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    お嬢さん「現実逃避、しませんか?」

    1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 04:59:40.06 ID:IY97jrkv0

    男「……現実逃避でございますか」

    お嬢さん「そうです。お金や時間、才能や人間関係、何でもいいのです」

    お嬢さん「それら気の疲れる現実から、さらっと逃避などしませんか」

    男「そりゃあ出来たら楽だがね」

    男「できないからこそ現実なのだよ」

    お嬢さん「いいえそれができるのです」

    お嬢さん「イヤなこと、全て気にせず楽しく気楽に過ごせます」

    お嬢さん「そうですね……、貴方のさまざまな欲求も、きっと満たされるはずですよ」

    お嬢さん「ですからどうぞ、一つ頷いてみてはいかがでしょう」

    男「なるほど夢でも見ているのだな」

    男「いいよわかった、俺も疲れているようだ」

    男「それなら眼が覚めるまで少しの間、現実逃避、付き合うのも悪くない」



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    3: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 05:14:45.48 ID:IY97jrkv0

    お嬢さん「そうですか。よかった……、ほっとしました」

    男「ほっとした?」

    お嬢さん「いえいえこちらの都合です」

    男「お、おう」

    男「……ところで、ここはどこでしょう」

    お嬢さん「ここは貴方の部屋ですよ」

    男「残念ながら、俺の部屋はこう綺麗ではない」

    お嬢さん「ああ……、そういう意味ですか、ごめんなさい」

    お嬢さん「ここは、現実逃避をした貴方の部屋です」

    お嬢さん「現実の、貴方の部屋ではなく」

    男「ああ、もうそういう状態」

    ならさっきの確認は事後承諾でございましたか。


    5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 05:28:57.06 ID:IY97jrkv0

    お嬢さん「ところでお腹は空いていらっしゃいますか?」

    男「ん、少しは」

    お嬢さん「それはよかった。おそらくもうそろそろお給仕がいらっしゃると思うので」

    お嬢さん「ぜひ召し上がってくださいましね」

    男「……おう」

    「それでは私はいったん下がります」とお嬢さんは言うと、楚々な動きで部屋をでた。

    ぱたん。

    男「うーむ……?」

    男「なんだ、これは」

    全くわけが分からない。
    夢の中とは思うのだが、この小奇麗な茶室風の部屋も、先の清楚なお嬢さんも、
    どちらも見覚えがないのである。

    夢というのは、一度見たものを投影すると聞いたような。

    男「まあ、食事が出るなら待ちますか」


    7: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 05:35:51.61 ID:IY97jrkv0

    数分後――

    メイド「おおー! おきておりましたか! どうもどうも!」

    やけにテンションが高いメイド――服装的に、おそらく――がいらっしゃった。

    メイド「どうですいい目覚めですか!?」

    メイド「あ、ご飯たべますよね?」

    メイド「わー頭がぼさぼさですね!」

    メイド「なんかおめめぱっちり! どうしたんですか!?」

    それも複数人。
    誰が何を喋っているのかも分からない。

    おめめぱっちりなのは驚いているからなんだよ。

    男「えーと、君たちは」

    メイド「「この旅館のメイドさんズです!!」」

    旅館にメイドさんかー、そうかー。

    こういうのも和洋折衷、と言うのだろーか。


    8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 05:50:18.33 ID:IY97jrkv0

    男「え、旅館」

    メイド「はい旅館ですが」

    メイド「それ以外のなにがありますかね」

    男「いやむしろその選択肢が思い浮かばなかった」

    メイド「お給仕がいるのに旅館以外なわけないじゃないですかー」

    メイド「あー分かった! あれですよ、きっとこの人ここに来る前はボンボンだったんです」

    メイド「なるほどー、いつもメイドさんやら女中さんやらが近くにいらっしゃったと」

    どうしてそうなった。

    メイド「なんとうらやましい! 金持ちめ!」

    メイド「ご飯食べます?」

    男「いや、金もちではないが、あはい食べます」

    メイド「はいどーぞ、あーん!」

    男「いやいやいや、あーんはさすがに」

    メイド「えー、さいきんはやってるみたいなんですけどー」

    どこでだよ。


    9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 06:04:46.71 ID:IY97jrkv0

    男「ふむ、おいしかった」

    さくっと食事を食べきると、いつの間にか寝ていた布団はどこへやら。
    仕事の速いメイドさんたちである。

    男「それで、旅館というのは」

    メイド「旅館しりません? 泊まるところですよ」

    メイド「自宅は飽きた! 羽を休められる場所はどこだ!」

    メイド「そうだ京都へいこう!」

    メイド「的な」

    男「いやそういう話ではなく、えーと」

    たしかに考えてみると、どういう質問をしてよいものか。

    男「これ夢でいいんだよね?」

    メイド「「さ~?」」

    本当に分からないような顔でした。


    11: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 06:21:26.64 ID:IY97jrkv0

    メイドさんたちは食器を片付けると、やはり姦しいまま部屋から出て行った。

    男「お、俺は頭がおかしくなったのだろうか……?」

    真剣に寒気がした。
    このままではピンクの象も見かねない。

    男「そ、そうだ、一度外にでてみよう」

    四畳半の個室では、状況把握もなにもない。
    俺は近くにおいてあった羽織をひっかけると――ちなみにこの時着ていた服は簡素な浴衣――意を決して襖のほうへ。

    がらっ。

    男「な……」

    ああ驚くことなかれ、俺。
    出た部屋の先には回廊が、渡り廊下のように壁もなく、先へ続き。
    その周りに広がった景色は、

    男「こいつはあ、なるほど」

    男「現実逃避か」

    美しきかな柳暗花明、一面一色山野の春景色。
    それはまるで、いやそれこそまさに、

    非現実のようだった!


    12: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 06:31:39.59 ID:IY97jrkv0

    ――というのは実はまだ良かったのである。

    男「あれは……?」

    渡り廊下の続く向こう、木々に隠れて下の方は見えないが、

    男「わ、わあ」

    高く高く、木々よりも高くそびえ立つ、それは館。
    おそらくあれが、メイドさんたちの言っていた旅館なのだろう……か?

    男「なんちゅーまあ」

    壮大な夢を見ているな、というところでとりあえず気持ちは落ち着かせつつ。

    男「さてこれはどうしたものかな」

    男「こ、怖くはないが……」

    足が竦んで、すぐには動かなかった。


    13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 06:42:00.66 ID:IY97jrkv0

    ?「おやおやこれは! 既に散策にでるおつもりでしたか」

    男「おわ!?」

    突然声がかかったので、あわてて見上げていた視線をおろす。

    ?「あこりゃどうも失礼」

    支配人「わたくしここの、支配人にございます」

    男「あ、ど、ども」

    支配人「ははは驚きますよね。あんなでかいの」

    男「ええ、まあ」

    支配人「まあまあ見た目だけです見た目だけ。中はたいしたことも無く」

    支配人「……でかくてたいしたことがない、ふむ」

    男「な、なにか」

    ちょっと嫌な気配。

    支配人「ふふ、いえいえ何も」

    支配人「お出かけになるのなら、ご案内でもしましょうか」

    男「お、お願いします」


    14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 06:51:38.76 ID:IY97jrkv0

    支配人と名乗った男は、とても紳士的であった。

    支配人「はあ、なるほど。混乱しておられますか」

    男「そりゃ寝ておきたらこれですから……」

    男「夢にしては、さっきからどうにも質感があるというか」

    男「あきらかに非現実なのに」

    支配人「でしょうねえ」

    男「何か知っておられますか」

    支配人「現実を逃避したからでは?」

    男「いやそれはそうだけども……、でもそれは事後承諾的な――」

    支配人「まあまあ。そのあたりは追々ということで、ね」

    支配人「まずは当館自慢の景色を楽しんでみては」

    男「うーむ」


    15: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 07:01:27.24 ID:IY97jrkv0

    支配人「おやご不満ですか」

    男「そりゃ腑には落ちませんよ」

    支配人「しかたありません。では男性客には取っておきの」

    支配人「女子、というのをご提供いたしましょうか」

    男「は? え、どういう」

    支配人「これも当館自慢でして」

    支配人「ここのメイドさんは、中々に粒揃いの美少女たちにございます」

    支配人「その中の一人をですね」

    男「あーあーあ! いい、そういうのはいい!」

    支配人「おや、女性には興味がない? どなたでも選んでいただいて良いのに」

    支配人「珍しい方です。……でも嬉しい」

    男「え?」

    支配人「私が人肌脱ぐ時が来たようですから」

    すっと支配人は来ていた服に手をかける。
    俺はそっとその手を止めたのだった。


    16: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 07:12:14.60 ID:IY97jrkv0

    支配人「しかしですね真面目な話」

    支配人「あの子たちはおそらく頼めば断りませんよ?」

    男「仕事だからですか」

    支配人「いえいえここは決して娼館ではありません」

    支配人「ただそもそも彼女達、けっこう色好きでして」

    男「はあ……」

    男(ち、ちょっと興味がなくも……ないかなー?)

    男「い、いやいやだめだ」

    俺は煩悩を振り払うように首を振ると、

    支配人「やはり男の子でございますな」

    と支配人は笑った。


    17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 07:28:34.64 ID:IY97jrkv0

    となんだかんだと話しているうちに、
    回廊を渡りきって、

    支配人「到着ですね」

    支配人「こちらが本館でございます」

    男「お、大きい……」

    見上げれば首が痛くなるほどに、高い。
    さすがに雲のかかるほどではないが、
    十……いや十五階はあるだろうか。

    支配人「さあどうぞどうぞこちらへ」

    観音開きの扉を開けて、
    本館へと俺は足を踏み入れた――ら、

    メイド「あ、支配人さんー!」

    メイド「おやお客さんもー!」

    メイド「仲良くお散歩ですかー!?」

    やっぱりテンションの高いメイドさんたちに迎えられたのだった。


    18: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 07:38:07.55 ID:IY97jrkv0

    中に入ってみると、
    そこは天井が二階までが吹きぬけた、直線の廊下。

    左右に襖が連なっているが、
    ちょっと開いているところを覗くとこれがまた広い座敷。

    支配人「このあたりは宴会場ですねー」

    男「……なるほど」

    メイドさんたちが、その廊下を座敷をわたわたと走り回っている。
    掃除。たぶん。

    支配人「まずはフロントまで行きましょうか」

    男「え、ええ」

    圧倒されて、非現実がどうとかすっかり忘れて、
    俺はおずおずとその背を追った。


    20: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 07:53:46.81 ID:IY97jrkv0

    支配人「はい、ここがフロントです」

    男「思ったよりも遠かった……!」

    このフロントにたどり着くまでおよそ15分。

    支配人「無駄に大きくなってしまったもので。ははは」

    男「これは一人で歩いたら迷いかねないような」

    支配人「そうですねえ」

    支配人「ですが迷ったとしてもメイドさんたちがおりますからご安心を」

    男「あ、そ、そうか」

    支配人「とりあえず慣れるまでは、このフロントを基点にしていただければ」

    男「……わかりました」


    22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:01:05.13 ID:IY97jrkv0

    はあ、と気が抜けた。

    ここまでの距離もさることながら、
    途中にあった天井まで吹き抜けの、おそらく中央広場の大きさに
    すでに圧倒されて気力はなく。

    男「あの、どこか休めるところはありませんか」

    支配人「おお、これは失礼。疲れに気付かず」

    男「ああいや、気持ち的に」

    支配人「なるほど。であればそうですね。ちょっと手の空いてるメイドさん!」

    パン、と支配人が手をたたくと。

    メイド「はいはーい!!」

    メイド「あいてます!!!」

    メイド「超手すきです!!!!」

    メイド「めっちゃ暇です!!!」

    またわらわらと。


    24: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:06:36.79 ID:IY97jrkv0

    支配人「うーんそんなに暇になるほど仕事ないですかね?」

    メイド「「「ぎくっ」」」

    支配人「はいはい、仕事のある人は持ち場に戻る」

    メイド「ううー! チャンスがー!」

    メイド「恐怖政治!」

    メイド「ぱわはら!」

    支配人「お仕置きですかねこれは」

    メイド「「「それはやだー!!!」」」

    とまあ楽しそうなもので、散り散りに。

    そうして最後に一人。

    メイド「あ、わたし本当に手すきなんで……」

    支配人「おおよかった。一応サボりではない子がいましたか」

    支配人「ではこのお客さんを、疲れの癒せる場所にご案内してあげてくださいな」

    メイド「はーい」


    25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:21:04.79 ID:IY97jrkv0

    メイド「まだお風呂って時間じゃないですよねー」

    男「そうだね」

    メイドさん――茶髪のロングであった――についていきながら、
    ふとその言葉で思い出す。

    男「時間か、忘れていた。今何時だ?」

    メイド「1時半ちょいすぎですかね」

    男「……そうか」

    先ほどおきてから体感で2時間かかってない程度。
    となるとおきたのは正午くらいだったか。
    おそろしい寝坊であった。


    26: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:24:45.42 ID:IY97jrkv0

    メイド「んー、どっこがいいかなあ」

    男「色々あるのか」

    メイド「まあこれだけ広いんで」

    メイド「どんな感じがいいです? まずは布団とベッドなら」

    男「何故その二択」

    メイド「そりゃあ、ねえ」

    メイドさん、なぜか頬に朱を差した。

    メイド「しっぽりいきましょう」

    男「まてまてまてしっぽりはいかない。ゆっくりしたい」

    メイド「ええー。一人で?」

    男「一人で」

    メイド「異議申し立てです!!」

    男「却下します」


    29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:34:56.84 ID:IY97jrkv0

    メイド「そっかー、自分でするタイプかー……」

    男「ものすごい誤解だが」

    メイド「まあいいです。じゃあその気になったら呼んでください」

    メイド「待機してますんで」

    男「してなくていいです」

    メイド「わーつめたい」

    メイドさんはちょっとむすっとしつつ、

    メイド「それじゃこのあたりどうですかねー」

    と到着したのは、中庭らしき場所を見下ろせる一角。
    ちょうどバルコニーのようになっていて、座り心地のよさそうなイスが一つ。

    男「おー、これはゆっくりするにはいいな」

    メイド「お気に召しましたか」


    30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:38:08.13 ID:IY97jrkv0

    男「気に入ったよ」

    メイド「ふふ、気が合いますね。ここ、私のイチオシなんで」

    メイド「サボるときは良く使うんですよ」

    男「サボるのはどうなんだ」

    メイド「まあなんだかんだ暇ですしー」

    男「ふむ……、しかしサボるとお仕置きというのがあるのでは」

    メイド「あーあれは……あれは……」

    男「お?」

    メイド「あれは……いやだあ……」

    メイドさん、きゅうにしゅんとうなだれる。
    いったい何があった。


    31: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 08:58:41.77 ID:IY97jrkv0

    メイド「それじゃあ私、戻りますんでー」

    メイド「またなにかあったら呼んでくださいー」

    男「わかった。……つれてきてくれて、ありがとうな」

    メイド「いえいえこれしき」

    と多少不満なのか半分棒読みながら、
    そう言ってメイドさんが頭を下げたのをみて、
    俺はふう、と呼吸を整える。

    男(さて……、少し休憩をしてからしっかりと――)

    男「!?」

    なにか、なにか額に。柔らかい感触が!

    メイド「うふふっ」

    男「な、な、な、何を!!!」

    額に口付けを食らった!?

    メイド「お預けくらっちゃったんでー、これくらい許してくださいよう。えへ」

    男「こ、これ、これくらいってお前なっ!」

    とあわてる俺をよそに、
    メイドさんは「またよろしくおねがいしますねー!」と言って走り去ったのであった。


    32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:11:07.95 ID:IY97jrkv0

    男「うーむ……」

    まだ額にあの感触がのこっているな、とさすりさすり。

    男「まったく」

    あまりこういうのは、得意ではない性分であった。
    恥ずかしいというか。

    男「ま、まあ、忘れよう」

    男「それより落ち着かなきゃ」

    そうしてやっと深く息を付いて、何度か深呼吸。
    ようやっと落ち着きを取り戻す。

    男「えーと……」

    男「ああそうだ。これは本当に、夢なのか」

    正直なところ、そうとは思えない。
    が、だからといって何が分かるではない。

    男「うーむ……」


    34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:15:10.35 ID:IY97jrkv0

    男「少し……、寝よう……」

    落ち着いたら、どっと疲れが押し寄せてきた。
    たった二時間程度の時間ではあったが、
    あまりに非常識的な情報が多すぎる。

    男(頭が……、疲れているな)

    常識で考えようとして、何か色々疲れてしまっているようで。

    男(ああ、いい香りだ)

    ここはちょうど良い具合に植物の香りが漂ってきて、
    リラックスをするにはもってこいの場所であった。

    男(一度寝れば……、きっと)

    なんでもかんでも、
    きっと解決しているはずだ。


    37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:25:17.67 ID:IY97jrkv0

    10

    「ど、どうも、先日は……」

    「あ、い、いえ、違うんです、問題があったとかでなく」

    「ではなく、そ、その突然なのですが……!」

    「ここに私を置いてくださいませんか……っ?」

    「あ、ああ変な人ではないですよ!」

    「あすいません、落ち着きます……、一度お会いしてますもんね」

    「その、あの、色々と、ありまして……」

    「え!?」

    「い、いいんですか!?」

    「あ、で、でも、大丈夫ですか? 本当に?」

    「そ、そうですね、私から言い出して……」

    「……」

    「あ、ありがとうございます!!」


    38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:29:09.63 ID:IY97jrkv0

    男「……んぁ……」

    男「はっ!」

    眼がさめる。

    男「あ……」

    男「あー……」

    そこは寝たときと変わりなく、室内バルコニーのイスの上。

    男「なんて……、こった」

    正直寝ればさめると、思っていた。
    結構心底から。
    だってそうだろう。
    夢というのは、夢の中で寝てさめてまでも続くものではないはずなのだ。

    男「くそ……」

    その落胆は、思ったよりも大きかった。


    39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:35:12.87 ID:IY97jrkv0

    窓が近くにあるわけではなかったが――たんに閉切られただけかもしれないが――
    明かりがともっているところを見ると夜だと分かった。

    男「深夜……か……?」

    昼間のように少々浮ついたような空気の無いところをからして、おそらく。
    人の気配もなかった。

    男「どうしよう……」

    一瞬考えてから、

    男「あ、部屋に戻ればいいのか」

    と気付いてすぐ、

    男「道がわからない……!!」

    俺は頭を抱えたのであった。


    40: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:39:03.05 ID:IY97jrkv0

    男「め、めいどさんよーい……」

    明かりが行き届いているとはいえない廊下を、
    俺はゆっくりと歩き進める。

    男(大声なんて出せないしな……)

    男「めいどさーん……、いませんかー……」

    小さな声で呼んでみるが、やはりおらず。

    男「支配人さんでもいいんですがー……」

    おらず。

    男「フロントに戻ろうにも……」

    男「何も考えずにメイドさんについてきちゃったからそれすらも分からない……」

    男「俺のバカ……!」

    正直ちょっと、こころぼそく。


    41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:49:37.56 ID:IY97jrkv0

    その時突然目の前が真っ暗になった。

    ?「だーれだ!」

    男「!?」

    びくぅっと飛び上がる。

    ?「だーれだ?」

    もう一度聞かれて、隠したものが手の平だと気付いた。
    人がいたことに、心底ほっとした。

    男「メイドさんか」

    ?「ぶっぶー」

    おや、違うようで。

    男「それだと分からないな」

    ?「じゃあふりむいて」


    42: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 09:58:05.51 ID:IY97jrkv0

    女性の手の平の感触であったので、支配人ではなく。
    となるとお嬢さんかなと――声が違うようだったが――思いつつふりむくと。

    男「……」

    ?「……」

    男「だ……、だーれ、だ……?」

    本当に誰か分からなかった。

    ?「ぷっ……!」

    女性であった。間違いなく。

    男「む……」

    ただメイドさんの服は着ておらず、少々派手目な和服すがた。
    胸が大きなことが一目で分かった。

    男(え、襟が、はだけかけてるが……)

    聞き返してしまった俺が面白かったのか、
    彼女はしばらくくすくすと笑った。


    43: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:02:14.68 ID:IY97jrkv0

    ?「初めてだもんねわからないよね、ごめんごめん」

    男「い、いえ……。えっと」

    芸者「ああ、私ね。芸者さん、って呼ばれてる」

    男「芸者さんですか」

    なるほど旅館だし、芸者もいますか。

    芸者「ね、おにいさん。迷子でしょう」

    男「分かりますか」

    芸者「そりゃあ後姿がびくびくしてたもの!」

    芸者「きっと誰でも分かるよねー」

    男「お恥ずかしい限りで」

    芸者「あはは。……ね、なんでさっきから目そらし気味?」

    男「いやあ……」

    ちらっちら見える胸元が気になって、とは言えず。


    44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:09:39.79 ID:IY97jrkv0

    芸者さんに手を引かれて、歩き出す。

    芸者「おにいさんの部屋って、春の間だっけー?」

    男「え? あ、た、たぶん?」

    男「見た目は春でしたね」

    芸者「じゃあそうだー。ここからだとちょっと遠いね」

    男「ど、のくらいですかね」

    芸者「んー、といっても15分かからないくらい?」

    芸者「なれない人が歩いたら、遠いって感じ」

    男「な、なるほど」

    男(手を握られてるのが気になって上手くしゃべれん……!)


    46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:13:36.77 ID:IY97jrkv0

    芸者「夜一人だとここ怖いよねー」

    芸者「一応夜のみまわりメイドさんズもいるんだけどね」

    男「そそ、そうなんですか」

    芸者「……」

    男「……?」

    芸者「そうか、おにいさんはこの胸が気になっている!」

    男「は!?」

    いや確かに気になるけども。
    実はそれ以前の話でございまして。

    芸者「あははー、男の子だなあ」

    芸者「触る? 触っちゃう?」

    男「い、いいです、いいです近づけないでください!」


    47: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:24:09.77 ID:IY97jrkv0

    そんなふうに弄ばれつつ、
    春の間――というらしい――の前で芸者さんとは別れた。

    男「ここの女性はみんなああなのか……」

    ぼやいて、観音開きの扉を開き、回廊へ。
    そのまま部屋へと俺は戻る。

    男「ふう……、やっと落ち着いた」

    今気付いたが、部屋にも時計があった。
    時刻は二時を少し回っている。

    男「結構おそいな」

    男「まあ、これで心置きなく寝れる」

    実は座りながら寝ていたので、少々腰が痛かった。

    男「あれ。布団敷いてある……」

    男「あ、そうか、旅館だからメイドさんのだれかが」

    男「助かる……」

    俺はそうして、その日を終えたのだった。


    48: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:30:30.75 ID:IY97jrkv0

    翌朝。

    さすがに昨日は寝てばかりだったので、
    今日の朝は早い。

    男「んー、よし」

    一応期待はしないでもなかったが、
    やっぱり事態はかわっておらず。

    男「なに悩んでも仕方ない」

    男「大丈夫。今日からは正常運転だ」

    昨日の今日ではあるが、
    今が非常識なことは理解したつもりだ。

    男「腹を据えればなんとかなる」

    男「現実逃避なぞさっさとやめて、家に帰ろう」


    49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:46:31.74 ID:IY97jrkv0

    しばらく思考してみたが、考えはまとまらなかった。

    メイド「おはようございますー!」

    メイド「おやおきておりますね!」

    男「おはよ。もう朝食の時間かなにかか……?」

    メイド「いえまだですけど、それにつきまして」

    メイド「実は貴方にご招待がありまして!」

    メイド「招待に答えるならラウンジで!」

    メイド「ここで食べるならそれもOK!」

    メイド「どうします!?」

    男「招待……? ふむ」

    俺を誰が招待するというのか、うーむ。

    男「いやわかった、ラウンジってとこに、連れてってくれ」


    50: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 10:55:21.28 ID:IY97jrkv0

    そうしてつれられてきたのは、古民家風のラウンジ。
    檜でつくられているらしい。いい匂いだ。

    男「ああ、これはどうも」

    お嬢さん「あ! よかった、来てくださいましたか」

    男「誰かと思ったら、昨日のお嬢さんか」

    お嬢さん「はい、私です。ごめんなさい、突然」

    お嬢さん「あどうぞ腰掛けてください」

    男「ありがとう」

    男「一人で食べるよりは二人のほうがいいから」

    お嬢さん「そうですか」

    お嬢さんはなんだか嬉しそうである。


    51: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:06:15.95 ID:IY97jrkv0

    お嬢さん「その……」

    お嬢さん「……色々と気になることがあると、思うのですが」

    男「いいよ。食事が終わってからにしよう」

    お嬢さん「すいません」

    男「謝らなくても。何か速いうちに伝えておくことでも?」

    お嬢さん「……いえ、そうでは。では食事が終わってからで」

    男「うむ」

    朝食の間交わした口数は少なかったが、
    そう悪い空気でもなかったのでよしとする。

    ちらと食事をする彼女の横顔をみると、
    まだあどけなさののこる、幼い娘であることに気が付いたのだった。


    53: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:20:22.46 ID:IY97jrkv0

    食事が終わった後、俺はころあいを見計らって聞いてみた。

    男「ここは、いったいなんなんだ?」

    お嬢さん「ここは、現実逃避をするための場所です」

    お嬢さん「そのための、旅館です」

    男「それは分かってる。夢ではないのか?」

    お嬢さん「それは私には、なんとも……」

    お嬢さん「い、いえ、言えないとかではなく、本当にわからないのです」

    男「ふうむ、そうか……」

    男「では君は? 君はこの館の関係者ではないのか」

    お嬢さん「いえ、それは違います。私は外の人です」

    お嬢さん「……私も貴方と同じです」

    お嬢さん「現実逃避をするために、ここにやってきました」


    56: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:35:57.97 ID:IY97jrkv0

    俺と……、同じ?

    男「なら君が俺をここに連れてきた人、ではないのか」

    お嬢さん「はい、私ではありません」

    お嬢さん「私は貴方に、現実逃避をするのか否か、確認しただけで」

    男「……何故君が、確認を」

    お嬢さん「二つ理由があります」

    お嬢さん「一つは、確認の理由ですが」

    お嬢さん「ここに来た人は、現実逃避をするくらいです」

    お嬢さん「よほどの思い悩むことがおありです」

    お嬢さん「ですから、ここならばその現実から逃避できるのだと」

    お嬢さん「お伝えしたくて」


    59: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:38:07.24 ID:IY97jrkv0

    お嬢さん「もう一つは、私が確認をした理由ですが」

    お嬢さん「これは貴方をあの部屋に運び込んだのが、私だったからです」

    男「運び込んだ……?」

    お嬢さん「はい。正確には、メイドさんのお力も借りましたが」

    お嬢さん「貴方はあの日、既に館内部で倒れておりました」

    お嬢さん「既に、連れられてきたあとでした」

    お嬢さん「だから私は貴方を部屋へ運び込み」

    お嬢さん「これは身勝手なのですが、気になって、私は目の覚めるまで近くにおりました」

    お嬢さん「そうして目が覚めたとき、先の理由で、聞いたのです」

    お嬢さん「現実逃避、しませんか。と」


    60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:45:07.21 ID:IY97jrkv0

    なるほど、これで謎が解けた。
    あの日俺の目の覚めたすぐ近くに彼女が居たこと。
    そしてあんなことを聞いた理由。

    男「では他に、そもそも俺や君をこの旅館に連れてきた人物がいるのだな」

    お嬢さん「……そうなります」

    男「それは誰か、分かるか?」

    お嬢さん「それは……、その……」

    男「ん?」

    何かいいにくそうな顔をしたあと、しかし口を閉じきれず。

    お嬢さん「……支配人、かと」

    男「……ああ」

    そうか、たしかに順当に考えればそうなる。
    この旅館の支配人が、この旅館のことを知らないわけがない。

    男「なるほど、問い詰めるなら支配人が先だったか」

    男「わかった、ありがとう。ならちょっと、行ってくるよ」

    お嬢さん「……、……はい」


    61: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:48:15.47 ID:IY97jrkv0

    フロントに行くと、あっさり支配人は見つかった。

    支配人「おやおはようございます。朝食はとられましたか?」

    男「ええ、おいしかったです。それより、確認したいことがありまして」

    支配人「はあ、なんでしょう」

    男「俺をここに連れてきたのは、貴方ですか」

    支配人「おやこれはまた単刀直入な」

    男「どうなんです」

    支配人「ふふふ……!」

    男「……」

    何か悪の親玉がもったいぶるような間を置いて、

    支配人「私ですが、なにか」

    いともあっさりと。そういいのけた。


    64: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 11:53:45.22 ID:IY97jrkv0

    少々肩透かしを食らった気分である。

    男「どうして」

    支配人「どうしてもなにも……」

    支配人「貴方が現実逃避を望んだからでございますが」

    男「それは……」

    確かにお嬢さんにはそう言ったが……

    男「いや順序が逆だ! 俺はここに連れられてきた後に言ったんですよ」

    男「貴方に言ったわけではない」

    支配人「ほう」

    男「だから、ここに俺がいるのはおかしい」

    支配人「なるほど、そういう論法で」

    いったん間を置き。

    支配人「ふふ、ではお伝えしますが」



    支配人「貴方は間違いなく現実逃避を望みました。そして私がそれに応え、ここにお連れしたのですよ」


    67: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:03:13.61 ID:IY97jrkv0

    男「な……に……?」

    支配人「まだ、なにか」

    男「そ、そんなの記憶に……、ない、ぞ」

    支配人「はあ、左様で」

    男「俺は……」

    混乱しかけ、それでも必死に記憶を思い返そうと、試みる。

    男「ん……」

    いやしかし、何もそれを阻まない。
    すらすらと、記憶の途切れるところまでを俺は思い返すことが出来た。

    途切れる最後の日も、普段どおり。
    確かに退屈ではあったが、それは逃避するほどのものではなく。
    本当に本当に、普段どおりであったのだ。

    男「やっぱり、そうだ。普段どおり、だったんだぞ……?」

    支配人「そうでございますか」


    68: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:12:14.11 ID:IY97jrkv0

    記憶が途切れているのは、そこでこちらに移動したからだ。
    ちゃんと現実での最後の記憶は、思い出せている。
    別段おかしなものはない。

    男「何かの手違い……、なんじゃないのか」

    支配人「さて、どうでしょうね」

    男「……」

    男「と、とにかくそれなら話は簡単だ」

    男「俺は別に現実逃避なんてするつもりはない。さっさと返してはくれないか」

    支配人「ま、そう焦らず。ここで楽しんでから帰っても、損はないでしょう?」

    支配人「それともなにかお急ぎで?」

    男「ん……」

    そういわれると、特に急ぐことがあるわけではないのだが……


    70: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:19:41.39 ID:IY97jrkv0

    芸者「おやおやー、何かやってるとおもったら支配人におにいさん!」

    支配人「おやこれは芸者さん。どうもどうも」

    芸者「どうもー。なに、どうしたのおにいさん辛気臭い顔しちゃって」

    芸者「あ。また支配人、お客さんおちょくって遊んでたんでしょ」

    支配人「おやおや、そんなつもりは」

    芸者「おにいさんおにいさん、支配人はちょっとああいう悪い癖があってね」

    芸者「支配人とまともに話すとすぐ疲れるんだから」

    芸者「ま話は私がきいてあげるよー、私の部屋、くる?」

    男「あ、いや、その……」

    俺は支配人を見上げる。
    なんか、負けたような。

    支配人「どうぞどうぞ、ごゆっくりなさってきてください」

    男「……」

    なんともいたたまれない気持ちのまま、俺はその場を後にした。


    75: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:34:09.75 ID:IY97jrkv0

    もやもやの気持ちのまま、やはりというか彼女に手を引かれ。

    芸者「ここだねー」

    と前に立ったのは、観音開きのどこかでみたような。

    男「あれ? ここ、俺の部屋が」

    芸者「あー、違う違う。よく見て、模様が違うでしょ?」

    男「あ……」

    言われて気付く、その模様。
    春の間のものもうろ覚えだが、たしかに若干違うような。

    芸者「そいでは」

    開きまして。

    男「う、うわ」

    むわっと押し寄せたそれは草いきれ。
    暑い日差しを受けて昇った、その熱気。

    男「……これは」

    見上げた空に夏雲奇峰。
    季節はまさしく夏である。


    77: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:42:22.26 ID:IY97jrkv0

    芸者「夏の間へようこそー」

    男「これはまた……、信じられないな……」

    しかし同時に納得した。
    俺の部屋が春の間なら、それ以外の季節があってもおかしくはなく。

    芸者「春の間と同じで、回廊を進めば部屋につくんだよー」

    芸者「ま、造りは全然違うけどね。そもそも地形が違うから」

    男「そう、なんですか」

    たしかに春の間と違って、この夏の間には近くに川が見えたりしている。

    男「え、川!?」

    館の中に川? いやここは館の外?
    え、そもそも外ってどうなってる? 春と夏が共存してる?
    え? どうやって? あれ!?

