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    荒木比奈「貴方が居る、其れだけで浮かぶ」

    1: ◆Pe2cfSr2XZvZ 2019/04/09(火) 00:27:56.55 ID:Tnjuxph+0




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    2: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:31:18.58 ID:Tnjuxph+0

    「う゛ぁ……」

    喉を開く。エアコンのせいで空気が乾燥して、口の中も渇いている。ベタベタする、水気が足りない感覚だ

    ジャージは汗を吸って、緑色を濃くしている。着替えたいけど、着替えたくない。体を動かすのがおっくう

    電子音が鳴った。脇から体温計をもぞもぞと出す。

    「……38度6分」

    普段の体温よりずっと高い。あーこれ結構しんどいやつだ。

    アラームを止めたばかりのスマホを手にとって、電話帳から事務所を探す。休みを伝えるときの電話って、なんでこう他にないような緊張をするんだろう

    事務所に電話をかけた。ちひろさんが出た。休みたいと伝えると、あっさりOKが出た

    「はい……はい……ありがとうございまス……それでは……」

    スマホを置いて、またベッドに倒れた。熱くて寒くて頭が痛む

    病院に行きたい。でもタクシーを呼ぶ元気もない。一人暮らしはこういうときに不便。

    「………………」

    どれだけ体をもぞもぞと動かしても、頭の痛みと、ほんの少しの寂しさが消えていかない。ああ、風邪引いたときはこういう気持ちになるからいやなんだ

    スヌーズでスマホがまた鳴った。止めようとして画面をのぞき込んだ。それから落ち込んだ

    液晶に、今日の日付が映されている。4月9日。私の、21歳の誕生日だった


    3: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:32:08.93 ID:Tnjuxph+0

    ◆◇◆

    電話越しの声はかなり辛そうでした。ええ、締め切り前の時と同じくらいに辛そうでした。私個人としては、ジャージの色が同じく「緑の者」として少し親近感を得ている比奈ちゃんが心配です

    「おっはよぅござーいまーす!」

    と、私の心配をよそに彼が――比奈ちゃんのプロデューサーさんが出勤しました。久しぶりにただのスーツ姿で出勤したように思えます。前まで寒くてマフラーをしてましたもんね。緑色じゃないマフラー

    プロデューサーさんは少し上機嫌です。小躍りしそうなくらい。何をそんなに浮き足立っているのでしょうか。担当アイドルが高熱で苦しんでいるというのに

    ……いや、見逃しませんよ私は。プロデューサーさんのかばんから覗いたもの。綺麗にラッピングされた『何か』。そこで私はカレンダーとスケジュールボードをちらりと見ました。ははぁ、確かに今日はめでたい日ですね。

    めでたい日だからこそ、比奈ちゃんの気持ちを推し測るとなんとも言えない気持ちになります

    「おはようございますプロデューサーさん……その、比奈ちゃんの事なんですが」

    意図せず重い口調になってしまいました。しかしそれが功を奏したのか、プロデューサーは身構えました。顔にほんの少し真剣さが混じります。

    私の生来持っての悪戯心が働いたというか、お節介というか。普段から二人を眺めてやきもきしている傍観者としての心理が働いたというか

    「ええ、比奈ちゃんが……」

    体調を崩してしまって今日はお休みです。電話越しの声はかなり辛そうでした。季節の変わり目ですからね。しかし、まだこの季節ではインフルエンザの可能性もあります。それでなくても心配ですよね。確か一人暮らしでしたし

