どこかの廃墟のような場所に、僕はいた。

     眠ってしまっていたらしい。 
     灰色の空から雨が降っている。意識を失う前までのことを思い出そうとするが、頭がぼんやりとしてはっきりしない。

    「遼一?」

    「……うん。大丈夫。ここ、どこ?」

     すみれは溜め息をついた。
     
     廃墟のような建物……。天井はある。左側には壁があり、右側には壁がなく、外に繋がっている。
     右手に広がる空間には背の高い野草が生い茂っている。その向こうは、高いネットに覆われている。

     なんだろう、と思ってすぐに気付く。ゴルフの打ちっぱなしの施設のようだ。どうやら、長い間使われていない廃墟のようだが。

    「わかんない」

     とすみれは首を振った。


    306 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:53:57.98 ID:yOBfSdwMo

    「眠る前までのこと、ちゃんと覚えてる?」
     
    「……なんとなくは」

     僕は首を巡らせて、もう一度周囲の様子をうかがう。
     どうやら、僕は放置させた古いソファに横になって眠っていたらしい。

    「あの、ざくろって子は?」

     訊ねると、すみれは複雑そうな顔でまた首を横に振った。

    「わかんない。わたしもさっき目覚めたばかりで、何がなんだか」

    「……どこなんだろう、ここ」

    「分からない。ね、遼一。さっきまでのって、夢じゃないよね?」

    「……どうなんだろう。ここじゃ何にも、分からない」

    「遼一が目をさますまでの間、ちょっとだけ、考えてたんだけど」

     すみれはそう言って、ソファの側の壁にもたれる。

    「やっぱり、いくら考えてもわかんない。ひとまず、ここがどこなのか、確認しないといけないよね」

    「……だね」

    「時計見る限り、一応時間は午前八時ってところかな。携帯は圏外だし……」

    「うん。分かった」

    「どう? 歩いても平気そう?」

    「ああ。ここにずっといても、仕方ないしね」


    307 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:54:25.70 ID:yOBfSdwMo

     ひとまず立ち上がり、僕たちは建物の出口を探す。と言っても、すぐ傍に階段があって、どうやら事務所の方に繋がっているらしい。
     ガラスの破片、破れた緑色の絨毯、周囲から伸びた草花が道をいくらか覆っているが、歩けないほどではない。