    芸者「あははー細かいことは、考えない」

    芸者「ここは現実逃避をする場所、なんだから」

    男「そ、そりゃそうですが……」

    芸者「ささ部屋にいこう部屋にー」


    78: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:49:40.60 ID:IY97jrkv0

    部屋は、俺の四畳半の部屋よりは全然ひろく。
    というか。

    男「へえ夏の間には何部屋もあるんですね……、というかこれで既に一つの旅館のような」

    芸者「え? あー、そっか。気付かなかったのね」

    芸者「実は春の間もこんなふうな家というか旅館というか、そんなのが入ってるんだよー」

    男「えっ」

    芸者「ただ君の部屋が一番前で、でちょうどその部屋の裏にさらに回廊がまわってるから」

    芸者「最初から知ってるか、よく注意してないと分からないかもねー」

    男「ああ……、そう、でしたか」

    そういえば、まともにあそこを散策したことはなかった。なるほど。

    芸者「ままそんなことはおいといて」

    芸者「今お茶でも出すからちょっとまっててねー」


    79: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 12:56:40.75 ID:IY97jrkv0

    芸者さんが出て行った瞬間、はっとした。

    男「女性の部屋に、俺が……」

    しかも一対一である。

    男「これは……まずいんじゃないか!?」

    今更、冷や汗がたれる。
    そうだった、すっかり失念していた。

    昨日の彼女の態度をみるに、
    間違いが起こらないとは言い切れない。

    男「だ、だいじょうぶ、俺が、俺が折れなければ……」

    と気合をいれて少しの後。

    芸者「いれてきたよー」

    と出てきた芸者さんは、

    男「!?」

    ?「……」

    なんと子連れでございました。


    83: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 13:13:34.82 ID:IY97jrkv0

    芸者「あっはっははははは!! 違う違う、私の子じゃないよー」

    俺が「子連れでしたか」と漏らした途端の大爆笑。

    芸者「この子はねー、わらしちゃんって呼んでるのー」

    芸者「子供って意味ね。ほら私も芸者さんだし、貴方もおにいさんだし」

    男「あー……、なるほど」

    ここでは名前を名乗らないのが暗黙のルールなのだろーか。

    芸者「はい童ちゃん、ご挨拶」

    童「こんにちは」

    男「こんにちは」

    男(ん……?)

    なんか、目の焦点が俺にあってない?

    芸者「あ、ごめんねこの子、目、見えないから」

    男「ん……、そうでしたか」


    85: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 13:19:56.63 ID:IY97jrkv0

    男「この子とは、一緒にここで?」

    見た感じこの子はお嬢さんよりもさらに幼い。

    芸者「そうだよー。おにんぎょさんみたいで、かわいいでしょ」

    男「たしかに」

    黒く長い艶やかな髪、ぱっつんに切りそろえた前髪、
    その端正な顔立ちと和服であることもあいまって、それこそ日本人形のような。

    男(いや……?)

    そうではなく、そうではなく。
    まるで感情の無いような顔が、そう見せているような……?

    男(気のせいだろうか)

    芸者「それで、支配人さんとはどんな話してたのかな?」

    男「ああ、はい、えっと……」


    87: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 13:28:36.69 ID:IY97jrkv0

    芸者「あー、なるほどねー」

    男「はい。どうにも言ってることがかみ合わなくて」

    と話している間にも、童ちゃんは虚空を見つめ、眉根一つ動かさなかった。

    芸者「ま、そうだよねー」

    男「何か心当たりが?」

    芸者「んー……」

    童ちゃんの頭をさわりさわりとなでながら、

    芸者「あはは、よくわかんないや」

    男「そう、ですか……」

    芸者「でも、ここにきたってことはやっぱり何かあったんだと思うよー」

    芸者「支配人さんが言っていたことと同じだけど」

    芸者「急がないなら、しばらくここでゆっくりしていったらどうかなあ」


    90: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 13:48:09.15 ID:IY97jrkv0

    その後雑談――毒にも薬にもならないようなよしなし事だったが――をいくらか交わして、
    軽く散歩をしたあとに、昼食を共にとってから俺は夏の間をお暇をした。

    充実した午前中である。

    男「はあ、朝早くおきるとこうも色々と……」

    やることがあるほうが張り合いはあるが。

    支配人や芸者さんの言うように、
    とりあえずのところ俺は急いで現実に戻る必要は無い。
    それになんだかこのまま戻っても、
    いったいどうしてここに着たのかが分からず、もやもやがのこりそうだ。

    だからもうしばらく、ここに残ってみようかと思った。
    せっかくだから、何かあれば知りたいのである。

    男「しかし午後は、どうしようかな……」

    考えてみたが、特に浮かばず。
    仕方が無いので俺は、この館を散策してみることにしたのであった。


    92: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 13:56:35.49 ID:IY97jrkv0

    散策にて分かったのは、この館が思っていたよりもさらに広いということだった。
    その恐ろしい広さは、一日二日どころか一週間かけても全てを回りきれるようなものではなく。

    男「いやまて迷った……!」

    結局こうなる始末であった。

    ちなみにこのあとメイドさんをみつけて無事春の間に戻ったころには二十二時過ぎで、
    午後は一瞬にして吹き飛んだのである。

    収穫は、前に教えてもらった中庭バルコニーのようなものを、いくつかみつけたというところで。

    男「あそうだメイドさん、頼みごとが」

    メイド「はいはい!」

    メイド「なんでしょう!」

    男「明日の朝なんだが、お嬢さんを朝食に誘いたい」

    男「この前俺がやってもらったみたいに、できるか?」

    メイド「おお! 青い予感!」

    メイド「春の季節!」

    男「いやそうではなく、今日誘ってもらったから、そのお返しに」

    メイド「「はいはーい! 承知しました!!」」


    93: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 14:06:35.59 ID:IY97jrkv0



    「え、なぜ私が来たかですか?」

    「あはは、それ恥ずかしいんですけど……」

    「でも言わないと始まらないですよね、たしかに」

    「前にお会いした時に、貴方が言っていた言葉、あるでしょう」

    「お忘れですか?」

    「私あの言葉に、びびっとやられてしまって、一発でやられてしまって」

    「あはは……、はい。それですそれ」

    「私に言ってくれた言葉じゃないことは、も、もちろん分かってますよ」

    「でも、本当に忘れられなくて」

    「その、やっぱり最初に言っておくべきでした、ごめんなさい」

    「そ、そのまさかです!」

    「わ、わたし……は、貴方のことが!」

    「すす、す、好き……ですっ」

    「え……? あ、わわわ、大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!?」


    96: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 14:20:35.09 ID:IY97jrkv0

    翌朝、朝食の席

    男「そんなわけで、しばらくここに残ると、思う」

    お嬢さん「ああ……」

    お嬢さんは心底嬉しそうな顔をした。

    お嬢さん「よかった」

    なんとなく自分がいることを喜んでくれているようで、俺も嬉しかった。

    お嬢さん「あ、そうだ、今日の夕食は芸者さんと童ちゃんと一緒に、どうです?」

    男「おお、それはいい。……二人とは、知り合いなのか?」

    お嬢さん「そうですね……、結構」

    男「そうか。まあ同じ旅館にいるわけだし当然か」

    お嬢さん「あ、でもそうなるとあの方も……」

    男「あの方?」

    お嬢さん「ええ、もう一人、お呼びしたい方が。……構いませんか?」

    男「ああそりゃぜひ」


    98: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 14:38:21.27 ID:IY97jrkv0

    という会話があって、俺は夜まで空いた時間を、散策でつぶすこととした。

    二日ほど回って分かったのは、
    この旅館は一階から五階程度まではある程度整備がされているが、
    それより上は無法地帯だということ。
    建築物と建築物が入り組んだ、迷宮のような。

    確かに歩く道もあるし、階段もある。
    ただそれが整っているかというとそうではなく、
    そのデコボコ具合は人口の岩山のようなもので、
    その上あちこちがあちこちとつながっているものだから、
    どこがどこだかわからない。

    ゆえに六階以上に足を踏み入れたら、まず迷う。
    五階もあやしい。

    また登頂にも挑戦はしてみたのだが、
    いまのところ九階より上にたどり着いたためしは無い。
    もちろん帰りはメイドさんに手を引っ張られ。
    繰り返していたので、何度目かにはため息をつかれた。

    ただところどころにあったなんだか分からない部屋や、
    隠し扉のようなもの――中は見たが、怖気づいて入っては居ない――は、
    男心をくいくいとくすぐった。

    まだまだ分からないことばかりで、今後も要捜索だろうか。
    そういえば、メイドさんが洗濯物を干している場所は偶然だが発見した。

    そうして夜である。


    101: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 14:52:41.91 ID:IY97jrkv0

    集まりやすいだろうということで、吹き抜けの中央広場
    その三階にある八畳ほどの部屋。
    この部屋は少々吹き抜け側に出っ張っているので目立つ。

    男「こんばんは」

    お嬢さん「あ、こんばんは」

    芸者「やっほー。きたきたこれでそろったかな」

    童「……」

    男「あれ、もう一人いらっしゃるのでは」

    芸者「いやそれがねー、あの人誘ったんだけど、やっぱりこなくてー」

    お嬢さん「あはは……、まあ、あの人はこういうお誘いにはあまり」

    芸者「付き合い悪いんだからねー、もう」

    芸者「そうだ明日あたり皆で突っ込んでやろーか!」

    芸者「こっちからいくと結構突っぱねないし」

    お嬢さん「そうですねえ……、たまには」

    男(いったいどんな人なんだろーか……)


    103: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 15:01:21.51 ID:IY97jrkv0

    やはり複数人で食事をする、というのは素晴らしい。
    俺はあまりこういう経験が無かった。

    男「あ、そういえば。芸者さんとかは、ここで働いてるんです?」

    芸者さんはいつの間にかアルコールに手をつけていた。
    そのスピードが非常に速く感じられたので、心配しいしい話題を振ってみる。

    芸者「おわ、それ聞いちゃう?」

    男「え、なんでですか」

    芸者「あははー……、まあいっか。隠してたわけじゃないし」

    芸者「いや実は私もねー、おにいさんやお嬢さんと一緒なのよ」

    男「え!? と、ということは、つまり」

    芸者「そうそう、現実を逃避して、ここにきたわけー」

    芸者「童ちゃんもだよねー」

    童「こく」


    105: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 15:13:47.76 ID:IY97jrkv0

    男「はあ……、そうでしたか。そっか、なるほど」

    男「この館の支配人とメイドさん以外は、つまりそういうことなんです?」

    お嬢さん「私たちの知る限りでは、そうですね」

    男「なるほど」

    男「では、あと一人というのも」

    芸者「そうだよー。あと一人も私たちとおんなじー」

    男「そうでしたか」

    俄然、あうことが楽しみになった。

    男「明日、行くんですか?」

    芸者「んー、そうだねえ、行ってみようか?」

    お嬢さん「くす、そうですね」


    106: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 15:23:27.28 ID:IY97jrkv0



    「あ。お、おはようございます……」

    「昨日は早く寝てしまいましたが、大丈夫でしたか……?」

    「え、まだ寝る!? もう結構な時間ですよ!?」

    「あ、う……お、おこってます……?」

    「あ、あの、すいません、私……」

    「あう」

    「え、と……」

    「……!!」

    「あ、あの、あ、あの」

    「ありがとうございます……」


    108: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 15:28:17.15 ID:IY97jrkv0

    翌朝、十時ごろのことである。

    今日も朝食はお嬢さんととったのだが、そのあと。
    とても重大なことにきづいてしまった。

    男「まずい……、風呂に、風呂にはいって……なかった……!!!」

    いやなにがきっかけで思い出したというではなく。
    というか、四日目にしてやっと気付いたのが遅すぎただけ。

    男「まずい、変なにおいしてなかったか……!?」

    四日間そもそも正常でなかったゆえ仕方なかったにしろ、
    さすがに自室でひとりもんどりうった。

    男「あれ……? においが、あんまり……」

    男「自分のにおいだからなれたのか? いやしかし」

    男「メイドさん! メイドさんはおらんかね!」


    109: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 15:30:48.43 ID:IY97jrkv0

    メイド「はい!! メイドさんここに!!」

    メイド「おっとここにも!!!」

    メイド「よばれてとびでて!!!」

    メイド「ででーん!!!!」

    どこから沸いて出たのか一声かけただけでこの集まりようである。

    男「す、すまない、たいへんもうしわけないのだが」

    男「俺、へんなにおいしてないか……?」

    メイド「へんなにおい?」

    メイド「してる?」

    メイド「雄のにおいすらしない」

    メイド「さかってない」

    メイド「結論は?」

    メイド「「「しない!!!」」」

    男「うーん……、あてにしていいのかこれ」


    112: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 15:37:00.40 ID:IY97jrkv0

    男「ま、まあいいか……。メイドさん、俺に浴場をおしえてほしい」

    メイド「えっ欲情!」

    男「ちがう風呂場だ。湯殿だ。浴室だ。とにかく体を洗いたいんだ」

    メイド「ははあ、なるほど!」

    メイド「旅館なめてますね!」

    メイド「旅館といえばお風呂!」

    メイド「お風呂といえば旅館!」

    メイド「え、お風呂といったらトルコじゃない?」

    メイド「あ、たしかに」

    男「全然たしかじゃない」

    男「それはおいといて、ぜひともその旅館自慢のお風呂を教えて欲しい」

    メイド「「「らじゃー!!!!」」」


    117: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 16:07:52.24 ID:IY97jrkv0

    と言ってつれてこられたのは

    男「ああ、秋の間か」

    メイド「夜なら夏の間か冬の間なんですけどー」

    メイド「昼前のこの時間だと、桜か紅葉かなーって」

    メイド「話し合いの結果、紅葉を推してみる、ということに!」

    男「なるほど」

    観音開きの扉が開かれて。

    男「やはり圧巻な」

    さっと吹いた乾いた風に、ぶるっと身震いするのも一瞬。
    朱色の葉群れがさあっと眼前を通り過ぎて現れたのは、遠く色づく紅の偉観。

    見まごうことなく、それは秋。

    男「いや春夏と見てきたが、秋もまた素晴らしいなこれは……」


    118: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 16:16:29.95 ID:IY97jrkv0

    紅葉で敷き詰められた回廊を抜け、秋の間の屋敷へ。

    お嬢さん「どたどたと……何事です?」

    男「あ」

    お嬢さん「……え」

    襖の間から顔を出したお嬢さんと、目が合った。

    お嬢さん「わあっ」

    お嬢さんは俺を確認するやいなや、その見目好いかんばせをひっこめた。

    お嬢さん「わ、わ、すいません、はしたないところをっ」

    男「い、いや、べつにいつもどおりの……」

    メイド「バカですねー、お嬢さんのような奥ゆかしい女性は、ちゃんと人前に出る時は準備してるんですよ!」

    メイド「いつもどおりじゃあないんです!」

    男「あ、ああ、そうなのか……、すまない」

    先に伝えておいてくれと思わずにはいられなかった。


    120: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 16:21:39.33 ID:IY97jrkv0

    男「と、というかいいのか、ここは彼女の場所だろ」

    メイド「お風呂は皆自由につかってますよ!」

    メイド「私有地はお部屋のみでございます!」

    メイド「実は春の間のお風呂も普通に使われていたり!」

    男「気付かなかった……っ」

    メイド「まあそれぞれの季節風呂があるというのはうちのウリなんで!」

    メイド「超ファンタジックですけれど!」

    男「本当だよ」

    俺は適当にメイドさんたちをあしらいつつ、

    男「す、すまなかった。……風呂を少し、お借りしても良いだろうか」

    お嬢さん「え、ええ、ももちろん、こほん。……ぜひ使ってくださいな」

    挙動不審だったお嬢さんは、咳払い一つで冷静を取り戻した。

    男「では、お言葉に甘えまして……」


    124: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 16:30:14.65 ID:IY97jrkv0

    男「お、お前らな……」

    そんなわけで落葉舞う情緒豊かな露天風呂に入ったわけだが。

    メイド「いやー、しかしお風呂に誘われるなんて」

    メイド「ねー、ほんとびっくり」

    メイド「こんな一気にまとめてね!」

    メイド「いやしかしこういうところが男らしさというものでは!」

    メイド「どーかなー!」

    男「だれも誘ってなどいないだろう……!」

    メイド「ええ今更そんなこといってー」

    メイド「女に恥かかせようってんですか!!」

    メイド「ほらほらどうですどうです、結構いい体じゃないですか?」

    一応体にバスタオルは任せているのだが、
    にしても体のラインがくっきりと浮き出るのはどうしようもなく。

    なんだかあからさまに見せようとしているのも数名。

    男「ぐう……」

    こう、いろいろと、ね。大変。


    129: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 16:46:14.16 ID:IY97jrkv0

    俺は体を湯で何度か流してから、すぐに風呂へと逃げ込んだ。

    メイド「はーんにげちゃったー」

    メイド「お背中洗ってあげようと思いましたのにー」

    男「お前らこれ……、サボりにはならんのか……!」

    メイド「接待は仕事ですが!」

    メイド「間違いなく!」

    メイド「異議なし!」

    多勢に無勢。
    俺がなんと言おうと意味はなく。

    と、風呂場の縁、俺の目線の先に一人のメイド。
    縁に腰掛け、体を曲げて、これみよがしに柳腰の曲線美を見せ付ける。
    その体はそれだけで男を脅迫するような妖艶さ。

    振り向き後ろには待ち構えていましたと、また一人。

    そもそもここのメイドたちはそれぞれがそれぞれおそろしい美女ぞろい。
    ちょうど少女と女の中間のような年頃が多くそれがまたなんとも。
    もちろん容姿がというだけでなく、体付き一つとっても文句のつけようはない。

    それにもかかわらず、この媚態。
    俺とて我慢にも限界があるとは、おもわないかね。


    132: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 16:51:33.65 ID:IY97jrkv0

    メイド「うーん、じらすうー」

    メイド「ね、ね、いいの、きて?」

    男「く、しかし……っ」

    メイド「ほおらあ、もーっ」

    くいくいと内股をくねらせるそれがまたなんと艶美な。

    そのときであった。

    お嬢さん「あの……、大丈夫ですか」

    男「はっ」

    その肉付きの良い雪肌の太ももに、いまにもすがりつきかけていたのを必死にとどめる。

    男「いやっ、なにも!」


    136: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:03:49.11 ID:IY97jrkv0

    メイド「くっ!」

    メイド「あとすこしだったのに……!」

    メイド「なしくずせたのに!!」

    お嬢さん「……貴方たちはまた人がいやがっているというに」

    お嬢さん「やりすぎですよ。ほら、今帰れば言いつけませんから」

    メイド「「「ぐううう」」」

    メイドさんたちは無念そうな声をもらしながら、しぶしぶと退散していった。

    たたた、とお嬢さんがかけよってくる。

    お嬢さん「大丈夫ですか」

    男「ぐう、う」

    頭が、くらくらと。

    お嬢さん「ああ、これは……。んん、も、もうでてください」

    細い腕が、俺を引っ張っているような気がする。
    朦朧とする意識の中での、見間違いだったろうか。
    お嬢さんはバスタオルを、まいていたような。


    138: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:09:02.85 ID:IY97jrkv0

    男「む……」

    目が覚めるとそこは四畳半の和室。

    男「俺の部屋か……? あれ……」

    男「いや、なんか、あれ……」

    おぼろげな視界に、人影が?
    頭の感触は、いったい。

    男「あ……」

    男「あ」

    ピントがあって、ようやっと理解する。
    俺を覗き込んでいるその人影は、お嬢さん。

    ついでに頭に接触しているものも把握できてしまった。

    お嬢さん「お目覚めですか」

    男「こりゃ、どうも……」

    まだ頭はくらくらするが、
    ぱたぱたと仰がれる扇子のおかげで幾分かは楽なよう。

    つまりこれは、膝枕。


    140: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:15:56.11 ID:IY97jrkv0

    男「面目、ない……」

    メイドの誘惑にたぶらかされて、これである。

    お嬢さん「ほんとですよ、まったく」

    男「……」

    開く口も無い。
    ぱたぱたぱた。

    お嬢さん「事情は概ね、聞きました」

    お嬢さん「あの方たちに押し切られてああなったと」

    男「ぞろぞろとここまで全員が付いてきた時点で、気付くべきだった……」

    お嬢さん「とはいえ案内が一人でも、似たようなことにはなっていたでしょうに」

    しばし考えて、反論はできない。
    結局それでも風呂場までは入って来たに違いない。

    お嬢さん「まあ、今回のことは仕方ないとします。次からは、ないように」

    ぱたぱたぱた。

    男「はい……」


    141: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:20:12.25 ID:IY97jrkv0

    男「も、もう、大丈夫だ」

    お嬢さん「顔色よろしくありませんが……」

    男「いや、うん、大丈夫」

    俺が悪いというのに、このまま仰いでもらい続けるわけにもいかなかった。

    お嬢さん「お部屋まで付き添いましょうか」

    男「いやいや、本当、大丈夫だから」

    男「安心してくれ。部屋をでてすぐメイドさん捕まえて、そのままつれてってもらうよ」

    お嬢さん「そのままさっきみたいにならないでくださいね」

    男「いやきっと、さっきのは彼女達もテンションあがっちゃってただけだし……」

    一対一だと意外と穏やかではあるのは、一日目のメイドさんが証明している。

    男「それじゃ」

    お嬢さん「……お気をつけて」


    142: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:24:35.51 ID:IY97jrkv0

    部屋をでたところで。

    男「ああ、これ結構引きずってるな……」

    額に手を当てて、立ち止まる。
    頭がまともに働いていないのをはっきりと理解した。

    男「はやく部屋に、帰ろう」

    それだけが頭にあった。
    だから、ふらふらと。
    俺はメイドさんを呼ぶことをわすれ、
    足の向くままにあるきだしてしまったのだった。

    男「ええ、と、あっち、だったかな」


    144: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:37:27.23 ID:IY97jrkv0

    意識は覚醒すら半ばのようなまま、おぼつかない足取りを一歩、また一歩。
    ふらりふらりと進む先は、どこか明かりの届き難い場所へ。

    男「ええと……」

    見たことのない、怪しげな空気のただよう廊下に入っているような気はしないでもなかった。
    しかしいつのまにか地に伏した判断力は、鎌首をもたげる気配はなく。

    ふらり、ふらりと。

    だから、ふとした拍子にたどり着いたT字路で、
    おんもらと暗闇の立ち込める廊下を見ても、
    さほど危機感というものは感じなかった。

    ただ明かりのついた道に進むだけ、というところまでで。

    ギシ。

    すくなくとも、明かりのついた場所に人の気配はなかったのである。

    ギシ。

    音がしているのは、聞こえていた。

    男「なん、だ」

    だから俺は気になって、いや普段ならば気になってもさっさと逃げるのに、
    判断力のない俺はこのときばかりはゆっくりと、T字路の、暗闇の方へ、目を向ける。


    147: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:49:48.46 ID:IY97jrkv0

    男「誰か、いるのか……」

    人が歩いているような、そんな。

    ギシ。

    男「……だれ、か……?」

    暗闇から、ゆっくりと光の当たるところに這い出てきたものはやはり人影。

    男「……なっ」

    しかしながらぽうと浮かび上がったそれを、俺はしらなかった。
    ぞくっと背筋に粟が立つ。

    ギシ。

    腕を力なくおとし、左右にふらふら、髪はぼさぼさ。
    顔はうつむきかけで、そこには目と鼻にだけ穴の開いた仮面をつけていた。

    仮面「――」

    その身なりからおそらく男。
    まるで亡霊のように、そこに生気はない。
    寒気に、俺は強く身震いをした。


    149: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 17:58:44.93 ID:IY97jrkv0

    ?「バカやろう、そっちはいくな」

    そのとき強い力で肩をつかまれた。

    ?「そいつはだめだ」

    かなしばりにあいかけていた俺は、後ろに転倒しかける。

    ?「こっちに呼ぶなこいつを。おい、メイドいるか、メイド」

    パンパンと乱暴に手をたたく、また腹まで揺るがすような大声で叫ぶ。

    メイド「はいただいまー!」

    現れたメイドは一人。

    ?「こいつの相手。はやく」

    メイド「あらまあこんなほうまででてきちゃっていけませんねえ」

    ?「じゃあ任せた。お前はいくぞ、あっちだ」

    男「え? え……?」

    俺はわけの分からないまま連行されるのであった。


    151: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 18:08:12.32 ID:IY97jrkv0

    腕をがっしりとつかまれて、ぐいぐいと引っ張られていく。

    男「わ、ちょ、あるけます、あるけます!」

    俺がそういうと、怪訝そうな目を向けてから手を解いた。

    男「あの、貴方は」

    カタギ「カタギさん」

    男「は?」

    カタギ「一度で覚えろガキじゃねえんだ」

    男「あ、す、すいません、カタギさん」

    しばらくあるいて、中央広場。

    カタギ「ケガねえか」

    男「い、いえ」

    カタギ「よし。そんだけ歩けるなら、そのまま帰れるな」

    男「は、はい……」


    152: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 18:15:16.15 ID:IY97jrkv0

    そのガタイ、その風貌。
    どうみても筋者というか、まず小指が無い。

    いやあの状況ではとても心強かったわけではあるのだが。

    男「あ、あの、メイドさんは……!」

    カタギ「相手をさせた、それだけだ」

    男「ち、ちょっとまってくださいよ! あの変なのの!? 相手ってなんですか」

    カタギ「ああまた一からか面倒だ」

    カタギ「いいかよく聞け。あいつは理性を売った」

    カタギ「だから本能だけで動く。もう人じゃねえ」

    カタギ「逆に言えば本能を満たさせればなんとでもなる」

    カタギ「お前もみたがあいつは男だ。人間の」

    カタギ「女を与えて果たさせりゃある程度落ち着くし誘導もできる」

    カタギ「それと。ここのメイドどもも人じゃねえ、人形だ」

    カタギ「感情移入だけは絶対するな」

    男「え……、あの」


    160: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 18:40:58.19 ID:IY97jrkv0

    男「言っている意味が、よく……」

    支配人「はい、そのあたりで」

    カタギ「ん、お前……」

    支配人「帰りましょう、お客さん。今日は疲れたでしょう」

    支配人「うちの子たちがご迷惑おかけしたようで」

    支配人「それとカタギさん。貴方は唐突に1か0かの話をしだす。だめですよ」

    支配人「まあ、後はお任せください」

    カタギさんは軽く支配人を目で威圧した後、背を向けた。

    支配人「あなたの帰路は私が保証しましょう」

    支配人「それと少し補足を、しないといけませんね」


    161: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 18:48:57.32 ID:IY97jrkv0

    支配人「まずうちの子たち、メイドさんたちのことですが」

    支配人「彼は人形と言いましたが、それはある意味で間違っていない」

    支配人「しかしながら彼女達にはまぎれもなく、それぞれの感情がある」

    支配人「貴方も知っていますね?」

    支配人「ですからその点、ご注意を」

    支配人「また彼についてですが、悪気があるわけではないのです」

    支配人「ただとでも、不器用なだけで」

    男「……すいません、どうも、下手を踏んだようだ」

    支配人「なに、女性に対して意地を張るのは悪くありません」

    支配人「その結果なら、ね」

    支配人は、くすくすとわらったのであった。


    162: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 18:52:59.43 ID:IY97jrkv0



    「あははあ、なんだか今日は優れず……」

    「すいません、ご飯つくってあげらなくて」

    「ああいえ、そんな」

    「あ……」

    「おいしいです」

    「ふーふーしてください」

    「あは、やったあ」

    「これであしたにはすぐ回復しています」

    「ほんとですよう」


    163: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 18:57:35.10 ID:IY97jrkv0

    翌朝

    男「いてて……」

    まだ頭に鈍痛が残っているなか、起き上がる。

    メイド「あーおきたー!」

    メイド「おきたー!」

    男「ああこりゃ、どうも」

    メイド「元気ないないだとききました」

    メイド「仕方が無いので癒しにきました」

    男「えっ」

    メイド「いいえ本当は昨日私たちがやりすぎゃったせいだったので」

    メイド「ごめんなさいのご奉仕に」

    男「いや、そんな」

    メイド「「「なんでもしますから!! いってください!!!」」」


    166: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 19:05:14.83 ID:IY97jrkv0

    男「なんでもするの? ほんとに」

    メイド「え、えっと、はい」

    メイド「震えるねこちゃんですお慈悲を、にゃんにゃん」

    可愛い。

    男「あーそれじゃあマッサージとか」

    メイド「マッサージですか!」

    メイド「なんと!」

    男「どうだ?」

    メイド「ベリーグッドです!」

    メイド「健全なのに肌と肌のお付き合い!」

    男「あほなこといわない。そいではたのむよ」


    168: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 19:10:21.92 ID:IY97jrkv0

    メイド「さあ寝転んでください」

    メイド「馬乗られ好きな感じで?」

    男「いやそういうんじゃないが」

    俺はうつぶせに横たわると、
    一人のメイドは背に、もう一人は太もも当りで馬乗りに。

    メイド「はあ尻に敷かれて快感なんて、罪な人」

    メイド「お嬢さんもびっくり」

    いやたしかにこのやわい感触は何物にも変えがたくはあるが。

    男「え?」

    ぐいーっと肩と腰の辺りを同時にもまれていく。

    メイド「じつはお嬢さんからご招待ありまして」

    メイド「今度はお昼ご飯をどうですか、だそうでーす」

    男「そ、そお、か」

    なんか強くなったような。
    というか押すたびに反動で動くお尻の感触が。うむ。良い。


    170: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 19:23:21.92 ID:IY97jrkv0

    そうして体がすっきりとほぐされた後、俺はお嬢さんと共に昼食をとった。

    お嬢さん「昨日は、無事に?」

    男「お、おう、帰れたぞ」

    お嬢さん「本当ですか……?」

    男「ぶ、ぶじに。うん。本当に」

    お嬢さん「……、くす」

    お嬢さん「まあ、貴方がそういうなら」

    男「……おう」

    男を立ててくれたのだろうな、と思った。


    173: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 19:35:18.92 ID:IY97jrkv0

    昼食を終えて、俺は少し散策をすることにした。

    昨日の夜はなんやかんやとあって、
    あの方――おそらくカタギさんのところへはいけていない。
    だから今日の夜いくこととなった。

    それまでの間、少し時間をつぶす意味でも。

    男「ん……?」

    その時ちょうど前方に、見覚えのある。

    男「あ」

    それは一人のメイドさんだった。

    メイドさんは何人も居て、誰が誰だか分からないが、
    しかしながら彼女だけは覚えていた。

    茶髪の、ロング。

    初日に案内をしてくれた、あのメイドさんだった。


    303: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 03:56:22.34 ID:RfWIzW8F0

    男「ちょっとそこのメイドさん」

    メイド「はいはいー?」

    男「ああやっぱり君だな。この前はありがとう」

    メイド「このまえ、ですか?」

    男「ほら、この前。中庭バルコニーに案内してくれたろ」

    メイド「ああ、私のお気に入りの」

    男「そうそう」

    メイド「……。……案内?」

    男「え。うん」

    メイド「いえ、していないと、思いますが……?」

    男「してない……?」

    メイド「……はい」


    309: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 04:06:35.34 ID:RfWIzW8F0

    そのあと何度か聞いてはみたが、芳しい答えはなく。

    男(覚えて……いない……?)