    プロデューサーさんの体に力が入っていきます。中々私の話術も捨てたものではありませんね、悪用するつもりはありませんが

    しかし、こういうときには使わせて貰いましょう。

    「今日のお仕事は……」

    「明日に回せます。いや、回します」

    プロデューサーさんは座りかけていた椅子を元の位置に戻して、ネクタイを緩めました

    「有給休暇って今から使えますか?」

    「厳しいです」

    ウチの就業規則は……というか即日使えるものじゃないですよ。せめて昨日の内に言ってくれれば

    「じゃあ僕今日は体調不良ってことにしておいてください、早退します」

    踵を返して、プロデューサーさんは部屋を後にしました。

    「お願いします、それじゃあお疲れ様でした!」

    私は手をひらひらと振って、そんなプロデューサーさんを見送ります。急ぎ足で、比奈ちゃんがとっても大切に思われているのが分かりますね。アレで無自覚なのだから驚きです

    いやあ、なんとも。彼女の言葉を借りるのならば「尊い」とでも言うのでしょうか。

    さてと、それではプロデューサーさんがおやすみする理由をでっち上げましょう


    4: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:34:27.64 ID:Tnjuxph+0

    ◆◇◆

    目が覚めた。スヌーズは全部解除したのに、呼ぶような音がしたからだ。チャイムの音だ

    宅急便? 頼んだ覚えはない。でもこないだみたいに深夜のテンションで何かを頼んだのかも。

    もう一度チャイムが鳴った。「うぅ」と呻きながら、体を起こす。体が動く度に頭の奥の方が痛んだ

    玄関先まで体を引きずって、クロックスを履く。またチャイムが鳴ったと同時に、私は鍵を開けた

    「ああ比奈! 良かった! 病院行こう!」

    「あぇ……?」

    目の前に立っていたのは、私のプロデューサー。息を上げていて、私を見るなりなんだか安心した表情になっている

    前にもこんな事あったな、あの時は私が寝坊したんだっけ、宅配のお兄さんと間違えて薄着でお出迎えしちゃって、と頭のどこかで思った

    「下にタクシーに待ってもらってるから、保険証とか持って、ああその前にマスクとか」

    今日は仕事のハズの彼を見ながら、「あれアタシこれから仕事に行かされるの?」と検討違いのことを考えながら、財布ごと保険証を持ってタクシーに乗り込んだ


    5: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:35:38.71 ID:Tnjuxph+0

    ◆◇◆

    親しく思っている人のめでたい日は自分の事と同じくらい嬉しいし、辛そうなときは自分の事以上に苦しい。

    今日のこの、21歳の4月9日が、比奈にとって良い思い出になれば良いと思ってた。良い思い出にしたかった

    タクシーがアスファルトの凹凸を通過すると車体が揺れる。その度に比奈は顔をしかめる。どこか痛むのだろうか、僕にはそれが分からない。

    ぶつけようのない腹立たしさは、病院の待合室でも同じように手にしてしまう。早く順番が来てくれないものか、待合室の、微妙な座り心地のソファでふらふらとしている比奈が見ていて痛々しい。

    「荒木さーん、荒木比奈さーん」

    ようやく名前が呼ばれた。僕は比奈の肩を優しく叩き、手をとって立ち上がらせる

    「え!? 荒木比奈!? アイドルの荒木比奈が……同姓同名か」

    左腕を三角巾で釣っている男子高校生にそう言われた。登校前に通院をしている運動部の男子だろう。人違いって何だ人違いって、アイドルの荒木比奈だよ

    ……まぁ、バレないに越したことはないし、むしろ比奈の名前に反応してくれる人がいるのは良いことだろう。

    診察室で医者の話を聞く。壮年の男性医師だった。何故か白衣の下にラガーシャツを着ている。オールブラックスのだ

    「えーインフルエンザも陰性ですねぇ、えー、まあこの時期は寒暖差や新生活でのストレス等ありますしねぇ、えー」

    医者の話を聞く。インフルエンザでなくてホッとした。胸に鉛のようにたまっていた重さが外れたのが分かる。しかし、体調不良である事には変わりない。緩みかけた気を再び引き締めた

    話の間、後ろで看護師さんが指折り数えをしていた。医者が「えー」と言う度に指は曲がっていく。いま2往復くらいしてる。

    「えー、あなたは旦那さん?」

    「違います」

    「彼氏さん?」

    「違います」

    「えー、じゃあ何?」

    「上司です」

    「じゃあ上司さん」

    プロデューサーと名乗るわけにもいかないだろうし上司でいいか

    「まず今日はね、えー、休ませてあげてね、えー、疲労がなくて体力があれば体調不良はね、えー大体どうにかなりますから、休息が一番ですね、えー」

    それは極論でないだろうか。

    「それから貴女」

    「はいっス……」

    医者は比奈へ視線を移した。カルテを片手に「えー」を混ぜながら話をしていく

    「えーまず気になったのが目の下のクマと体重なのよね。クマは濃いし体重は軽すぎる。えー、女性にあんまり言うのはえー、ちょっと控えたいけどね、もっとよく寝て、食べて」