     階段を登りきると、閉ざされたままの扉があったが、誰かが以前通ったのだろうか、ガラスが割れていて、人ひとりが通れるくらいの穴が空いていた。

     抜けた先の事務所は散乱していた。なにかの書類、古い雑誌やカレンダー、何かのメモ。

     右手には出入り口があった。僕らは何の問題もなく外に出ることができた。

     外から建物の様子を振り返ると、閉められたシャッターにはスプレーで落書きがされていた。

     出た先には舗装された道がある。とはいえ、公道というよりは、何かの施設内のような雰囲気だった。

     山の中のようで、道の周りは高い木々に覆われていて遠くまでは見通せない。

     地図もなければ現在地もわからない僕たちは、とにかく歩き回ってみることでしか状況を掴めない。

    「見覚え、ある?」

    「いや」

    「だよね」

     厳密にいえば、既視感のような感覚はある。
     けれど、それが具体的にいつ、どこを示すものなのかは、分からない。

    「見覚えのない場所にいるっていうことは、やっぱり夢じゃないのかもね」

    「かもしれない」

     とすると、あのミラーハウスの出来事も、その先の奇妙な空間も、あのざくろと名乗った少女も夢ではなく、
     ここは、あの子が示した扉の先なのだろうか。


    308 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:55:00.39 ID:yOBfSdwMo

     ――鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……

     ――あなたたちが、心の底から笑えるような場所。

     ざくろは、そう言っていた。

     あの不穏な扉の先、幻想のような街並の向こう。
     その先が、打ちっぱなし施設の廃墟? ……たしかに笑い話だ。

    「あのざくろって子」

     また、僕がその名前を出したとき、すみれの表情はまたこわばった。

    「何者なんだろう」

    「……さあ?」

     施設から離れるように歩いていく。
     本当に山の中なのか、丘のようになった場所から、僕たちは道にそって坂を降りていく。

    「変なことになっちゃったな」とすみれは疲れたみたいに息を吐いた。

    「別に困りはしないだろう」と僕は言った。

    「なにが?」


    309 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:56:24.93 ID:yOBfSdwMo

    「ここがどんなところでもさ」

    「どうして?」

    「そのつもりで来たんだから」

    「……」

    『ここじゃないどこか』に行こう、とすみれは言って、
     僕は彼女の手をとったのだ。

    「そうかもね」とすみれは言う。

     月曜日の夜の、ただの気まぐれ。
     彼女の手をとったとき、僕の気持ちはもう、普段の生活から離れたがっていた。

     だから、いい。
     奇妙なことが起きても、なんでも。

    「今日は火曜の朝なのかな」

    「昨日は月曜だったから、そうなるのかな」

    「八時……普通だったら、もう学校に行ってなきゃいけないのにね」

    「今更だね」

    「うん。そうかも」


    310 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:57:28.43 ID:yOBfSdwMo

     そう言ってすみれは、リズムをとって跳ねるように前方へと足を伸ばしていく。

    「朝の割には、空気があったかいね」

    「そうだね……」

    「今のところ、ライオンに追われそうな気配もないし、周囲の様子も、異世界みたいな調子じゃないし」

    「……ま、ライオンがいないだけありがたいね」

    「遼一がミラーハウスに入ろうとするから、あんな目に遭ったんだよね」

    「結局食べられなかったし、いいんじゃないか」

    「……そういえば、あれ、結局なんだったのかな」

     すみれが、独り言のように呟く。

    「ざくろの話を聞く限りでは、どうやら心象世界というか、心象風景みたいなもの、みたいだったらしいけど」

    「あんたの心の中にはライオンがいるわけ?」

    「しかも風船でできたライオン」

    「仮面をつけた子供たち。目のある月」

    「ふむ」

    「橋のない閉じ込められた街。骸骨でできた壁」

    「……」

    「あんたの心象風景、病みすぎじゃない?」

    「……深層心理のあり方までは、僕にはどうしようもないかな」


    311 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:57:54.56 ID:yOBfSdwMo

    「……少し、解釈してみてもいい?」

    「解釈?」

    「あの子、象徴って言ってた。あれは要するに、見たままそのものの姿じゃなくて、あんたの中の何かの象徴なんだよね、きっと」

    「ふむ」

    「とすると、それを解釈することってできそうじゃない?」

    「つまり、夢占いとか、夢分析みたいなこと?」

    「そのふたつを同列にならべるの、わたしはちょっと抵抗あるんだけど、詳しくないし、どっちかっていうと夢占いかな」

    「なるほど」

    「もちろん、適当な話になるけどね。まずあのライオン……」

    「ライオン、ね。いきなり追われたんだっけ」


    312 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:58:26.99 ID:yOBfSdwMo

    「あれ、追いつかれたら死ぬ、って思ったよね」

    「だね」

    「焦燥感……それも、身の危険を覚えるくらいの。そういうものが、あんたの中にある」

    「ふむ」

    「でも、そのライオンは風船でできてた。風船ってことは、中身がない、空っぽ、実体がない。
     つまり、何か具体的なものじゃなくて、抽象的でとらえどころのない恐怖」

    「それらしいっていえば、それらしいね」

    「くわえて、あの街には橋がなかった。水路に阻まれていた。しかも水路を挟んだ向こう側には、あたたかそうな光があって、人の気配がした」

    「……」

    「あんたにとって、温かい人の気配は『橋の向こう』……たどり着けない場所にあるもの、ってところかな」

    「月は?」

    「何か大きなものに見下されている、って感じかな。ライオンと橋のことを含めて考えても、あんたは出口のない場所に閉じ込められて、追い込まれてる」

    「なるほど」

    「いくつか並んだ銅像のうち、あんたに似てる銅像だけ、中身が空洞になってた。他のはそうじゃなかった。
     つまり、『他の人には中身があるのに、あんたには中身がない』、と、あんたは思ってる」