    いや間違いなく彼女なのだ。

    男(これは……)

    ふと昨日の話に出てきた言葉がよみがえる。

    男(……人形、だから?)

    よく、分からない。

    ただそこで終わってしまうのはシャクであった。
    というのも昨夜の件で、
    この旅館が少々歪であるのは理解している。
    分かっていて振り回されるだけというのは、いやだった。

    男「ふむ……」

    ふと、思いついた。
    微々たることかもしれないが、出来そうなことはないでもない。
    俺はその日夜まで少しの間、その下準備にいそしんだのであった。


    311: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 04:18:27.18 ID:RfWIzW8F0


    冬の間の前で四人。

    お嬢さん「ここですよ」

    あの方、というのに会いにいくためである。

    芸者「わー、扉空ける前から寒そう」

    といいながら、観音扉を押し開ける。

    男「わ」

    突然の光に、一瞬目がくらむ。

    男(雪の反射か……)

    やはり一面雪化粧。
    月の光に照らされてキラキラと。

    枯木と小川がなければ地形も把握できないような、そんな真っ白な。
    冬の世界。


    312: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 04:24:36.39 ID:RfWIzW8F0

    他の間と同じく回廊を進み、冬の間の屋敷へ。

    その一室。

    芸者「私たちがきたよー」

    といって押し開けると、

    カタギ「……」

    その部屋の片隅、小さな机の前に
    本を片手にした男――カタギさんが、座っていた。

    カタギ「断りくらいいれたらどうだ」

    芸者「メイドさん経由でいかなかった?」

    カタギ「その前に、そもそも良いか悪いかの確認をしろというんだ」

    カタギ「伝えられたのは、『今日くるらしいですよ』なんて決定事項だけだった」

    芸者「だって聞いたらダメっていうじゃないのー」

    カタギ「……、……ふん」


    313: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 04:29:42.01 ID:RfWIzW8F0

    カタギさんはそうは言いつつ、
    座布団を五枚ほどひいては真ん中に机を持ってきてくれた。

    芸者「いっぱいお酒はもってきたから」

    カタギ「どうせお前が先につぶれる」

    芸者「そんなこたあないよ、今日はかなりイケるんだから」

    カタギ「飲み比べで負けた覚えが無いがね」

    芸者「やってみなきゃ。ねー童ちゃん」

    と芸者さんは童ちゃんの頭をなでるが、
    童ちゃんは特に何も言わずされるがまま。

    ここでお嬢さんが俺に耳打ちをしてきた。

    お嬢さん「芸者さんと、カタギさん、あれで仲いいんですよ」

    男「……なるほど、そういう」


    315: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 04:44:27.57 ID:RfWIzW8F0

    そうしてはじまったのが、酒盛りである。

    といってももっぱらアルコールを煽っているのは、
    カタギさんと芸者さんであったが。
    童ちゃんはちょこんと、芸者さんのひざの上に座っている。

    俺とお嬢さんは二人とのやりとりを見つつ、
    なんだかのんびりと。

    何か特別な会話があるわけでもなく、
    たわいなく飲み交わしているだけというのに。
    それはとてもしっくりときた。

    芸者「ね、どう、私ちょっときょう、つよいんじゃなあい」

    カタギ「いつもとおなじだ」

    芸者「そーんなことないよお」

    お嬢さん「飲みすぎでは」

    芸者さんはうつろうつろのとろけた目。
    その目はとても、色香のある。

    部屋は暖房がきいているのか、
    とても暖かかった。


    318: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 04:55:21.36 ID:RfWIzW8F0

    そのたけなわも過ぎた後。

    カタギ「ったく、結局こうなる」

    芸者さんは酔いつぶれ、
    童ちゃんはいつのまにか眠ってしまっていた。

    カタギさんはすぐに布団をしくと、
    手際よく二人を寝かせた。

    言いつつ俺も、そしてお嬢さんも、うつらうつら。
    お嬢さんが肩に、よりかかっていた。

    カタギ「おい、お前ら」

    男「ん……、あ、あ、すいません、まかせきりで」

    カタギ「お前男ならもうちょっとしゃきっとしておけ」

    カタギ「おいお嬢、起きてるか。布団しいてあるから、そこまで自分でいけるか」

    お嬢さん「ん……あ、す、すいません」

    お嬢さんはふらふらと、布団へ倒れた。
    いつもの折り目正しい姿とはうってかわって気の抜けた動き。
    それはとても、かわいらしく思えた。


    321: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 05:02:55.91 ID:RfWIzW8F0

    女三人、すっかりすやすやと。

    カタギ「人の部屋というのを分かっているのかこいつらは……」

    男「いつも、こんなかんじなんですか」

    カタギ「……」

    カタギさんは一瞬俺の目を見て、変な間を空けてから。

    カタギ「そうだ」

    なんだろう、今の。

    カタギ「……女の寝てる部屋にいるのは、よくねえな」


    322: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 05:13:49.18 ID:RfWIzW8F0

    もう、と湯煙。
    酔い覚ましがてらと来たのが、冬の間の露天風呂。

    男「これは風情のある」

    白い世界を見下ろす位置にある、岩でできたその湯船。
    俺とカタギさんはふたりで、そこにつかっていた。

    カタギ「今日は雪が降っていないから、よく見える」

    と、カタギさんは上を見上げて。

    男「ほお……」

    満天の星空、である。
    露天風呂で見上げる冬の夜空ほど、情趣に富んだものはそうそうない。

    カタギさんはどこからもってきたのか、
    木舟を浮かせて徳利におちょこ。

    カタギ「飲むか」

    男「いただきます」


    325: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 05:34:39.92 ID:RfWIzW8F0

    カタギ「気分、いいだろう」

    カタギ「ここは、こんなのばっかりだ」

    男「……?」

    カタギ「飯も、酒も、女も、出てくる。好きなだけだ。望むだけだ」

    カタギ「そのうえ。何をしていないで遊んでいても、誰も、攻めない」

    カタギ「何も、言われない」

    カタギ「現実を逃避する場所なら、これほど良い場所は、ない」

    カタギ「しかし、な」

    カタギ「何もしなくていいというのは、裏を返せば、どういうことか分かるか」

    男「え、っと……」

    何もしなくてもいい、というのは、つまり?
    どういう、ことか。


    326: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 05:50:02.49 ID:RfWIzW8F0

    男「何かをする必要が……ない……?」

    現実では、生きるために働く必要がある。
    三食を手に入れるだけでも、しなければなら無いことがある。

    しかしここでは。
    何もしなくても、三食に、寝床に、女に、
    そしてこの景色のような、旅館の癒しまでも、手に入れられる。

    カタギ「そうだ」

    カタギ「何も、する必要がない」

    カタギ「現実とここの、それがもっともたる違い」

    まさしくこれが、逃避の姿。

    カタギ「当然のことだが」

    カタギ「言ってしまえばそれは、ここでは何も出来ない、ということだ」

    カタギ「ここでの全ての目的は、俺たちが手を加えるまでもなく完了する」

    カタギ「何かのために動く、という行動の全てが、意味をなさない」

    カタギ「俺たちにすることはなにも、ない」

    カタギ「これほど無気力なものも……、ないとはおもわないかね」


    332: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 06:26:53.20 ID:RfWIzW8F0

    カタギ「まあ、自分にそう言い聞かせて」

    カタギ「もう十年も、たったがね」

    男「えっ!?」

    それには驚いた。
    ここまで明らかに否定的な意見だったのに。

    男「ここに、十年も……?」

    カタギ「ああ」

    カタギ「ここが馬鹿馬鹿しいと、分かっていても」

    カタギ「それでも」

    カタギ「現実に戻るよりは、幾分もマシなんだよ」


    334: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 06:31:58.43 ID:RfWIzW8F0



    「今日は元気だったので、どん!」

    「特性のハンバーグです」

    「手ごねです、愛がこもってます」

    「ふふふ、どうですか」

    「あ、あの……」

    「お、おいしいですか……?」

    「おいしいですか!」

    「わたしもたべてみます」

    「……」

    「……うっ、こ、これは……」

    「もう少し勉強してきます……」


    337: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 06:39:13.59 ID:RfWIzW8F0

    翌朝
    俺はすぐに、昨日の仕込みを確認しにいった。

    男「ふうむ」

    男「やはりか」

    俺が昨日やった仕込みというのは、
    見かけたメイドさん全員に話しかけて、
    その容姿と、会話の内容をメモにとっただけである。

    ただそれは、一つの結果をもたらした。

    男「十六人のメイドに話しかけて……、二人、覚えてない子がいた」

    茶髪のメイドさんは、俺の事を覚えていなかった。
    けれどたとえば風呂場事件の翌日に、
    俺に謝りにきてくれたメイドさんもいた。

    記憶を維持している子と、いない子がいた、ということである。
    俺はそれに疑問を持ったのだ。

    だから、調べた。
    そしてその結果が十六人中二人。

    この二人の共通点は、いまのところ見られない。

    男「もう一日、ねばってみるか」


    338: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 06:47:57.45 ID:RfWIzW8F0

    十六人中二人が、一日前に話した内容と
    そもそも話したこと自体を記憶していなかったのだ。

    となれば明日以降もそれを続ければ、もしかしたら比較が、できるかもしれない。

    そんなことを、朝食の席でお嬢さんに話した。

    お嬢さん「……そうですね」

    男「なにか、気になることが?」

    お嬢さん「い、いえ……、なにも」

    男「そうか」

    時たま見せる彼女達の何か隠しているような素振り。

    男「何か、隠してる、か?」

    お嬢さん「あ、あはは、そんなことは、まさか」

    お嬢さん「何も、本当に、何も」

    お嬢さん「ですから、その、また今日一日をゆっくりと、お過ごしください」


    340: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 06:56:33.71 ID:RfWIzW8F0

    隠していることを無理に聞き出しても仕方ない。

    男「そういえば、カタギさんはここに十年いると言っていた」

    男「俺はまだ六日間しかいないが」

    男「お嬢さんは、どれくらいいるんだ?」

    お嬢さん「そうですね、もう七年には、なるでしょうか」

    男「七年……」

    男「正直、あきないか? 何もすること無いだろう」

    お嬢さん「……それは」

    お嬢さんが、その朱唇を一瞬噛んだ。

    お嬢さん「いえ、そんなことは、ありませんよ」

    お嬢さん「編み物や、小物作りが私の趣味ですが」

    お嬢さん「その材料は言えば持ってきてもらえますから。作って、遊んだり」

    男「ああ、そういうこともできるのか」


    343: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 07:11:53.71 ID:RfWIzW8F0

    朝食が終わって分かれてから。

    男「……あ」

    そういえば、ここでの時間ってなんだろう。
    と思ってすぐに支配人のところへ。

    支配人「ここでの時間ですか、まああるといえばありますが」

    といって時計を指差して、

    支配人「ないといえばないような」

    腕を組んで虚空を見つめる。

    男「曖昧な」

    支配人「だってここ、現実逃避の場所ですし」

    支配人「時間なんて気にしてたら、逃避できます?」

    男「……む、そういわれると」

    支配人「ここでは、望むなら一生だってここに居られるんですよ」

    支配人「だからそんなに気にせずとも」


    345: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 07:24:22.19 ID:RfWIzW8F0

    男「あ、あと、ここのメイドさんたちって、記憶力が低かったりします?」

    支配人「いえ、そんなことは。一般の人間レベルですよ」

    男「え、ほんとに?」

    支配人「はい。記憶力が特別低いということはございませんが」

    男(んー……?)

    メイド「あ、お客さんお客さん!」

    メイド「ちょっとちょっと!」

    男「おわ、どうした」

    メイド「夏の間の芸者さんからお呼び出しですがっ」

    メイド「いかがいたしましょう!」

    男「ああ、なるほど。わかった、いくよ」

    男「それじゃあ、すいません。またあとできます」

    支配人「はい。いつでもどうぞ」


    347: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 07:30:36.68 ID:RfWIzW8F0

    男「二日酔いですか……」

    芸者「うん、あはは、もうだめだあ、あたまがあ」

    男「やっぱり飲みすぎだったんじゃないですか」

    芸者「だって負けたくなくてー! うぐう」

    芸者「あーでー、私こんなだから、童ちゃんとお昼ごはん一緒にたべてあげてくれないかなあ」

    芸者「朝は私起きなかったから、一人でたべたらしいし……、かわいそうなのお」

    男「な、なるほど、分かりました」

    芸者「うー、それじゃ」

    言うだけ言うと、芸者さんはぱたんと倒れて、眠りこけてしまった。
    胸がはだけて、というか半分みえかけて。

    男「うーむ、無防備な」

    今更ではある。


    349: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 07:43:45.37 ID:RfWIzW8F0

    メイドさんに案内されて、童ちゃんの居る部屋へ。

    男「こんにちは」

    童「こんにちは」

    男「えーと、お昼いっしょに食べようと思うんだけど、いいかな」

    童「おねえちゃんが二日酔いだから?」

    男「おねえちゃん? あ、ああ、芸者さんか。そうそう」

    童「わかった」

    ほっとする。

    男「ここでいい? 外にいく?」

    童「どっちでも」

    男「え、えっとじゃあ、いつもは?」

    童「おねえちゃんのお部屋」

    男「そっかじゃあ、ここでいいかな……」


    350: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 07:50:40.43 ID:RfWIzW8F0

    一緒にご飯を食べるのだが、こう、会話がうまく成立しないような。

    男(むむむ……)

    会話はするのだが、機械的というか。
    興味をつかめていないのだろうか。

    男「芸者さんとは、いつもどんな感じなんだ?」

    童「?」

    男「あ、えーと、例えば会話とか」

    童「おねえちゃんがずっと喋ってる」

    男「童ちゃんは、何か話したりしないのか」

    童「とくには」

    男「そ、そうか……」

    返答はあるものの、こんな風に会話の接ぎ穂がなくなるのである。


    353: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 08:00:42.48 ID:RfWIzW8F0

    顔も無表情で、何を考えているのかも良くわからない。
    でもせっかくの一対一の時間なので、
    俺は彼女を散歩に連れ出してみた。

    男「んー、夏だなあ。夏はいい匂いがするな」

    話しかけるが特に返答はなく。

    男「……いい匂いだと、おもいません……?」

    疑問系で聞くと、返答をしようとこちらを向いてくれるのだが。

    童「……」

    首を傾げるだけだった。

    男「そうだ、何か遊んでみよう」

    花冠をつくってみたり、草相撲をしてみたりと試行錯誤はしたのだが。
    面白そうな顔どころか、表情を変えさせることはできなかった。


    354: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 08:10:04.90 ID:RfWIzW8F0

    三時ごろになって帰ると、

    メイド「あー、着物よごしちゃって!」

    メイド「お洗濯お洗濯!」

    メイド「お二人ともお風呂へ!」

    となって。

    男「あの、ご年齢はおいくつですか」

    童「九つ」

    童ちゃんとお風呂にはいることになりました。

    男(これはセーフか、セーフだろうか)

    年齢的には、まだ、まだ子供。
    大丈夫……? ギリギリ? きっと?

    むしろそれを考えてるほうが、アウト?


    357: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 08:26:27.14 ID:RfWIzW8F0

    芸者「お風呂までいれてもらっちゃって、ごめんねえ」

    男「い、いえ……ははは」

    童ちゃんはほとんど自分から動かなかったので、
    俺が体を洗ってあげたのだが、
    なんだかすごく後ろめたいような。

    芸者「昼間ずっとねてたら大分回復したし」

    芸者「お礼に今日は私が夕飯をつくってあげよー」

    男「おお、それはうれしい」

    芸者「あでもそれならお嬢さんも手伝いによぼう! いいよね」

    男「え、ええ、ぜひ」

    芸者「……あ」

    男「どうしました?」

    芸者「あ、ううん、やっぱりお嬢さんはご招待ということで」

    男「ん……?」

    何が違うのだろーか。


    359: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 08:36:06.53 ID:RfWIzW8F0

    芸者さんの作ってくれた食事は、
    この旅館でよく出るお膳にしっかりのようなものでなく、
    とても庶民的なものだった。

    それがなんだかとても嬉しかった。

    芸者「どー?」

    男「おいしい」

    お嬢さん「おいしゅうございます」

    芸者「あははー、よかった」

    芸者さんご満悦の顔。

    芸者「それでおにいさん、今日はどうだったー? 童ちゃんとのデート」

    お嬢さん「デ」

    男「いやデートなんてものではないが……、どうしたお嬢さん」

    お嬢さん「い、いえ。私もその話がききたく」

    男「た、たいしたことは……」

    なんだろう。
    この威圧感。


    363: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 08:51:34.01 ID:RfWIzW8F0

    芸者「あははーやっぱり。難しかったでしょー」

    男「あまり、楽しませてあげられなかったようで……」

    芸者「んーん、外に連れてってくれただけで、良かったよ」

    芸者「この子、こういう子だから」

    童ちゃんを人形のように抱きながら、

    芸者「この子はねー、感情をみせてくれないから」

    男「それは、たしかに」

    芸者「会話してておもったとおもうけど」

    芸者「答えのある問いかけには答えてくれるんだけど」

    芸者「本人の感情によって変わるものは、答えてくれないんだよねえ」

    そういえば、思い返せば。

    >男「ここでいい? 外にいく?」
    >童「どっちでも」

    >男「……いい匂いだと、おもいません……?」
    >疑問系で聞くと、返答をしようとこちらを向いてくれるのだが。
    >童「……」
    >首を傾げるだけだった。


    364: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 08:58:48.69 ID:RfWIzW8F0

    芸者「感情がない、とは思いたくないんだけどねー」

    いいこいいこ、と芸者さんは童ちゃんの頭をなでる。

    男「……あ、あります、ありますよきっと。だって」

    >童「おねえちゃんが二日酔いだから?」

    男「童ちゃんから、聞いてくれたから」

    芸者「あー……、あはは、そうだといいんだけど」

    芸者「でもそれはたぶん、いつもと違うからだなあ」

    芸者「確認しただけかも」

    男「ん……」

    そう言われると、なんとも。

    芸者「あははまあいいんだ。一緒にいてくれれば」

    芸者「ねー」

    童「……」


    367: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 09:11:21.61 ID:RfWIzW8F0

    男「お二人はいつ頃から一緒に?」

    芸者「んー、私がここに来た時からずっとだから、四、五年前かなあ」

    お嬢さん「ずっと一緒ですものね」

    芸者「そうだねえ」

    男「一緒にきた、とか」

    芸者「ちがうよー、童ちゃんが先にいたの」

    芸者「童ちゃん、ここに来て何年経ったっけ?」

    童「二十三年」

    男「えっ、年齢より多い……?」

    二倍以上である。
    しかし体は確かに九歳のままだ。
    ……なるほど、ここでの時間はあってないようなもの、か。

    男「しかし、カタギさんより古いとなると……、一番古いのか?」

    お嬢さん「あ……」


    371: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 09:24:05.25 ID:RfWIzW8F0

    童「一番古くはない、私より古い人は、いる」

    男「え? 誰?」

    ここにいる四人とカタギさん以外に、他にいるというのだろうか。

    童「仮面さん」

    男「……え、…………あっ」

    >男「この館の支配人とメイドさん以外は、つまりそういうことなんです?」
    >お嬢さん「私たちの知る限りでは、そうですね」

    男「……そ、そう……なのか?」

    お嬢さん「……彼を、ご存知なのですか?」

    男「一度、夜に。……あ」

    お嬢さん「……ああ。……なるほど、やはり、あの夜」

    男「あ、いや、あの……」

    男「ごめんなさい……」


    375: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 09:44:44.97 ID:RfWIzW8F0

    男「彼は、どれくらい……?」

    童「分からない」

    男「そうか……」

    仮面のあの男は、
    その風貌からもっと別の何かと思っていた。

    男「い、いや」

    >カタギ「いいかよく聞け。あいつは理性を売った」
    >カタギ「だから本能だけで動く。もう人じゃねえ」

    もう人じゃない。つまり元は人だった? どうしてそうではなくなった?

    男「カタギさんは理性を売った、って言ってた。……どういう」

    お嬢さん「……!」

    芸者「あははー、どういうことだろ。わかんないなあ」

    男「何か、知ってますよね……?」


    378: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 09:58:29.67 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「……彼は考えることを止めたのです。それだけのことです」

    男「考えることをやめた……」

    一瞬、背筋がぞっとした。
    考えることをやめた? つまりそれは……?

    しかし俺はその考えを、いま思考すべきではないと思った。
    別の所に問いを移す。

    男「でも売った、のだろ? それは?」

    お嬢さん「カタギさんが、そういう言い方をしただけ、では」

    男「……」

    それはやはり、無理やりな。

    男「……どうして」

    男「どうしてそう、隠すんだ……?」

    俺がいったい、何をした……?

    お嬢さん「……それは、」

    芸者「おにいさんおにいさん」

    芸者「女の子を困らせちゃ、だーめよ」


    381: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 10:07:30.16 ID:RfWIzW8F0

    その日はそれでお開きとなった。

    最後に芸者さんが、
    「お嬢さんは、貴方のためを思ってるんだよ」
    と言ってくれたことが耳に残っている。

    いや分かっている。
    隠しているのは、悪意の所業ではきっとない。
    ただそれでも、気になって。

    男「自分で、探すしか……」

    明日、カタギさんに「売った」の意味を聞きにいこう。

    そうして俺は布団に入った後。

    男(でもそれらはまだ……)

    考えることをやめた。
    その一言が耳に残っている。

    なぜならそれは、
    現実逃避の極限。

    この場所で、もっとも恐れるべきものでは、ないのだろうか。


    386: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 10:23:14.10 ID:RfWIzW8F0



    「あの、ちょっと変なこと、かもしれないんですけど」

    「え? いつも変!? ううう」

    「変な質問を、するんですけどっ」

    「あの、先日一度、お会いしましたよね」

    「はい。……でも、あの前に、会った覚えとか、ありませんか?」

    「……」

    「そうですか……」

    「全然、ですか?」

    「……、……そうですか」

    「…………。……このあと、……なの?」


    392: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 10:42:05.34 ID:RfWIzW8F0

    翌朝
    お嬢さんとの朝食を終えて――いつのまにか習慣になっていた――
    俺はまたメイドさんに確認をおこなった。

    男「また、進展したな」

    昨日「一昨日の記憶」をうしなった二名は、
    今日は「昨日の記憶」を覚えていた。

    その代わり、別のメイドが記憶を失っていた。
    十六名中三名。
    ただ今回一つ新しく分かったことがある。
    それは、一日前だけでなく、二日前の記憶もなくなるということ。

    今日記憶をなくしていた三人は、
    昨日一昨日と二日間会話をしてメモをとったのだ。
    それをどちらも忘れていた。

    ここからわかることは。

    男「ある一点を境に、それ以前の記憶がリセットされている……?」

    そのリセットの場所は、メイドさんそれぞれで異なっているのだろう。
    だから、昨日忘れた子と、今日忘れた子がいる。

    男「忘れた後にまた記憶の蓄積が再開されているのをみると」

    男「何日かで周期になっている可能性も……?」

    とにかく、また明日のデータが、楽しみだ。


    394: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 10:48:28.44 ID:RfWIzW8F0

    その後俺は、冬の間へと向かった。
    冬の間の屋敷の部屋までは、移動が寒い。

    男「カタギさん、いますか?」

    カタギ「どうした」

    カタギさんは部屋の中へすんなりと通してくれた。

    男「聞きたいことが、ありまして」

    と、昨日の話をしてみる。

    カタギ「ははは、遅かったな」

    男「はい?」

    カタギ「実は昨日の夜、芸者のやつがきてな」

    カタギ「絶対聞きに来るから、と口止めしていった」

    男「な……!」

    先を、越されていた。


    396: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 11:00:32.10 ID:RfWIzW8F0

    男「うーむ……。隠すのが表立ってきた……」

    俺が昨日何故隠すのか、なんて聞いたからだろう。

    カタギ「毎度あいつらが隠すのも分かるっちゃあ分かるんだがな」

    カタギ「俺も巻き込んで、なんてのは簡便してほしいもんだ」

    カタギ「俺は別にどっちでもいい」

    カタギ「いやむしろあいつらが隠せば俺に聞きに来るんだから」

    カタギ「いっそ一から十まで話しちまってくれたほうが俺は気楽なんだがね……」

    案に俺が質問に来ているのが面倒くさい、
    と言われているようでもうしわけがない。

    カタギ「まあこれも渡世の義理か」

    カタギ「先に口止めされちまったんだから、言えないわな」

    男「そこをなんとか」

    カタギ「なんとかならねえのが義理なんだなあ」


    398: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 11:10:11.48 ID:RfWIzW8F0

    カタギさん、すこし楽しそう。

    男「カタギさんやっぱり極道ですよね」

    カタギ「元だ元。今はカタギだ」

    カタギ「ところでどうだ、せっかくきたんだ」

    カタギ「一杯やっていくか」

    男「え、どうしたんですか」

    機嫌いいですね、と言おうとして
    既に空いたビンが後ろにあることに気づく。

    なるほど、昼からやってましたか。

    男「なら、すこしいただきます」


    402: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 11:18:17.78 ID:RfWIzW8F0

    カタギ「わけえなあおい」

    年をいったら、そんなことを言われた。

    男「どうですかねえ……」

    なんだかんだ、結構年をとってしまったような。

    カタギ「俺の半分かそこらじゃねえか」

    男「そりゃまあそうですけど……」

    カタギ「てーなると色恋沙汰ばかりだろ」

    男「いや、そんなことは。むしろなにもなく」

    カタギ「っはー、わけえのにもったいないなあお前」

    なにかこう、胸をえぐられるような。

    男「あ、でもお見合いくらいならしたことありますよ!」

    張り合ったら笑われた。


    406: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 11:38:31.99 ID:RfWIzW8F0

    支配人「色恋話と酒の匂いにつられまして~」

    男「おわ!?」

    いつのまにか支配人が部屋へと。

    カタギ「おう、来たか。座れ座れ」

    支配人「失礼いたします」

    とくとくと酒が出されて。

    男「え、あの……?」

    支配人が神出鬼没なのはいいとして。
    カタギさんなんでそんな自然に。

    カタギ「飲み仲間だが」

    支配人「ええちょくちょくと」

    カタギ「今日は来るって話だったしな」

    支配人「はい、今ちょうど手すきになりましたので」

    支配人「いいですね、たまには男三人も」

    男「わ、わあ……」


    410: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 11:57:38.00 ID:RfWIzW8F0