    後ろの看護師は指折り数えを続けながらも顔をしかめた。女性として医師に言いたいことがあるのだろう

    「一応頭痛薬と解熱剤は出しときます、えー、まあゆっくり休んでくださいな。えーまあね、また体調崩したり治らないって時は来てくださいね、えー」

    「はい……ありがとうございました……」

    「ありがとうございました」

    看護師が左手の指を三本、右手の指を二本立てたに一瞥して、比奈と診察室を出る。32回も「えー」って言ったのかあの人

    待合室に戻ると、まださっきの男子高校生いた。よく見ると左腕だけでなく右足にもギプスをしている。ソファではなく車椅子に腰をかけていた。何があったんだあの子に。

    薬局で薬を受け取り、再びタクシーを呼ぶ。やはり外出するのはまだ厳しかったのだろうか、比奈の目は一層朧気になっている。早く家で休ませた方が良いだろう

    心に余裕がでてきたとは言え、比奈の体調が改善されたわけではない。タクシーを待つ間に、病院内の売店で必要と思える物を買っておいた。会計を済ませ、比奈の元へ戻る

    「……大丈夫?」

    ボーッと、どこを見つめているかも分からない彼女に声をかける。マスクから吐息が漏れて、眼鏡を曇らせていた

    「……うん」

    比奈がぽつりと、そう答える。この返答には少し面食らった。彼女がこれまでにない言葉遣いをした。タメ口とか初めてだ

    「分かった。タクシー来るまでもうちょっとだと思うから、それまで楽にしてて」

    程なくしてタクシーが来た。比奈の手を引いてそこまで案内する。握って、握り返される。その手に入る力が弱々しくて、なんとも言えない気持ちになった


    6: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:36:49.83 ID:Tnjuxph+0

    比奈の部屋に入ったとき、真っ先に「荒れてる」と思った。汚くはないが綺麗でもない。床にはマンガの単行本やライトノベル、それからなんだっけこれ……そうそう、クロッキー用のデッサン人形(何で床にこれが?)だ。他にも、そういう諸々が散らばっている。

    「ベッドで寝てて。もうそろそろお昼だから、おかゆでも作るよ」

    キッチンを少し見たところ鍋もあるし、病院の売店で買ったレトルトのおかゆなら作れるだろう

    「わかった……」

    比奈はそう言って、よちよちと歩きながら寝室へ向かっていく。またタメ口だったな、熱が出るとああなるのかなとか思いながら、僕は冷蔵庫にフルーツゼリーやスポーツドリンクを入れようとした

    「……比奈って普段何を食べてるんだ?」

    冷蔵庫を見て、大きめの独り言が出た。あまりに食材が少ない。お茶とエナジードリンク、マヨネーズ、ケチャップ、あとは糖分補給用(?)のアメやチョコだけ。

    いや、その日の料理に使う量だけ食材を買うようにしている可能性だってある。フードロスや無駄な出費を抑えるためにそういうことを、ああしてないわ三角コーナーがカップ麺のネギとか歯切れの麺とかばっかだしゴミ袋の中はコンビニ弁当のガラばっかりだし。少なくともここ数日はまともに料理をしてないように思える

    冷蔵庫の中身とは反比例するように、調味料はかなりの量がある。醤油やみりん、味噌、砂糖、塩、酒、ごま油とかオリーブオイルとか……そういうのはちゃんとある。その近くにはパスタソースもあった