    313 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:59:02.16 ID:yOBfSdwMo

    「子供たちの仮面と人形劇は?」

    「わかんない。でも、人形師が子供たちに渡した飴玉は、『あんたの分だけなかった』。あんただけ、それを与えてもらえない」

    「……地下のワイン庫は?」

    「わかんない。ただ、あの子は扉が望む世界の入口、みたいなことを言ってた。その入口が、あんたの場合かなり分かりづらい場所にあった。
     他の民家とほとんど変わらないような家の、しかも奥まで入らないと分からない地下への階段のさらに奥。
     しかも、その中は暗闇。ようするに、あんたの望みは、深くて暗い場所に隠されてる。あんた自身でも見つけられないような場所に」

    「……へえ」

    「どうかな。おもしろくない?」

    「こじつけっぽいかな」

    「けっこういい線いってると思うんだけどな」

     僕は、あの地下室で見つけた本に書かれていた一文を思い出す。

     あのときはわからなかったけれど、今は思い出せる。どこかで読んだ本に書いてあった。あれはラテン語だ。
     
    "In vino veritas."――酒の中の真実。

     そしてあそこはワインの地下貯蔵庫……『酒の中』だった。もちろん、あの言葉は額面通りの意味ではないはずだけれど。
     だとすると、あの地下貯蔵庫の奥の扉が、『僕の真実の望み』なのかもしれない。

     まるで、偽物があるかのような言い草だ。

    「面白い話ではあるかもね」

    「あんまりピンとこない?」

    「どうかな。そんな言い方したら、たぶんどうとでも受け取れそうで……」


    314 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/25(火) 23:59:28.30 ID:yOBfSdwMo

     と、言いかけたところで、立ち止まる。

    「……すみれ、ここ」

    「ん?」

    「この道。見覚えがあるんだけど」

    「……見覚え?」

    「ここ、あの遊園地の敷地じゃないか?」

    「え……?」

     僕の言葉に、すみれは辺りを見回す。

    「この道。通った記憶がある」

    「え、でも……こんな場所だった?」

     道の脇は背の高い野草に覆われている。広い敷地のほとんどすべてが埋め尽くされている。
     昨日あの遊園地に辿り着いたときは、こんな様子ではなかったはずだ。
     もちろん、夜だったから視界は悪かったけれど、こんなに草が生い茂ってはいなかった。

    「でも、この先、たぶん、僕らが入ってきた道だ」

    「……とにかく、進んでみよう」


    315 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2016/10/26(水) 00:00:21.34 ID:DgPI5o6Ho

     僕らは話すのをやめて、少し早歩きになって道の先に進んだ。

     やがて、木々に覆われた視界が開け、道の先が見える。

     小さなゲートがあり、近くには立入禁止の看板があった。

     すみれは、黙ったまま後ろを振り向く。呆然とした様子だった。

    「ホントだ……」

     僕も、彼女にならって確認してみる。
     様子は随分と違うけれど、たしかに同じ場所だ。

    「……ここ、バイクとめた場所だよね」

    「ああ」

    「……バイク、ない。盗まれちゃった?」

    「……いや」

    「でも、ないよ」

    「……もしかしたら、もっと面倒なことになってるのかも」

    「面倒なことって?」

    「……まだ、分からないけど。ひょっとしたら、ここも、あの変な世界の続きなのかも」

    「続き?」

     鏡の国、望む景色、心の底から笑えるような場所……。
     ざくろと名乗ったあの子は、いったいどこに行ったんだろう。
     ……とにかく彼女に、今のこの状況について説明してもらわなければならない。


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