    カタギ「で、その見合いの相手はどんなんだったんだ」

    男「いや、それが恥ずかしくて、あまり顔が見れなくて……」

    カタギ「青いなあ、お前」

    支配人「青春ですねえ」

    男「し、しかたないじゃないですか、初めてでしたし……」

    男「でも、とても綺麗な人でした」

    支配に「おやほれたので」

    男「いやほれた、かどうかは……、いや俺なんかが好きになっても」

    カタギ「男らしくねえなあ」

    カタギ「ついてんのか、お?」

    男「つ、ついてますよどこさわってんですか!」

    支配人「これは立派な」


    416: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 12:09:35.94 ID:RfWIzW8F0

    男「……正直、俺、取り得らしい取り得もないですし」

    男「だからなんていうか、好きになるのも、申し訳なくて」

    男「でもその、だから」

    男「もし俺を好きになってくれる人がいたら」

    男「俺はその人のために全力で一生をかけられるかな、って」

    カタギ「究極の受身だなお前」

    男「ぐ……、か、かなり真剣にそう思ってるんですけど……」

    支配人「いやでも中々格好いいじゃないんですか?」

    支配人「一生かけるって、すごいですよねえ」

    カタギ「どうせ男女なんて切った張っただろうに」

    男「お、俺はそんなことは……」


    419: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 12:26:51.19 ID:RfWIzW8F0

    支配人「でも本当に、一生かけられます?」

    支配人「人間の方々って、結構色々なところで一生って使いますけど」

    支配人「でもその言葉、実際良く考えると重いですよねえ」

    男「……人を好きになるって、すごい体力つかうじゃないですか」

    男「叶う叶わないとか、叶ったあとも、だめになるかもとか」

    男「それなのに、好きになってくれる人って」

    男「俺にしたら自分に釣り合わないほど価値のあることなんです」

    男「だから、……もしそんなことがあったなら。きっと」

    支配人「ほお……」

    支配人はくすくすと、カタギさんは少々にやにやとしつつ。

    支配人「いや見てみたいものですね」

    支配人「人は本当に、他の誰かに一生をかけられるのか」

    男「……」

    酔った勢いで、俺は今とても恥ずかしいことを口走っていたのではなかろーか。


    425: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 12:40:49.85 ID:RfWIzW8F0

    さてそんな話をしながら夜まで。
    俺たち三人はなんやかんやと話をして、
    お開きになったのが23時過ぎだったろうか。

    男「ちと、のみすぎたな……」

    後半、何を話していたのかも正直よく覚えていない。
    ちなみに帰りは支配人が付き添ってくれたので、
    前のようなことにはならなかった。

    男「はやく、ねよう……」

    明日は二日酔いになっていそうだ。
    そう思いながら、俺は布団に倒れこんだ。


    426: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 12:45:03.52 ID:RfWIzW8F0



    「あ、だ、大丈夫です、大丈夫」

    「すいません……、くらっと」

    「病院ですか? い、いえそこまででは」

    「……ありがとうございます」

    「本当に必要だと思ったら、頼みますね」

    「ふふ」

    「それより、貴方はお仕事をがんばってくださいな」

    「今が大事な時期と聞きました」

    「どうですか、いい感じなんですか?」

    「そうですか!」


    428: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 12:55:50.10 ID:RfWIzW8F0

    男「ぐ……」

    やはり、二日酔い。
    起きた瞬間に分かるほどである。

    男「あー、頭が……、がんがんする……」

    男「メイドさん、メイドさん、どなたか……」

    なけなしの力でぽふぽふと布団をたたく。

    メイド「はいはーい、おや、ダウンですか」

    男「はい、ダウンです……、二日酔いで」

    男「水と……効きそうな薬を……」

    メイド「承知しました少々おまちを!」


    430: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 12:59:09.11 ID:RfWIzW8F0

    といって数分後。

    お嬢さん「だ、大丈夫ですか!?」

    と入ってきたのがお嬢さんであった。

    男「結構きびしいです……」

    後ろから水をもったメイドさんもついてきた。

    メイド「はい、水と効きそうな薬です!」

    男「え……、薬は……」

    メイド「お嬢さん、効きません?」

    男「な……」

    そういう意味か。

    お嬢さん「もう……、はい、ちゃんと薬もってきましたよ」

    男「さすが、お嬢さん……、助かる」


    435: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 13:10:37.22 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「どうしたんです、二日酔いなんて」

    男「いや昨日、カタギさんと支配人と、飲んでたら……」

    お嬢さん「ああ……、なるほど、そういうことでしたか」

    男「なにか……?」

    お嬢さん「さきほど芸者さんが、『介護してくるー』と言って冬の間にいきました」

    男「ああ……」

    メイド「支配人も珍しく今日は飲みすぎたーって、言ってました」

    メイド「いつもは飲んでもケロっとしてるのに」

    お嬢さん「はあ、男の人たちがそろいもそろって、まったく……」

    あの二人も結構飲んでいた。
    というか俺だってかなり飲んだ方だが、
    それでもあの二人の三分の一も飲んでいなかったはずだ。

    俺の三倍飲んでる二人は、さすがに結構きてるかもしらん。


    438: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 13:21:56.63 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「とにかく、今日は私が付き添いますから」

    男「いやそんな……」

    お嬢さん「……」

    済ました顔で、無言の威圧。

    男「あ、ありがたく……」

    お嬢さん「くす」

    お嬢さん「お水、飲みますか?」

    男「ああ」

    ゆっくり体を起こそうとすると、
    お嬢さんはすっとその細い腕を俺の背に当てて支えてくれた。

    起き上がると、今度はコップを口元へと。

    男「そんな、自分でもてますよ」

    お嬢さん「ご遠慮なさらず、ほら」

    それをそっとあてがうと、ゆっくりと傾けてくれた。
    その具合がちょうどよく、また繊細で。
    俺にはもったいないくらいだ、と思った。


    442: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 13:29:59.62 ID:RfWIzW8F0

    水を飲んで、また俺は布団に横たわる。

    男(……ん?)

    今の一連の動作で、なにか。
    なにか、不自然なことが、あったような。

    男(……いや? 普通、だったが……?)

    なんだろう、と思ったが
    頭が上手く回らないので、それはそっと脇に置いた。

    お嬢さん「春の間は、過ごしやすくて、いいですね」

    お嬢さん「一応扇子ももってきたのですが、不要かも」

    男「ええ、今が、ちょうどよく」

    お嬢さん「そうですか」

    そのうちに、うとうとと。
    まぶたがおちてきて。

    俺は極楽と思いながら、また眠るのであった。


    446: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 13:45:47.95 ID:RfWIzW8F0

    次に目が覚めたとき、

    お嬢さん「あ……、すいません、起こしてしまいましたか」

    男「ああ……いや」

    お嬢さんがタオルで、
    俺の額の汗をぬぐってくれていたようだった。

    男「ありがとう」

    お嬢さん「いえ、……この程度しかできませんから」

    お嬢さんは優しくもう一ぬぐい。

    男「今、何時かな」

    お嬢さん「2時ごろ、ですね」

    ずっといてくれたのだろうか。


    451: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 13:54:11.19 ID:RfWIzW8F0

    男「あ、お昼は……?」

    お嬢さん「おなかが空きましたか? ではいますぐ」

    男「あ、いや俺もそうだけど、君、食べた?」

    お嬢さん「いえ、できればご一緒にと、思いまして」

    なんとまあ……。

    男「それじゃあ、食べようか」

    お嬢さん「はい」

    メイドさんの持ってきてくれた昼食を、お嬢さんとたべる。
    ちなみにそのままメイドさんも混じったので、
    ちょっとにぎやかな昼食となった。


    454: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 14:01:50.62 ID:RfWIzW8F0

    遅めの昼食が終わると、体も幾分楽になっていた。

    男「ああ、そうだわすれてた」

    男「やらなきゃいけないことが」

    お嬢さん「なんです?」

    男「メイドさんの記憶がどうなってるかしらべないと」

    お嬢さん「ああ……、まだ、やっておられましたか……」

    男「中々興味深いよ」

    男「これから少し、行ってこようと思うんだけど」

    お嬢さん「出歩いて大丈夫ですか……? まだゆっくりしていた方が」

    男「まあはきはきは回れなさそうだし時間かかっちゃうけど」

    男「どうせ時間はたっぷりあるし」

    男「一日布団の中というのも逆につかれるから、これくらいちょうどいい運動だ」

    お嬢「……そう、ですか」


    459: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 14:19:38.45 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さんが付き添いますと言ってくれたので、二人でメイドさんを回った。
    案の定俺がふらふらだったので、時間はかかったが。

    男「あれ、おかしいな……」

    男「今日、記憶をなくしてる子が一人もいない」

    十六人のメイドさんのうち、
    今まで記憶のリセットが確認されたのが五人。
    その五人はリセット以降は引き続き記憶を蓄積していて、特に異常はない。

    ただ今日は、そのリセットを、だれもしていなかった。

    男「うーん、となると……」

    今日が特別な日である可能性が、一つ。
    もう一つは、十六人の中には偶然、
    今日がリセットの日だった子が居なかったという可能性。
    こちらの方が濃厚。

    男「仮に周期があるとすれば……」

    一日目に二人、二日目で三人、三日目でなし。
    平均すると一日約1.67人。これで十六で割ると……

    男「……概ね、十日。その内に、全員にリセットが、起こる」

    すなわち周期の可能性が正しければ、それはおそらく、十日間。


    463: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 14:31:29.29 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「……十日……」

    男「まあ、データ数がすくないから、まだぶれるかもしれないけどね」

    男「今導き出せるのは、概ね十日かなあ、というくらいで」

    男「どうかな」

    お嬢さん「……はい?」

    男「正直、お嬢さんたちはこのあたり、知っていそうな気がするんだけども」

    何せお嬢さんで七年、カタギさんで十年。
    それだけの年月があれば、
    こうしてデータを集めずとも、自然と気づくはず。

    お嬢さん「……、貴方は本当に、聡明で、いらっしゃいますね」

    男「そんなんじゃないよ」


    467: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 14:49:59.61 ID:RfWIzW8F0

    部屋に戻ったのが、五時過ぎくらいだったろうか。

    お嬢さん「よかった。もう、すっかりお元気そうですね」

    男「君のおかげだよ」

    おかげもなにも寝ていただけではないかと言うなかれ。
    人が近くにいてくれるという安心感は、
    ただそれだけで十分妙薬となり得るのである。

    ただ、快復を喜んだはずのお嬢さんのかんばせに、
    少し寂しそうな、色が。

    だから俺は。

    男「もう少し、いてくれないか」

    お嬢さん「え、あ、あの」

    男「まだちょっと、頭がいたい」

    男「……かもしれない」

    お嬢さん「……」

    お嬢さん「……はい」

    お嬢さんの頬にすこし朱が差したように見えたのは。
    ぎこちなさにちらと打ち見るだけだった俺の、錯覚だったろうか。


    469: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 15:04:45.93 ID:RfWIzW8F0

    俺はなんともきまりが悪くなって、
    どうしたものかと部屋を見回し。

    男「あ、ま、窓あけよう」

    と、思い返せば今まで一度もあけたことの無い、
    その自室の窓に手をかける。

    ぱっと、ひらくと。

    お嬢さん「わあ」

    男「おお……」

    それはちょうど窓型にくりぬかれた絵画かと錯覚するほど綺麗に収まって、
    桜花爛漫、乱れ咲き。

    男「これはまた、よくやる」

    明らかに計算された、景色のよさ。
    素直に素晴らしいともれるばかり。

    座ってみれば空をも捕え、
    これがまた文句のつけようもなく。


    470: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 15:09:17.44 ID:RfWIzW8F0

    それに見とれてしばらくのち。

    男「ん……」

    ふと、何かが目に入る。

    男「これは」

    お嬢さん「どうしました?」

    その窓の木製のフチ、そこには何か、傷をつけたような跡。
    横一線が、二つ。

    隠すつもりは無いようで、しかし窓を開けなければ分からない、そんな位置。

    男「……なんだろう、わざと、つけたような」

    お嬢さん「……、これは、……」

    お嬢さんがまた何か知っているのではと、
    見落とさぬように表情を見るが。

    お嬢さん「なんでしょう……」

    これに関しては分からない様子であった。


    473: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 15:18:37.61 ID:RfWIzW8F0

    他愛無い雑談をしつつ、六時半。

    お嬢さん「あ、あの、夕食の前に、お風呂はいかがです」

    男「ああ……、そうだな」

    そういえば寝汗をかいていたな、と思い出す。
    そのあたり気遣ってくれたのだろうか。

    男「それじゃちょっと入ってくるよ」

    お嬢さん「え、あ……、はい」

    男「ん?」

    お嬢さん「いえ、どうぞ。ごゆるりと」


    475: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 15:27:50.03 ID:RfWIzW8F0

    男「ふう……」

    春の間の露天風呂で、ほうっと息をつく。
    実はこの風呂に入るのは、これがはじめてであった。

    男「花見風呂、うむ、絶景絶景」

    今日一日は幸せであったなあ、と思い返した。

    そこへ。

    お嬢さん「あ、あの、し、失礼、します……」

    男「んー? ん……、……え!?」

    お嬢さん、まさかのバスタオル一枚で、
    男一人入浴中のこの湯殿に、赤面しいしいご来臨なすった。

    お嬢さん「あ、あの……」

    男「ど、どうした……」

    お嬢さん「お背中を……」

    お嬢さん「お流しに……」

    男「おおう……」


    477: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 15:36:58.74 ID:RfWIzW8F0

    わしゃわしゃわしゃ。

    男「あ、あの、ありがとう」

    お嬢さん「い、いえ……」

    わしゃわしゃ。

    気持ちいいのだが、ううむ、どうにも恥ずかしい。

    お嬢さん「……先日」

    男「ん?」

    お嬢さん「秋の間のお風呂を使われた際、には」

    お嬢さん「その……、できません、でしたので」

    男「……、……」

    男「……あ」

    >朦朧とする意識の中での、見間違いだったろうか。
    >お嬢さんはバスタオルを、まいていたような。

    男「ああー……」


    479: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 15:47:25.80 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「あの時は」

    お嬢さん「あの方たちが悪さをしているであろう、という予感もありましたが」

    お嬢さん「もう一つ」

    お嬢さん「秋の間に来てくださった貴方に」

    お嬢さん「もてなしの一つもしないでは、と、いう気持ちで」

    お嬢さん「せめてお背中をお流しできれば、と思い立った次第でした」

    お嬢さん「でも、あのようなことになっていて」

    お嬢さん「できず」

    お嬢さん「……」

    お嬢さんはぽつりぽつりと、俺の背中に語りかけていた。

    お嬢さん「だから今、こうして」

    お嬢さん「そのときの分を、させていただいて、おります」

    でもなぜか、どこか本心に言い訳をしているようにも、聞こえて。

    男「……、……そうかい」

    お嬢さん「……はい」


    484: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 16:02:48.08 ID:RfWIzW8F0

    そうしてその後は無言のまま背中を流してもらって。

    男「気持ちよかった。ありがとう」

    お嬢さん「はい。それでは、私はこれで」

    男「ああいや、俺が先にでるよ」

    お嬢さん「えっ、い、いえ、私はお背中をお流しにきただけですから」

    男「背中だけ流させて、そのまま帰らすわけにもいかんだろ」

    男「いいよ気にしなくて、俺はもう十分あったまったから」

    さすがに一緒に入る、という選択肢はない。

    お嬢さん「わ、わるいですっ」

    お嬢さん「……じ、じゃあ、あの、ご一緒に……!」

    男「それはない」


    486: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 16:09:15.98 ID:RfWIzW8F0

    気にしないで、と言いつつ俺は立ち上がる。
    が、数歩進んだ所で。
    そこはちょうど滑りやすくなっていたのか。
    格好悪いことに不意に足が取られ、つるっと。

    男「わっ」

    倒れた先はお嬢さんの方ではなく、前に。
    とはいえさすがに軽く滑った程度、
    実際この程度踏ん張りもきくな、と頑張った所に。

    お嬢さん「あ、あぶないっ」

    不意に腕を、つかまれた。

    男「……っ!」

    それは彼女の、反射的な行動だったのだろう。
    滑って転びかけていた俺を、支えようと。

    いや、それはそれで、よかった。
    俺も何とか踏ん張ったし、すってんころりん、とはいかなかった。
    だから巻き込むこともなかった。
    問題は、そこではなく。

    お嬢さん「あ……っ」

    お嬢さんはさっとすばやくその手を引っ込めた。
    それは異性に突然触れてしまって恥ずかしく、
    などという甘さを含んだ類のものでは、なく。


    488: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 16:21:40.47 ID:RfWIzW8F0

    男「……お嬢さん」

    お嬢さん「……」

    お嬢さんは手を抱くようにして、身を引いて。

    お嬢さん「だめ……」

    男「お嬢さん、今のは、どういう」

    お嬢さん「だめ……っ」

    俺はいやいやと首を振る、
    今にもなきそうな顔の彼女の元へと歩み寄る。

    そうしてそっと、手を取った。

    男「……、……」

    お嬢さん「……っ」

    男「どうして」

    >今の一連の動作で、なにか。
    >なにか、不自然なことが、あったような。

    男「どうして君の手には」

    男「……体温が、ないんだ……」


    497: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 16:41:25.60 ID:RfWIzW8F0

    申し訳ないと思いながらも、
    腕を、肩を、そして頬を。

    男「……なぜ……」

    どこにも体温が、ない。
    不自然の正体は、これだった。

    >お嬢さんはすっとその細い腕を俺の背に当てて支えてくれた。

    あの時確かに、服ごしとはいえ彼女の手が当たっていたのに、
    まるで人の温かさが、なかったのだ。

    彼女との接触は、今まで幾度かはあった。
    しかしそのどれも思い返してみれば、

    >細い腕が、俺を引っ張っているような気がする。
    >朦朧とする意識の中での、見間違いだったろうか。

    >言いつつ俺も、そしてお嬢さんも、うつらうつら。
    >お嬢さんが肩に、よりかかっていた。

    この二度は、どちらも意識が曖昧で。

    >まだ頭はくらくらするが、
    >ぱたぱたと仰がれる扇子のおかげで幾分かは楽なよう。
    >つまりこれは、膝枕。

    この時は膝枕をするまでに、例えばタオルを一枚間に挟むでもなんでも、
    十分それを隠す時間が彼女にはあったのだ。


    499: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 16:58:17.12 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「……、……」

    男「これは、どういうことだ」

    お嬢さん「……」

    男「これも、秘密にする、のか……?」

    お嬢さん「……っ」

    お嬢さんはどうしていいのかわからない、
    そんな顔で、目にいっぱいの涙をためて、
    けれど決してこぼさず、そして強く、唇を噛んで。

    俺の目から、その潤みきった大きな目を、離さない。

    男「お嬢さん……」

    動いたら、お嬢さんは逃げ出してしまいそうで。
    だから、動けなくて。

    そうして、俺はどうすることもできず、
    肩をおとして、うなだれて、
    深く、そして弱弱しいため息を、一つ、ついた。


    503: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 17:12:13.61 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「……どうしていいか、わからないの」

    男「……」

    お嬢さん「私、どうすれば、いいのか」

    何もかも教えて欲しいと、言いたかった。
    けれど、言えるわけも無い。

    彼女の目は、明らかにこれ以上隠せないことを悟ったものだった。
    けれどその説明をするわけにも、いかなかった。

    その二つの狭間で、ゆれていた。
    なのに安易に、教えてくれなどいえるわけが無く。

    そして彼女はあまりに実直で、思慮深かったから、
    即座に走って逃げたりなど、しなかった。

    きっとあっただろう逃げたい衝動を抑えて、踏みとどまった。

    男「……」

    そんな彼女が、あまりに気高くみえて。
    けれどとても小さくて。

    俺は無意識のうちに。
    その肩を、
    抱いていた。

    彼女は、逃げなかった。


    505: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 17:18:46.23 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「私の体は……、冷たいでしょう……?」

    男「……」

    お嬢さん「触れたく、ないでしょう……?」

    小さな小さな、まだこれから幾分も成長するであろうその身体。
    あまりに弱く、か弱く。

    男「なぜ……」

    お嬢さん「……、……」

    お嬢さん「明日」

    男「……」

    お嬢さん「……明日、お話します」

    お嬢さん「気持ちを、落ち着かせたら」

    男「……」

    男「……分かった」


    509: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 17:31:52.59 ID:RfWIzW8F0



    「休日は、とてもよくねるんですね」

    「もう正午です」

    「ふふ、少し寝顔をみていました」

    「気持ちよさそうでした」

    「……い、いえ、そんなことないですよ!」

    「か、可愛かったですよ……?」

    「ああちょっとまた毛布被らないでください!」

    「そ、そんなことだとお昼ごはんさめちゃいますからね」

    「はい、つくってあります」

    「サンドイッチですが」

    「え、それなら失敗のしようがないから安心だ?」

    「そ、そんな失敗だなんてー……」

    「……た、たべられますよ?」

    「……大丈夫です」


    514: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 17:45:40.38 ID:RfWIzW8F0

    翌朝朝食をお嬢さんと取ったあと、
    彼女は俺の部屋へとやってきた。

    お嬢さん「ふう……」

    深呼吸。

    男「だ、大丈夫か?」

    お嬢さん「……はい」

    お嬢さん「昨日、お話しすると、お約束しましたから」

    お嬢さん「大丈夫です」

    男「……そうか」

    お嬢さん「本当は、隠し通したかった」

    お嬢さん「いいえ、このまま言わなくてもよかったのです」

    お嬢さん「問題は、なかった」

    お嬢さん「けれど、でも……。あんな風にされて、私」

    お嬢さん「もしかしたら、もしかしたら大丈夫かも」

    お嬢さん「って、思ってしまったんです……」

    お嬢さん「私は、弱い人です……」


    518: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 17:56:35.73 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「これから、私の知っていること全てを、お話します」

    お嬢さん「私の身体の話は」

    お嬢さん「結局そのまま芋づる式に、話さなければならないことを引きずり出します」

    お嬢さん「だから、全てをお話します」

    お嬢さん「でもそれは、きっと」

    お嬢さん「……いえ、間違いなく、間違いなく貴方を傷つけることになります」

    お嬢さん「それは心も、身体も」

    お嬢さん「予測ではありません。間違いなくです」

    男「……どうしてわかる」

    お嬢さん「……お話を聞いた後ならば、お分かりになられる、かと」

    お嬢さん「……、それでも、それでも」

    お嬢さん「貴方は、お聞きになられますか。今なら、まだ……」

    男「……」 

    男「ここで首を横に振る人間の方が、少ないのではないかな」

    男「……知らなきゃきっと、始まらない。だから教えてくれ。君の知っていることを」


    526: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 18:29:56.49 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「どこからお話しましょうか……」

    お嬢さん「いえまずはこの身体から。そこから話を一つ、一つ」

    お嬢さん「触れてみてください」

    俺は差し出されたその白い腕に、触れる。

    お嬢さん「体温がないのは、分かると思います」

    お嬢さん「けれどよく見てください」

    お嬢さん「血潮がとまっているわけでは、ないのです」

    お嬢さん「私が無くしたものは、本当にただ、体温だけ」

    お嬢さん「まずはその不思議がまかり通るのがこの場所だということ」

    お嬢さん「ご理解ください」

    不思議なのは今さらである。

    男「四季が同居しているのにくらべれば、この程度」

    お嬢さん「くす、それもそうですね」


    530: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 18:40:18.88 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「何故私が体温をなくしているかですが」

    お嬢さん「その前に、この場所についてお話しなければなりません」

    男「この場所について?」

    お嬢さん「はい」

    お嬢さん「まず、一番基本的な部分」

    お嬢さん「お忘れかもしれませんが、ここは旅館です」

    お嬢さん「サービスを受ける以上」

    お嬢さん「対価が必要になります」

    お嬢さん「ここまでは、わかりますか」

    男「……な」

    よく考えると、しかし、そうか。
    誰も無料だなどとは、言っては、おらず。


    533: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 18:43:43.60 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「この館での生活の対価は」

    お嬢さん「……身体の機能の、一部です」

    男「身体の機能の……一部……?」

    お嬢さん「それが、私は体温だったということ」

    お嬢さん「つまりここに客として訪れた人間は」

    お嬢さん「必ず身体のどこかに、何かしらの欠損を持っているのです」

    男「え……?」

    男「い、いやしかし皆普通だったような」

    男「俺だって、ほら、どこにも……」

    お嬢さん「残念ながら」

    お嬢さん「貴方も、もちろん貴方が会ってきた方々全てにも」

    お嬢さん「例外はありません」


    548: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 18:55:59.76 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「この館には、私の知る限り六人の滞在者がおります」

    男「俺と、君と、芸者さんと、童ちゃんと、カタギさんと……それに、仮面さんか」

    お嬢さん「そうですね。そのうち私を含め四名が」

    お嬢さん「外から分かりやすい欠陥を、持っています」

    男「四人……、も……? だ、だれ」

    お嬢さん「難しい話ではありません。よくよく、思い返してみてください」

    お嬢さん「いえ、貴方に分かるのは、私を除き二名まで、でしょうけれど」

    俺は考える。
    まず芸者さん。
    彼女とは結構な時間会話をしたが、思い返しても心当たりは、ない。

    次に童ちゃん。
    彼女は――

    男「童ちゃん……、視覚、か……?」

    お嬢さん「そうです。……しかし、彼女はもう一つ失っています」

    男「……な、え……、それって」

    男「……、……感情、も?」

    お嬢さん「そのとおり」


    553: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 19:01:46.68 ID:RfWIzW8F0

    男「何故、二つも」

    お嬢さん「それは、あとでお話しましょう。残りの二人を探してみてください」

    男「……」

    カタギさん。
    彼とはほぼ一日酒を飲み交わしたことがある。
    しかしその間、そのような気配は、なく。

    仮面さん。
    彼は――

    男「そうか、理性」

    お嬢さん「はい、だから、カタギさんは、あのように」

    男「ああ……!」

    理性を売った。つまり、それを対価とした。

    お嬢さん「ただ、正確には理性ではなく、思考能力そのもの、だそうです」

    お嬢さん「だから本当に、残っているのは本能のみなのです」

    お嬢さん「ただ……、彼については私もよく分かりません」

    お嬢さん「他にも何か失っている可能性は、大いに、ありえます」


    559: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 19:07:55.22 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「では、最後の一人」

    男「……、いや」

    男「俺しか、いないよな」

    お嬢さん「くす、そうですね。そのとおり、貴方です」

    お嬢さん「貴方もまた、あるものを失っている」

    お嬢さん「私はそれを、貴方から隠すために」

    お嬢さん「知ってもらいたくないために」

    お嬢さん「たくさんの事を、隠しました」

    男「お、俺は何を、なくしている……?」

    お嬢さん「……その前に、もう少し、外枠のお話をしましょうね」

    そういってお嬢さんは、コップに水をそそいで、差し出した。


    566: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 19:23:00.58 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「カタギさんと芸者さんについては、本人に聞かなければ分からないのですが」

    お嬢さん「お伝えしなければ話が進まなくなるので、何かだけ」

    お嬢さん「カタギさんは、痛覚。芸者さんは、性欲、ならびに性感の全てです」

    男「……な、なるほど」

    確かに、外からでは分からない。

    お嬢さん「これで、貴方以外の五人の対価が把握できたかと思います」

    お嬢さん「では少し戻りまして」

    お嬢さん「童ちゃんの時、貴方は何故二つか、と問いました」

    お嬢さん「その答えは、とても単純です」

    お嬢さん「彼女自身が、それを選んだから」

    男「……え?」

    お嬢さん「つまりここの対価は、それぞれ」

    お嬢さん「自分で選んで、決めることが、出来る」


    573: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 19:41:08.83 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「私たちは、ここに逃避することが決まった時」

    お嬢さん「その時点で、対価を問われます」

    お嬢さん「そして、それぞれが、それぞれの理由で、対価を選択します」

    男「では君も、自ら、体温を……?」

    お嬢さん「はい。今はその理由は、置いておきます」

    お嬢さん「またどうしてそれぞれがその対価なのかについても」

    お嬢さん「気になるのであれば後ほど個々人に、聞いてみてください」

    男「……わかった」

    お嬢さん「いっぱい話すと、疲れますね」

    お嬢さんは、水をのみ、ふうと息をついた。

    お嬢さん「続けましょう」

    お嬢さん「次は、対価の使われ道についてです」


    576: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 19:48:41.31 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「対価は、とても分かりやすい形で私たちの前に現れます」

    お嬢さん「なぜなら自分たちの失っているものを、持っているから」

    男「いや、まさか……」

    お嬢さん「はい」

    お嬢さん「……それが、メイドさん、という存在です」

    お嬢さん「カタギさんは、だから人形だとよく言っていました」

    お嬢さん「人の形をした素体に、私たちが対価として支払ったものを、まとっていく」

    お嬢さん「そうして形作られるのが、あの姿なのです」

    男「な……」

    お嬢さん「それは支配人自身も言っておりました。聞けば、教えてくれたはずです」

    男「え」

    お嬢さん「しかし貴方は、元手となるはずの、基本的な情報」

    お嬢さん「対価というものそれ自体を知らなかったから、追求することが、できなかった」


    578: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 20:01:06.47 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「では、なぜ、貴方はそれを知らなかったのか」

    男「……それ、は」

    お嬢さん「それは……、いえ、聡明な貴方なら、もう」

    男「……あ、あ……、ああ……」

    そうか、そうか、そういうことならば。
    ああ、なんて簡単な。
    なんて、馬鹿馬鹿しい話なんだ。

    体温を、視覚を、感情を、思考能力を、性欲を、痛覚を、覗いて、残るのは何だ。

    いや違う。残るものは、まだいくつか考えられる。

    残った中で、俺と合致するものは、なんだ?

    男「ああ……、そういう……」

    男「そういう……こと、なの、か……?」

    俺が忘れるわけもない、彼女達の特徴。
    なぜなら、自分で調べていたではないか。

    男「あああ……、俺は……」

    記憶が、無かった、のか……?