    もしかしたら、比奈が原稿にかかりっきりになる時は食生活が荒れるのか? 思えば、コミケ前後(それに限らずイベントがあるとき)は彼女が少しだけキツそうになる。

    『自分でやりたいことあってるんだから頑張るっスよ!』

    いつだったか、彼女がそういうことを言っていた。これまではその言葉通り、アイドルと同人作家の二足のわらじを履くために、彼女は尽力をしていたし、実際両立出来ていた

    けど、今回は違う。寒暖差、年度の切り替わり、レッスンの内容……色々が折り重なって、彼女はああなってしまったんだ。

    彼女の体力やスケジュールを十分に把握し切れてなかった、プロデューサーである自分に問題がある

    彼女がこんな事にならに用にすること、そして彼女に無理をさせないようキツく言っておかなかった責任もある

    「やっぱ……上司じゃないな」

    アイドルの道に引きずり込んで、アイドルにさせたのは僕自身だ。だから、彼女がやりたいことの障害になるようなものや、苦しくなることだけは絶対にさせたくなかったのに

    何か出来なかったことはないか、と無性に自分に腹が立つ。同時に、これから出来ることを考える。出来なかったことを悔いる時間は、これから出来ることに回すべきだろう

    「……おかゆ作るか」

    まずは、それがいいだろう。鍋でお湯を沸かし、パウチのままレトルトのおかゆを入れる。お湯が吹きこぼれた。ついでだからそこの油汚れと一緒に拭き取った


    7: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:37:32.95 ID:Tnjuxph+0

    比奈、おかゆ持ってきたよ」

    片手でお盆を持って、もう片方の手でドアを開け、寝室に入る。エアコンの熱気にあてられた。スーツの内側から汗が滲む。

    寝室にはベッドの他に本棚とフィギュアを飾る棚、それから机があり、机の上には漫画用の原稿用紙と付けペン、インク、それ以外にも僕では分からない漫画製作用の道具が色々と置かれている。デジタルとアナログを使い分けてペン入れまではアナログ、と言っていたのと関係があるのだろう

    ブランケットがもぞりと動いた。比奈が顔を覗かせた。眼鏡はかけていなかった

    「おかゆ……?」

    「おかゆ」

    レトルトを温めただけの簡単なやつ。比奈へ器を手渡した。行儀悪いけど、ベッドの上でそのまま食べてもらおう

    「……いただきまス」

    食欲があるのか気に掛かっていたけれど、スプーンは進んでいる。心配したほどじゃないらしい。

    おかゆを食べている間に、次の準備。比奈はかなり汗をかいていたように思える。まだシャワーやお風呂に入ることが出来るほど体力はないだろうけど、清潔さを保つために体を濡れタオルでふくなりさせた方が良いだろう

    そう思って、風呂場へ向かった。洗濯物が溜まっていた。ついでに洗濯機へ放り込んで洗っておくことにした

    少し熱い位の湯を桶に溜め、それにタオルを浸し、搾る。数回それを繰り返して、いくつか濡れタオルを作った。それと合わせて乾いたタオルも持って、風呂場を離れる

    寝室に戻っても、比奈はまだスプーンを動かしていた。おかゆはまだ半分くらい残ってる。

    「食べ切れそう?」

    「ちょっと……厳しい、かも」

    「そっか」

    むずむずする。「~っス」口調じゃない比奈は新鮮だけれど奇妙で慣れない。というか、こっちが素なのかな? 親とかにはこっちの口調で話してるのかも

    「無理して全部食べなくていいよ」

    「……食べる」

    またスプーンが動き出した。僕は比奈が全部食べ終わるまで待った

    お盆に食べ終わった食器を乗せ、代わりにと比奈に濡れタオルを渡した。

    「食器を洗ってくるから、その間に体を拭いててね」

    「……うん」

    そう言って離れる。食器を洗い終わって(シンクの水垢も少し掃除して)からまた寝室に戻った。比奈はまだ体をふいてなかった。タオルが絞られたままの形になっている

    「比奈?」

    「……拭いて」

    「え?」

    「出来ない、から」


    「拭いて」


    8: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:38:30.78 ID:Tnjuxph+0

    祖父が病に伏したとき、祖父を濡れタオルで拭うのは自分の役目だった。祖父は僕に拭いて貰うと元気出るなぁ、と終わった後毎回溢していた。今となっては、そんなことを言ってくれることも、僕が祖父の体に触れようもないけれど

    だから、他人の世話をすると言うことには慣れている……ハズだ

    比奈が濡れタオルをベッドにおいてから、ジャージのファスナーを下げた。僕は観てはならぬと、とっさに目を背けた

    衣擦れの音、ファスナー同士がぶつかる金属音、ホックを外す軽い音……一通りそれらが鳴った後、比奈に「寒いから、早く」と催促をされた

    ……これは介護だ。僕はプロデューサーである。荒木比奈という担当アイドルの、彼女の裸体をこれから見てしまうが、介護であり、仕方のないことだ

    やんごとなきことで、やむを得ないことなのです

    そうやった言い訳を誰かにしながら、僕は振り返る

    「……背中から拭くから、後ろ向いて」

    「わかった」

    やんごとない、事だから

    「…………冷たくない?」

    「……平、気」

    濡れタオルを比奈の肌に押し当てながら、手を動かしていく。比奈の体重は43kgと、あの医者が言ったように痩せていて、こうやって皮膚を撫でれば骨の感触までもが手のひらに伝わる

    薄くて、細くて、柔らかくて、堅くて、熱くて。祖父の背中とはまた違った、弱々しさと強さが同居していた

    そしてなによりも、小さかった。今日誕生日を迎えもう21歳になったとして、彼女はまだ21歳で、女の子なんだ。

    この小さな背中に、どれだけの重さを背負わせてしまったのだろうか。アイドルにスカウトして、僕はかつての比奈の生活や人生をねじ曲げた。それがもたらした重荷を、彼女は背負って1年来たのだ

    夢と夢の両立。背負ってきた彼女に対する敬意と、背負わせてしまった彼女への罪悪感が同居を始めた。伝わってきた体の熱が、罪悪感をほんの少し加速させた

    背骨や肩甲骨、肋に触れた。やっぱり堅かった。

    「……次、ちょっと左腕上げて」

    「ん」

    伸ばされた左腕を支え、タオルを這わせていく。数回往復させたら、次は右も同じように。二の腕が柔らかかった。そんな感触を感じ取ってしまう自分が情けなかった

    さっきの罪悪感とは別の罪悪感が湧いてくる。誕生日に熱を出して、肌を晒し、男に拭かれている。なんかすごい、本当に、申し訳ない。

    熱が下がったら、鞄に潜ませたプレゼント以外にも何かを送ろうと決心した

    「比奈、前は自分で出来る?」

    「……うぅん」

    「………………………」

    同じ言葉で言い訳した。


    9: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:39:10.68 ID:Tnjuxph+0

    体をある程度清潔にした後、比奈は着替え、再び眠りについた。それを見届けてから、汗を吸ったジャージやブラ、パンツを洗濯機へ持っていく

    さっき回していた分が終わっていたので、それらを取り出し、持ってきた分をまた入れる。

    それが終わるまでに、また何か必要な物資を買いに出よう。果物の缶詰とか、ちょっとした食材とか、がらんどうの冷蔵庫に入れておこう

    近くのスーパーから戻ると、ちょうど洗濯は終わっていた。さっき干した分の隣にそれらを干しておいた

    後はもう帰るだけだろう。寝ている比奈を起こすのは忍びない。鍵はポストへ入れておく、という事を書いた置き手紙をベッドの縁に残した

    最後、寝室を出る前に机の上の漫画用の道具が目に入った。どれも黒色で少し汚れていて、二足のわらじを履くために頑張ってるんだなぁと思って、急に涙が出そうになった

    鍵を閉めて、ポストに入れて、マンションの階段を降りる

    帰り道は歩くことにした。特に理由がある訳でも無い。タクシーや電車でもいいけど、このときは何故か歩きたかった

    鞄の中に手を入れ、ラッピングされたプレゼントを取り出す。包まれているのは、僕からしたらなんてことないアクセサリーなのだが、比奈が好きな漫画がコラボしたもので、曰く「再現率が高すぎて語彙力が失われるっス」らしい

    冬アニメの円盤に気をとられ散財した後に予約が始まったらしく、食費をこれ以上削ったら水と霞以外に食える物がなくなると諦めていたようで。だから、これをプレゼント出来たら良いなって思って、ギリギリで予約して、ギリギリで届いて、今日渡せるのが楽しみだった

    親しい人の笑顔は、何よりも輝いてみえると思う。それを見ることが出来るんじゃないかって、今日の4月9日が楽しみだった

    でも、今日はもうダメだ。これは渡せない。比奈が熱を出しているし、やむを得ないとはいえアイドルとプロデューサーである以上越えてはならない一線へ踏み込んだ。介護のような者だとは言え、彼女にしてしまったことの精算をしない限り、この両手に彼女の体温が残っている限り、僕にはこれを渡す資格などない

    「……誕生日、なのになぁ」

    これを渡せるのは、きっと明日以降になるだろう。僕が21歳の彼女に渡せたものは未だにおかゆと食材とゼリーしかない。食べ物ばかりだな

    だから、ちゃんとやり直すんだ。

    ちゃんと今日あったことを精算して、それから今日に至るまでに出来なかったこともちゃんと確認してから、改めてこれを手渡すんだ

    そうしないと、21歳の4月9日が思い出じゃなくなる。忘れたことも覚えてないような、そんな今日になってしまう

    傲慢な考えだけど、僕にはそれしか出来ない

    プレゼントを再び鞄に入れる。春先でも夕方になるとまだ冷えるし、鼻や手の先っぽはまだ冷える。マフラーも手袋もないし、我慢出来ないほどでもない。

    冷たい空気に両手を触れさせながら、僕は帰り道を辿った



    10: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:39:52.48 ID:Tnjuxph+0

    ◆◇◆

    「うぅ……」

    体が重い。けど熱くはない。頭痛もそれほどだ。パジャマは汗を吸って、肌に張り付いてきている

    体を起こし、スマホと体温計を手に取る。体温計を脇に挟みながら、LINEやTwitterを確認した。奈緒ちゃんや春菜ちゃん、菜々さんからメッセージが届いていた。ちょうど体温の計測が終わったので、脇から体温計を取り出す