    582: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 20:07:47.89 ID:RfWIzW8F0

    男「記憶が……」

    男「……」

    男「いや……、そんな、単純な話では……ない……?」

    お嬢さん「……はい」

    お嬢さん「貴方はただ単純に記憶をなくしているわけでは、ない」

    お嬢さん「先ほども言いましたとおり、ここの対価は身体機能の一部」

    お嬢さん「記憶をなくしているだけでは、ありません」

    俺はポケットに入れいたメモ帳を、とりだして。

    男「そうか……、ああ」

    男「ああ、そういう、そういう」

    男「だから」

    お嬢さんは、今まで、かくして。

    男「ああああ……」

    男「ああ、あああ……! そういう、そういうこと、かぁ……っ……!」


    594: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 20:24:54.28 ID:RfWIzW8F0

    >お嬢さん「そうですか。よかった……、ほっとしました」男「ほっとした?」お嬢さん「いえいえこちらの都合です」

    >男「ああ、もうそういう状態」 ならさっきの確認は事後承諾でございましたか。

    >男「いやそれはそうだけども……、でもそれは事後承諾的な――」支配人「まあまあ。そのあたりは追々ということで、ね」

    >?「初めてだもんねわからないよね、ごめんごめん」芸者「おにいさんの部屋って、春の間だっけー?」

    >男「いや順序が逆だ! 俺はここに連れられてきた後に言ったんですよ」男「貴方に言ったわけではない」
    >支配人「貴方は間違いなく現実逃避を望みました。そして私がそれに応え、ここにお連れしたのですよ」

    >男「はい。どうにも言ってることがかみ合わなくて」芸者「ま、そうだよねー」

    >カタギ「ああまた一からか面倒だ」

    >何か特別な会話があるわけでもなく、たわいなく飲み交わしているだけというのに。それはとてもしっくりときた。

    >男「いつも、こんなかんじなんですか」カタギ「……」カタギさんは一瞬俺の目を見て、変な間を空けてから。
    >カタギ「そうだ」なんだろう、今の。

    >カタギ「毎度あいつらが隠すのも分かるっちゃあ分かるんだがな」カタギ「俺も巻き込んで、なんてのは簡便してほしいもんだ」
    >カタギ「俺は別にどっちでもいい」カタギ「いやむしろあいつらが隠せば俺に聞きに来るんだから」

    ああ、全て、すべて

    まるで、茶番の

    あああ、なんと

    ふざけた この  数日間


    596: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 20:32:11.66 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「そう」

    お嬢さん「私たちは、もっともっと、ずっと昔から」

    お嬢さん「貴方と付き合い」

    お嬢さん「そしてここでの貴方を」

    お嬢さん「貴方以上に、知っている」

    お嬢さん「なぜなら」

    男「なぜなら……、俺が……」

    男「なんども、なんども、なんども……!」

    男「最初に、もどって、いる、から……!!!」

    これまでの数日間が、
    まるで初めてのように進めていたのに、
    それは、全て周りからみれば茶番で。

    頭を抱えるほかになく。
    震えるほかになく。

    お嬢さん「いいこ、いいこ」

    お嬢さんは、そんな俺の方を、優しく抱いた。


    601: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 20:48:11.43 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「もう何年も前の話です」

    お嬢さん「私たちは貴方に、記憶がリセットされることを、戻るたびに伝えていた頃があります」

    お嬢さん「しかし貴方は、決してその呪縛から逃れることはできず」

    お嬢さん「いつしか、伝えたことを一瞬に忘れてしまう貴方を」

    お嬢さん「私たちは、見ていられなくなりました」

    お嬢さん「とくにそれを知った最終日の貴方などは、本当に、目も当てられず……」

    お嬢さん「いいえそれだけではありません」

    お嬢さん「貴方と築いた関係が、一瞬にして消え去ることもまた」

    お嬢さん「私たちにはたまらなく、つらかったのです」

    お嬢さん「だから、たくさんのことを、試しました」

    お嬢さん「たくさんの方法を試し、貴方が幸せになれるように」

    お嬢さん「また私たちと貴方の関係が、このリセットをはさんでも上手くいくように、何度も試行を重ねました」

    お嬢さん「今のように、出来る限り事実を隠すようにしたのは、三年ほど前だったでしょうか」

    お嬢さん「こうすることで貴方は、何も気づかずに最終日を迎えることが」

    お嬢さん「いくらかは、できるようになったのです」


    604: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 20:53:11.83 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「しかし貴方は聡明でした」

    お嬢さん「例えばメイドさんを調査することによる十日間の割り出し」

    お嬢さん「見事です、あれは、正解なのです」

    お嬢さん「メイドさんの周期と、そして貴方の周期もまた、十日間」

    お嬢さん「今回はタイミングが遅かったため、至れませんでしたが」

    お嬢さん「貴方はあそこから、自分と結びつけることができる場合だってありました」

    お嬢さん「それ以外にも、貴方はどこかの一つほころびから、何かを見つけて」

    お嬢さん「毎度どうにかして、自分を探り続けました」

    お嬢さん「そうして得た手がかりで、過去に何度も、貴方は自ら支配人を問い詰め、回答を得たのです」

    お嬢さん「先ほど私が貴方に説明した中にも、貴方自身が持ち帰った情報は、いくつかあるのです」

    お嬢さん「しかし、いずれも、いずれも」

    お嬢さん「結果的に、貴方は」

    お嬢さん「……」


    612: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 21:15:00.32 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「けれど、話はここではじめに戻ります」

    お嬢さん「そもそも、この十日間の記憶という呪縛は」

    お嬢さん「あなた自身が、作り出したもの、なのです」

    お嬢さん「過去の貴方は、これを考察し、答えを見つけました」

    お嬢さん「代弁いたします」

    『……俺は十日間を記憶する能力を、失ったわけだが』
    『それはつまり、“十日間分”を記憶できなくなった、ということになるらしい』
    『十日間で、一つのセットなんだ。だから、十日間の間は、記憶が持続し』
    『十日間が経てば、0にもどる』
    『それと、メイドさんたちはその逆だったんだ』
    『俺は普通の人間だから、元から記憶する能力があったが、彼女達には無かった』
    『だから、俺から見れば“十日間を記憶できなくなった” のだが』
    『彼女達にしてみれば、“十日間を記憶できるようになった”なんだ』
    『だから、システムだけみると全く同じ処理に見える』
    『だが決定的に、構造が逆なんだ。ずっと疑問だったが、こういうことらしい』

    『……過去になにかあったんだ、ここに来る前の十日間に、なにか』
    『だがそれが、思い出せない』
    『いやきっと、忘れるために俺はこれを、対価として差し出した』
    『でも俺はそれを……、思い出したい……』
    『じゃなきゃ、いつまで経っても俺はこの十日間から抜け出せない』
    『そのための方法はただ一つ」

    お嬢さん「俺はこの旅館を抜け出さなければ、ならない」


    622: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 21:39:47.25 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さん「……と」

    男「この旅館を、抜け出さなければ、ならない……」

    たしかに、そうだ。
    この十日間のリセットを繰り返さないためには、それしか方法がない。

    お嬢さん「……そして最後に、貴方がここを抜け出せなかった、理由」

    お嬢さん「でも、これは私ではなく、支配人に聞かれたほうがよい、かと」

    お嬢さん「貴方が最後に出口をさがして駆け出した後、リセットされて見つかるまでのことを」

    お嬢さん「私はあまり詳しくはないのです」

    男「あまり……?」

    お嬢さん「……少しは、知っていますが」

    お嬢さん「でも、やはり支配人に聞かれたほうがよいかと」

    お嬢さん「ですから、私がお伝えできるのは、ここまでです」

    お嬢さん「ながかったですね。……おつかれさまでした」


    624: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 21:46:45.60 ID:RfWIzW8F0

    お嬢さんは少し休憩しましょうかと言って、
    お茶の用意をしようと立ち上がった。

    男「今……、九日目、だったか」

    お嬢さん「はい。九日目、です」

    男「そうか」

    二日。後二日しか、時間が無い。

    男「すまない、お嬢さん。支配人のところへ、行ってくる」

    お嬢さん「あ……」

    お嬢さん「はい」

    お嬢さんは一瞬俺をとめようとして、しかしそれをやめた。

    お嬢さん「がんばって」

    男「ああ」


    631: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 21:54:33.78 ID:RfWIzW8F0

    フロント

    男「支配人、いますか」

    支配人「はいおりますよ」

    支配人「おや……その目はまた」

    男「……」

    支配人「ひさしぶりですね、ここ半年以上、貴方のその顔は見ておりません」

    支配人は嬉しそうな顔で、俺の目をみた。

    男「俺を現実に、戻して欲しい」

    支配人「承知しました」

    支配人「……ではどうぞお帰りください」

    男「……出口は、どこです」

    支配人「出口は、貴方の中に」

    男「なぞかけですか」

    支配人「いいえ。貴方が本心から出たいと思えば」

    支配人「きっとその場所は、見つかるはずです」


    639: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/07(日) 22:14:28.89 ID:RfWIzW8F0

    支配人「ここは現実逃避をする場所です」

    支配人「ですから、本心から現実に帰りたいと思わなければ」

    支配人「それは叶わない、というだけの話です」

    支配人「大丈夫です、ご安心ください」

    支配人「探していけばきっと見つかります」

    支配人「実際、過去に貴方は何度かそこへたどり着きました」

    男「……そうか」

    男「い、いやまて、たどり着いた!?」

    支配人「はい、たどり着きました」

    男「じゃあどうして、ここにいるんです」

    支配人「正確には、出口につながる道を発見しました」

    支配人「しかし、出口までは手が届かなかったのです」

    男「何故です」

    支配人「何故でしょうねえ」


    699: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 01:20:42.16 ID:oVyIEMwx0

    自室へと戻る。

    男「そんなわけで、自力で探せとのことだ」

    お嬢さん「やっぱり、ですよね」

    男「とにかくさがしまくってみる、しかないのかな」

    お嬢さん「過去の貴方は、そうしておりました」

    男「そうか……」

    男「過去の俺に見つけられたなら、今の俺に見つけられない道理はないな」

    一応フロントにあった正面玄関らしきものにも手はかけたが、
    そんなに分かりやすいものが出口であるはずはなく。

    お嬢さん「あはは……、正面玄関は飾りだって、前に支配人がいってました」

    男「飾りか……」


    702: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 01:26:59.82 ID:oVyIEMwx0

    お嬢さんの出してくれた、お茶を飲んで一息をついて。

    男「ありがとう。それじゃあ、探しにいってくるよ」

    お嬢さん「はい」

    男「お嬢さんは……、どうする」

    お嬢さん「貴方がここを出るための場所は、貴方にしか見つけられませんから」

    お嬢さん「私が一緒にいっても、足手まといになるだけに」

    男「……そうか、なら、見つけたらすぐに報告しにくる」

    お嬢さん「くす、……吉報を、おまちしておりますね」

    男「ああ」


    704: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 01:31:28.61 ID:oVyIEMwx0

    男(まずは一つずつ可能性をつぶしていくか……)

    手近いところから、確実に。

    男「ちょっとメイドさん、何人か」

    メイド「はい!!」

    メイド「なんでしょう!!」

    メイド「なんなりと!!!」

    メイド「言いつけられたら!」

    メイド「なんでも従いますよ……!」

    男「いや、そうではないんだ。すまない。ちょっと聞きたいことが」

    男「メイドさん、出口というのは、しらないか? 現実にかえるための」

    メイドさんはきょとんとしたあと、顔を見合わせて、

    メイド「「「さ~?」」」

    と首をかしげたのである。

    男「まあ、そうだよな」

    男(メイドさんは知らない……と)


    706: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 01:39:55.05 ID:oVyIEMwx0

    夏の間

    芸者「え、出口……? ……ああ」

    芸者「そっかあ、お嬢さん……」

    男「はい、全部、聞きました」

    芸者「うん、そっかそっか」

    芸者「お嬢さんのこと、口説いたのねー」

    男「え、いやいや……、まさか」

    心当たりは、ないような、あるような。

    芸者「ふふふ」

    芸者「まあそうじゃなきゃ、お嬢さんきっと言わないからなあ」


    711: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 01:56:57.32 ID:oVyIEMwx0

    芸者「それで、出口だけど」

    芸者「ごめんね、私には分からないよ」

    男「そう、ですか」

    芸者「童ちゃんは知ってる?」

    童「知らない」

    芸者さんは肩をすくめて見せた。

    芸者「出口、みつかるといいね」

    男「……はい、頑張ります」

    芸者「みつからなかったら、また十日間遊ぼうね」

    男「そうなりたくはないですが……」

    男「その時は、よろしくお願いします」

    芸者「また目を隠して登場しよっかなー」

    男「あ、あれは真面目にびっくりするんで、できれば別の方法で……」

    芸者「かんがえとくー!」


    714: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 02:07:53.20 ID:oVyIEMwx0

    冬の間

    男「おわ、カタギさんなんですかそれ」

    部屋を訪れると、カタギさんはなにか物騒ちっくなものを分解していた。

    カタギ「見りゃ分かるだろ、チャカだチャカ」

    男「本物の銃をみて驚かないような生活してません」

    どうやらメンテナンス中のご様子。

    男「……トカレフですか」

    カタギ「そうだが」

    トカレフといえば、昔の極道の定番である。
    しかしながら基本的には量産の銃なので、
    最近ではもう少し良いものが扱われているようだが。
    とにかくカタギさんには、なぜかよく似合った。

    カタギ「それで、用事は」

    男「あ、ああ、えっと」


    716: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 02:17:48.10 ID:oVyIEMwx0

    カタギ「そうか、今回は珍しく喋ったか」

    カタギ「じゃ、頑張れ」

    男「あ、あの、出口とか……」

    カタギ「お前の出口はお前にしか分からない」

    カタギ「誰が協力できるものでもねーよ」

    カタギさんは言いながら、手先は器用にかちゃかちゃと。

    男「なにか、せめて手がかりになりそうなことは」

    カタギ「自分で見つけろ、そいつが筋だ」

    カタギ「結局本気で帰りたいと思ってなきゃ帰れねえんだ」

    カタギ「本気なんだったら、自分でなんとかなる」

    元極道に筋と言われてしまっては、生粋のカタギにはもうどうしようもない。

    男「……わかりました」

    しかしいつものカタギさんのようであったが、
    どこか、いつもより素っ気なかったような、気がした。


    718: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 02:31:02.97 ID:oVyIEMwx0

    これでひとまず、旅館の住人には聞き込みが終わった。
    芳しい反応こそなかったが、
    とにかく自分で見つけなければならないということだけはよくわかった。

    男(仮面さんは、そもそも話通じないしな……)

    しかしこれで手近なものは概ね終わってしまった。
    あとはなんとかしてこの屋敷の出口を探すしかないわけだが……。

    男「手がかりが……ない……」

    この旅館は大きすぎる。
    全てさがせというのでは、二日どころか一ヶ月あってもおそらく足りない。

    男「だからたぶん、そういうわけでは無いんだろうな……」

    支配人が見つかると言っている以上、
    二日で十分見つかる可能性のある場所に出口はあるはずなのだ。

    男「うーむ……」


    720: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 02:35:32.19 ID:oVyIEMwx0

    いや、そもそも出口という概念をいったんはずしてみよう。
    目的はなんだったか。

    男「この旅館を、脱出すること」

    であれば、どこかここから外へと出られる場所を、
    探しだせばいいのではないだろうか。

    男「しかし玄関は飾りだし……」

    となると外への出入り口は最初からないような気もしなくはない。

    あまり成果はあがりそうにないが、
    とりあえず俺は、飾りといえど玄関扉側が旅館の外と仮定して、
    壁にそって歩きながら、窓や扉がないかを探してみることにしたのであった。


    722: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 02:44:44.66 ID:oVyIEMwx0

    男「だめか……」

    四時間探して、外につながるようなものは何も無く。
    それどころか壁にそって歩いていたつもりなのに、
    入り組んでいるからかいつのまにか中央広場に、
    なんてこともよくあった。

    男「しかし成果がなし、ではないな」

    おそらく、たぶんきっと、端っこの部屋、かもしれない、かなあ、
    という部屋の角にあった柱に、

    男「横一線の、跡、ね」

    前に自室の窓でみた、何かで傷をつけたような跡。
    それが三つほどあった。

    男「何かの暗示か……あれは」

    一応、手がかりということで。


    723: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 02:52:31.65 ID:oVyIEMwx0

    一度腰を落ち着けたのは、午後三時ごろだったろうか。

    旅館内によくある、趣味のいい休憩スペースで、
    メイドさんに持ってきてもらったパンをかじっていた。

    男「これは、まずいな……」

    男「みつかる気配がない」

    うろうろと旅館を歩いているだけでは、
    いつのまにか同じ場所にいたりして、効率は悪そうだった。

    男「うーん……」

    パンを、かじる。

    男「……、……あ」

    パンがなければなんとやら。

    男「出口がなければ……」

    男「屋根をこえればいいじゃない?」

    その手があったか。


    724: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 03:01:10.15 ID:oVyIEMwx0

    冗談抜きで、それは一手であると思った。

    男「しかし旅館の中からだと、たどり着くのも困難だし」

    よしんばメイドさんの案内でたどり着いても、
    内側から外にでるのがさきほどの調査で難しいと知った以上、
    あまり期待はできない。

    であれば。

    男「壁をそのまま登ってみるか」

    と思い立って、俺はすぐに春の間にもどった。
    旅館の中に外があると言うのも馬鹿な話だが、
    このファンタジー空間は確かに外であって、
    屋敷そのものをよじ登れそうではある。

    正直、もう打つ手がなかった。
    思いついたものをやるだけやってみるしかない。

    ざっと見回して、

    男「ここなら……」

    足場を上手く作れそうな所から、登り始めた。


    726: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 03:06:20.69 ID:oVyIEMwx0

    開始から一時間半をかけて、ようやく。

    男「のぼりきった……」

    屋根の上。
    傍目から見たら馬鹿だったろうが、
    とにかく行動を、しなければ。

    男「しかし……、これは」

    屋根の上は、見事な瓦のつらなりであった。
    よく見ると鳥の巣などもあったりする。

    男「……、……」

    屋根の上から春の間を見渡すと。

    男「霧が……」

    俺の過ごした春の間を、遠く眺めようとしても。
    そこには全て、霧がかかってなにも、見えなかった。

    下に居た時は、ずっと向こうまで見えていた、はずなのに。


    728: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 03:14:12.75 ID:oVyIEMwx0

    なにか、やるせなさのようなものを感じた。
    隠されたその空間が、
    まるで画面の外側の、作られなかった背景のような、
    舞台の、裏側のような。

    男「……、……」

    今まで過ごしてきた空間が舞台だと知ったときの、
    そのあまりにも複雑な苦さは、
    いったい誰に、分かるだろうか。

    男「くそ……」

    また今俺が居る場所ではなかったが、
    遠くの屋根には同じような霧がかかっていて、その向こうは見えなかった。
    あれはおそらく、他の季節との、敷居。

    男「……」

    俺は首をふって、そのやるせない気持ちを振り払う。

    今は、脱出することを。

    俺は屋根の反対側へ、向かうことにした。
    旅館をはさんだその向こうに、一縷の望みをかけて。


    730: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 03:29:52.74 ID:oVyIEMwx0

    男「……これ、は……」

    そうして、広がった風景は。

    男「なん、だ」

    春の間の方をみればさんさんと明るいのに、
    その反対側はまるで時間のとまったような灰色の雲と、
    景色と。

    男「……」

    寒気がした。
    ただ、すくなくともそれは外の光景ではあったのだ。
    季節は捕えがたいが、
    その景色には山があり、野があり、そして村が、あった。

    男「ん……」

    山村というのが時代に取り残されている、というのは分かるのだが。
    それにしても、もっと、古い時代のような。

    男「これは、いったい……」


    733: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 03:46:14.30 ID:oVyIEMwx0

    支配人「素晴らしい景色でしょう」

    突然現れた支配人に、俺は軽く眼をやった。
    神出鬼没には、もう驚かない。

    男「……寒そうです」

    支配人「灰色がかっておりますからな、しかたありません」

    支配人「もうすこし色が付いていれば、のどかな山村風景にみえたでしょう」

    男「そうですね」

    支配人は後ろ手を組んで、その風景を見下ろしていた。
    どこからか風が吹いたて、ぱたぱたと着物を揺らす。

    しばし、無言。


    738: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 04:11:40.87 ID:oVyIEMwx0

    少し昔話を、と支配人はつぶやくように言った。

    支配人「ここには昔、とてもとても立派な宿がありました」

    支配人「その宿は、しばらくのあいだここでとても栄えました」

    支配人「大きく、綺麗で、どこからでも人が足を運ぶような場所でした」

    支配人「しかし、ある時ぱったりと、人の足はやんだのです」

    支配人「なぜならその商売繁盛は」

    支配人「人の手ではなく、悪魔の手によるものだったから」

    支配人「その宿の当時の管理者は」

    支配人「悪魔と契約をして、宿を栄えさせていたのです」

    支配人「しかし悪魔は期限を設けていました」

    支配人「だからその満了時に、悪魔はこの旅館の全てを、回収したのです」

    支配人「そうしてここにあった旅館は、何日もせぬ間に廃れ」

    支配人「栄えたのも一瞬の輝き、気づいた時には跡形も、なくなっていたのです」


    740: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 04:17:16.74 ID:oVyIEMwx0

    支配人「ここから見えるこの風景は」

    支配人「その宿が廃れるまさに寸前で、時間が止まっているのです」

    支配人「……美しいでしょう」

    支配人はそこで、くすっとわらう。

    支配人「貴方がここに来たのは何年ぶりでしょうか」

    支配人「たしか……そう、もう三年はたちましたかね」

    男「……過去にも、来たことがありましたか」

    支配人「はい。今回のように、壁をよじ登って」

    男「今も昔変わらない」

    支配人「そうですね、貴方は行動力だけはピカイチだ」

    支配人「いくら出口が見つからなくても、壁をよじ登って屋根までなんて」

    支配人「そんな人間は千人に一人もいないんじゃないですかね?」

    男「俺も、そう思う」


    741: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 04:22:27.94 ID:oVyIEMwx0

    支配人「貴方がここまで来た時は、毎度この話をしたんですよ」

    男「……そうですか」

    吹いた風がやむのを待って。

    支配人「戻りましょうか」

    支配人「ここまで来るのは構いませんが」

    支配人「これより向こうは、貴方の望んだ帰る場所とは違います」

    男「……そう、ですね」

    俺はそうして、支配人ついていった。

    その途中。
    屋根につながる扉――やっぱりあったらしい――のフチに
    横一線の、跡が。

    支配人「ああ、これですか」

    支配人「何だと思います?」

    男「いや……、分からないが」

    支配人「……ふふ、これは、貴方がここにきたと示すためにつけた、跡です」

    支配人「過去の貴方が、次の貴方に伝えるために、ね」


    742: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 04:27:36.52 ID:oVyIEMwx0

    部屋に戻り、いつの間にか時間は九時を回っていた。

    男「あ……」

    部屋に戻ると、手のつけられていない夕食のお膳の横で。

    お嬢さん「すー……」

    お嬢さんが、ねむりこけていた。

    男「待ちくたびれていた、のか……」

    申し訳ないとおもった。
    まさかこの部屋でずっと待っているとは、思いもせず。

    男「お嬢さん、お嬢さん」

    肩をゆすってみるが、起きる気配はなく。
    仕方がないので俺はふとんをしくと、
    なれないながらお姫様抱っこの要領でもちあげ、寝かせた。

    男「俺も今日は……寝るかな」

    あと一日。
    きっと明日には、なんとか。

    ……。


    747: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 04:41:08.41 ID:oVyIEMwx0



    「押し花とか、つくってみました。どうですか?」

    「ふふふ、得意なのです」

    「え? あ、えっと、お恥ずかしいのですが」

    「幼い頃は私、とても田舎に住んでおりまして」

    「ええ、山の中のような。あはい、おじいちゃんとおばあちゃんの家です」

    「その頃、お山の中に一つのお墓がありまして」

    「ぽつんと。一つだけ」

    「その納骨室に、押し花の本が一冊、入っていたのです」

    「とてもふるい、お手製の」

    「中のお花はとっくに枯れていましたけど、でも私それがとても気に入って」

    「それ以降、押し花をよく、やっていたんです」

    「それで――けほっ、けほ……っ」

    「い、いえ、すいません、……、けほっ……けほ」

    「だ、大丈夫です、大丈夫ですよ、ちょっとはしゃぎすぎただけです。あはは」


    749: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 04:55:25.49 ID:oVyIEMwx0

    翌朝

    お嬢さん「あ。おはようございます」

    男「ん……、おはよう」

    お嬢さんは「あ、よだれが……」とタオルで頬をふきふきと。

    男「む、すまん……」

    お嬢さん「いえいえ。……昨日は、どうでした?」

    男「みつからなかった。……今日、頑張るしかない」

    お嬢さん「そう、ですか……」

    とはいえ、もう
    アテはなく。


    750: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 05:00:24.31 ID:oVyIEMwx0

    時間というのは無常なもので、
    館内を走り回って探しているだけで、もう昼過ぎ。

    男「なんで……」

    なんの手がかりもなく、しかも時間の制限の中
    どんなものかもわからぬ出口を探すというのは、つよくつよく、気力を削った。

    男「……みつからない」

    焦燥感が、冷静さをうばっていくのを感じていた。

    最終日なのに。
    なんと時間の進みは速いのか。

    男「どうして……っ」

    最終日になればおのずとみつかるのでは、
    などという期待も、正直なところはあった。

    しかし、そう甘くはなく。

    見つからない。
    いやわかっている、ただがむしゃらに探しているだけでは
    きっと見つからないと。

    でも手がかりなんて、
    どこにも、ないじゃないか。


    752: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 05:14:37.98 ID:oVyIEMwx0

    男「……くそ……っ」

    本心から思っていれば見つかる?
    では俺は、帰りたくないとでもおもっているのか?

    男「そんなはず……っ」

    ちがう、ちがう。
    手がかりが、手がかかりが見つけられてないだけだ……。

    何が、どこが、いつが、その手がかりになる?

    男「焦るな……、焦るな」

    思い返せ、思い返せ。

    十日間。
    いままでの時間。

    どこかに。
    なにか。
    まだ探していない、ものが……

    あってくれ……!


    756: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 05:36:28.68 ID:oVyIEMwx0

    昨日、九日目は?
    お嬢さんからの話をきいて……、だから今、走っている。
    あの中に、何かあったか?
    くそ……わからない。

    八日目は?
    一日中お嬢さんに付き添われて、看てもらって
    ここで、彼女の隠していたものをしって
    でも、でもちがう、これは九日目の話につながっただけで
    出口の手がかりには……ならない……っ

    七日目は?
    カタギさんと支配人と、飲みまくって……、
    楽しかった、しかしあの恥ずかしい話の中には……
    手がかりになるようなものは、なにも……

    六日目は?
    童ちゃんとのデートに、そのあとの夕食。
    終わりの頃に少しおかしな話があったが、
    しかし隠していた理由は今となっては、明白で。
    売ったの意味も、既に理解している。

    五日目は?
    メイドさんの記憶がないことに気づいて、実験を開始した。
    そして夜はお嬢さんたちとともに、カタギさんの部屋へ。
    あの時のカタギさんの呟きは――いや、
    今考えれば言っていた意味をより正確に捕らえられるけれど
    いまは手がかりには……ならない。


    759: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 05:47:51.90 ID:oVyIEMwx0

    四日目は?
    風呂騒動の日だ、あの日は色々とあった。
    まず秋の間にお嬢さんが居ることをはじめて知った。
    その風呂をかりて、なんやとあって、膝枕で……
    その後、

    男「……あ」

    >だから、ふとした拍子にたどり着いたT字路で、
    >おんもらと暗闇の立ち込める廊下を見ても、
    >さほど危機感というものは感じなかった。

    仮面さんと会った、あの日。

    男「この、場所は」

    行っていない。
    まて、仮面さん、そうだ、仮面さんのことについて、調べていない。

    男「これだ……、こいつだ……!!」

    そうだ、すっかり失念していた。
    話せないからと思考の外においていたのが間違いだった。

    手がかりを、見つけた……!


    762: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:05:16.38 ID:oVyIEMwx0

    男「メイドさん、メイドさん!」

    メイド「しゅばば!」

    メイド「へいおまち!」

    メイド「かっこいいぽーず!!!」

    メイド「かったな……」

    メイド「ああ……」

    といつもどおりわらわらやってきた。

    男「仮面さんのところに連れて行ってもらいたいのだが」

    メイド「仮面さん!?」

    メイド「まためずらしい注文で!」

    メイド「あぶなっかしいですよあの人!」

    男「わかってる、だが、いかないと」

    メイド「決意の表情!」

    メイド「ならしかたない!」

    メイド「「「行きましょうか!!!!」」」


    763: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:08:35.52 ID:oVyIEMwx0

    と、やってきたのだが。

    メイド「あっれーおかしいなあ、ここだよねえ?」

    メイド「うんうん、間違ってないとおもうんだけどー」

    メイド「いつもここに廊下あるよね?」

    メイド「一本まえだったっけ?」

    メイド「かも?」

    メイド「いやここだよう」

    とメイドさんたち何故か混乱の模様。

    男「ここに、廊下があったのか?」

    メイド「はい、たしか……」

    と、ただの壁の前につったって。

    男(……でもたしかに、見覚えがなくもない……)

    秋の間からもそう遠くなく、
    確かにあの日ここに訪れた可能性は、たかい。


    764: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:13:26.12 ID:oVyIEMwx0

    男(少し、実験をしてみよう)

    男「ちょっとみんな、少し戻ろう」

    とぞろぞろと5分ほど歩いてから。

    男「誰か一人、ちょっともどって、もう一回みてきてくれないか?」

    といって向かわせる。

    待つこと少し。

    メイド「ありましたありましたー! やっぱりあそこでしたよ廊下!」

    男「ほう……」

    メイド「仮面さんいた?」

    メイド「おくーのほうにいたっぽい? かも?」

    男「すまないが、今度は全員で行ってみてくれるか」

    メイド「「「はーい」」」

    そしてまた、待つこと数分。

    メイド「「「ありました! いました!」」」

    男(……なるほど)


    765: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:17:03.77 ID:oVyIEMwx0

    そうしてもう一度俺が行ってみると。

    メイド「あれー?」

    メイド「ないねえ」

    男「……そういうことか」

    簡単な話であった。
    俺がいるとなくなり、俺がいなければ出現する。

    男「……これは、思ったより収穫だ」

    仮面さんのことは、
    正直直接脱出するための手がかりに直接つながるとは思わなかった。

    しかしこれは、明らかに。
    一つの大きな手がかり。


    766: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:29:25.34 ID:oVyIEMwx0

    カタギ「あー見つけたか」

    冬の間で、俺はカタギさんに相談をした。

    カタギ「そうか、そうだな。今回はお前、一度あそこまでいったんだもんな」

    男「どういう……?」

    カタギ「普段はあんなとこ行かねーからな。気づかずに終わるって話だ」

    男「やっぱりなにか、あそこに」

    カタギさんは、目を細めてから。

    カタギ「お前は、どう見る。あったりなかったり、する理由」

    男「俺は……」

    さっと、考えていたものを頭でまとめる。


    770: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:44:50.76 ID:oVyIEMwx0

    一度たどり着けて、今はいけない。
    ということは、その二つの時点で、差があるということ。
    変わったものは何か。

    あそこを目的とするか、しないか。

    いやしかしこれだと、あそこを目的として行ったメイドさんが
    たどり着けたことと矛盾する。

    では、俺だけが違ったものはなにか。
    脱出しようとしていた、こと?