    37.1度。普段の体温よりやや高いくらい。解熱剤のおかげだろう。体調はもう大丈夫、心配ない、という旨のことを返信した

    スマホの画面をスクロールしたら、プロデューサーからも連絡が来ていることに気がついた。未読無視してたみたいだ

    「…………」

    私が風邪を引いたりして学校を休んだとき、お母さんがいつも面倒を見てくれた。病院へ連れて行ってくれたり、励ましてくれたり、おかゆを作ってくれたり、体を拭いたり……そういうのが18年近くあったので、私には「甘え癖」の様な何かが付いてしまっている

    体調を崩してしまったとき、自分でも分からないくらい人に甘え頼り切りになってしまうのだ。

    今日気がついたことだけど。

    ……敬語外して、お母さんに話すみたいになっちゃって、体拭いて貰って…………あー、もう、死にたい。恥ずかしい。申し訳ない。枕に顔を埋めて叫ぶ。枕から汗の臭いがツンとしてきた

    お酒の酔いが醒めた時みたいに、自分の感情と記憶が結びついていかない。あのときの私は私であって私じゃなかった。「拭いて」って、なんでそんなこと口走っちゃったんだ

    背中と腕、それから他にも、体に触られた記憶が残っている。良くもまあ平然と拭かれるがままだったな私は

    「……シャワー浴びよ」

    拭いてもらったとはいえ、それからまた寝汗をかいて体がベタついている。ベッドから体を起こして、お風呂場へ向かった

    強烈な記憶のせいで、プロデューサーに返信し忘れていた。シャンプーしているときに思い出した。泡立てたボディーソープで体を覆う間、返信を考えていて、同時に拭かれていた時の事も浮かんで、頭が火照った

    『病院行けてる? おみまいに行くや』

    最後の誤字が目立つメッセージが、10時間前に来ていた。現在22時。ずっとほったらかしにしていたメッセージに、遅ればせながらの返信をする

    『今日はありがとうございました。体調も大分良くなりました。冷蔵庫のゼリーも食べました』

    女の一人暮らしにはちょっと多いくらいの野菜と、水垢のないキッチンと、片付けられた三角コーナー。……ここ最近の生活の荒れ具合も、きっと見られてしまっただろう

    なんとしてでも極道入稿は避けるんだって、無茶のツケが回って。結局、体調を崩してしまった。

    アイドルはやる。同人活動もやる。両方やるという道を選んだのは私で、辛いけれど一年はやれてきた。ただ、自分が自分の限界を理解出来てなかっただけ

    「明日……」

    謝って、それからお礼を言おう。自分を見いだしてくれた人に、自分の歩きたい道を歩いて良いと言ってくれた人に心配をかけさせてしまったことを謝って、それから今日してもらったことのお礼を言うんだ

    今日してもらったことの……させてしまった事も謝ろう

    眠気はあまりない。野菜炒めでも久しぶりに作ろうかと、冷蔵庫から野菜をとりだした

    「今日、誕生日なんスよねぇ」

    食べたもの、おかゆと野菜炒め。ケーキとかチキンとか、そういうのはない。プレゼントもない。用意しているって娘も多かったけど、今日は事務所に顔を出せてないし。間違いなく、これまでの人生で一番しょぼい料理の誕生日だ

    …………でも、それを心のどこかでいいものだと思えている自分もいる。

    楽しくなかった高校時代も、アイドルをやった今ではそれほど悪くなかったな、って思えてる。だって、あの高校時代があって今の私がいて、荒木比奈はアイドルになれているんだから