    いやもしそうだとしても、何故?
    思い出せ、なにか……

    男「……あ……」

    >支配人「ここは現実逃避をする場所です」
    >支配人「ですから、本心から現実に帰りたいと思わなければ」
    >支配人「それは叶わない、というだけの話です」

    もし、もしこれが仮に出口につながるものだったとしたら……

    >支配人「正確には、出口につながる道を発見しました」
    >支配人「しかし、出口までは手が届かなかったのです」

    男「……!」

    これで説明が、つく……!!


    771: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 06:51:52.48 ID:oVyIEMwx0

    しかし、説明はつくが、
    それはつまり。

    男「……俺が、本心から現実に帰りたい、と思っていない、から……?」

    何をばかな。
    今まさに帰りたいと、望んでいて、
    だからこうして必死に探しているんじゃないのか?

    男「違うのか……?」

    カタギ「……」

    カタギ「さ、帰った帰った」

    カタギ「自分のことは、自分でなやめ」

    そうして俺は、カタギさんの部屋を追い出され、
    すごすごと冬の間をでたわけだが。

    男「どういう、ことだ……?」

    俺は、自分のことがわからなかった。


    772: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 07:08:25.51 ID:oVyIEMwx0

    春の間の、部屋に戻る。

    お嬢さん「あ、おかえりなさい」

    お嬢さん「どうしたんです……?」

    お嬢さんは帰ってきた俺のすぐ横につくと、
    いたわるように背をさすってくれた。

    男「……わからない、どういう、ことか」

    俺はつぶやくようにして、状況を伝えた。

    お嬢さん「……そう、ですか」

    男「帰りたい、こんなにも帰りたいのに」

    男「十日で記憶が消える生活なんて嫌だ」

    男「それを何年も続けてきたという事実が心底たまらない」

    男「なのに、どうして……」

    お嬢さん「ゆっくり、ゆっくり考えましょう。ね、……ね」


    779: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 07:24:17.03 ID:oVyIEMwx0

    俺が出口を見つけても、たどり着けなかったというのなら。
    俺は今までなんども、この問いを考え、
    そして、答えを見つけられなかった……?

    男「ここまで、なんとかきたのに……」

    ここまでたどり着くことができたのは、
    きっと恐ろしく貴重なことなのだ。

    ……やっとここまできたのに、
    最後の最後が解けやしない。

    男「……」

    お嬢さんはとぽとぽとお茶をついでくれたが、
    すぐには手もつけられなかった。

    お嬢さん「……」

    男「十日間の記憶を、俺はそんなに忘れたかった、ということだろうか……」

    お嬢さん「ですが貴方は、いまそれを覚えていないのでしょう……?」

    そう、覚えていない。
    覚えていないのに、それは帰る帰らないの今の気持ちに影響するのだろうか。
    潜在意識がどーでこーでこーなった? みたいな? 

    男「……」

    なんと曖昧な。


    781: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 07:34:53.72 ID:oVyIEMwx0

    気づけば夕暮れも終わりかけの、夜の帳もおりる頃。

    男「……もうあと何時間かすれば」

    男「今日が……おわるな」

    男「十日目が……」

    俺は、もう考えるのも疲れてきていた。

    お嬢さん「大丈夫です、まだ時間は……」

    男「もう、疲れてしまったよ」

    ああ、こうして、俺はまた。

    お嬢さん「まだ時間はありますから……、きっと、きっと」

    男「あと数時間で、何ができるって、いうんだ?」

    お嬢さん「いいえ、大丈夫ですから……」

    お嬢さん「そうだ、少し横になっては」

    お嬢さん「きっと考えすぎて、頭がこんがらがってしまっているのですよ……」

    男「……、そう、だな。うん、もう、そうするよ」

    俺はきっと、もう、これで。
    次の俺がまた、頑張ってくれる、だろう……。


    784: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 07:52:00.47 ID:oVyIEMwx0



    「明日は、お仕事、早いんですか?」

    「そうですか、分かりました」

    「え、身体?」

    「大丈夫ですよ、結構元気です」

    「あはは、はい」

    「ふふ、心配されてうれしいです」

    「じゃあお昼頃、はい、電話ください」

    「わかりました」

    「だめですよ? お仕事中に電話なんかかけてきちゃ」

    「ぎくって顔しないでください」

    「そんなに心配しないでも」

    「あはは」


    787: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:11:01.87 ID:oVyIEMwx0

    男「ん……」

    目が覚めたとき、

    お嬢さん「おはようございます」

    にっこりと、微笑むお嬢さんの顔が、すぐそこにあった。

    男「ああ……」

    それがとても俺を穏やかな気持ちにさせてくれた。

    これは、夢だろうか。
    俺はもう、十日の夜に、寝たのだ。
    記憶など、あるはずもなく。

    男「お嬢さん……」

    お嬢さん「はい」

    彼女が居てくれることが、うれしかった。
    ここ何日かずっと居てくれて。

    真実を知ってから不安定になりかけていた気持ちも、
    彼女が居てくれたから、安定していた。

    男「お嬢さん」

    お嬢さん「ふふ、どうしたんですか」


    788: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:13:25.39 ID:oVyIEMwx0

    お嬢さん「どうしたんです、そんな」

    お嬢さんは、俺の頭をなでた。
    くすぐったくて、なんだか、気持ちよく。

    男「……」

    あれ? 
    時計が、目に入ったような気がした。

    男「……あの、今、何時ですか」

    お嬢さん「午前二時、ですが」

    あれ?

    男「……あれ?」

    いやいや。

    いやいやいやいや?

    この時間、あれ?

    ……あれ!?


    792: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:17:16.22 ID:oVyIEMwx0

    男「夢じゃ……ない……? もしかして?」

    お嬢さん「はい、夢ではありませんよ」

    お嬢さん「あ、この場所という意味でなら、分かりませんが」

    男「い、いやいやそういう意味でなく、寝ぼけてないか、と」

    男「あれ!?」

    男「午前二時……、え」

    男「十日目、おわってる、よね……?」

    お嬢さん「いいえ、まだですよ」

    お嬢さん「貴方にとっての十日目は、まだ」

    男「ど、どういう……」

    お嬢さん「貴方が最初に起きたときの時間、覚えておりますか?」

    >先ほどおきてから体感で2時間かかってない程度。
    >となるとおきたのは正午くらいだったか。

    男「正午……だった、ような」

    お嬢さん「ふふ、そうです」

    お嬢さん「貴方の時間は、正午で一周期、なのですよ」


    795: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:28:34.61 ID:oVyIEMwx0

    男「な……」

    お嬢さん「だから言ったでしょう、まだお時間ありますから、って」

    お嬢さん「本当にギリギリだったら、横になっては、なんて」

    お嬢さん「いえませんよ」

    ぽかんと、したあと。

    男「はぁああーー…………っ」

    すごい勢いで安堵のため息がもれた。

    男「なんでいってくれなかったんだ……」

    お嬢さん「焦って混乱しかけていましたから」

    お嬢さん「おきてもまだ時間があると分かっているよりも」

    お嬢さん「分かっていないで寝たほうが、いったん気持ちをリセットできるかな、って」

    お嬢さん「どうです、少しはすっきりしました……?」

    ああ、この娘さんは……。

    男「心臓がばっくばっくいってるよ……、ったく……」

    でもこれは、効き目あり。


    797: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:36:07.44 ID:oVyIEMwx0

    男「まったく……」

    お嬢さん「ふふ」

    何度か深呼吸をして、落ち着ける。

    男「とにかく……、あと十時間は猶予がある、ってことでいいのか」

    お嬢さん「はい、そのとおりです」

    男「……わかった」

    それでも十時間。
    昨日考えてわからなかったことが、果たして今分かるか、とは。

    男「いや? まて」

    今のやりとりで、俺、何を思ってた。

    男「……、……」

    まて、そっちか、もしかして、そういう。

    いやいや。
    まさか。
    そんなばかな。


    799: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:40:04.48 ID:oVyIEMwx0

    ここ数日間。
    ずっと俺は、彼女に癒され続けてきて。

    それはとても、心地よかった。
    間違いない。

    ちらっと、お嬢さんを盗み見る。
    まだ十四か、五か、もしかしたらそれより下か。
    そんなまだ身体の成熟していない女性だけれど、
    考えてみれば、心持は俺なんかよりも全然大人で。

    いやなにを考えている。

    お嬢さん「どうしました?」

    男「あ、いや、あの」

    あわてふためく。なにもないのに手が宙をかく。

    さすがにここまできたら、
    ああ。

    男「そういう……、こと、か」

    俺が本心から帰りたいと思い切れなかったのは。
    つまり。


    802: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:49:58.34 ID:oVyIEMwx0

    男「お嬢さんが、いたからだった、か……」

    お嬢さん「え?」

    男「いや、謎が、解けた」

    男「俺が本心から、帰ろうって、思い切れなかった理由」

    男「君がいたからだ」

    いやなにをさらっと言っているのかと自分でビンタをいれたいのだが。

    お嬢さん「え、あ……あの、それ」

    男「……な、なんだ、その」

    男「いや、こほん……」

    男「その、すまない。単刀直入にいうと、どうやら」

    男「……俺は、君のことが」

    好きに、なった。

    お嬢さん「……っ!!」

    お嬢さん、その小さな口を、手で覆う。
    目がくりくりとして、あっちやこっちを視線がふらふら。

    お嬢さん「な……、な……」


    805: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 08:55:22.05 ID:oVyIEMwx0

    お嬢さん「……」

    お嬢さんは、んっ、んっ、と何か喝を入れるようにしたあと。

    お嬢さん「……それでは、それでは貴方が、帰れないでは、ありませんか」

    お嬢さん「……貴方の気持ちは、嬉しいです」

    お嬢さん「けれど……、正午を過ぎれば、消えてしまう」

    お嬢さん「また、最初に戻ってしまう」

    男「……それは……、……」

    痛いところである。

    お嬢さん「……よく考えてください。どちらが、大事ですか」

    お嬢さん「ちゃんと比べてみてください」

    お嬢さん「わかりますよね……?」

    もちろん、それは良く分かっている。
    だが、このよく分からない気持ちを。おそらくほれてしまったということを。
    どうしていいかなんて、分かるはずもないだろう?


    807: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:00:19.00 ID:oVyIEMwx0

    これこそ混乱である。
    自分の気持ちを、どう扱えばいいのかが分からないのだ。

    男「……いや」

    その思考の中で。
    その拍子で。

    男「お嬢さん、妙案が」

    お嬢さん「……はい?」

    男「一緒に、逃げよう」

    お嬢さん「……っ!!!」

    男「もし俺の、思い違いでなければ」

    >男「七年……」
    >男「正直、あきないか? 何もすること無いだろう」
    >お嬢さん「……それは」
    >お嬢さんが、その朱唇を一瞬噛んだ。
    >お嬢さん「いえ、そんなことは、ありませんよ」

    男「お嬢さんも、ここを、脱出したいんじゃ、ないのか……?」


    808: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:05:55.62 ID:oVyIEMwx0

    お嬢さん「……、それは」

    男「たぶん、あの時だって」

    >お嬢さん「本当は、隠し通したかった」
    >お嬢さん「いいえ、このまま言わなくてもよかったのです」
    >お嬢さん「問題は、なかった」
    >お嬢さん「けれど、でも……。あんな風にされて、私」
    >お嬢さん「もしかしたら、もしかしたら大丈夫かも」
    >お嬢さん「って、思ってしまったんです……」
    >お嬢さん「私は、弱い人です……」

    男「本当は言わなくてもよかったことを、言ったのは」

    男「もしかしたら大丈夫かもというのは」

    男「その衝動が、抜け出したいという気持ちが、あったからではないのか……?」

    お嬢さん「……、……」

    お嬢さんは目を背けて。

    お嬢さん「でも……、やっぱり、それは……」

    男「違うのか?」

    お嬢さん「……、……いいえ。いいえ貴方の、貴方の言う、とおりなのです」


    811: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:14:31.24 ID:oVyIEMwx0

    男「なら……」

    お嬢さん「……過去に。過去に、一度」

    お嬢さん「貴方は私にこうして手を差し伸べてくれたことが、ありました」

    お嬢さん「私は、無知な私は、純粋にうれしくて、その手をとったのです」

    お嬢さん「しかし、その時は脱出できなかった」

    お嬢さん「なぜなら、出口には問題があったから」

    お嬢さん「貴方は私をかばって、その時大怪我を……おったのです……っ」

    男「出口に、問題……?」

    お嬢さん「だから、だから、もう、そんなものは、私はみたくなくて」

    お嬢さん「だから一緒には、……っ」

    男「それは、なんなんだ、いったい、なんなんだ」

    お嬢さん「出口には……」

    彼女はそうして、ぽつりと一言。

    男「ああ……」

    そういうこと、か。


    813: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:25:12.95 ID:oVyIEMwx0

    男「でも、そんな気持ちでいる君を」

    男「置いていけはしないよ」

    お嬢さん「……っ」

    男「……行こう」

    男「やってみなきゃ、分からない」

    男「ダメだったら、また次の俺に教えてやってくれ」

    男「きっと、頑張るから」

    お嬢さん「そんな……、そんな……」

    男「大丈夫」

    俺はその、きっと暖かい手を、取る。
    お嬢さんの目を、じっと見つめる。

    男「絶対に」

    格好をつけたつもりで、
    しかし手は、震えていたかもしれない。

    男「君だけは守るから」

    ただこんな時こそがきっと、
    見栄でも男が胸を張る時なのだろうな、と。そう内心で、苦笑い。


    817: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:32:40.47 ID:oVyIEMwx0

    そうしてお嬢さんを半ば強引に連れ出して。
    その手をしっかりと握って。

    男「……ここ、だな」

    その場所へと、やってきた。

    廊下は開いていた。
    つまりこれは、ここを進めということ。

    お嬢さん「や、っぱり……」

    お嬢さんは怖気づくように、少し足をひるませた。

    男「いざとなったらなけなしだが頑張ってみるから。なんとか君だけでも、逃げ切れれば」

    お嬢さん「そんな、だめです、一緒に、一緒に行くって約束してくださいっ」

    男「善処はしよう」

    お嬢さん「約束です」

    男「うーむ……」

    キっとしたその目、もう慣れたあの威圧感。

    男「……わかった、わかったよ、約束だ」

    安請け合いもいいところであったが、
    それでも出来る限り、守るようにしよう。


    820: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:46:44.41 ID:oVyIEMwx0

    廊下に数歩踏み込むと、
    ぽう、と一つがともったと思えば、つらなって。

    男「ほう」

    廊下のずっと先まで、明かりがともっていった。
    恐ろしく長い廊下のようだ。
    しかしそれが綺麗だ、と思ったのも一瞬で。

    男「……」

    お嬢さん「……っ」

    その先に、照らされ浮き出た影一つ。

    その風貌は前にまみえた時と、変わらず。

    仮面「――」

    思考能力を失った、一人の男。

    仮面さんの、姿であった。


    821: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 09:51:30.94 ID:oVyIEMwx0

    仮面さんは、ゆらゆらと左右に揺れながら、
    ゆっくりとこちらへ向かってきた。

    俺たちとしてもここで引いては意味がないので、
    進むしかなく。

    お嬢さん「……っ」

    ゆっくりと縮まる距離に、緊張感が高まる。

    過去。
    お嬢さんの話では、ここまではたどり着いたものの
    仮面さんによる妨害によって、
    先に進むことができなかったらしいのだ。

    男(こいつを……、こいつを、突破しさえすれば……)

    現実に、戻れる。
    俺も、彼女も。

    この現実逃避をするための旅館から開放され、
    自由になることが、できる。

    男「……」

    おびえるお嬢さんを、背に隠しながら。
    ゆっくりと。


    823: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 10:00:09.73 ID:oVyIEMwx0

    俺が足を止めると、仮面さんもまた。
    その間三メートルあるかなしか。

    男「……ここを通しては、くれないだろうか」

    仮面「――」

    仮面にあいた穴は全て真っ暗で、
    こちらをおそらく見つめているであろうその目が、
    何を訴えているのかも、わからない。

    男「……」

    お嬢さんが服のすそを引っ張っているのが、わかる。

    男「通して欲しい」

    もう一度訴えるが、何の反応もない。

    男「……」

    これでは動き出せない。


    825: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 10:07:39.64 ID:oVyIEMwx0

    しかし見詰め合っていても、埒が明かない。
    むしろ寒気でもっと動けなくなりそうだった。

    男「……行くぞ」

    お嬢さん「えっ……」

    男「行かないと、どうしようも」

    廊下はそう広いものではなかったが、
    俺は仮面さんを迂回するように、右から。

    仮面「――」

    ぬうるりと。
    仮面さんは俺の前に立ちはだかった。

    男「通さない、つもりか」

    一瞬の間のあと、俺は少し強引に、身体を進め

    男「……っ!!」

    その胸を、手で押し返された。

    その力たるや、まるで人かと疑うほどの。
    俺はどすんと、しりもちをついた。


    827: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 10:16:24.64 ID:oVyIEMwx0

    お嬢さん「ああっ……っ」

    お嬢さんが駆け寄ってきたが、何のこれしき。
    俺はすっくと立ち上がる。

    男「大丈夫だ、大したもんじゃない」

    しかし今ので、歩いて横を突破するのは不可能というのが分かった。
    おそらく、走り抜けるのでも、大差なく。

    男「……お嬢さん」

    男「すまない、こいつを突破するのに、二人で並んでというのは難しそうだ」

    男「俺が何とかするから、その間に」

    お嬢さん「だ、だめです!」

    男「大丈夫だから。きっと、追いかけるから」

    そうでないと、また、二人ともたどり着けなくなってしまう。

    男「大丈夫だから」


    829: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 10:24:54.95 ID:oVyIEMwx0

    廊下の端に一人ずつならば、
    さすがに身体一つの仮面さんではどうしようもないはずだ。

    お嬢さん自らの腕をかき抱きながら、
    震えながら、
    ゆっくりと、左側へ。

    男「……仮面さん、なんで、通してくれないんだ」

    仮面「――」

    返答などないと、分かっていても。
    そう問いかけずにはいられなかった。

    左端にお嬢さんがたどり着いたのを確認した。

    男「……いって、お嬢さん。さ、はやく」

    お嬢さん「……っ、……っ」

    一瞬俺のほうを見て戸惑ったお嬢さんは、
    しかしそのすぐ後、意を決して。

    駆け出した。


    832: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 10:37:54.59 ID:oVyIEMwx0

    仮面「――」

    走り出したお嬢さんを、
    仮面さんは見逃すわけもなく。

    男「まてこらっ」

    俺は走りだしかけた仮面さんに、しゃにむに、とびついた。
    しかし残念ながらこの俺は、肉体派の人間であるはずもなく。

    仮面「――」

    だからそんな俺を、仮面さんはいともたやすく投げ捨てた。
    ひょい、という効果音が似合ったとおもわれる。

    男「わ」

    宙を飛びながら、しかし飛んだ方向が進むべき先で、
    わたわたとしながらすぐに立ち上がる。
    今度は逆に、俺が仮面さんの前に立ちはだかる形。

    俺は精一杯腕を広げて見せた。
    しかしながら仮面さんはそれを意にも介さず、腕で突き飛ばす。
    俺はそれでもなんとか食らい付く。
    そして半ば引きずられるような形になったが、格好など今更。

    男「うぐううう……!!!」

    それはなんと、無様な戦いだったろうか。


    833: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 10:49:06.25 ID:oVyIEMwx0

    全身全霊の妨害だった。
    お嬢さんに、指の一本だって触れさすわけにはいかない。

    が、お嬢さんはこちらを振り返って、足を止めかけていた。

    男「い、いって! いってくれ! はやく!」

    お嬢さん「で、でも、でも……!」

    男「気にしないで、はやく!!」

    仮面「――」

    仮面さんはまた腕を振り払う、
    もう俺は食らいつくのも限界で――

    カタギ「――見てられんな」

    突如。
    仮面さんの感覚が消えた。

    男「な」

    その代わり俺の前に立った、
    なんともたくましい後ろ姿は。

    男「か、カタギさん……!!!!」

    それは考えうる限り最高の、加勢だった。


    868: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 11:24:19.44 ID:oVyIEMwx0

    カタギ「……すまないな」

    カタギ「本当は、そう。あの時も、いつだって」

    カタギ「俺はこうするべきだった」

    まだ俺が立ち上がりきらぬ間に、
    既に仮面さんはカタギさんと向き合っていた。

    カタギさんは、いつのまにか、
    銃を――トカレフを、握っていた。

    カタギ「本当は、知らなかったわけではない」

    カタギ「概ね今回はたどりつくだろうとか、ここを通るだろうとか。そのくらいは予測もできた」

    カタギ「だから最初の時だって、いつだって、加勢はできた」

    カタギ「でも、俺は」

    カタギ「現実に戻ろうとするお前たちを、どうしても直視できなかった」

    カタギ「逃避してここにいる俺と、それを抜け出そうとしている人間では」

    カタギ「あまりに立場が違うんだ」

    カタギ「だからいつも、知らぬ存ぜぬを決め込んできた」

    カタギ「……すまなかった」


    871: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 11:36:25.50 ID:oVyIEMwx0

    そうか、だから。

    >どこか、いつもより素っ気なかったような、気がした。

    俺が帰りたいという意思を示した時に、
    そんな態度だったんだ。

    カタギ「いけ。お嬢が待ってる」

    男「カタギさん……」

    カタギ「こいつ一人、どうにでもなる」

    カタギ「いけ」

    その言葉は大いに安心感をもたらすものであったが、
    その背の、どことなくものがしい感じが、なんとも。

    男「……はい」

    お嬢さんは、少し先で立ち尽くしていた。

    男「この義理は、……必ず」

    カタギ「生意気いうな、カタギのくせに」


    872: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 11:43:12.16 ID:oVyIEMwx0

    俺はお嬢さんのところにすぐ行くと、手を取った。

    男「行こう」

    お嬢さん「で、でも」

    男「カタギさんなら大丈夫だ、絶対」

    お嬢さん「……」

    お嬢さんはカタギさんを少しみてから、

    お嬢さん「……はい」

    二人で、走り出した。

    後ろで。
    仮面さんがこちらに走り出したような音が聞こえたが、

    カタギ「現実に戻ろうとしてるやつの足」

    カタギ「引っ張るんじゃねえよ」

    ドン、と明らか発砲音。

    お嬢さん「っ!」

    男「見るな振り向くな、走れ……!」

    俺たちは懸命に、その長い長い廊下を、走った。


    874: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 11:54:18.03 ID:oVyIEMwx0

    どれくらい走っただろうか。
    いまだ出口らしきものはみえず。

    お嬢さん「はあ……っ、はあ……っ」

    お嬢さんは息を切らしていた。

    男「結構離れた、あとは、歩きながらでも」

    お嬢さん「ご、ごめんな、……さい……」

    男「休憩、しようか?」

    お嬢さん「い、いえ……、止まるより、歩いていた方が、幾分か……」

    男「そうか……」

    かなり厳しそうであったから、
    俺は慎重に歩調をお嬢さんに合わせながら歩く。

    男(カタギさんは……だいじょうぶだったかな……)

    おそらく発砲はしていたが、殺しまではしていないはずだ。
    本能だけで動くのであれば、手負いでも押さえつけるのは大変なはず。

    とはいえカタギさんも元本職、
    俺が心配するほどのことは、ないかもしれない。


    877: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 12:00:32.18 ID:oVyIEMwx0

    お嬢さん「げほ……、げほ」

    男「お、おい、大丈夫か?」

    俺は彼女の背をさする。

    お嬢さん「す、すいま、せん……げほっ」

    本当に辛そうだった。

    男「おぶろう」

    お嬢さん「え、あ、そんな」

    男「いいから」

    俺はさっと、彼女を背に乗っけた。

    お嬢さん「……すいません……」

    男「……からだ、弱いのか?」

    お嬢さん「……すこし」

    男「……そうか、知らないで走らせてしまった……」

    男「申し訳ない」

    お嬢さん「い、いえ、そんな」


    880: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 12:18:01.86 ID:oVyIEMwx0

    話しているだけでも彼女が体力を使いそうだったので、
    俺はそのあと、口をひらかず歩いていった。

    男(そういえば……、外に出たら、どうなるんだろう)

    現実に戻るというのは分かるが、
    俺とお嬢さんは、いったいどうなるのだろう。

    そんな疑問が駆けた。

    男「……もし、現実にもどって」

    男「君と会えたなら」

    男「その時は、よろしくたのむよ」

    お嬢さん「くす、告白をしなおしてくれたりは、しないのですか?」

    男「おおう、これは大胆な」

    男「……しても、いいな」

    お嬢さん「そんなの、確認しなくたって」

    くすくすと、お嬢さんが笑った。
    その時。

    『走れッ!!!! 走れーッ!!!!!!』

    怒号が、後ろから。


    884: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 12:42:48.46 ID:oVyIEMwx0

    振り向くと

    男「……な」

    まるで壊れた人形のように、腕をおかしな方向に曲げながら、
    それこそ死に物狂いの勢いで、

    仮面「――」

    仮面の男が、走ってきた。

    気の違ったような、おぞましいほど狂気を振りまいて。
    今にも甲高い笑い声を上げそうな気色の悪さ。
    禁断症状を起こした薬中患者もこうはならないと思うほどである。
    しかもその速さがすさまじく。

    お嬢さん「ひ、ぁ……っ」

    男「しっかりつかまってて!!」

    俺は確認するやいなやすぐさま駆け出した。

    おそらく怒号はカタギさんのものだった。
    つまりカタギさんを振り切るだけ仮面さんは暴れて、
    それが今俺たちを襲おうと、しているのだ。

    つかまった瞬間全てが終わると、そう暗に告げていた。


    887: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 12:53:00.19 ID:oVyIEMwx0

    男「……はぁ、はぁっ!」

    心拍数が爆発的に上がり、
    明らかに限界を超えているのを理解する。

    男(まずい……、まずい……!)

    守るべきものがある人は強いなどとは言うが、
    人一人負ぶって走るにも限度がある。

    どうしたって本能だけで突進してくるあの仮面さんに、
    勝てるわけもなかった。

    だからその距離はどんどん縮まって、

    男「くそっ、くそ……!」

    だがその向こうにようやく、
    出口らしき扉をみつけた。

    男(あそこまで……いければ……!!)


    891: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:08:03.04 ID:oVyIEMwx0

    仮面さんが、すぐ後ろまで来ているのが分かった。
    明らかに扉までたどり着けない。

    そうわかった俺は、せめてお嬢さんだけは守らねばと、

    男「く……っ!」

    振り返った。

    お嬢さん「だ、だめ……!」

    乱暴と思いつつも、お嬢さんを俺から半分投げる形でほうりだす。
    こうするしか、なかった。

    俺は振り返って飛び掛ってきた仮面さんの一撃のこぶしを、
    真正面から受けることとなる。

    男「が、あ」

    吹き飛ばされて、転がり
    殴られたところの骨はおそらく折れていた。

    しかしそれでもお嬢さんのところに行かせるわけにもいかないから、
    ひるまず飛び掛る。

    カタギさんがここにたどり着くまでの数秒さえ、持てばと、
    半分意識が朦朧とする中で、俺は必死に仮面さんと取っ組み合った。


    893: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:12:29.32 ID:oVyIEMwx0

    そうしてカタギさんがたどり着くと、
    仮面さんを蹴り飛ばして引き剥がしてくれた。

    カタギ「大丈夫か」

    男「い、生きては……います……」

    カタギ「すまねえ、こいつあまりに死に物狂いで」

    よく見ると、右腕がだらりとたれていた。
    おそらくカタギさんに撃たれたのがそこなのだろう。

    カタギ「躊躇すべきじゃなかったな」

    カタギさんはそういうと、どこから出したかナイフを
    仮面さんの両足に突き刺した。

    仮面「――」

    仮面さんの声にならない悲鳴を聞いた気がした。


    894: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:21:39.96 ID:oVyIEMwx0

    仮面さんは一瞬動かなくなったが、
    しかしすぐに痙攣する足を引きずりながら
    まだ使える左腕で、身体を這わせてくる。

    カタギ「こいつ……」

    ただ、その方向は俺でもカタギさんでもなく
    端っこで振るえ縮こまっていた、お嬢さんの方で。

    カタギ「いかせねえぞ」

    カタギさんはその残った腕も、踏みつける。
    それでもなお、仮面さんは、もだえる。

    カタギ「なんでこいつ、こんなに必死なんだ……」

    いくら本能だけとはいえ、
    これだけ負傷してもまだ立ち向かってくるというのは、いったい。


    898: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:29:16.05 ID:oVyIEMwx0

    その時だった。

    仮面「……あぁあ……、ああ」

    男「……!」

    仮面さんが、初めて声を上げた。
    低い、うめき声。

    そして、

    仮面「ぉ……で、も……」

    何か、言葉を。

    仮面「あい、し……で」

    仮面「……いだ……」

    必死に搾り出すように、そう言った。

    カタギ「……」

    そうして、それだけ言うと、まるで何かやりとげたかのように。
    ぷっつりと。
    仮面さんは事切れ、もう、動かなかった。


    899: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:37:17.97 ID:oVyIEMwx0

    カタギ「なんて言った?」

    男「……いえ、俺も……」

    お嬢さん「……、……」

    凄惨な姿で、仮面さんはピクリともしない。

    カタギ「……後味は、悪いが」

    カタギさんは、うしろの扉をみて。

    カタギ「ここだろ、出口」

    男「……おそらく」

    カタギ「なら、さっさといくといい」

    カタギ「もうここには、用もないだろう」


    902: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:45:29.43 ID:oVyIEMwx0

    男「お嬢さん、……行こう」

    お嬢さん「……」

    この光景で、おびえてしまったのか。
    お嬢さんは口もひらかず。

    カタギ「お嬢、大丈夫だ」

    カタギ「おそらくこいつは死なねえ」

    カタギ「何せここは現実逃避をするための場所だ」

    カタギ「何でもありだ、支配人のやろうがなんとかしてくれるさ」

    それはおそらく、お嬢さんを安心させるためのデマカセだった。
    本当にそうなる可能性も、ないとはいわないが……。

    お嬢さん「……、……」

    お嬢さんはふらふらと、立ち上がる。
    しかしよくお嬢さんの顔を見ると、
    怯え以上に、困惑の表情が混じっていた。

    男「どうした?」

    お嬢さん「……、……いえ……」


    903: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:50:30.38 ID:oVyIEMwx0

    男「……それでは」

    カタギ「おう。またな」

    俺たちは、背を向ける。

    男「さ、お嬢さん」

    扉の向こうは、開いてみたが何があるのかは、よく分からず。
    前に屋根からみた霧のようなもので満たされていた。

    お嬢さん「お世話に、なりました」

    カタギ「俺も世話になったさ」

    カタギ「じゃあな」

    そうして俺たちはカタギさんに見送られ、
    その扉の中へと、入っていた。

    男「お嬢さん、じゃあ、俺たちも、また」

    お嬢さん「……はい。また」

    よく、見えなかったが。
    お嬢さんがぎゅっと抱きついてきたような感触が、
    最後の記憶として、残っている。


    904: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 13:53:01.41 ID:oVyIEMwx0



    「」

    「」

    「」

    「」

    「」

    「」

    「」

    「」

    「」

    「」

    「」


    908: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 14:05:00.35 ID:oVyIEMwx0

    男「……わ」

    男「あ……れ……?」

    なにか、意識がとんでいたような。

    男「ん……」

    記憶が、グチャグチャとしていて、はっきりとしない。
    今まで俺は、なにをしていた……?

    男「ここは……」

    四角い部屋だった。
    青白い光がともっている。

    男「……?」

    俺のもたれかかっているものは……
    机?

    なにかのっているようだ。
    なんだろう。

    俺はゆっくりと、少しふらふらとしながら立ち上がる。


    910: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 14:10:50.46 ID:oVyIEMwx0

    男「……これ、は」

    人が寝ているような……、

    男「い、いや」

    あたりを見回す。
    四角い部屋、一つの長い机――いや、台。そして青白い光。

    まるで、

    男「霊安室……?」

    では、ここの寝ているのは、誰かの……。

    顔には白い布が、かぶさっていた。

    男「……」

    一瞬、ためらう。
    あけるべきだろうか……。

    男「……、……」

    俺はその白い布を、とった。


    914: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 14:17:58.73 ID:oVyIEMwx0

    その瞬間。

    男「……っ!!!!」

    怒涛のように記憶がなだれ込んできた。

    男「あああ、ああああ……ああああ」

    それは女の顔だった。

    それは

    男「ああああああああ、あああああ」

    ここ十日間、一緒に過ごしていた、女の顔だった。

    男「あああああアアアあああ、あアアアアアアアアアア!!!!!!!」

    だが、だがしかし、それだけじゃない

    知っている、知っている、

    ああああ今さっきまで

    男「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

    お嬢さん。お嬢さん。お嬢さん。


    お嬢さん。


    919: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 14:31:21.89 ID:oVyIEMwx0

    男「ああああああああああああああああああ」

    俺は、この十日間。
    この十日間この娘と、
    一度お見合いをしたことがある、この娘と、
    一緒に暮らしていて。

    彼女は

    「もし俺を好きになってくれる人がいたら」
    「俺はその人のために全力で一生をかけられる」

    なんて言った俺の言葉に胸を打たれたからなんて言いながら、
    俺の事をずっとしたってくれていて、
    ただ、恥ずかしくて俺はなにもしてあげられなくて、
    好きだと応えることすらできなくて、
    それなのに今日、死んでしまって。

    アレだけ尽くしてくれたのに、
    俺の言葉を信じてくれたのに、
    結局俺が何もすることができる前に、
    俺が仕事に行っている間に、
    身体の弱い彼女は
    あっさりと、死んでしまって。

    医者には一時間はやければなんとか、
    なんていわれて。

    俺はせっかく手に入れかけていた幸せを、結局何もつかむことなく、
    それどころか何もつかませてあげられないまま、なくしてしまって。


    928: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 14:41:33.73 ID:oVyIEMwx0

    初めて人に好意を持たれたことが、
    たまらなく、何よりも俺には嬉しくて。

    そんな彼女と過ごす毎日が幸せだったから、
    彼女があっさりと死んでしまった時、俺は

    現実を、逃避したのだ。

    男「ああああああああああああああああああ」

    だが今戻ってきた時点で、
    今更問題はそれだけでなかったことに気づかされる。

    彼女はあの旅館で出会った、お嬢さんなのだ。

    年齢は、成長していた。
    俺が分かれたあの時よりも、五つ以上は大きくなっていた。

    おそらく時代が違った。
    俺と彼女は、あの旅館に召集される時点での時代が違った。

    今思えば、つまりあの会話こそ、そういう、意味だった。

    >「あの、先日一度、お会いしましたよね」
    >「はい。……でも、あの前に、会った覚えとか、ありませんか?」
    >「……」
    >「そうですか……」
    >「全然、ですか?」
    >「……、……そうですか」
    >「…………。……このあと、……なの?」


    932: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 14:53:58.43 ID:oVyIEMwx0

    つまり彼女は俺の元へ来た時点で、
    既に逃避から戻った後のお嬢さんだったのだ。

    そうして彼女が死ぬことで俺はやっと逃避するから、
    彼女にとっては「このあと」という認識になる。

    男「あああ……」

    そんなこと、死んでから、分かったって……。

    男「ああ……」

    彼女は、彼女には……

    男「……」

    申し訳が……、ない……。


    936: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 15:11:09.00 ID:oVyIEMwx0

    それから二ヶ月が経った。

    男「……」

    彼女には遠い親戚程度しか身寄りがなかった。
    ほぼかかわりがなかったようなので、遺骨は俺が引き取らせていただいた。
    そしてそれらは、彼女が指定したお墓に納骨した。

    俺は今、その墓の前にいる。

    彼女が残したものは、三つのメモだった。

    一つは、このお墓の場所が書かれた住所。ここ。

    一つは、押し花、とかかれた謎の住所。まだ行ってはいない。

    一つは、「気付いたよ」と書かれたメモ。意味は不明。

    男「……」

    線香を上げて、花を添えた。

    空はとても、晴れやかであった。


    941: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 15:18:48.49 ID:oVyIEMwx0

    ?「……おや」

    とんとん、と肩をたたかれた。

    男「はい?」

    ?「おおおー、やっぱりお前か!」

    男「え?」

    服装からしてお寺の人間のようだが。
    誰――

    男「あ」

    その顔、もしや。

    男「カタギさん!?」

    カタギ「おうよ、よくわかったじゃねえか!」

    男「わあ、カタギさん!」

    と感動したあと、ぽろっと

    男「めっちゃ年取りましたね……」

    カタギ「言うな……」


    950: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/08(月) 15:34:10.25 ID:oVyIEMwx0

    カタギさんは、俺の横に並ぶ。

    カタギ「ここ、お嬢がはいったんだっけな」

    男「……はい」

    カタギ「お嬢は、死ぬ前。元気だったか」

    男「……体は弱かったですが、はい。それなりに元気でした」

    カタギ「笑ってたか?」

    男「……ちょくちょくと」

    カタギ「そりゃ、よかった」

    カタギさんは、ふっと小さく笑う。

    男「って、彼女が家にいたこと知ってるみたいですね」

    カタギ「お前のとこ行く前に、お嬢が電話で教えてくれた」

    カタギ「まさか見つかるとは、とか、運命の出会いだ、とか言ってたな」

    男「……そう、ですか」


    88: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 06:43:59.74 ID:GSIyCG6Oo

    男「あの、カタギさんはここの住職なんですか?」

    カタギ「いや現役は引退したよ。納骨式のときは、俺じゃなかったろ」

    男「そういえば」

    男「あの、このお墓って、他に誰がはいってるんです?」

    彼女はここを指定したが、
    墓石に彫られた名前を見ても、わからなかった。

    カタギ「ああ、そうか、しらんか」

    カタギ「誰だと思う?」

    男「俺の知っている人です?」

    カタギ「そうだな」


    91: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 07:33:09.25 ID:GSIyCG6Oo

    となるとあそこにいた誰か。

    男「童ちゃんか……、芸者さんか……」

    男「仮面さん……?」

    カタギさんは「それじゃ全員じゃねえか」と言って笑った。

    カタギ「童だよ。あいつの墓が、これだ」

    男「童ちゃん……か」

    カタギ「そうだ」

    カタギ「アイツはとお嬢はな、少しの間らしいが一緒にすごしてたんだ」

    カタギ「童が、お嬢を保護する形でな」

    男「保護……?」


    92: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 07:52:31.25 ID:GSIyCG6Oo

    カタギ「逃避をした時間が、全員バラバラだっていうのは、知ってるな?」

    男「はい」

    カタギ「時間的には、童はお嬢よりも前に逃避していた」

    カタギ「たしか、今から換算すると二十年かそこらの昔だ」

    カタギ「お嬢の逃避はたしか……、六年だか、七年だか」

    カタギ「ああ、向こうでの滞在時間とは関係ないぞ」

    カタギ「「お前だって何年もいたのに、逃避したのは最近だろ」

    男「ええ、まあ。……あれ、何で知ってますか」

    カタギ「顔と背丈があの時のままだからな。髪は少し伸びたようだが」

    男「なるほど」


    94: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 08:01:34.15 ID:GSIyCG6Oo

    カタギ「偶然だったらしい」

    カタギ「童は、現実にもどったすぐあとのお嬢を、発見したんだ」

    カタギ「ただ、あいつは向こうで視覚を失っていたからな」

    カタギ「最初は顔を見てもお嬢とは気づかなかったらしい」

    カタギ「ただ、その時のお嬢はとてもひどかったそうだ」

    カタギ「だから気づかなくても、保護をした」

    カタギ「それで一緒にいたのが、五、六年」

    カタギ「死んだのは、つい半年前だ」

    男「半年前……」

    逃避した時が九歳で、それが二十年まえだということは。

    悔しいくらい、若すぎる。


    95: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 08:35:52.97 ID:GSIyCG6Oo

    カタギ「あいつも――知っていると思うがお嬢も――ほとんど身寄りがなかったらしい」

    カタギ「だから死の間際、童はなんとかお嬢に身寄りを、と思って」

    カタギ「なんとか見合いの話を、取り付けた」

    カタギ「それがまた偶然にも」

    カタギ「お前だった、というわけだ」

    男「な……」

    カタギ「もちろん童のやつは、お前だとは知らなかった」

    カタギ「そもそも童自身身寄りがいなかったのだから」

    カタギ「頼れる人もすくなく、話を取り付けるだけでも大変だったはずだ」

    カタギ「お嬢が運命の出会いだといったのも、頷けるところだな」

    男「……」


    97: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 08:57:51.54 ID:GSIyCG6Oo

    男「ああ……」

    目頭が、熱くて。

    カタギ「結局、童はお前とのお見合いが行われる前に逝っちまった」

    カタギ「まあしかし、お前とあわせることができたのだ」

    カタギ「お嬢にとって最高の相手だ」

    カタギ「……本望だったろうよ」

    男「……」

    カタギ「あの頃。旅館でお前が話した見合いのこと」

    カタギ「つまりはこれだったわけだ」

    カタギ「なんの気なしに聞いていたが、こうと分かると、なんていうかな」

    そこで口を閉じ、あごをかいて。

    カタギ「あの旅館にいて、それぞれが知っていたからこのお見合いにつながったわけじゃない」

    カタギ「本当に全て、偶然に」

    虚空に投げるように。

    カタギ「……不思議な話だ」


    99: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 09:10:42.43 ID:GSIyCG6Oo

    カタギさんはそう言ってから、空を仰いだ。

    俺は、じっと墓石を眺めていた。

    いつのまにか、ぽろぽろと。
    なにかが、頬を伝っていた。

    男「俺は……」

    あふれ出るものは、とめどなく。

    男「ああ」

    なんといえばいいのか、分からず。

    男「……」

    とにかく今はもう何も出来ないという事実に。
    ただただ、耐えるしかなく。

    乾いた風は、つめたかった。


    100: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 09:15:36.91 ID:GSIyCG6Oo

    その時。

    ?「おーい」

    と、女性の声。

    ?「あはは、なんだきてたのかあ」

    どこかできいたような。けれどすこし、かわっているような。

    振り返ると。

    男「ああ……」

    彼女はあの時見たよりも、やはり大分、年を取っていて。

    カタギ「紹介しよう」

    カタギさんはにやりとして。

    カタギ「こいつが俺の、嫁だ」

    芸者「やだなあ、もう。こんな歳になってるのに、恥ずかしいよ」

    芸者さんもまた、笑って。

    芸者「ひさしぶりだね、おにいさん」

    男「……おひさしぶりです、芸者さん」


    101: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 09:30:58.55 ID:GSIyCG6Oo

    男「結婚、したんですか」

    カタギ「そうだ。ずいぶん前にな」

    芸者「といっても三十年前くらい? 結構歳とってからだもんね、現実で会ったの」

    カタギ「そうだな」

    二人が出会ったのもまた、偶然だったらしい。

    カタギ「会った時は、誰だか分からなかったしなお前」

    芸者「ぐ、その言い方はなんかむかつくなあ」

    二人はとても仲がよさそうだった。

    男「そうでしたか……、おめでとうございます」

    芸者「この歳になって祝福されるとはっ」

    男「俺から見れば、二ヶ月前に別れたばかりですから」

    その時は二人とも、他人同士。
    芸者さんはカタギさんに好意があったようだったし、
    だから二人にしては今更と分かっていても、
    そう、言いたくなった。


    102: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 09:37:56.56 ID:GSIyCG6Oo

    その後少し会話してから、俺は帰ることとした。

    カタギ「これからどうするんだ、お前」

    男「……とくには、変わらず」

    今までのように、普通に会社勤めを、続けるだろう。

    カタギ「そうか」

    カタギ「……また、こいよ」

    男「……はい」

    カタギ「……」

    その間が、少し意を含んでいるのは、分かった。

    カタギ「いつでもこいよ」

    男「はい。……では」

    俺は車に乗り込む。

    芸者「またねー!」

    芸者さんに見送られ、
    俺はその場をあとにした。


    103: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 10:27:43.42 ID:GSIyCG6Oo

    数日後の休日。
    俺はある場所へとやってきた。

    男「やっとみつけた……」

    明け方頃に家を出たが、今はもうとうに昼をすぎていた。

    彼女の残したメモの内の一つ、
    押し花とかかれた住所が、ここ。

    いや正確には、住所の場所には家があった。
    だがそこはボロボロで、既に人はいなかった。

    ならこれはどういうことか、
    と途方にくれかけたが、そういえばと俺は思い出した。

    >「幼い頃は私、とても田舎に住んでおりまして」
    >「ええ、山の中のような。あはい、おじいちゃんとおばあちゃんの家です」
    >「その頃、お山の中に一つのお墓がありまして」
    >「ぽつんと。一つだけ」
    >「その納骨室に、押し花の本が一冊、入っていたのです」
    >「とてもふるい、お手製の」
    >「中のお花はとっくに枯れていましたけど、でも私それがとても気に入って」

    おそらくあの家が、幼い頃のお嬢さんが過ごした場所だ。
    そしてこの押し花とかかれたメモで向かって欲しかった場所は、つまり。

    男「この墓、だよな」

    小一時間探し回って今やっと、それらしきものを見つけたのである。


    105: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 10:49:32.43 ID:GSIyCG6Oo

    男「やっぱり」

    納骨室とおぼしき場所から、一冊の和とじの本がでてきた。

    男「ずいぶんと古いなこれは」

    中には既に枯れきってはいたが、
    無数の花が収められていた。

    男「これがお嬢さんの言っていた……」

    ページを一つ一つ、
    本そのものが壊れないよう注意しながら見ていく。

    一通り見た後、本の表紙を良く見ると、文字が。

    男「……四季、か」

    なるほど、本来この本には、
    四季折々の花々が、美しく閉じ込められていたのだろう。


    106: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 11:28:21.50 ID:GSIyCG6Oo

    ?「その宿が廃れていく中で」

    ?「一人の男が悪魔に懇願をしました」

    ?「宿をつづけさせてほしいと」

    ?「悪魔は首を横に振りました。契約は契約です」

    ?「その宿はすでに、悪魔のものです」

    ?「しかしそれでも、どんな形でもいいからと男は縋り付きました」

    ?「それでは、と悪魔は提案をします」

    ?「この現実の宿は、既に廃れることがきまっている」

    ?「しかし人の世でなければ、つづけさせてやってもいいだろう」

    ?「男はそれでもいいと頷きます」

    ?「ただしお前の命が代償だ」

    ?「宿は続くがお前は死ぬ。それでもいいか、と悪魔は続けます」

    ?「男はそれにも、それでもいいと頷きました」

    ?「男にとってこの宿は、命よりも大切だったのです」


    107: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 11:34:39.54 ID:GSIyCG6Oo

    振り向くと、そこにいたのは。

    男「支配人……!」

    支配人「おひさしぶりです、お客さん」

    男「な、なんで、ここに」

    支配人「いえむしろ、貴方の方からここにきたのですよ」

    支配人「ここが、私どもの旅館の場所ですから」

    男「え……?」

    支配人「その墓は、ここにあった宿を営んでいた家の墓です」

    支配人は、目線を俺の持っていた本に落とし、

    支配人「そしてその本を作ったのは、最後の一人の男」

    支配人「悪魔に懇願をし、命をささげ現実を逃避した男」

    支配人「すなわち、私どもの館を、作った男にございます」


    109: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 11:46:38.94 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「ゆえにあの旅館には四季の間がございます」

    支配人「なぜなら彼が、ここに閉じ込めたから」

    支配人「ゆえにあの旅館には現実を逃避した人間が招かれます」

    支配人「なぜなら現実を逃避して出来たのが、あの場所だから」

    ああそうか。
    だからあの屋根から見た景色は、

    >支配人「ここから見えるこの風景は」
    >支配人「その宿が廃れるまさに寸前で、時間が止まっているのです」

    時が止まっていたのだ。

    男「……そういう、ことか」


    110: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 11:54:39.61 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「どうです、戻った現実は」

    男「……どうもなにも」

    支配人「左様で」

    俺は何も言わなかったが、支配人は察した様子。

    支配人「しかし皆さん頑張って現実を乗り越えたのです」

    支配人「きっと貴方も」

    男「……、失ったものは、帰ってこない」

    支配人「それは誰しも同じですが」

    男「それは……」

    言葉に、詰まる。


    111: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 12:15:44.77 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「……それでは、彼らの話をいたしましょう」

    男「え?」

    支配人「彼らの、逃避した理由を」

    支配人「貴方と同じく、彼らだって逃避した現実がありました」

    支配人「彼らはそれを、逃避から戻ったのち、乗り越えたのです」

    それはそのとおり。
    あの場所にいたということは、
    同じく逃避したい現実があったのだ。

    男「……」

    では、と支配人は語りだした。


    128: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 19:45:59.17 ID:GSIyCG6Oo

    それはどれも、優劣のつけられるものでは、なく。
    ぐるぐると、言葉だけが、回る。

    跡目。抗争。報復。巻き添え。両親。寺。焼き討ち。仁義。復讐。
    戒め。痛覚。ケジメ不可。否定。
    カタギ。家。父の跡。復興。

    性欲。貞操。制御不可。真面目。二律背反。恋。娼婦。
    妻帯者。崩壊。優しさ。
    謝罪。尽力。解決。抑制。コントロール。

    両親。愛人。知らない男。知らない女。家の中。オトナ。
    怒声。恐怖。見ない。放置。暴力。孤独。
    逃亡。自活。労苦。奮闘。

    父。溺愛。肌。エスカレート。男。寵愛。拘束。接触。身体。
    生暖かさ。嫌悪。体温。
    拒否。逃亡。努力。回復。笑顔。

    ぐるぐると、回る。


    130: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 20:02:36.79 ID:GSIyCG6Oo

    男「……」

    自分ばかり、などということは、なく。

    男「……っ」

    分かっている、分かっている。
    話を聞いて、さらに強く、理解している。

    男「……」

    それでも思わずにはいられない。

    だからなんだと、いうのだ。
    誰がなんだというのだ。

    現実は、いくら乗り越えようと、
    事実として、変わらない。


    131: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 20:10:33.97 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「……気持ちは分からないとはいいませんがね」

    支配人「それに彼らには、戻るまでに考える時間があった」

    支配人「……しかし貴方には、なかった」

    支配人「なぜなら全て、忘れていたから」

    支配人「その点確かに、異なりはしますか」

    しかしその程度。

    男「俺は何も……してやれなかったんだ」

    現実を逃避した時点ですでに、
    俺はもう、何も出来ない状態、だったのだ。

    時間がいくら、あったところで。

    支配人「あの場は解決を求める場ではなく」

    支配人「心の準備を、する場所、ですから」

    支配人「だから本心から望まなければ、帰ることはできないのです」


    132: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 20:19:55.79 ID:GSIyCG6Oo

    男「いくら準備をしたところで……!」

    男「こんなにも辛い現実なら、俺はいつまでだって、あそこに……!」

    ああ。
    それはきっと、あの場にいた誰もが思っていたこと。

    支配人「時間は人の心を変化させます」

    支配人「どんなに辛いことも、いずれは耐えうるものとなる」

    男「だからなんだ……」

    男「俺は彼女に何もしてやれなかった!」

    男「俺の言葉を信じてくれた彼女に」

    男「俺は一生どころか、たった十日も尽くしてやれなかった!!」

    男「ただ一言答えてやること、すらも……」

    それはどうしたって、変わらない。

    悔しくて。
    それがたまらなく、悔しくて。


    133: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 20:35:49.35 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「そこまで、おっしゃいますか」

    支配人は、くつくつと喉を鳴らして笑う。

    支配人「……では、もし」

    支配人「たった一瞬でもそれができる、と言ったら」

    男「……、……、……え」

    支配人「貴方の言葉は、よく覚えております」

    >男「もし俺を好きになってくれる人がいたら」
    >男「俺はその人のために全力で一生をかけられるかな、って」

    支配人「貴方がもしも本当に」

    支配人「彼女のために一生をかけられるというのなら」

    支配人「貴方の言葉が本当だというのなら」

    >支配人「いや見てみたいものですね」
    >支配人「人は本当に、他の誰かに一生をかけられるのか」

    支配人「私は、見てみたい」


    135: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 20:50:42.63 ID:GSIyCG6Oo

    男「……本当に……、できるのか……」

    支配人「貴方が一生をかけられるのなら」

    支配人「ほんの一瞬だけ、そのチャンスを与えましょう」

    男「……」

    一生をかける。
    その言葉が意味するところを俺は捉えられなかったが。
    しかし、もし彼女のために何か出来るのなら。

    男「それでもいい、一瞬でいい」

    男「できることがあるのなら、俺は一生だって」

    支配人「一生という言葉の重み」

    支配人「……分かっておりますか?」

    そんなもの、まだ一生を生きたことのない人間に、
    分かるはずもない。

    男「……それでも、何か、できるなら」

    支配人は、どこか怪しく唇をゆがめる。


    136: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 21:01:33.30 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「わかりました」

    支配人「貴方を、過去の旅館にお送りいたしましょう」

    支配人「こちらの時間と、あちらの時間は、全くの別物」

    支配人「こちらから見れば、あちらの時間は止まっておりますが」

    支配人「あちらにはあちらの、時間がある」

    支配人「その、過去へ」

    男「……」

    ……そういう、ことか。

    支配人「これは悪魔の契約です」

    支配人「貴方の一生を代償に、貴方の望んだ一瞬を、差し上げましょう」

    男「そんなとこだろうと思った」

    男「……いいだろう」

    支配人「ふ、それでは」

    支配人は手を差し出した。
    俺はその手を、たしかに握る。

    支配人「契約、成立です」


    144: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 21:31:45.35 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「それでは、貴方の一生は預かりました」

    支配人「これより貴方を過去へお送りいたします」

    支配人「細かい裁量は過去の私に任せましょう」

    男「……わかった」

    支配人「怖くはありませんか」

    男「……怖いさ、なんたって悪魔の契約だ」

    男「怖くないわけない」

    身体が全く、落ち着かない。
    手だって、震えていた。

    男「でも、やるしかない」

    支配人「……そうですか」

    支配人「気持ちは固まっているようですね」

    支配人は、そこで俺の目を真正面から見る。

    支配人「それでは過去に行く前に」

    支配人「貴方は一つ手順を踏まねばなりません」

    支配人「お教えしますので、ぜひ、ご自分で」


    145: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 21:46:43.89 ID:GSIyCG6Oo

    男「ここは……」

    俺は霧に包まれていた。

    支配人「どうも、はじめまして」

    すっと、先ほどまで見ていた男――支配人が浮かぶ。

    男「はじめまして……?」

    支配人「ああ、貴方にとっては、過去の私ですから」

    支配人「ここは、旅館に招く前の場所です」

    支配人「出入り口みたいなものです」

    男「……なるほど」

    支配人「未来の私と契約をしたそうですね」

    支配人「どれ、ちょっと契約を確認させていただきます」

    支配人は、俺の手をつかんだ。

    支配人「……ふむ、なるほど」

    支配人「これはまた、とっぴな契約ですな」


    146: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 21:57:38.94 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「本来ここで、お客さんには対価を選択していただくのですが」

    支配人「この契約では、申し訳ありませんが、貴方に選択の権利はなさそうです」

    男「……そうか」

    もとより、そう自由の利くことではないとわかっている。
    既に俺は、契約した悪魔の言うことに従うしかない。

    支配人「まず第一に、貴方がその一瞬にたどりつくまで」

    支配人「つまり一生をかけきるまで」

    支配人「その行為が出来ないようにしなければなりません」

    支配人「まずは一つ。貴方から思考能力の全てを頂戴いたします」

    男「……、……そうか」

    支配人「発声機能と聴覚も、あると困りますね」

    支配人「コミュニケーションが取れてしまう可能性がある」

    支配人「ではその二つも、頂戴いたしましょう」


    151: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 22:13:25.73 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「記憶は……、頂くわけにはいきませんね」

    支配人「でないと、貴方が一生をかけたと認識できず」

    支配人「それでは貴方が一生をかけたことに、ならない」

    支配人「……少々、むごいですが」

    男「むごい?」

    支配人「……そのときになれば、わかるかと」

    支配人「ああそうだ、顔も隠さなければなりませんね」

    支配人「誰だか分かってしまってもアウトだ」

    支配人は、どこから出したか、

    支配人「どうぞ、この仮面をつけてください。さすがにのっぺらぼうにするのは忍びない」

    差し出された仮面を、俺は受け取って、
    顔に、つける。

    男「……あまり、いい気分ではないな」

    支配人「いずれ慣れるでしょう」

    支配人「その仮面は、役目を終えるまで」

    支配人「もう貴方からは離れません」


    158: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 22:43:25.08 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「さて、このあたりでしょうかね」

    男「……そうか」

    支配人「何か質問は、ございますか」

    今更何もないなと思ったが、ここで何も聞かないというのも勿体無い。

    男「風呂はどうする」

    支配人「ははは、なるほど」

    支配人「大丈夫です。この場所では、時間が動きません」

    支配人「何日風呂に入らなかろうが、現時点を維持しまから」

    支配人「におったり汚くなったりはしませんよ」

    男「ああ……」

    >男「俺、へんなにおいしてないか……?」
    >メイド「へんなにおい?」
    >メイド「してる?」
    >メイド「雄のにおいすらしない」
    >メイド「さかってない」
    >メイド「結論は?」
    >メイド「「「しない!!!」」」
    >男「うーん……、あてにしていいのかこれ」

    こんなところで、メイドさんの正直さが証明されたか。


    159: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:01:52.80 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「一応、注意だけ」