    こんな、申し訳なくて、恥ずかしくて、しょぼい21歳の誕生日も、22歳の時にはきっと悪くないって、良かったなって思えているハズだ

    そのためにも、今日を笑って済ませられる思い出にする為に、明日ちゃんとプロデューサーに言わなきゃ

    味噌と醤油、塩コショウで味付けした野菜炒めを口に入れる。美味しかった。この時間だと太っちゃうね

    誕生日が終わる1時間前に、私はまたベッドに入った。おやすみなさい、と呟いてから目を閉じた


    11: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:41:25.48 ID:Tnjuxph+0

    ◆◇◆

    おはようございます、千川ちひろです。比奈ちゃんのプロデューサーさんは昨日の欠勤の件で部長と話していますね

    「フグ毒に当たったって聞いたけど本当に今日出勤して大丈夫なの!? フグの毒だよ!?」

    「え、へ? は?」

    昨日適当に「体調不良で欠勤です」と吐いた嘘が、事務所内で回り回ってフグ毒にあたったことになっているようです。どうしてですか?

    「ぼ、僕は大丈夫なんで! ご心配をおかけしました!」

    「そう? なら良いけど……テトロドトキシンだよ? 本当に大丈夫?」

    「だいじょんび、だい、大丈夫です! はい!」

    大丈夫の応酬を繰り返した後、部長さんは去って行きました。プロデューサーさんが「フグ毒……?」と首をかしげています。首をかしげたいのはこちらの方です

    資料作成も一息ついて、少しトイレにでも行こうかとした時でした

    「……お、おはよう、ございまス」

    「っ……おはよう、比奈」

    プロデューサーさんとは違って、本当に体調を崩していた比奈ちゃんが来ました。今日は午後からレッスンのハズですが、先にこちらに顔を出しに来たのでしょうか

    プロデューサーさんの鞄にはプレゼントがまだ残っているようでした(さっき確認しておきました)。昨日渡せなかったのでしょうか

    プロデューサーさんが席を立って、比奈ちゃんの前まで行きます。私は固唾を呑んで見守ります

    「「ごめん「なさいっス!」」

    「へ?」「ん?」

    2人ともが頭を下げ、2人ともがごめんなさいをしています。そして2人ともが困惑をしています

    「僕は……昨日、濡れタオルの件とか、比奈のスケジュールと体調の管理が出来てなかったから」

    「アタシは……体調管理と……濡れタオル、の……」

    体調管理と濡れタオルってどういうことなんでしょうか。まったく関連性が分かりませんが

    2人ともが少しぽかんとした後に、ぷっと空気を吐く音がして、すぐに笑い声に変わりました

    ……私、ここにいない方が良いですね。トイレに行きましょう

    向き合っている2人の笑い声が続いている内に、そそくさと部屋を退散しました。ドアをゆっくりと閉めている途中、2人の会話が聞こえます

    『……ありがとうございました、野菜とか、病院とか、色々と、ホントに』

    『礼なんて……こっちは、その、大きすぎる無礼を』

    『アタシがちゃんとしてなかったのが問題っスから、謝らないでくださいっスよ。それにそこまで……いや、何でもないっス。とにかく、もう謝らないでほしいっス! アタシは感謝しているんスから!』

    『……うん、わかった。謝るのはやめる! ごめん!』

    『また謝ってるっスよ!』

    また笑い声がしました。とても楽しそうな声色で、ドアを締め終わっても、暫くそこに立って聞きたくなってしまいました

    『ちょっと待ってて。昨日渡せなかったんだけど、よかったらこれ……』

    『え!? これ! あの! 予約諦めてた!』

    『そこまで喜んでもらえるなんて……』

    『ありがとうございまス! うわっ! え、うぅっわぁ……すご……』

    笑顔が伝わる声。跳ねるような明るさを纏った音が、ドアを一枚挟んで響きます。少しにやけてしまいますね、これは

    そろそろ、本当にトイレへ行きましょうか。ちょっと遅れた誕生日を、これ以上盗み聞きするほど野暮ではありません。

    2人だけの良い思い出は、2人だけで楽しんでいただきたいですしね

    2人の会話を世に、私は廊下を歩いて行きます

    ああ、そうだ。まだこれを言えてなかったですね。……でも、今日はきっと、あの人からもらう分で両手一杯になると思うから、私は心の中で呟くように


    Happy Birthday、荒木比奈ちゃん

    【おしまい】


    12: ◆U.8lOt6xMsuG 2019/04/09(火) 00:42:02.84 ID:Tnjuxph+0


    ここまでです、ありがとうございました

    荒木比奈さん、お誕生日おめでとうございます。みなさま、総選挙では荒木比奈さんをよろしくお願いします


    引用元: 荒木比奈「貴方が居る、其れだけで浮かぶ」

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