    支配人「貴方は一生をかけました」

    支配人「ですから、貴方が途中で自殺を図ろうとしても」

    支配人「決して死ぬことはできません」

    男「思考ができないなら、そんなことにはならないのでは」

    支配人「残念ながら記憶と本能がのこっています」

    支配人「気が狂う可能性は十分にあり」

    支配人「であれば自殺につながることも、まったくもってないとは言えません」

    男「……そうか」

    背筋に嫌な寒気が、走った。

    支配人「貴方はおそらく、一生をかけきった時点でぴったり契約を履行できるように」

    支配人「時間が調整されている」

    支配人「悪魔はその辺り、キチっとしてます」

    男「……そうか」


    160: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:13:35.39 ID:GSIyCG6Oo

    支配人「それでは、そろそろ」

    男「ああ」

    また浮かび上がるように、
    扉が現れた。

    支配人「ここに入れば、貴方の時間が始まります」

    支配人「これからの一生の、時間です」

    男「……ああ」

    支配人「貴方の一生がどの程度か知りませんが」

    支配人「人一人分の一生は、ながくとも百年かそこらでしょう」

    支配人「それを、耐えれば」

    男「……途方もなくて、よく分からないよ」

    支配人「……そうですね」

    男「それじゃあ、行ってくる」

    俺はそうしてその扉をひらき。
    中へと、入っていった。


    162: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:17:41.23 ID:GSIyCG6Oo

    後ろでパタンと扉がしまった。
    そこは、長い長い廊下だった。

    男「ここは……」

    俺はここがどこかを理解すると同時に、

    男「……!?」

    ゆっくりと。
    ぼろぼろと。

    大切な何かが、自分からこぼれ落ちていくのを感じた。

    男「あ……っ、――!」

    最初に声が、出なくなった。

    男「――」

    次に、だんだんと音が聞こえなくなっていった。
    すうっと、音そのものが身体から抜け出ていくような。

    長い廊下は、シンとした。

    男「――」

    そして頭の中に今度は靄がかかりだし。
    最後に俺は、
    考えることを失った。


    163: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:23:42.31 ID:GSIyCG6Oo

    最初の一日は、ただ廊下に突っ立っていたと記憶している。

    男「――」

    恐ろしく長い廊下を、ただ見つめて。
    自分が何故ここいるのか、分かっているような、わかっていないような。

    時間がとても、長く感じられた。

    二日目からは、歩き出した。
    長い長い廊下を、ふらりふらりと行ったりきたり。

    男「――」

    何がおこるわけでも、誰がくるわけでもなく。

    ただ延々とつづく廊下を、歩くだけ。

    男「――」

    時間はとても、長く感じられた。


    165: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:30:28.05 ID:GSIyCG6Oo

    それが三日、四日、五日とつづいて、一週間も経った頃には。

    男「――」

    俺はその行為に、飽きた。
    いや飽きるというよりも、それ自体がストレスになり始めた。

    廊下の向こうへ行ってみようともしたが、
    なぜかT字路のところより先には行っていけないような気がした。

    男「――」

    だから俺は、延々と廊下、行ったりきたり。

    時間はとても、長く感じられた。


    166: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:38:43.78 ID:GSIyCG6Oo

    二週間がたったころ、偶然T字路を通りかかった人間を見つけた。
    記憶にはない人間の男だった。

    彼は俺を見て立ち止まっていたので、
    近づいてみた。

    男「――」

    しかし男は、怯えた表情で駆け出した。
    よく分からなかった。

    その何日か後にも、女性を見かけた。
    これも記憶にはない人間だった。

    男「――」

    やはり彼女も、逃げ出した。
    よく分からなかった。

    それからさらに数日後に、今度はメイドさんをみかけた。

    男「――」

    メイド「あどうもー」

    メイドさんは挨拶をしてくれた。
    嬉しいと感じた。


    167: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:43:08.64 ID:GSIyCG6Oo

    その日、支配人がやってきた。

    支配人「どうも」

    男「――」

    支配人「さすがに辛く思ったので」

    支配人「せめて私と、メイドさんたちの声は聞こえるようにしておきました」

    何を言っているのかわからなかった。

    支配人「……」

    支配人「それでは」

    男「――」

    俺はまた廊下を歩き出した。


    169: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/09(火) 23:56:09.78 ID:GSIyCG6Oo

    延々と廊下を歩き続け、座ってみたり、壁を眺めてみたり。
    一月、二月、三月と経って、ようやく半年が過ぎた。
    もちろん日数など数えていなかったので、
    支配人が教えてくれたものを記憶しただけである。

    男「――」

    この旅館にいる人間は、
    今のところ全員記憶にない人たちだった。

    今日もまた、いったりきたり。
    明日もまた、いったりきたり。

    延々と、延々と、延々と、延々と。
    朝も、昼も、夜も。
    時間など大して分からないまま、もう一度、もう一度、もう一度。

    男「――」

    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。
    今日も。


    170: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:06:08.81 ID:F106sh6go

    一年が経ったとき、俺はとても達成感を感じた。
    しかしそれもすぐに消えた。
    まだ最初の一年が過ぎただけだと分かったからだった。

    男「――」

    言い知れない感情が芽生えた。
    怒りのような、憎しみのような。

    俺はある時通りがかった人間に、飛びついていた。
    押し倒し、こぶしを振るっていた。

    しかしそこにやってきた別の男に蹴り飛ばされた。

    俺は二人の男と戦って、
    体中を負傷し、動けなくなった。

    俺は二日ほど、そのまま寝転んでいた。

    それからしばらく、ここに人はよりつかなくなった。


    171: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:15:12.67 ID:F106sh6go

    ある時から、俺にはメイドさんがあてがわれるようになった。
    何が原因だったかは分からない。
    もしかしたら客の女に何か手を出していたかもしれない。

    男「――」

    メイド「い、いやですよお、お客さん」

    メイド「あいた、いたた、乱暴にしないで」

    メイド「もうちょっとやさしく」

    男「――」

    メイド「私たち性感機能ないんで、いたいだけなんですよ」

    ただそれは退屈な毎日に、一瞬でも楽しいと思わせるもので。

    メイド「ああもう、いまおわったばっかりでしょう」

    男「――」

    メイド「わかったわかりました、そんなしなくても、逃げませんってば」

    しばらく俺は、それを頻繁に、つづけた。


    173: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:29:00.67 ID:F106sh6go

    二年がたち、三年がたち、やっと五年がたった。

    先の見えない、とても長い時間だった。
    楽しみといえば、
    毎日とっかえひっかえメイドさんであそぶこと。

    とはいえ最初はサルのようだったものの、
    最近では、そんなに目新しい感じもなくなってきて、
    正直面白みはへっていた。

    男「――」

    ある日唐突にそれに飽きた。

    俺はまた、行ったりきたりを繰り返す。

    自分が何をしているかわからなかった。
    分からないことがストレスだった。
    しかし考えようにも何も考えられなかった。

    分からず壁に頭を打ち付けてみたりした。

    男「―-」

    分からなかった。


    176: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:36:55.92 ID:F106sh6go

    十年がたったころ、俺はもう、おかしくなっていた。

    ある日あまりの退屈さに、
    だんだんと頭をたたいたり、
    変な方向に身体をまげてみたりした。

    腕で強く壁を殴ると、間接が一つふえた。
    痛かった。

    調子にのって、そこをぐりぐりとやってみると
    紅いものがでてきた。

    ぼたぼたと。

    男「――」

    気がちがっていた。
    いやもうそんなものも忘れたようだった。

    男「――」

    数日後には直っているその腕を見て、
    嫌悪感を覚えた。

    またどたばたと、身体を打ちつけた。


    177: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:46:27.22 ID:F106sh6go

    二十年が過ぎた頃、俺はもう動かなかった。

    まだ気の違ったように動いていた方がマシだったような気もする。

    これだけたつと、旅館の客はほぼ入れ替わっていた。
    彼らは十年やそこらで大体帰る。
    もちろん長く居座る人も、逆にすぐに帰る人も、いたが。

    メイドさんの機能も、付いたり消えたり色々変わった。

    何年かに一度のその変化を確認するのは、
    そこそこに興味があった。

    男「――」

    時間はとてもながかった。

    まだ、まだ、ずっと、先。


    178: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:48:37.97 ID:F106sh6go

    それからの日々は、何も変わらない。

    時々メイドさんと遊んでみたり。
    時々自殺を図ろうとしてみたり。
    時々制御不能で客に手をだしてしまったり。

    でも基本的には
    ずっと廊下を歩くか、座ってじっと壁を見ているか。

    ここのしみの数すら、概ね覚えたような気がする。

    三十年。四十年。五十年。

    まだ、まだ、まだ。


    179: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:52:24.87 ID:F106sh6go

    六十年だか、七十年だか、もう支配人の言葉もまともに記憶していなかったが、
    とにかくそれくらいがすぎたころ。

    男「――」

    記憶にある人間が、やっとやってきた。

    童「――」

    彼女はこちらを見るのだが、
    その目は俺をまったくうつしていない。

    男「――」

    口だってひらかなかった。

    男「――」

    でも何故か、うれしかった。


    180: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 00:58:36.90 ID:F106sh6go

    童ちゃんがきて、十三年後。
    さらにもう一人、見知った人間がやってきた。

    カタギ「――」

    とても冷たい目をしていた。

    男「――」

    もちろん意思疎通などできないし、
    それをしようなどとも考え付かなかった。

    ただ知っている人間がいるな、と思っただけ。

    頭の中は、もうほとんどからっぽだった。
    何も思ってすらいない。

    俺は今日も延々と、廊下を歩き続ける。
    ひたすらに。
    ただひたすらに。


    181: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:04:52.24 ID:F106sh6go

    そうして。
    拷問のような、生き地獄のような、そんな数十年を経て。
    長い長い、長すぎる時間を経て。
    気を違えながら、何をしているのかもわからないまま。

    男「――」

    男「――」

    俺はついに、俺自身と、対面した。

    俺はいつのまにか記憶というものすら薄れさせてしまっていたから、
    最初は何か分からなかった。

    とはいえ気づいた後も、俺は別段かわることはなかった。
    なにせ何も考えられない。

    俺がいる、という認識をしただけだった。


    184: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:08:37.82 ID:F106sh6go

    しかし俺は、俺の元へとなんどもやってきた。
    最初はとても短い間隔だった。

    男「――」

    俺は本能的に、廊下を進もうとする俺を、跳ね返した。

    男「――」

    気力もなにもとうになかったが、
    これだけはやらなければとおもった。

    どうしてかはわからなかった。

    とにかく通してはいけない気がした。

    男「――」

    俺は色々と叫んだりわめいたりするのだが、
    何を言っているかはわからなかった。


    186: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:12:56.36 ID:F106sh6go

    そして。
    やっと。

    お嬢さん「――」

    お嬢さんがやってきた。
    俺が着てから一年くらいだったとおもう。

    俺は今までで最高に嬉しかった。
    しかし、どうして嬉しいかはわからなかった。

    お嬢さんはすぐに立ち去った。

    それから何年かは、時々やってくる俺との戦いだった。
    ただ、戦っているというつもりはなかった。
    通してはいけないと思っていただけで。

    男「――」

    次第に頻度は、すくなくなっていった。


    187: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:20:46.84 ID:F106sh6go

    ある日。

    男「――」

    お嬢さん「――」

    二人が同時にやってきた。
    俺は本能的に、立ちふさがった。

    何かしなきゃいけないような気がしたが、
    わからなかった。

    男「――」

    わめいているが、聞こえない。
    聞こえたところで、思考できないのだから大して意味はないのだが。

    お嬢さんと俺は、二手に分かれたりして突破しようとした。
    しかし突破させるわけにはいかなかった。

    なぜ?
    わからない。

    強引に突破しようとした俺を、
    俺はちからづくでねじ伏せた。

    俺は俺に、ナニヲしているのだろう。
    そもそも俺は、……何故ここにいるのダろう。

    何も分からなかった。


    188: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:28:54.18 ID:F106sh6go

    またしばらくは、こなかった。

    芸者「――」

    記憶にあったような顔が、また増えた。

    男「――」

    引き続き、俺はこの廊下を歩いていた。

    それから数年、ほぼ何もなかった。
    たまに廊下の先が何故か行き止まりになってたりするくらいが、
    変化だったろうか。

    じっと、じっと、ただ、俺は壁を眺め続けていた。

    そして、その日。


    189: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:32:12.96 ID:F106sh6go

    男「――」

    また、俺とお嬢さんが二人でやってきた。

    俺はまた立ちふさがった。
    行かせるわけにはいかない。

    男「――」

    俺は近づいてきた俺を突き返す。
    また二手に分かれた。同じ事をやっていたような。

    俺はすぐにお嬢さんを追った。
    行かせるわけにはいかない。

    俺がすがり付いてきたが、どうでもよかった。
    意外と、粘り強い。
    だが、大したことはない。

    そのときだった。

    カタギ「――」

    いつもと展開が、違った。


    190: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:34:24.60 ID:F106sh6go

    蹴り飛ばされたのか、転がっていた。
    俺はすぐに立ち上がったが、

    カタギ「――」

    銃口を向けられていた。
    反射的に、危機感を感じて一瞬うごけない。

    その間に、カタギさんはなにかしゃべっていた。

    男「――」

    俺が、逃げ出した。
    お嬢さんの元へ。

    まって。
    いかないで。

    男「――」

    カタギ「――」

    カタギ「――」

    なにか、破裂したような。

    腕が、いたい。

    イタイ。


    191: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:41:00.07 ID:F106sh6go

    お嬢さんと俺は、二人で走り出していた。

    俺は胸の奥から吹き経つ、
    まるでマグマのような荒く、烈しい焦燥感に駆られた。

    男「――」

    いかないデ。

    カタギ「――」

    マッて。

    しかしカタギさんに組み伏せられた。
    俺は死んでもいいという思いで、体中を振り回した。

    彼らを行かせてはならなかった。
    絶対に行かせてはならなかった。

    何故か行かせてしまったら、
    俺が受けつづけた拷問は、
    全て意味がなくなると、思った。

    腕は引きちぎれていいと、身体がどうなってもいいと、
    死に物狂い。

    まっテ。
    まっテ。


    192: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:48:15.21 ID:F106sh6go

    死力を尽くし、俺はカタギさんからどうにか脱出した。
    片腕は既におかしな方向に折れ曲がっていたが、
    そんなこと気にもせず。

    マって。

    追いかけた。
    全速力で。
    あらんかぎりの力で。

    カタギ「――」

    マッテ。

    男「――」

    限界などとうに超えて、
    体力など気にもせず、
    筋肉が壊れるほどに、足で床をたたいて、
    わきめもふらず、まっしぐらに。

    カタギ「――」

    そして、追いついた。
    俺は、すぐさま飛び掛る。

    一瞬見えた、お嬢さんの怯えた顔など
    なにも気にせず。


    193: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 01:55:32.81 ID:F106sh6go

    俺は俺に飛びついたが、
    向こうの俺もまた、必死だった。

    取っ組み合いをするうちに、
    すぐにカタギさんに蹴飛ばされた。

    男「――」

    痛みはあったが俺はそれでも、
    立ち向かおうと。

    カタギ「――」

    ――ッ!!!

    足に、激痛。

    血が、どくどくと。

    既に腕からの大量の出欠と合わさり、
    視界がブレた。
    足を動かそうとしても、うごかなかった。

    まって。
    マダなの。マダなの。

    マダ、なにモ、でキてないノ……。

    身体が一瞬、動かなくなった。


    194: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:00:20.91 ID:F106sh6go

    死ぬと、感じたその時だった。

    脳が、少しずつ、クリアに。

    男(あれ……?)

    思考能力が、少しずつ、復活し。

    男(こ……れは……)

    すぐに状況を、理解する。
    俺は今まさに、死に体の。

    ああ、ああ。

    男(あの時の……)

    ああああ……。

    男(くそ……、くそ……)

    俺は何とかまだ動く左腕で、力の限り身体を這わせた。

    男(いましか……いましか……)

    カタギ「こいつ……」

    カタギ「いかせねえぞ」

    だん、と俺の腕はカタギさんに踏みつけられた。


    195: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:05:33.76 ID:F106sh6go

    カタギ「なんでこいつ、こんなに必死なんだ……」

    お嬢さん。お嬢さん。お嬢さん。

    男「……あぁあ……、ああ」

    男(声……が……)

    うめき声しか、でない。

    男(たのむ……でてくれ……)

    男(お願いだから……!!)

    男(たのむ……!!!)

    男「ぉ……で、も……」

    何十年も、もう百年近くもの間。
    封印されていた、この、言葉。

    仮面「あい、し……で」

    コレだけを言うために。

    仮面「……いだ……」

    ああ、いまやっと

    言えた……。


    196: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:13:43.02 ID:F106sh6go

    すっと、あっけなく消えていく意識の中で。
    俺は最後まで、お嬢さんを、見つめていた。

    伝わって、伝わって。

    目が、閉じる。
    身体が、動かなくなる。

    カタギ「なんて言った?」

    男「……いえ、俺も……」

    お嬢さん「……、……」

    けれど俺は、このとき、意識の全てが消える寸前で、気づいた。

    >一つは、「気付いたよ」と書かれたメモ。意味は不明。

    ああ。

    彼女は。

    気づいて、くれたんだ……。


    ああ。

    よか、った……。


    198: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:22:37.30 ID:F106sh6go

    男とお嬢さんの二人が去り、
    全てが終わったこの場所で、
    動かなくなった仮面の男と、
    息を付いて座り込んだカタギさんが、残っていた。

    カタギ「支配人……」

    支配人「どうも」

    支配人「お疲れのご様子で」

    カタギ「けっ」

    私は肩をすくめる。

    カタギ「こいつは、死んだのか」

    支配人「ええ、どうみても生きているようには見えませんが」

    カタギ「……そうだが」

    カタギ「しかし、俺は知っているぞ」

    カタギ「この場なら、大きなキズだって、寝てれば直る」

    カタギ「時間が止まってるから、身体は元の状態にもどるんだ」

    支配人「そうですね」

    カタギ「死には、至らないんだろう」


    199: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:30:44.81 ID:F106sh6go

    そのとおり。
    たしかにこの場所では、逃避した時点の身体を、維持しようとする。

    支配人「基本的には、そうですね」

    支配人「しかし、そうでない場合もある」

    カタギ「そうでない場合……?」

    支配人「はい、簡単な話です」

    支配人「……逃避者が、すでに、現実で死んでいる場合」

    カタギ「……」

    支配人「現実逃避をする際、死んでいることから逃避する方もいらっしゃいます」

    支配人「そういったかたがたは、一応は時間を与えるために」

    支配人「ここに死の寸前の身体で招待いたしますが」

    支配人「ここで死ねば、それまでです」

    カタギ「そいつも、そうだって言うのかよ」

    支配人「……」


    支配人「……はい。この方は既に、現実世界において、死亡しております」


    200: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:42:39.41 ID:F106sh6go

    支配人「しかし彼は、自らの死の現実を逃避したのでありません」

    支配人「むしろ、現実逃避をするために、死を選んだ」

    支配人「もっと正確に言うのなら」

    支配人「ここで死ぬために、現実世界でも、死んだ」

    カタギ「……どういう」

    支配人「……いえ、お気になさらず」

    カタギ「……」

    支配人「この死体は、私が預からせていただきます」

    支配人「カタギさんは、ここからご自分でお部屋に戻れますか?」

    カタギ「……ふん」

    支配人「ふふ、帰れそうですね」

    支配人「……それでは」


    201: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 02:56:30.22 ID:F106sh6go

    私は自室に、彼をつれてきた。
    静かに、寝かせる。

    支配人「おつかれさまでした」

    その顔を一生の間かくしていた仮面を、
    とる。

    支配人「……良い顔でいらっしゃる」

    とても晴れた、大往生の顔で、彼は死んでいた。

    支配人「しかと、見届けましたよ」

    彼は一生をささげ、悪魔の契約をやりとげ、
    最後の一瞬の報酬を、自ら掴み取った。

    支配人「ああ、すばらしい」

    支配人「他人のために、自分の一生を」

    支配人「本当にかけられる人間が、いるとは……」

    素直に、心より。

    支配人「感服の至りで、ございます」


    203: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 03:11:04.13 ID:F106sh6go

    私から見れば、
    きっとこの後、さきほど出て行ったほうの彼が、
    またここを現実世界で訪れるであろうから、
    それを過去に送るという仕事が残っているけれども。

    支配人「この彼にとっては……」

    ここが物語の、終着点。
    この旅館で気づいたところから始まる十日間の呪縛と
    それを抜けてたどり着いた現実と、
    またそれをどうにかしようと奮起した彼の、
    長い長い、物語。

    支配人「ああ……」

    私はその顔に、人の心の、強い、強い何かを、感じた。

    支配人「なんと……」

    私は感動に打ち震えていた。

    ただあの一瞬を勝ち取るための、
    その強い意思の輝きは、
    きっと誰もが持つものなどでは、なく。


    204: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 03:32:32.10 ID:F106sh6go

    そして私は、思った。

    支配人「あれだけ頑張って、……これだけの報酬では……、つりあわない」

    しかし、契約は契約。
    一生に対して、あの一瞬。

    彼は一生をここで終えることで、あの一瞬をつかんだ。
    そしてそのために、

    支配人「おやおや」

    >支配人「それでは過去に行く前に」
    >支配人「貴方は一つ手順を踏まねばなりません」
    >支配人「お教えしますので、ぜひ、ご自分で」

    彼はこれで、自分を殺した。
    現実で死んでいなければ、この世界で死ねないから。
    しかし。

    支配人「おやおやおやおや、つりあいませんねえ」

    彼がささげたのは、一生である。

    支配人「この旅館で一生をささげ、そして現実の世界で、あるはずだった未来の人生も、殺している」

    支配人「おやおやおや、おやおやおやおや! 一つの報酬に、二つも代償をささげておられるとは!」

    支配人「こりゃあ、大変だ」


    208: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 03:43:05.89 ID:F106sh6go

    私はくつくつと、わらった。

    支配人「等価交換ではないじゃないですか」

    支配人「これでは悪魔の名に泥がついてしまいますねえ」

    支配人「さてどうしたものか」

    これは自分でもひどい屁理屈だと、内心で笑いながら。

    支配人「……なに、戯れです」

    支配人「悪魔の戯れです」

    支配人「その勇姿を見せてくださった貴方への」

    支配人「私からの、ちょっとした悪戯です」

    支配人「ふふ」

    支配人「そしてこれは」

    支配人「貴方への、正当な対価」

    さあどうぞ、胸を張って。

    お受け取りください。


    209: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 03:57:53.34 ID:F106sh6go

    朝の、少し早い時間。その日俺は仕事に行く途中であった。

    ?「現実逃避、しませんか?」

    男「……は?」

    唐突に、肩をたたかれた。
    振り返ると、うさんくさいスーツの男が、一人。

    ?「お金や時間、才能や人間関係、何でもいいのです」

    ?「それら気の疲れる現実から、さらっと逃避などしませんか」

    男「……新手の宗教かなにかか」

    ?「どうです? 現実逃避、してみませんか」

    男「……はあ。いい、しないよ現実逃避なんて」

    ?「おやそれはどうして」

    男「充実してるから」

    ?「ほう、それはまた」

    ?「……なるほど、素晴らしいことです。では私は、不要でしたね」

    男「そうだ。帰った帰った」

    俺が手で軽くあしらうと、その男は何故か小さく笑いながら、その場を去った。


    210: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:01:15.43 ID:F106sh6go

    男「ったくなんだった……」

    朝の急いでいる時間を邪魔されたのが、不快だった。

    男「って」

    男「あああ―!!!」

    先ほどたたかれた肩が、泥だらけに。

    男「あいつ……!」

    古典的な悪戯をしていきやがった。
    しかも、その犯人はもう姿をくらましている。

    男「ちくしょう……」

    これでは仕事にいけやしない。

    男「く、遅刻だが……」

    一度家にかえって、服を取り替えなければ。

    男「何てやつだ……、くそ……」


    211: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:04:51.60 ID:F106sh6go

    0 ex

    「あれ……、ここ……」

    「病院?」

    「わっ」

    「ち、ちょちょちょちょ、どうしたんですか!?」

    「な、な、なんですか、そんな突然抱きついて」

    「こ、ここ病院ですよ!?」

    「わ、しかもどうしたんですか!? その服」

    「なんで汚れて……、あれ、お仕事は……?」

    「ああ、ああ、ほら、なかないの、なかないの」

    「ここにおりますよ、私はここにおりますよ」


    212: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:14:52.80 ID:F106sh6go

    それは、奇跡だったのだろうか。

    男「家にもどったら……、君が倒れてて……!」

    すぐに救急車をよんで、病院に運んでもらった。

    男「よかった……、よかった……!」

    俺は彼女に抱きつく。

    女「もう……、いいこ、いいこ」

    もしも、もしももう少し、遅かったら。
    あの時家に帰っていなかったら。

    >医者には一時間はやければなんとか、
    >なんていわれて。

    きっと彼女は、今は、もう――
    俺は強く、まるで知っていたかのようなくらい、そう思った。

    女「そんな、ちょっと倒れただけではありませんか」

    男「そんな、こと……っ」


    214: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:19:20.91 ID:F106sh6go

    俺は抱きしめた彼女を、さらに一度強くぎゅっとしてから。

    男「俺も……」

    男「俺も、愛していた……っ」

    女「っ!?」

    女「ど、どうしたんです急に……」

    男「言ってなかったから……」

    男「言わなきゃ……、今言わなきゃ、いけない、って……」

    女「もう……」

    女「どれだけ心配したんですか」

    もうあとは、よかった、という安堵に。
    ただただ睫をぬらすばかりで。

    女「……」

    女「心配かけて、ごめんなさい」

    女「……私も貴方のことを」



    女「愛しておりますよ」


    215: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:24:12.02 ID:F106sh6go

    これはもしかしたら、本当の世界ではないのかもしれない。
    そんな想いが、どうしてかちらついた。

    しかしその後、彼女と俺は、
    つつがなく共に暮らしていけたから、
    そんな想いはすっかりと、消えた。

    その中で、不思議な話を聞いた。

    男「現実逃避の、旅館……?」

    女「……はい、覚えておりませんか?」

    男「いや行ったことはないが……」

    男「あ、でもあの日、現実逃避がどうとか、スーツのうさんくさい男に」

    女「!? そ、それどうしたんです!?」

    男「今充実してるからって、追っ払った。君も、いるし」

    女「……ああ……」

    彼女はとても、不思議な顔をして。

    女「……そう、ですか」

    でも、くすっと、微笑んだ。


    216: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:47:26.91 ID:F106sh6go

    どうやら話を聞くと
    俺はその旅館にいて、そして彼女のことをお嬢さんなどと呼んでいたらしい。

    十日間の呪縛とか、対価とか、メイドさんとか。

    よく分からない話ばかりだった。

    しかし、どうしてかその話が、嘘のようにも思えなくて。
    カタギさんや芸者さんという人物にあってみた時には、
    彼らもどうしてか見覚えがあるような、気がして。

    もしかしたら。
    あの日、もし家に帰らず彼女を逝かせてしまっていたら。

    たしかに現実逃避を、
    していたやも、しれず。

    しかしそれはそれで、今俺のいる世界の話ではない。
    今ここには、たしかに彼女がいる。

    だから、俺は――

    男「これからも……、よろしく、頼む」

    ――そう言って、彼女をめいっぱい、腕に抱きしめた。

    女「……はい」

    女「こちらこそ」


    217: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 04:51:34.38 ID:F106sh6go

    支配人「このような世界があっても、良いでしょう」

    支配人「貴方はそれを得るにたる、働きをみせたのです」

    くつくつと、旅館の自室で腰掛けて。

    支配人「ですからどうぞ胸を張って、その世界を歩んでください」

    支配人「貴方がかけるべき一生は」

    支配人「そのような世界で、正しい貰い手にささげるものなのです」

    それは貴方が自力でつかみとった、それももう一つの正しい世界なのです。
    ですからどうぞ、力強く。
    貴方の掴み取った、幸せを、存分に。

    支配人「さて、次の逃避者を探しに逝きますかねー」


    彼らは、その後。
    長く長く末永く。

    彼の宣言どおり、一生をかけて。
    幸せに暮らしました、とさ。


    fin


    220: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(福岡県) 2012/10/10(水) 04:53:26.74 ID:9gpij8nCo

    乙 泣きすぎて涙枯れてしまいそうだよ
    保守してた甲斐があった・・・ありがとう 本当に


    221: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/10/10(水) 04:55:17.48 ID:wYhdJM1DO

    素敵なお話をありがとう
    お疲れさまでした
    おやすみなさい。


    222: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(長屋) 2012/10/10(水) 04:55:26.31 ID:XW9nCkzb0

    やっぱハッピーエンドが良いよな、乙


    223: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(北海道) 2012/10/10(水) 04:56:31.93 ID:oG8JJBkvo

    お疲れさま!
    いい作品に出会えて良かった!


    224: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都) 2012/10/10(水) 04:56:41.34 ID:WAbxLlOho


    ちゃんと形にすれば売れるレベルだろ、コレ


    228: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(不明なsoftbank) 2012/10/10(水) 05:23:48.32 ID:F106sh6go

    お疲れ様でした、今回超ながかったですね
    前回を超えて最長でございます
    1スレで収まらなくてごめんなさい
    次回以降はもっとコンパクトにするよう努力します……っ

    付き合ってくださった皆様方、本当にありがとうございました
    VIPにて保守してくださった方にも、心より感謝を

    毎度のコトながら誤字脱字がやばいですね、見返すだけで心がくるしいです

    でもとにかく、やっとこれをかけたので満足です
    ずっと頭の中にありました(ずっとあったせいで長くなりました。たぶん)
    細かいところとか思ってたことは明日ブログあたりでつらつらやるとおもいます

    それではそれでは、お疲れ様でした!
    また何か思いつきましたら、その際はよろしくおねがいします!


    229: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(福岡県) 2012/10/10(水) 05:26:10.97 ID:9gpij8nCo

    リアルタイムで見たのは初めてだけど
    今までのどの作品よりも好き お疲れ様!


    230: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(栃木県) 2012/10/10(水) 05:44:17.22 ID:r34n5B8Wo

    乙です
    登場人物が強引と言ってるけどやっぱりハッピーエンドはいいですね。


    233: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(埼玉県) 2012/10/10(水) 06:02:03.19 ID:nfgRm+wco

    超乙
    ヤバい、マジで感動してる
    すげえ良かった…


    235: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(栃木県) 2012/10/10(水) 06:27:36.76 ID:q9EgtYLT0

    乙!
    久々に素晴らしい物語に出会えたよ
    ありがとう


    237: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(島根県) 2012/10/10(水) 06:47:44.21 ID:4B0xdeBh0



    すげー面白かった
    おかげで寝れなかったよ


    249: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(神奈川県) 2012/10/10(水) 08:36:44.12 ID:wa8A1GMi0

    >>1乙
    久々に続きが気になるSSに出会えて嬉しかった!
    楽しかったよ!


    引用元: お嬢さん「現実逃避、しませんか?」


    引用元: お嬢さん「現実逃避、しませんか?」2

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